壱朝壱夜:奇跡の罠~1a~
「しまった……!」
緑覆い茂る深い森から、老人の唸り声が発せられた。その老人の男は片膝をついて、青ざめた表情で足元を確認している。
(狩人の罠か……。不注意だったな)
彼の足には一本の矢が刺さっていた。それは毒矢のようで、老人の顔色の悪さの原因である事が窺える。
老人は慎重に矢を引き抜き、急いで傷口の毒を口で吸い取っては吐き出した。
(このままでは帰れん……)
すぐに手持ちの薬草で治療は行ったが速効性はない。その上、近辺に別の罠が仕掛けられていないとも限らない為、落ち着くまでは無闇に身動きしないほうが良いだろう。
そう考えていた直後、老人は息を飲んだ。
常備していた救急セットを腰のポーチに仕舞い込む音に紛れて、ガサガサと騒がしい物音が聞こえたのだ。
突如聞こえた草をかき分ける音に老人は警戒し、身構える。
老人の周囲には木々や手入れされずに伸びきった草が視界を遮り、遠くまで見通し難い。
頼れるものは経験と勘、そして障害物で視覚が頼りにならない今、残るは聴覚だ。彼は心を落ち着かせて耳を澄ました。
すると……。
「クケーッ!」
耳を裂くような甲高い奇声があがった。
「我が歌に応えよ――」
それにやや遅れて、少女のような歌声も森中に響き渡る。
「我は汝の代理人。汝を祀りし、烈火の守人――」
歌声ははっきりと、けれど流れるように歌われ、対照的な奇声は時折間を空けながら発せられている。
二つの声は次第に、老人の居る場所からはっきりと聞き取れるようになっていた。どうやら声の主達は老人の近くまで迫っているようだ。
老人は手にしていた弓に矢を通し、それを握りしめて息を潜めていた。
二つの声の主が何者かがわからない現状では、警戒を緩める事などできない。
情報の数少ない現状では、老人には歌の主が何者か判断出来ないが、威嚇のような奇声は聞き覚えがある。不安感を覚える奇声は、老人が慣れ親しんだこの森で度々出くわす事の多い魔物である可能性が非常に高いだろう。
二つの声は対となっているのか、そうであるならば、どちらが追う方で追われる方か。
最初に現れる者が魔物ではないとは言い切れない中、警戒を続けるうちに、弓矢を握る彼の手に汗が滲み始めていた。
「!魔物か!!」
草木をかき分け、ガサガサと言う一際大きな音を立てて、老人の前へ最初に姿を見せたのは、鳥の姿を模したものだ。
しかし、正しくは鳥ではない。鳥にある筈の嘴の代わりに、ワニのような恐ろしくも大きな口を開き、魔物と呼ばれるそれは、老人を目掛けて突進する。
「っ!」
老人は焦る事無く手をかけていた矢を放ち、魔物の目を狙い打つ。
「グゲーッ?!」
矢は目標の片目に命中。魔物は呻き声をあげて一瞬だけ怯んだが、魔物は片目を潰されても突進を止めようとしない。
視覚を狂わされた魔物の足元はおぼつかない状態ではあるが、老人の身体よりも大きな身体は確実に彼の元へと向かっている。
(逃げ切れるか否か……!)
そう思いながらも、老人は二発目の矢をつがえる。例え逃げ切る事が出来なくとも、抵抗の余地はあると判断したのだ。
しかし、矢を放とうとしたその時。
「ジジイ伏せろッ!」
少年と思えるやや低めの声が魔物の背後から響く。
声を聞き表情に僅かな安心感を取り戻した老人がその言葉に従うと、魔物が現れた草むらから、声の主らしきまだ少し幼さの残る少年が現れた。
彼は右手に細身の剣を手にしており、迷いもせずにその刃で魔物を斬りつける。目標を見定めていた事から、彼はどうやらこの魔物を追っていたようだ。
「コイツちょこまかとしやがって!」
少年によって傷を負わされた魔物はよろめいた後、立ち止まった。その様子は突進を諦めたかのように見え、少年はひとまず老人の傍へと駆け寄る。
「ジジイ、怪我はないか?」
「見てわかるだろう。怪我しておるわい」
老人はそう言って怪我をした足を指し示す。
「は?コイツ今来たばっかだろ?オレ達がずっと追ってたし」
「お前は儂が怪我してないと思いながら、怪我していないかなどと戯けた事を聞いたのか?」
「バッ、バカじゃあねぇの!別行動してたから心配してんじゃねぇか!」
親しげに会話を続ける少年は、怪我した老人を立たせようとした。二人は血縁関係にある。
罠に掛かった老人が無駄に歩き回らなかったのも、時が経てば戻って来ない自分を心配して彼が探しに来るだろうと考えた上での事だった。
その時、少年が老人を立ち上がらせようとした隙を狙ったのか、魔物が再び動き出した。魔物は背に付いた翼を勢い良く羽ばたかせ始め、空を舞い、間髪入れずに少年に襲いかかろうとする。
「ティオ!危ない!!」
真っ先に気付いた老人はティオと呼んだ少年に注意を促すが、老人を支えていた彼は反応が遅れてしまい身構える余裕すらない。
「クソッ!」
喰われる。そう思った彼は言葉だけでも抵抗を見せる。つい先程まで手にしていた剣は置いてしまい、予期していなかった突然の魔物の攻撃に、少年は即座に対応する事が出来なかった。
「戦にまみれた現世を憂い、汝の思い熱く滾らん――」
しかし、老人が存在を忘れていた歌声が突然、今までより近くそして力強く響き渡り、魔物とティオが現れた場所から少女が歌いながら現れた。
火の粉を纏う彼女は真紅の髪をしており、それはまるで炎のように揺らめいている。火の粉のせいか、本来の髪の色は違うのだろう。
それでも、どことなく≪暁≫を彷彿させるその髪の色に、老人は目を見張った。
ただ歌っていただけだと言うのに、彼女の姿は朱に彩られた火の使者のよう。
幻想的な彼女のその姿に、魔物の前であると言うのにも関わらず少年だけでなく老人でさえ見とれていた。
「汝、我を器とし、その怒り、現世へ体現せん――!」
少女が一区切り歌い終わると、辺りの空気は一転した。どことなく熱気を感じ、貫かれるような怒りをも感じる。魔物はそれを感じ取ったのか、体を翻して畏縮し始めた。
歌い終えた少女は再び口を開いたが、それは今までのような歌声ではなく、淡々として落ち着いた言葉だった。
「……焼けて」
そう呟いた少女は、魔物に向かって手をかざす。すると、それまで少女が纏っていた火の粉のようなものが一斉に弾け飛び、辺りの熱気が一ヶ所へ、魔物のいる場所へと集まっていった。
「グゲァーッ!?!」
一瞬にして魔物は炎に包まれ、一際高い絶叫をあげて燃え上がっていく。辺りに満ちていた熱気が炎となり、魔物を焼き尽くそうと襲いかかったのだ。
初めのうちは必死に翼をはためかせてもがいていた魔物だが遂には倒れ、炎はそれを看取ったかのように静かに収まった。
魔物はこんがりと、少女の希望通りの姿になってしまったのだ。
「夕飯……」
呆気にとられているティオと老人をよそに、少女は無表情だと捉えられかねない表情を僅かに緩ませて、焼き鳥ならぬ焼き魔物を手に掴んで引きずろうとした。
「ちょ……お前!」
「……?」
しかし、魔物を引きずる少女の姿を見て我に返ったティオが少女を呼び止めると、彼女はしかめっ面が乗る首を傾げては彼に向けた。
「そいつはオレの獲物だって言っただろ!」
「……」
怒りを顕わにしているティオを見て、少女は溜息をつきながらも「相手にするのが面倒」だと言いたげな表情をしてみせている。
「……うん。重くて持てないから半分あげる」
そうは言うものの、彼女の表情はどことなく残念そうである。対してティオは先程より大声で叫んだ。
「ちっがーうッ!!オレがやっつけるから手を出すなって事だ!」
彼の怒声に対して少女は更に顔をしかめる。そして、再び溜息をつき、半目で彼を睨みつけながら口を開いた。
「やられそうだったのに?」
「うぐっ!」
痛い所を突かれたティオは言葉に詰まり、呻き声をあげる。反論のしようが無い彼には、これ以上何も言えない。
「しかし、攻撃の準備はその前からしていたようだの」
それまで黙って二人の若者の会話を見守っていた老人が、ティオと交代で会話に参加し始める。
「うん。夕飯欲しかったから」
「は?」
ティオはどういう事だと言わんばかりの声をあげた。
「ティオがここに辿り着く前から、この娘さんは魔法が使えるようにしていたと言うことだ」
「魔法?」
老人の説明に対して、変わらず疑問を抱くティオ。老人と少女は揃って溜息をつき、説明を続けずに話題を変える事にした。
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