第6話 諦めてきたもの
凛音は〝彼〟に促されてキッチンへと向かった。
耐熱ガラスドリッパーを、ステンレス製の華奢なアームが支える、大好きなコーヒードリップセットに、フィルターをセットする。
湯を沸かしている間に挽いた豆を、フィルターに移す。
一呼吸置いた湯を粉に少し注いで蒸らす時間が、凛音は好きだった。
コーヒーの凝縮された芳ばしく甘い香りが立ってくる。
タイミングを逃さず、次の湯を注ぐ。
ふっくらと盛り上がった粉はクリームのように細かく泡立っている。
ひととき、滴るコーヒーの音と、キッチンを満たすほろ苦い香りの中で、凛音はすべてを忘れる。
〈愛してる〉
ふと、遠い記憶に辿り着く。
このコーヒードリップセットを目にした時、まさに今この瞬間をイメージしたこと。ドリップセットと共に、いや、ドリップセット以上に手に入れたいと願ったのは、今この瞬間の幸福感だ。ドリップセットに出会ったとき、凛音は幸せだった。そして今、いや今までずっとコーヒーを落す度に、その幸せの中にいた。コーヒーの香り、落ちる雫の音、珈琲と共に満ちるのは幸せな時空(とき)だった。
愛している、愛おしい、この感覚だった。
――わたしはそのすべてを愛したいと願った。今わたしは〝やつ〟の愛の中にいる。
〈愛してるってそういうこと〉
ドリッパーの持ち重りのするガラスの手触りも、アームの冷たさや華奢なスタイルも、すべてが〝やつ〟の愛でできている。
今この瞬間、〝やつ〟の愛の中にいる。
凛音は感じ、〝やつ〟は凛音を通して感じている。
それがつながること。
キスが頬をくすぐる。クックッと凛音は笑った。
凛音の周りに存在するものはすべてが〝やつ〟の愛。
「じゃあ、あなたの望みを排除して、手に入れなかったものはどこへいったのかな? 欲しいと思った瞬間、忘れたものはどこへ? 本当はあなたの愛のもとに生まれるはずだったものたちはどこへ消えたの……」
〈きみが、あきらめた〉
――あきらめた――。
あきらめるって、なんと切ない響きの言葉なんだろうと凛音は思った。
簡単にあきらめていると思っていた。きっぱりとあきらめていたつもりだった。
気が変わったとか、こんなもの、ほんとうは望んじゃいないんだとか、もっとちがうものが良いのよとか、分不相応だとか、お金がないという理由なんかで、自分が望んだものをあきらめることは簡単にできた。
あきらめたものが何だったかなんて、もう思い出せもしないほどに。
でも、ほんとうは欲しかったのにあきらめたものの欠片が、胸に突き刺さってこんなに血を流していた。だから苦しかったんだ。ほんとうの望みをあきらめることが、こんなに苦しいことなら、叶えなかった自分に八つ当たりもするだろう。
〈自分を恨みながら、幸せになれるはずないだろ〉
「ごめんなさい」と、凛音は泣いた。
だけど〝やつ〟は白っとした声で言った。
〈謝罪なんか望んじゃいない。だいたいぼくときみの間に罪なんて存在しない。愛だっていくらでもくれてやる。それより、罪を都合よく使って罪のせいにするのを止めろ。罪なんて言葉は人間の作った中でも一番無用な言葉の一つなんだ。そんなもののせいにする代わりに、何か言うことがあるだろう。ちゃんと考えろよ〉
罪のせいにするという言葉に、凛音は泣けなくなって唇を噛んだ。
――罪のせいにする。ああそうか、罪のせいにするのはずるいのだ。罪のせいにして、どこまで逃げようというのだろう。謝ったって泣いたって何も変わらないのだ。罪が存在しなければ、謝る言葉を持たなかったら、わたしはどうする?
唇を噛みしめながら目を瞑った。
「あきらめるっていうことが間違いだったのね。もう何もあきらめない。あなたの望みを叶える。だからもう一度愛してほしい……」
〈それがベストだね。いくらでも愛してやるって言っただろ、ちょっとは信じろよ。ほんと、どこまで濁ってるというか、曲がってるというか、意固地というか。もっとこう、澄んだ水晶玉のようなきみを創ったはずだったんだけどなあ〉
「……」
〈……謝るなよっ!〉
「謝らない。――透明な水晶玉になる」
〈ふっ、水晶玉が濁るのも想定内、ぼくの愛の範疇だ。まんま愛してる。ほら、コーヒー冷めるぞ〉
凛音が慌ててサーバーを手に取ると、コーヒーはまだ充分に温かかった。
つづく
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