第4話 凛音の望み ぼくの望み
今日もキスが降ってくる。
手首から肘へ向かって、上腕二頭筋に沿ってスススっと上へ、肩から首筋へねっとりと。ふくらはぎから膝へ軽いタッチで、大腿四頭筋を上へ這うように。
もちろん〈愛してる〉という言葉と一緒に。
〝やつ”の声は、もう、麻薬だ。
覚醒でも妄想でも、鬼や妖怪だろうと、どっちでもいいと思えるほど、耳に心地が良い。
頭がおかしくなったのかも知れないと思うと多少は不安だけど、凛音はその心地よさに浸っていたかった。まるで〝やつ〟が、ほんとうに愛してくれているように感じられたし、〝やつ〟のキスを感じるたびに凛音の身体中の細胞はフルフルと震え、それは極限を知らない快感となって上昇した。
ただ、出口のない上昇感は、行きつく先の分からない不安に代わり、理解不能の状況に頭の中が許容量オーバーになって破裂しそうになるのは、ちょっぴり恐くもあった。
愛してると言われるととても幸せなのに、愛されることがたまらなく苦しい。
そうは言っても、ペディキュアにサンダルは凛音自身も望んでいたことだったし、この身体にケアが必要なのは一目瞭然だ。
肘も膝も足の指先までマッサージして、爪も磨き、ムダ毛のトリミングと脱色もした。肌はココナツオイルでマッサージし、シャワーの時にはタオルを使わないで、マシュマロのようなたっぷりの泡で包み込んで、温かい泡のまとわりつく心地よい感触に浸りながら、時間をかけてゆっくりと洗った。
そうしていたある日、何かが腑に落ちた。
――わたしはずっと、こうしたかったんだ。
それは、放って置いて枯れ枯れになった身体をきれいにしたかった、という意味ではなく、自分の身体を手間暇かけて愛しむ至福の時間、愛しむ幸福感を、いつも、いつだって感じて生きたかったということ。
〈やっと思い出したか。ほんとに不思議だよ。どうして自分の望みに耳を貸さずに生きられるのか。きみ、それをいつ望んだのか覚えてる? 覚えてないだろうな。ずっと昔から何度も何度も繰り返し望んでいたの、忘れた? 胸に手を当てて思い出してみな〉
今日は〝やつ〟の声に素直になってみようと思えた。
どこか心の奥の方にずっと隠して見ないようにしていた記憶が見えた。
そこでは、線香花火のように儚くシュッ、シャッと閃く望みの衝動を、何かがかき消してしまっていた。
自分の身体を愛しむことや、手入れをして慈しむ時間を持ちたいと、ある瞬間望んだのに、その刹那、かき消していた。
かき消す言葉はいつも似ている。早くしなきゃ、とか、時間がない、とか、いつも言い訳だ。それに、どこか、自分の時間をゆったりと使うことに罪悪感のようなものも感じている。
かつて凛音は確かに望んだ。いつも、望んでいた。そしていつも、自分を欺いてきた。
――なぜ?
〈ふっ……。罪と罰って言っても分からないだろうな〉
「罪と罰?」
〈そうだ。きみの望みはぼくの望みだ。ぼくが望まないことをきみは望まない。きみが望むことはぼくが叶えたいことだ。それはきみに叶えてやりたいことだ。ぼくが叶えたいことを叶える、それが君の人生なんだ。だけど、きみはとっくの昔にそれを忘れた。――とにかく今、涙が出るほど幸せだろ? ほんとうは、きみはいつもいつだって涙が出るほどの幸せに浸って生きられたはずだし、これからもいつもいつだってそういう風に生きられるんだ〉
「望みが、叶うってこと?」
〈ぼくが愛してるから。きみが邪魔しない限り、ぼくの望みは必ず叶う。当たり前のことだ〉
「邪魔する?」
〈ぼくの愛を、きみ、疑ってるよな、あん?〉
いつもとはまるで違う、冷たい凄みのある声で〝やつ〟は言った。
疑ってるかと凄まれても、身に覚えは無いし、では逆に信じているかと問われても、考えてみたことが無いので分からなかった。
〈ぼくの望みよりも、『楽』な方が幸せではないかと疑い、
ぼくの望みよりも、『簡単』な方が正解ではないかと疑い、
ぼくの望みよりも、『もっと良いもの』があるのではないかと疑い、
ぼくの望みよりも、自分の能力が『劣る』と疑い、
ぼくの望みよりも自分はもっと価値があるはずだと疑い、
挙句の果てには、自分にはぼくの望みを叶える価値がないとまで自分を貶めて、
ぼくの望みを却下してきた〉
「か……、箇条書きですか」
〈疑うってそういうこと。そうして必ず叶うはずの望みを妨げてきた〉
「客観的に聞くと、逃げる口実が盛りだくさん……、そういうこと?」
〈そういうこと、まるでぼくの愛から逃げたいようにみえるよ〉と、〝彼〟は吐息のように言った。
〈それでも愛し続けてるんだけどねえ〉
脇腹から背中にかけてキスをされて、震えるような喜びが駆け抜ける。そして凛音はもがく。痺れるような幸福感の周りを、出口のない暗闇、抜け出せない閉塞感が取り巻いている。
愛されていることは分かるし、とてもうれしい。〝やつ〟のキスは最高に心地良い。
でも、苦しい。
だから、逃げたい。
――そんなに疑うわたしを、どうして愛せるの?
つづく
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