第3話 ハートが開く
――はて? それにしても何で突然現れたわけ?
〈突然じゃないさ。きみがぼくの声に感応したからだ。酔いしれて……〉
「あなたの声に感応? なにそれ。あっ……、まさか」
言われて気付いたのは、あの歌を歌う〝彼〟の声だ。耳が溶けてしまいそうに心地のよい声。
それは有名なバンドのカバー曲だった。それを歌う歌手の声が〝やつ〟の声にそっくりだった。初めて聴いたときから魅せられて、ずっと聴いていたくなるような声だ。四六時中ブルートゥースのイヤホンを離すことができなくなるほど、曲をリピートさせて、飽きることもなくその声を聞き続けた。胸が震え、全身の細胞が震えた。
彼の歌声は凛音の脳細胞のどこかを、柔らかな羽根で濃密にくすぐるように愛撫し、脳の一部を発光させた。光が頭いっぱいに広がると、それは背骨に沿って神経節をピリピリとした感覚になって伝わった。全身に痺れが広がる。身体中の細胞が一斉にパチパチと弾けて、溶けだしていく恍惚感。ジーンと広がる緩やかな衝撃波。肉体が空中分解するような快感。
「酔いしれてなんていないわ」
〈ふっ、まあ、震えるほどの声にハートが開いたわけだ〉
ちょっとむかつくけど逆らえないのは、この何だか怪しい〝やつ〟の声は、あの歌手の声にそっくりでとても心地よくて、それに言っていることが、間違いじゃないからだ。
歌を聴きながら、ずっと声に胸がときめいていたこと。
きれいな足にペディキュアとサンダルを望んだこと。
凛音はその夜からオイルのボトルを片手に、せっせと足のマッサージを始めた。
〈膝小僧もな〉
「へいへい、分かりました」と適当に答えていると、膝小僧にくちづけされた。そこから太腿へ、一、二、三度。凛音は思わず「あ……」と声を上げて身をよじってしまう。それを隠そうとして、ごしごしと自分の腿を擦った。けれど、キスはあちこちに繰り返される。
〈愛してる。だからこれからは身体中にキスしてやる〉
鳩尾の辺りがキュンと熱くなるのを感じて凛音は目を閉じた。
――身体中を磨かなくちゃ。
〈愛してる〉
「うん」
〈意味わかってんの?〉
「え?」
〈……、ま、磨けよ〉
得体の知れない『ぼくはきみだ』と名乗る〝彼〟の愛してるという声は、その日からずっと聞こえ続けている。キスも相変わらず降ってくる。
怖くないと言えば嘘になるけれど、とりあえず実害はなかったし、何か起こればそれなりのところへきちんと相談に行こうと考えていた。『わたし』の魂やらほんとうの『わたし』を名乗る以上は、わたしに害は与えないだろうという安易な考えではあったけれど。
「それはなんていうの、覚醒とか、しちゃったんじゃない? 例の歌声がヘミシンクなみに凛音の意識を変革させたとかさ。そのうちオーラとか未来とか見え始めたりして」
この頃自分じゃない声が聞こえるようになったのだと、何気に近況を報告したら、同僚の竹之内まりあが、宇宙的な答えを返して来た。
「まりあったら、良いように取っちゃだめだよ。鬼とか妖怪だったらどうするの。その曲の声自体が霊的だったり、暗示がかかってたりするかもしれないでしょう。歌ってる人が無名なら、怪しいわ。それにこの前、変なところへ行ったって言ってなかったっけ」
そう言うのは幼なじみの佐藤優輝。怖い物や怪しいものが大好きだ。
「言ってないです。変なところじゃなくて、山の中の社寺仏閣、って言ったの。優輝はすぐ怖いことを言うんだから」
「いやいや、その社寺仏閣山の中のどこかから変なもの拾ってきたんじゃないの?」
まあ、頭がおかしくなった、と言わないところが、この二人の良いところなのかも知れない。
でも、さすがにキスされると言ったら考えが変わるだろう。二人が顔を見合わせている図が思い浮かぶ。お祓いに行け、と言うかもしれない。
そして今日もキスが降ってくる。
つづく
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