7 / 蔦を染めるもの
翌日の朝早く、ルーシェとフォルセティを連れた風の民の一行は、町の外れ、森の手前にいた。
食事はいつもより早く取った。まだ薄暗い時間だった。急いで流し込んだのでルーシェも今日は少し行儀の悪い食べ方をしたが、ここでは誰にも諫められたりはしない。皆に馴染めたようで、あるいはいたずらが成功した子どものように、 彼女は少しうきうきした気分になったが、それは残念ながら長くは続かなかった。食べてすぐ動くというのは割と億劫なものだ。気のせい脇腹も痛む。もちろん、箱入り娘扱いされそうなので、誰にも言わなかった。
「エリトデルオーマ」。ルーシェは周りに気づかれないよう脇腹をそっとさすりながら、その名前を反芻した。
ルーシェの名、シャルテッサが「金の原」を意味するように、そしてシルカ、すなわちシルキアーテが「王の風」を意味するように、その名もまた「蔦を染めるもの」という意味を持つそうだ。頻繁に変わるとも言うから地元や風の民には珍しくもないのだろうが、ルーシェはこの旧律で与えられた名にはある種の魔力があるように思う。
フォルセティの話では、サプレマやプライアの唱える呪文のような言葉も旧律の仲間であるらしいから、それはある面では真実なのだろう。けれどもルーシェの感じている「魔力」はそれとは違う。生まれたときに授けられるものであるにも拘わらず、その子の未来のあるべき姿、あるいは真実の姿を現しているかのよう——それは名付け親の願いであり、祈りであり、そしてときには呪いでもあるだろう。
蔦を染めるもの。季節のことだ。見えたり触れられたりする存在ではなく、その訪れは周りの状況からそれぞれが判断し、評価するもの。存在が証明できない「魔物」にぴったりの名前だと思う。
では、彼はどうだろう。
今にも降り出しそうな、重苦しい雲が垂れ込めているにも拘わらず、空気に湿り気はなく、足元には乾ききった枯葉が積もっていた。光がわずかにしか差し込まない森に分け入り始めた皆に合わせて足を踏み出すと、それらはかさかさと音を立てて割れた。
背後から少し早足で近づいてくる足音が聞こえる。ルーシェは列の真ん中よりはやや後ろにいたので、彼女のあとにも少なからぬ数が続いていたが、相手が声をかけてきたので、ルーシェには振り向くまでもなくそれが誰かわかった。
彼はルーシェの横に並ぶと少し眉間に皺を寄せて周りを見渡した。ふたりの真上では乾ききって黒や灰に染まった梢が、それよりは少しだけ明るい灰色の雲に閉ざされた空を突き刺している。少し見上げた程度だと、幾重もの枝が複雑に折り重なって檻の中にいるような不安な気分にさせた。感じるのは冷たさだけだ。それがこの森である。
「どうしたの」
ルーシェが問うと、フォルセティは肩をすくめた。
「なんかピリピリして」
それだけ言って彼は後ろを振り向いた。歩きながらだから、少し進行方向がルーシェのほうに寄ってしまう。肩がぶつかってルーシェがよろけた。ああごめん、とフォルセティが詫びた。
「昨日の昼間と同じ感じ?」
「そう。あの、あいつ……なんだっけ」
「ノイシュトバルト」
そうか、とフォルセティはルーシェを見ずに言った。
「近くにいるかもしれない」
「え」
ルーシェは思わず周囲を見回した。
一行が進むのはむき出しの土が踏み固められ、草も少ない道だ。道の脇は手入れのされた様子のない木々が乾いた肌を愛想なく向けており、人の侵入を嫌っているかのようだ。洗練されているとは到底言えず、ルーシェは少なくともあの、自分を「僕」と言うほうのノイシュトバルトが好みそうな場所ではないなと思った。
木々の間に動くものがある。黒い、何か——ルーシェはフォルセティ越しに森の奥に目を凝らした。フォルセティも訝しげに同じほうに顔を向けた。彼にも見えただろうか。ルーシェは彼の顔色を探った。確実に何かを捉えている。
夜目も利くというフォルセティはともかくとしても、ルーシェも気付けるのだから風の民にだって見えているはず。そう思ってルーシェは一行の様子を窺ったが、特に変わった様子はなかった。皆、静かに歩みを進めている。見えていないのだろうか?
クレタはいない。シルカが必要だからだ。クレタはあとで合流するということになっていた。実際はルーシェより少し前の馬が背負う籠の中にいる。
「何かしら」
ルーシェはフォルセティに耳打ちしたが、彼から期待したほど明確な答えは返ってこなかった。ただ誰にでも見えているわけではないことは確かだ。だとすれば竜の虫だろうか。しかしそれなら誰かと契約でもしていなければルーシェにわかるのは音だけで、姿は見ることはできないはず。もっともそれはルーシェとフォルセティの暮らす世界の秩序で——ルーシェがそこまでぐるぐると考えたときだ。
「そう」
不意に隣が暗くなった。今まで木々に接していた側だ。ルーシェは思わず硬直した。反対側にいるフォルセティはまだ向こうを見ている。歩みは止めずに。気づいていないのだ。
聞き覚えのある声だった。少しかすれた、ノイシュトバルト? いや、フォルセティ=トロイエだろうか。視界の端には形を持たないぼんやりした闇。在って、無いもの。
「僕だよ」とその影は言った。そして「いい子だね」と。
「そのまま、前を向いていればいい。僕が横にいることは彼には伝えずに」
すぐに会えると彼は言った。その言葉どおりだった。まるでそれが約束であったかのように。彼はルーシェの疑問に答えた。
「あれはイヴァレットの虫だ。タイガや彼女の選ぶ手段は僕の好みとかけ離れていてね」
ルーシェは眉を顰めた。どういう意味だろう。
フォルセティが前を向いた。彼が目で追っていたのはノイシュトバルトが「イヴァレットの虫」と言った何かだ。見失ったのだろう。けれども彼はまだこちらには気づかない。
ルーシェはノイシュトバルトに意味を尋ねようかと思ったが、やめた。ノイシュトバルトは声を聞かずとも、彼女の問いをすべて知っている。知っていて、答えたいものにだけ答える。答えるつもりのない質問は黙殺する。だから、答えていないということはそういうこと。
「彼らの野心は土地を殺す。この森は主を失くした」
ノイシュトバルトは独り言のように言った。「彼らは愚かだ」
すい、と視界が明るくなった。ルーシェは短く声を上げた。フォルセティが彼女を振り返ったが、彼は何も言う間もなく前に目を移した。
その顔にはさっきまでは見えなかった陰りがある。ルーシェは彼の視線の先を追った。
梢から落ちるべき枯葉が、空で止まっている。風の民の歩み、足音も止んでいる。誰も瞬きをしない。誰も振り返らない。無音だ。そして不動。あの店でルーシェが体感したものと同じ。
風が吹く。フォルセティの前髪が揺れた。彼は瞬きをした。彼は止まっていない。
その風の主は目の前にいた——かつて見たこともない、三双の、大きな翼のはばたき。ルーシェは目を見開いた。
竜が。
様々な生きものから寄せ集めた体を墨で染め抜いたような異形の竜が、その長い首をしなやかに揺らしてフォルセティとルーシェを見下ろしていた。
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