アルモニカ

藤井 環

序章

あるネズミの最期

 ひと気のない国境地帯だ。乾いた風がまばらな草を撫でていく。


 荒れ地にぽつぽつとある茂みのそばで馬を降りた女性は、同行者をそこに残したまま低木に歩み寄り、それが落とす影の少し手前で、黄色がかった土の上に膝をついた。

 彼女の前にはその近辺には数多く生息する、手のひらほどの大きさのネズミがうずくまっている。毛並みから察するにあまり若くはない個体だ。逃げる様子はなく、拾った小枝でつついたりひっくり返したりしても、鼻の先と柔らかな腹をヒクヒクさせるだけだった。ところどころ毛が抜け、見える肌色の皮膚には小さな赤い斑点が浮いている。

 やがてそのネズミは小さく息を吸い込んで死んだ。その原因がこの斑点のせいなのかはわからないが——最期を見届けた女性は薄い青紫の目を一度伏せ、それからため息をついて立ち上がった。彼女のまとっている、赤みを帯びた色と黒とで統一された衣装の、裾に配されたフリンジが地を擦り少しの砂を巻き上げた。それほどぴったりした衣装ではないものの、その立ち姿からは、若い頃からあまり変わりのなさそうな体格が見て取れる。


 彼女がぐるりを見回すと、「彼ら」の通った痕跡があちこちに見受けられた。頼りがいのない細い枝には、傷つけないようにとの配慮をした跡はあるものの、それでも紐をかけた名残がいくつもある。今、このもう少し手前で足止めされている「彼ら」が、ここでの野営に張ったテントのためのものだ。十年ほど前に彼女が見たそれはかなり分厚い布に、色鮮やかで豪奢なまでの刺繍が施されたものだった。だから今も同じものを使っているとすれば相当の重量があるに違いない。

 枝につけられた跡を確認し、テントがどう張られていたかを推測する。そして人が座るだろう位置を割り出し、その場所に立つと女性は足元に目をやった。

 そばには食べ残しと思しき何かのかけらがぱらぱら落ちていた。火であぶったような焦げた色をしているのは、かじるときにでもはがれ落ちたのか、小指の爪の半分ほどもない小さくて薄いものだ。それに比べて薄黄色のものは比較的大きな固まりだった。傷んでいた場所を切り落としたのかもしれない。ネズミはこれを食べたのだろうか。女性はそれに手を伸ばしかけ、やはり触れずに顔を上げると振り返って、まだ後ろにいたままの同行者を呼んだ。

翠嵐すいらん


 呼ばれた男は面倒臭げな足取りで歩いてきて立ち止まると不意に腰を曲げ、不用心にもそれを直接手に取り口に入れた。しかし女性は止めることもとがめることもなく、ただ横に並んで見ているだけだ。

 彼が選んだかけらはそこに落ちているものの中では一番大きかったが、それでもせいぜい人差し指に乗る程度だ。彼はそれをずいぶん長い間味わうようにして、眉をひそめて唸ってからようやく嚥下えんげした。

「まあ、八割方これだろうな……」

「空気感染する?」

「まさか。口にさえ入れなければなんの問題もないよ」

「じゃあ、彼らと接触しても?」

 もし駄目だったとしても手遅れだろ、と苦笑した彼を女性がにらみつけたので、彼はおお怖いとばかりに肩をすくめて見せた。

「そこそこ体重のある大人なら、食べてすぐ死ぬような代物しろものじゃない。この辺にあるものを上手く調合すれば解毒もできる。よほど大量に、あるいは濃縮されたものを摂取さえしなければ『間に合わない』ってことは、ないんじゃね」

「発症しないわけじゃない?」

「発症はするよ」

 あっさり言ってのけた上、皮膚の発赤に始まる諸症状をさらさらと並べ立てた彼に肩を落とし、女性はネズミの死骸を見下ろしてから少し考え、そして顔を上げた。

「発症したとき、対処に必要なものは?」

 尋ねた女性にいくつかの植物名を挙げた彼は、それにしても、とため息をついた。女性はちらと目線だけを移す。

「それにしても、なに」

「ひでえ味。いくら保存食とは言っても、発酵しすぎで好みじゃないね」

「拾い食いなんだし文句言わないでよ」


 低い位置でひとつにまとめ、鎖骨にかかるように垂らした薄茶色の髪の上から首筋を掻いた女性は、戻ろうか、と来たほうに目を向けた。

 かすんだ遠くに見える塔の頂上が、日に照らされ輝いている。

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