鬼の嫁

天鳥そら

第1話

ある村に一人の娘が現れました。夜遅く宿のあるような町まで遠いので、一晩泊めてほしいと言います。小さな農村であまり裕福な家ではありません。大したおもてなしもできませんがそれでよければどうぞと、若い男と男の父親の老爺が快く一晩泊めましょうと言いました。娘が粗末な家の中に入ってくるとなぜか明るく、清く、花の香りがしました。





黒く流れる髪の毛は後ろで赤い紐のようなものでまとめ、薄紅色の着物はどこか裕福な家の娘なのではないかという印象を受けました。受け答えもしっかりしているし、しつけも行き届き、丁寧な態度に驚きながらもこんなものしかありませんがと夕食に雑炊を出しました。





娘は礼を言って食べてしまうと、泊めてくれるお礼に何か手伝いましょうと言いました。男二人は顔を見合わせてから、ほつれた着物のすそを縫ってくれと頼みました。





「縫物なら得意です」





娘はホッとしような顔をして針と糸を器用に操りすいすいと縫っていきます。そればかりか、簡単に部屋の中の掃除をしてもくれました。二人は喜び、囲炉裏の端に娘のために寝床をこしらえました。自分たちは一つ隣の部屋で休みますが、襖のようなものはなく板をうまく衝立にして、仕切りにしました。





女手のない家の中、娘が一人いると思うだけでなんとなく華やぎ、一晩とは言わずもっと居てくれないだろうかとすら思いました。夜半過ぎ、若い男は目を覚ましました。いつもならぐっすり眠って朝まで目を覚まさないのに一体どうしたことだろうと思いながら寝返りを打ち、衝立の向こうで寝ている娘を思いました。





旅の途中らしいが一体どこへ行くのだろうか、あんな若くて可愛らしい娘さんが道中一人旅とは物騒だろうと考えます。衝立の向こうから聞こえる健やかな寝息を聞いている内に、覗いてみたいという欲が男の心の内から湧き上がってきました。隣で寝ている父親を見てからそっと寝床を抜け出します。



「なに、ちょっと見るだけだ。なんもせん」



男は立ち上がりそっと衝立に右手をかけて、こっそり覗こうとした時首筋に生あたたかい息がかかりました。驚いて振り向こうとしましたが、まるで金縛りにあったかのように動きません。最初は父親だと思いました。馬鹿なことをするなと諭されるのだと思っていましたが、何も言ってきません。なんとか体を動かそうとした時、右肩に手をかけられました。



「お前、何する気だ」



父親の声ではありません。責めるような野太い声が男の耳元でします。若い男はごくりと生唾を飲み込み、口を開こうとしましたがぴくりとも動かすことができませんでした。頭がガンガンと痛み、気を失えたらどんなに楽だろうと思いながら後ろにたたずむ男の気配を伺います。



「これだから嫌なんだ。若い男がいる家は」



若くなくても忍んで来る男はいるがなと低い声で笑うと、男の肩から手を放しました。若い男は振り向いてどんな奴が自分のそばにいるのか確認しようとしましたが、やっぱり体を動かすことができません。後ろにいた何者かは、そっと男のそばから離れました。



不意に体が軽くなり、慌てて振り向きましたが誰もいません。衝立にかけていた右手をおろし、男はぶるぶる震えながら自分の寝床に戻りました。隣で寝ている父親はよく眠っていて、父親の寝息を聞いている内に安心していつの間にか眠っていました。眠りについてもあの野太い声が耳のそばを離れず、地の底までついてくるような気がしました。



あくる朝のことです。若い男は父親に頬を叩かれて目を覚ましました。



「お前、大丈夫か。すごい熱だ」



若い男がぼんやりと目を開くと、父親と娘の心配そうな顔がありました。何とか起き上がりましたが、体中が痛くてだるくて動けません。今日は一日寝ていろと言われ、若い男はまたぐっすりと寝入ってしまいました。一晩だけと言っていた娘は看病するからともう一晩泊って行くことに決めました。



薬草をとってきては煎じて飲ませてくれたりしているうちにすっかり良くなり、娘は男の汗を拭くからと着物を脱がせようとしました。



「自分でやるから」



「お手伝いします」



まるで若い夫婦のようなやり取りにすっかり気を良くした若い男は着物を脱ぎました。この時娘の顔色が変わり、そばで微笑ましく二人のやり取りを見ていた父親がぎょっとしたような顔をします。二人の様子を変に思っていると、娘が真っ青な顔で若い男に問いかけました。



「昨夜、誰かがここに来ましたか」



そう聞かれて男は誰も来なかったととっさに嘘をつこうとしました。娘の寝姿を見ようとしただなんて、父親に知られたくなかったからです。



「一体、どうしてそんなことを聞くんだ」



「あなたの右肩に、誰かに掴まれた跡が」



娘の言葉に驚いて、男は身をよじって右肩を見ます。娘の顔が真っ青になり、父親の顔色が変わったのも無理ありません。男の右肩には大きな男の手のあとがくっきりついていたのですから。



「これは一体、何なんだい」



息子を心配した老爺が娘の方を向くと、娘はきっと口を引き結んで立ち上がりました。



「私には鬼が憑いています」



鬼という言葉に男と老爺が唖然とします。それにも構わず娘は唇を震わせて語りました。



「私に懸想をしたり、そういう怪しいふるまいをした方にとても大変な仕打ちを致します」



若い男はかっと顔を赤くし、父親は大きくため息をつきました。



「じゃあ、お前はこの若い娘さんに何かしようとしたのかい」



まさか、寝ている所に忍び込もうとしたんじゃないだろうねと言う父親の厳しい言葉に、男は寝ている姿を見たかったのだと観念したように呟きました。それから鬼が言ったことや自分の肩を掴んだことをそのまま話すと娘がどこか安心したようにうなづきました。



「それなら、大丈夫です。熱もおさまりすぐに良くなりましょう」



「本当かい?」



老爺の言葉に力強く娘はうなづきます。



「人の家で一晩過ごしたいと言った私が馬鹿でした」



はらはらと涙を流す娘を不憫に思うものの、男と老爺には何もできません。これ以上お世話にはなれないと言ってすぐに旅支度を始めました。男は娘のことが心配になりました。



「君自身は何ともないの?」



鬼に肩を掴まれただけでこんなに体調を崩すのに、なぜ娘は平気なのか不思議でなりません。娘は悲しそうに微笑みました。



「ええ、私は鬼の嫁となる娘。私が危険な目に合うことは一切ありません」



複雑な思いで顔を見合わせる老爺と男に頭を下げて、娘は足取り軽く二人の家から離れていきました。
















「それだけ?」



「ああ、それだけ」



「つまんね~」



5、6人の十代の少年たちがコンビニの駐車場でゲラゲラと笑う。今は夏、涼しさが欲しいということで互いに怖い話や不思議な話を始めたのがほんの2時間ほど前。この話をした少年はちらりとあたりを伺い、さっと立ち上がった。



「俺、帰るわ」



「え、なんで?今日は親いないんだろ?遊ぼうぜ」



「なんなら、ここに明け方までいたって良いじゃん」



「俺はお前らと違って育ちが良いのでそんなことできません」



何言ってんだこいつと小突き合いふざけ合ってから、さっと同世代の友人の群れから離れた。今、みんなに話したのは実話だ。それも自分自身が体験した話だと言ったなら、ゲラゲラ笑って暑さで頭がおかしくなったのだと言われてしまうだろう。



歩き慣れた夜道を走っていく。家に着き玄関に入って明かりをつけると、一人の少女がぼんやりソファに座っているのが目に入った。俺はコンビニで買ってきたものをソファの前にあるテーブルに置いて、何か食べるかと少女に聞く。少女は首を振って水が欲しいと言うので、ペットボトルを出してやった。



黒く長い髪がさらりと流れ、白い肌にこぼれていく。桃色のワンピースのすそから真っ白な細い足がすっとのびていた。



「ごめんなさいね」



「別に」



俺は少女の隣に座ってそっと抱きしめる。少女はペットボトルのふたを開けて、こくこくと水を飲む。喉が潤ったのかテーブルにペットボトルを置いて、ふたを閉めた。


もうすぐやって来るだろう鬼は決して俺を許さないだろう。


何の因果か急いで村を去った後も少女はたびたび男の元を訪れた。男は老いていったが少女は若いままだった。死んだ男は生まれ変わり、そのたびに娘が訪れる。生まれ変わって記憶を失っているはずの男は、なぜか会った瞬間に娘のことを思い出した。娘に憑いた鬼はいずれ娘を自分の嫁にするつもりだったみたいだが、男と娘の縁が深くなっていくことに腹を立てた。何度か鬼に殺されたこともあるが、娘との縁は切れなかった。それどころか、より強固に深く結びついていくことに、男と娘は驚いていた。


「私、あなたと一緒に死ねるかしら」



鬼が憑いた娘は若いまま何百年と生きている。俺が死ぬとき共に死のうとしたことがあったができなかった。鬼の不思議な力によってこの少女は傷一つかず、清い花のような香りをいつも身にまとっていた。



「生きて幸せになりたいけどな」



みしりと家が音をたてる。何かが屋根の上を這いまわっているようだ。少女の腰に手をまわし、白い肌に浮かぶぷっくりとした唇にもう片方の手の指で押さえる。鬼がこの少女、娘に執着する理由がわかる気がした。


「鬼の嫁になろうと思ったことはないわけ?」


「なっていいの?」


「嫌だけどさ」


少女は俺の肩に寄りかかって、コツコツと誰かが壁を叩く音のする方に目を向けた。


「わからないの。最初は、嫌だったし逃げてた。鬼を振り払う方法を探してあちらこちら旅をしたもの。でも、だんだん疲れてしまってね。鬼は私が自ら自分の腕に堕ちるのを待っていたのだろうけど」



「うん、それで?」



励ますように少女の黒髪をなでる。


「もう、これで終わりにしよう。もう一度人と接してちょっとだけ人らしい時間をもらったら鬼の嫁になろうと考えていた時に、あなたに会ったの」


コツコツという音がやむ。この部屋に入る場所を見つけたようだ。



「あなたに会った後から、不思議と鬼の気配が薄くなった。その代わりに」



「俺と出会うようになった。何度も」



「生まれ変わっても」


少女の唇にそっと口づける。もう、時間がない。


笑うと少女も微笑んだ。鬼はどうやら少女を手放したくないようだ。突然明かりが消えて真っ暗になった。少女と一緒に闇の中でうごめく気配を伺う。のっそりと影から鬼が現れて、にたりと笑った。


俺と少女と鬼の関係がいつまで続くのわからない。けれど、いつか鬼を打ち負かせるほどの力が欲しいと心の底から望んだ。

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