お豆腐をひとくちだけ

紺藤 香純

お豆腐をひとくちだけ

「なぜですか? 母はお豆腐なら食べるんです。ちゃんとお豆腐を食べさせて下さい」

 街子まちこが涙ながらに訴えるも、施設の職員は首を横に振った。施設ケアマネージャーという肩書きの女性だ。

「厨房と相談しまして、夕食にお豆腐を提供させて頂いています。ですが、お母様は……」

 職員は同じ話を繰り返すばかりだ。

 街子は、うんざりして溜息をついた。

「介護士さんのあげ方が悪いんじゃないですか? 母が食事を摂らないなんて、おかしいんですよ。せめて、お豆腐は食べさせて下さいね。そうすれば、他のご飯も食べてくれるはずです」

 街子は心の中で臨戦態勢を整えたが、職員の出方は街子の予想を裏切った。

「ちょうど夕食の時間です。お母様のご様子を見てさし上げて下さい」

 職員は「この話はおしまい」とばかりに頭を下げ、介護記録を片付け始めた。



 街子は、母のいるユニットに向かった。

 教えられたように電子錠を解錠して扉を開けると、色々とこもった臭いが鼻をついた。“施設臭”と街子は呼んでいる。

 介護職員は、入居者の食事介助をしており、街子には気づかない。

 介助されている人の中に、母はいた。

 母は別人のように痩せた。

 職員がスプーンで豆腐をすくって、母の口に持って行く。

「娘さんが買ってくれたお豆腐ですよ」

 職員は優しく母に言う。

 母が「うん」と頷いた。

 これなら母も食べてくれる、と街子は思った。

 しかし、母は口を開かない。きょろきょろと顔を動かし、食事に興味はないようだ。

食べることがあんなに好きだった母が。

職員が目の前に豆腐を持っていき「おいしそうですよ」と話しかけても、「昔からお豆腐が好きなんですってね」とか「ひとくちだけでも頑張りませんか?」と言葉を変えても、母はお豆腐を口にしなかった。

 街子は見ていられず、ユニットを出て、事務所の職員に言った。

「さっきは、ごめんなさい。母を鼻からの栄養にして下さい。お願いします!」

 街子は経管栄養に関する書類にサインした。

 長い時間が経ったような気がしたが、5分しか経っていなかった。

 経管栄養という選択肢が出来る前の、最後の5分間だった。



 認知症が進み食べることを忘れてしまった、と報告はもらっていた。

 先程見た介護記録には、介護職員が1時間かけて食べさせようとしたことも書いてあった。

 だいぶ前から、経鼻栄養も提案されていた。街子は拒み続けていた。鼻からチューブを入れられると、母が普通の人間でなくなる気がしたから。

 でも、今の母は見るに堪えない。経鼻栄養に切り替えてでも、元気でいてほしい。

母が生きてさえいれば、それで良い。



 施設を出ると、外は暗くなり始めていた。

 どこからか、豆腐屋のラッパの音が聞こえてくる。

 街子はラッパの音を聞かないように、夫の待つ家へ急いだ。

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お豆腐をひとくちだけ 紺藤 香純 @21109123

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