わらび餅フラストレーション(後編)

「……ッゥ……」

 むくり。俯せで倒れていた北条が、尻を上げて身体丸めて生の反応を示す。

「もう大丈夫だ。破壊神は去った」

 安堵させる言葉を落としてみても、彼女はしばらく警戒を怠らなかった。二度三度萎んだ状態で辺りを見回し、完全な安全が確保されたことを確信してようやくのそりと立ち上がる。

「ははっ……」

 渇いた笑い。潰れた面目故だろう。ならば、先刻のことには触れないのが優しさ。というか、マッチョさんの乗っているエレベ―タ―に間に合うよう急かした時点でなんとなくこうなることを予測していた僕としても、そのほうがまだバツが悪くない。

「北条、今晩話がある。死にたガ―ルが寝静まった頃に迎えにきてくれ」

 それはあの病室に招かれ、彼女と対面したときから企んでいた提案だった。

「? 今じゃダメなの?」

「ああ。今は死にたガ―ルを待たせてるからな。早く戻ってやらないと、わらび餅の誘惑にやられる」

 特に何も考えず、聞かれたから理由を答えた。

「……ふふっ」

 それを、北条は口に手を当てて笑う。

「そうやって変な名前で呼んでるし、入院初日から告白するし、今と同じ空間で聞いた話だけだとあんまり印象良くなかったけど、案外ちゃんと彼氏やろうとしてるのね」

 笑顔。胸に止めたプレ―トで前(みらい)を見る写真と同じく、溌剌とした表情だった。

「……そんなんじゃない。ただやっているのが時間に趣を置いたゲ―ムな以上、余計にそれを稼ぐのは汚いと思っただけだ」

「はいはい」

 くそ、なにやらあやされている感が否めない。

扉が開き、僕は若干の悔しさと恥ずかしさを噛み締めながら、北条の介護の下エレベ―タ―を出てそのまま病室の前まで戻る。

閉まった横引き戸。この向こうにいるのは、必死に誘惑に抗う彼女か、それとも負けて目の前にある至極のデザ―トを貪る彼女か。

「開けるわよ?」

「ああ」

 今、その結果が晒される。

 レ―ルの上を滑っていく扉。視界に広がる真っ白な部屋。主人を無くしたベッド数台。その最奥に──彼女はいた。

「あっ、一郎さん。おかえりなさい。ペコリ」

 僕を見つけてニコリと笑い、言葉通りペコリと頭を下げる死にたガ―ルは、僕が出ていく前と同じ死にたガ―ルだった。まあわらび餅を食べたところで、死にたガ―ルが以前の死にたガ―ルでなくなるなんてことはないのだが。

 にしても本音、今の仕草にはドキッときた。だってこれは────。

「あらあら、まるで新婚夫婦ね」

「なっ!」

 北条がニタニタと、僕の感じたことを代弁する。あまのじゃくとしてここはなんとも反論しておきたいところだが、まったく同義の思考を抱いてしまったため、咄嗟の言葉が出てこない。

 死にたガ―ルは死にたガ―ルで、頬を淡い赤に染めていて。僕ら以外に人がいないこともあり、部屋には悔しい沈黙が訪れた。そんな状況を一人楽しそうに過ごしながら、北条は僕を車イスから下ろして頭を上げたままのベッドに座らせる。

「ゴホン」

 如何ともし難い空気をリセットさせる咳払いを一つ。僕は食膳が片付けられていること以外に挙げられる唯一の変化を、隣のベッドの主人に尋ねた。

「で、死にたガ―ル。それはなんだい?」

「それ?」

 死にたガ―ルは首を傾げる。質問が漠然としすぎていたか。だけど困った。僕は”アレ”の名称を知らないし、与えてやる気もない。だから暫し考えて、机に置かれた”アレ”を指差しながらもう一度聞いた。

「その奇異を具現化したようなゼラチンの集合体はなんなんだ?」

 おそらく元は、透明に近いわらび餅”だった”もの。それが群がり集まり固まって。パックの上で、団子が団子になっていた。比喩的な意味で。

「ああ、これのことですか。よくぞ聞いてくれました! エッヘン」

 鼻息荒く、ない胸が張られる。

「私の特技、【わらび餅ア―ティング】です! ド―ン」

「……」

 ああ、そうだ。この子は本来、芽生えた疑問を独り言で自己解決しちゃったり、突然の告白をオ―ケ―しちゃったりする──変な子だったんだ。僕に負けず劣らずの。

「あら、可愛いウサギさんね」

 北条、なんという順応性だ。そしてよく、あのぐちゃぐちゃがウサギだと分かったな。

「あっ、北条さん。いたんですね。ビックリ」

 北条、なんという悲愴性だ。床に両手をついて項垂れる彼女に、かける言葉がない。

「冗談ですよ。ニコリ」

 屈託なく笑う死にたガ―ル。正直分かっていたが、彼女もこんな冗談を言うのは意外だった。ハッケン。──っとと。独特の語尾が移りかけた。

「彼が帰ってくるまで、お得意の芸術で時間を潰してたってわけね」

「そういうことです。ちなみにこれはウサギさんではなくバッファロ―さんです」

「奇想天外ね」

「ありがとうございます。テヘリ」

 立ち直った北条と死にたガ―ルの会話は、凄く馴染んだものに聞こえた。同じ病院のナ―スと患者なんだから、当然っちゃ当然か。

「さて、一郎さん」

「んっ?」

 少しばかり傍観者でいた僕に話が飛んでくる。今度は屈託ありありの笑顔で。

「このゲ―ム、私の勝ちですッ! カンペキ」

 ああ、そういえばそうだった。

「開始早々あんなに涎垂らしてたのに、よく堪えられたもんだよ」

「私は一旦集中すると、一心不乱に打ち込む性格なのです」

 その産物がこの、融解前のようなバッファロ―さんか。

 と、そこまで考えたところでこちらに、死にたガ―ルが透き通るような色の手を伸ばしてきた。意図が掴めず惚ける僕に、明確にして当然の要求がやってくる。

「ください、”イイもの”。ワクワク」

 サンタクロ―スを待ち焦がれる幼い子供のように。欲しいオモチャを見つけてねだる、やっぱり幼い子供のように。彼女の瞳は期待に煌めいていた。辺りに絵文字のキラキラでもつきそうなレベルで。

 ここであまのじゃくになって『やっぱりあげない』なんて宣うほど子供ではない。

「くそぅ、悔しいが約束だから仕方ない」

 なんて。精一杯の演技で感情を偽って、僕はさも残念そうに袋から取り出した。

「ほら」

 初めから渡すつもりだった品──わらび餅を。

 数秒、死にたガ―ルの行動一切が止まる。まるで彼女だけ時間から取り残されたように。そして徐々に。徐々に固まった表情が色づいていき、

「今日二つ目のわらび餅ですうぅ!!」

 ですうぅ!!

 これも二回目だ。

 輝いた瞳のまま嬉しそうにベッドから降りて、僕の持つパックにのそのそと近づいてくる死にたガ―ル。

「待て」

 僕はそれをペットに下す命令のように、自身と彼女の間に手を挟むことで制した。

「ハテナ?」

 疑問符を生産しながらも、目前の死にたガ―ルは従順だ。

「渡す前に、僕にももっとよくそのバッファロ―さんを見せてくれないかな?」

 少しの間訝しげに僕を見ていた死にたガ―ルだったが、

「ハイ、よろこんで!」

 賞賛されると踏んだらしく、いそいそと彼女の机に置いてあったパックを手に取りこちらに渡してくれた。

「ほうほう、これがバッファロ―か」

 見れば見るほどスライムだ。よりイメ―ジを近づけるなら、それに羽の生えたやつ。

「どうです? 会心の出来でしょう? ウェッヘン」

 独特の語尾が巻き舌になるくらい、彼女にとっては満足の芸術品らしい。

「ふむふむ」

 まあセンスは人それぞれだよな、などと区切りをつけて。

「じゃ、いただきます」

 僕はバッファロ―さんを口に放り込んだ。

「むぅ……」

 やはり付属のきな粉をかけてないと、こいつはただの透明な餅でしかない。ましてやバッファロ―の味などするわけもなく。正直、もさもさしていてまずい。一パック全てを使った芸術品は、僕に不快感しか運んでこなかった。

 ゴクリ。半分無理矢理、若者特有の応変性で餅を喉に通す。で、大きく疲労の息を吐き出してから。

「じつに苦行だった」

 呟き、眼前を目視。そこには顔の筋肉全てをフルに活用して”呆気にとられた”を体現している彼女がいた。ボッカリ空いた小さな口。ただ一点、僕の口元を見つめて動くのを止めた、漆塗りしたかのように黒い瞳。

 やや沈黙が流れて。

「あばばば」

 その両方が、上下に左右に揺れ始める。

「あばばばばばばば」

 声にされた文字は言葉にならない。それがようやく姿を成したのは、

「ごちそうさま」

 僕が満面の笑みで挨拶したときだった。

「私のわらび餅がぁァアアン!!」

 言い表し難い悲劇的な形相で頭を抱える死にたガ―ル。叫びとガ―ンという感情が混じったんだろうなと、勝手に解釈しておく。

 そんな僕の両肩が、謎と不満に掴まれる。

「なな、な、なんで一郎さんが食べちゃうんですかァ!?」

 一応怪我人であることを考慮してか揺さぶられることはないが、それでも切迫した彼女の顔は怖い。

「ストップ」

 故に僕は早々と打ち明けた。

「キミのわらび餅はちゃんとここにある」

 左手に持ったプレゼントを、自分と死にたガ―ルの間に挟む。

「みゅ~ん……」

 とりあえずはそれを手に取り落ち着いてくれたが、やはり不服のようだ。初めは一個だった品も、一度二つ貰えると確信した瞬間に、彼女の中では二個が当たり前の現実になっている。剥奪された気になっても無理はない。

 と、そんな哲学めいた理論を展開しなくても、このままじゃ僕が悪いのは明らかだ。だから。

「さらにここにもある」

 机に置いた袋から、さらにもう一つ取り出した。――彼女への二つ目のプレゼントを。

「三度目の対面ですうぅ!!」

 不貞腐れから表情を一変させた死にたガ―ルが、僕の持つわらび餅に飛びついてくる。そして奪取。もう離さないよと語りかけんばかりに、質素なパックへ頬擦りを繰り返していた。

「僕からのプレゼント、喜んでくれたかい?」

 残りのストックが入った袋を小さな冷蔵庫の上に置いて、問いかける。

「はい! 今日はわらび餅祭りです! ニコニコ」

 満面の笑み。滲み出る純粋さ。どうせもう、僕が渡したのがゲ―ムに勝った正当な報酬だなんて現実は忘れているんだろう。無邪気に対等から生じた益だと思って、それを素直に享受しているんだろう。狡猾であまのじゃくな僕とは正反対。

 もしかしたら────だからこそひかれたのかもしれない。

 感情に答えを見出だすべくしていると。

「──あれ、でも、ハテナ?」

 一頻り喜んで綻んだ彼女が、思考を疑問へとチェンジする。

「一郎さん。まだあなたが私の大切なア―トを蹂躙して”苦行”と宣った理由が明かされてません。ウッカリ」

 言葉のチョイスから、なんとなく怒ってることは伝わってきた。好きなものをバカにされた憤りはわかるとして。

「キミだって僕に見せたあと、どうせその口に放り込むつもりだったんだろう?」

 わらび餅は元来芸術品ではなく食品である。それを食べたことを蹂躙と表現するのはいかがなものか。

「もちろんです。でも私は、確かな愛をもって丁重に御品を賞味させていただくつもりでした。深々」

 この子……どんだけわらび餅を崇拝してんだよ。首は垂れていないが、おそらく深々は敬意の表れと解釈しておくのが正しいのだろう。

 少しだけ、彼女の”独特”が僕にも掴めるようになってきた。

「そりゃ悪かった」

 とりあえず適当に謝っておく。そして説明した。

「僕がキミのわらび餅を食べたのは、それがマッチョさんから贈られたものだからだ」

「マッチョさん……ああ、アリスさんのことですか。たしかに、あの人のガタイの良さには惚れ惚れしちゃいます。ウットリ」

 恍惚とした表情で、視線を彼方へ放る死にたガ―ル。

 キミにああはなってほしくないよ。絶対に。

「で、それがなんなんですか? もっと分かりやすく話してほしいです」

 目を瞑り指を一本立て、知識の押し売りスタ―ト。

「日本では古来より憑物神といわれる神様がいたんだ。その信仰が根づいたのは──」

 そんなお約束の展開でツッコミを待ってみるが、来る気配がない。訝しく思って彼女を見ると──そこにはちんぷんかんぷんがいた。いや、ちんぷんかんぷんであろうことが容易に想像できる顔つきの死にたガ―ルがいた。ハテナやら星やら音符やら、未知故に、そこからはどんな記号でも出てきそうだ。

 それを可笑しく思うと同時、少しだけそこに可愛さを感じて、今回は僕が折れてやることに。

「つまりキミに降りかかる不吉を、僕がパパッと退治したのさ。後に残ったのは、未来へ繋がる希望の種だけだ」

「なるほど、それで”耕作”ってわけね」

 なにやら端から合点のいったらしい声が聞こえてくる。その声の方に首だけ向けると、そこには一時世話になったナ―スが手のひらに拳を乗せていた。

「なんだ北条、まだいたのか」

「なんだ北条さん、まだいたんですか。ビックリ」

「──影が薄いな」

「──影が薄いです」

 完全に見解が死にたガ―ルと一致。

「…………」

 言葉すら発せずに、両手を床について北条が項垂れる。

「うふふ、冗談です。ニコリ」

 救済の一声で、彼女はとりあえず立ち直った。

「ククク、本音だ。ニヤリ」

 僕の戯れの真似事で、再び沈んだ。

 と。そんなふうにからかってもう少し楽しんでいたかったが、死にたガ―ルに注意されたので仕方なしに自重しておく。

 暫時の間の後に。

「コホン」

 小さく咳払い。

「それにしてもあなたたち、なんだか旧知の仲ばりの連携ね。私をバカにするときなんか特に。とても今日出会って今日付き合うことになったとは思えないわ」

 向けられたジト目は精一杯の冷やかしか。案の定死にたガ―ルはその企てに嵌まり、顔をほんのり赤く染めてしまう。あまりの単純な反応に呆れていると、

「ねぇねぇ、翠ちゃん」

 すかさずそこへ北条は追撃を放り込んだ。

「あなたは正直、この偏屈ナンパ師をどう思ってるの?」

「!」

 染色の度合いがさらに進む。もはや真っ赤なそれは熟れたリンゴ。

「僕は偏屈だが、誓ってナンパ師なんかじゃない。告白したのも恋をしたのもこれが初めてだ」

 あまのじゃく関係なく、自分の名誉が損害を被りそうだったので否定しておく。

「まあ、とりあえずそういうことにしとこうかしら」

 しかしまともに取り合われることはない。すぐにどん底から立場を逆転するとは。北条 美咲……意外にもなかなかの曲者である。

 とはいえ、その質問は僕も知りたいところではある。なし崩しどころか、必要であろう全ての段階をすっ飛ばして付き合うことになったんだ。そこに微塵も強引さがなかったといえば嘘になる。だから第三者を仲介したここで真意を確かめておきたくて。僕はあえてフォロ―に回らず、黙り傍観を決め込んだ。

 頼りなく弱々しい死にたガ―ルの視線が僕に向くが、ここは心をSにしてかまわない。そして、どれだけの時間が経ったか。僕ら三人しかいない病室に、悶えながら曖昧で、それでいて明確な答えが顔を出した。

「わわ、私は一郎さんと賭けをしてるんです! だからそ、その内容に従うため…………私が生きても死んでも、こちらから一郎さんに別れを告げることはありませんっ!! キッパリ!」

 恥ずかしがる彼女を見て楽しもうなんて邪なことを考えていたのに。じわりじわりと、聞いてる僕にまで羞恥が伝導し、一段一段頬が熱を帯びるのを感じてしまった。

「きゃうぅ―!」

元々赤面していた死にたガ―ル、とうとう限界を迎えた。

座ったまま掛け布団をバサリと被り、そのやや幼さの残る顔を隠す。

 僕はといえば。どこか思考が鈍重し、結果唖然と固まるしかなかった。もしかしたらこれが、普通に過程を経て普通に告白してオ―ケ―されたときの素直な反応なのかもしれない。

「ヒュ―ヒュ―。愛されてますな、あまのじゃく少年」

 横にやってきた北条が、肘で脇腹をつついて茶化す。今が一番活き活きとしていた。

「……うるさい」

 僕としたことが。こんな低レベルの反抗しかできないなんて。

「まっ、そういうことなら私は御暇(おいとま)するわね。どうせいてもお邪魔虫だろうし」

「存在感もいまいちだしな」

 ムフフと含み笑う彼女に、次はなんとか言葉の棘を刺してやれた。ムッと表情を強ばらせる彼女は、しかしどこぞのバ―サ―カ―と比べれば、恐さは小動物以下だ。

 そしてそんな仏頂面のまま去ろうとする北条へ、

「待て、北条」

 呼び止め、振り返ったところで、僕は袋から取り出し封を切ったガムを一枚放る。

「っとと!」

 宙で両手を慌ただしく交差させながら、彼女はなんとかそれをキャッチした。

「ブル―ガムだ。目も覚めて、疲れを忘れられる」

 あと七枚。残りを確認してから、僕はそれらを袋に戻す。

「なんで、私に?」

「今日の礼だ。素直に貰っておいてくれ」

 暫しキョトンと、こちらを呆然視する北条。ようやく出てきた一声は、

「……案外良いとこもあるのね」

 皮肉だった。が、すぐに訂正が施される。

「や、案外でもないか」

 クスリ。そんな表現が似合ううら若い微笑みを溢してから。

「ありがとん」

 語尾に音符でもつきそうな弾んだ語調で、僕に向けて再度笑い、彼女は病室を出ていった。

 扉が閉まる。残されたのは二人。広い部屋に、隅っことその横で隣り合う僕たち。端から見ればきっと、どこかこせこせして映ることだろう。

 ──さて、これからまだまだ時間はある。いや、僕の言う”これから”は、一先ず夕食までしか含まれていない。けれど新たな住人でもやってこない限り、もっともっと広義の意味で”これから”、僕と死にたガ―ルはこんなふうに二人だけの時間空間を共同することになるのだ。

(なにを……話そうか?)

 僕はお喋りな方ではない。弁舌が淀みなく進むのはあまのじゃくとなり、相手に楽しく愉快に反論しているときだけである。今だって、恋仲で言うところの”彼女”と一緒にいられるんだ。ドロドロでグチャグチャした、初めて僕が”恋”という感覚に陥った女性と。

 でも、なんなんだろう、この気持ちは。訪れた沈黙が、楽しいと同時に苦しい。静かなのは割りと好きな方なんだけど。

 もしかすると僕はまだまだ、この”恋”というやつを理解できていないのかもしれない。

「──なあ」

 そして。漠然とした胸の窮屈さに耐えきれなくなった僕は、とりあえず『とりあえず』を口にした。

「もう北条もいなくなったし、布団はぐってもいいんじゃない?」

「……はい、そうですね……」

大きなマスクを取り払った彼女の顔は、まだ少し赤かった。それを見て、たぶん僕の熱も少し上がった。

 なんだなんだよなんなんだ!? むず痒い。どこがと聞かれれば心がむず痒い。でも心なんてポリポリ掻けないから、仕方なしに僕は髪を荒らす。同時進行で再びやってきた沈黙の対処に頭を巡らすが、こんなときに限って上手く口が回る気配をみせない。

 で、結局平凡に。

「──死にたガ―ル」

「──一郎さん」

 いこうと決めて開いた口から出た言葉が彼女と重なる。それから数度先を譲り合ったが、最後は僕が折れた。

 特に意味もなく、見出だすなら言葉に不釣り合いな緊張を紛らわすための深呼吸を、小さく一回。

「これからよろしく、死にたガ―ル」

 彼女の左右へ行き交う、綺麗な黒い瞳を見て言った。それがしかと向き合ったとき。

「こ、こちらこそ改めてお願いしますよろしくください!」

 倒置と、おそらく同類の感情故に混乱した返答が返ってくる。

 なんともなんとも。互いに未経験でやりづらい。だがこれが初めての恋の正しい距離感だとするならば。死にたガ―ルを死にたガ―ルから卒業させるまでに、そんな微妙なスタ―ト位置から本物の”恋”というやつを見つけてみるのも面白いかもしれない。

 僕は心の中でもう一度、誰にも聞こえない内の声で呟いた。

(これからよろしく、死にたガ―ル)

隣のベッドとの間にある微妙な感覚が、僕らの関係を表す偶発的に成り立った比喩に思えた。

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