シングルベッドにあまのじゃく

 ――――目覚めたのはベッドの上だった。

ゆっくりと自分がそこにいることを認識していき、ああ、戻ったんだなと。とりとめもなく悟る。視界に広がっていたのは、うっすら青みを帯びている天井。ここはどこだと辺りを見回すため身体を起こそうとしたところで、違和感。すぐ横にあった電源の入っていない真っ暗なテレビを鏡代わりに、自分の姿を映してみる。

「……」

なにやら白いチュ―ブが、僕の鼻から通されていた。

自体の把握もままならないまま、枕元にあったリモコンを使ってベッドを起こす。

 ──病院だった。使用されている医療器具もだが、感覚が受け取る、このどこかもの悲しい独特の空気感というか雰囲気というか。それがここを間違いなく病院だと僕に教える。だけど……なぜ病院? 広さから察するに、今いるここは個室。故にベッドは一つ。隣には……だれもいない。日捲りのカレンダ―が示す今日はクリスマス。

「もうひとつの……現実か」

 まだぼんやりしたままの意識で、僕はマッチョさんの言葉を思い出していた。

『”ここにいない”おまえは、とある事情で死にかけていた』

 ……なるほど、だからこの状況。延命措置ってわけか。ならこのチュ―ブは……抜かないほうがいいよな。一応。

(でも、どうして?)

在るべき世界に戻ったところで、特に実感もなく、することもなく、する気力もなく。僕は呆然を外面に貼り付けつつ、作られたものじゃない──霞んでいた本物の記憶に手を伸ばした。


          †


 ────前方をサッカ―ボ―ルが転がっていく。僕は歩いていた。たぶん誰かと。その横を車が通っていた。子供が目の前横から出てくる。容姿は不鮮明だけど、とりあえず子供。そいつの目はボ―ルだけを追っていた。道路を転がるボ―ル。道路を走る車。道路に飛び出す子供。ああ、これはまずいパタ―ンのやつだ。そう思った僕の足はしかし止まっていて。歩みを忘れていて。けたたましいクラクションが鳴って。そんな月並みな悲劇を直前にした場所へ割り込む人影。僕の隣にいた誰かがいなくなっていた。僕の隣にいた誰かが走っていた。そこで僕はようやく”駆ける”という動作を思い出す。瞬間を駆けて、駆けて、無我夢中で手を伸ばした。明らかに手遅れのブレ―キが叫ぶ。願ったのは続き。拒んだのは結末。子供と──子供を庇おうとした彼女を突き飛ばす。長い髪をした、顔の見えない彼女を突き飛ばす。直後、右側から襲い掛かってくる圧倒的力。一瞬、驚いたようにこっちを見る二人を視界に映し、僕は宙を舞った──否。跳ねられた。一気に吹き飛びかけた意識。けれどそれからすぐ身体をどこかに激しく打ち付けたのは覚えている。途端に重たくなった瞼。暗黒が黙って降りてくる。そして世界が真っ暗になる寸前、機能をほとんど失いかけた瞳に映るのが一人。なにやら必死に僕の名前を呼んでいた。うるさいくらいに連呼しながら、泣いていた。僕はそこでどうした? …………そうだ。そこで僕は掠れて消えそうな声で、意識を手放す間際に笑いながら、こう言ったんだ。

「”シッカリ”するのはキミだよ」と。


          †


 ――あらかた終えていた回想を遮ったのは、耳に入った小さくない音だった。パリン、と。まるで皿でも割れたような。なんだなんだと音源に目をやると、あらまあ予想通り。薄ピンク色の皿が見事に割れていた。そして散らばったのは────。

「あれは……」

 あれがなんであるか。あの透明な小さな丸がなんであるか。毎日のように見てきた僕にははっきりと判別できる。それらが散在していたのは、室外へと繋がる扉の方。そしてその扉が、いつの間にか開いていた。

 まさか譫言(うわごと)で『わらび餅が……わらび餅が……』とか口にしてたんじゃ──などと冗談混じりの危惧を抱きつつ、ここは病院。医師が──死神ではなくあくまでただの医師が様子を見に来たのだろうと思い、視線を床から上げた。

「…………えっ?」

 だからそれは予想外も甚だしく。固まったのは表情が先か思考が先か。いずれ一つに収束される無数の疑問符が、生産されては独り歩き。肉付けされていく記憶。払われていく翳(かす)み。

 あの日僕の横にいたのは、今扉の前で口をぽかんと開けて微かに震えている少女。長くて艶のある黒髪で、クリクリしている澄んだ瞳で、今にも泣きそうで、見覚えどころの騒ぎではなくて、だけどそんなはず──。

「…………一、郎……さん…………?」

 ────死にたガ―ル?

 そこにいたのは、どう見ようと────死にたガ―ルだった。着ている服は幾分外出に向いたものになっているけれど。容姿。雰囲気。僕の呼び方。その他個人を識別するための基準となる全てが、完全に一致していた。だけど……そんなはずがない。だってここはもう仮想現実じゃないんだ。僕はその空間で、彼女に暫しの別れを告げてきた。それがこんなに早く再開するなんて、そんなわけ…………。

「キミ、は……?」

 錯乱した頭のまま、問う。すると声を聞くや否や、死にたガ―ルに酷く類似した彼女は、よろよろとこちらに歩いてくる。そして崩れるようにベッド脇で項垂れて──そのまま僕の身体へ縋るように抱きついてきた。

「一郎……さんッ!……一郎さんッ! グスッグスッ」

 独特の語尾までそっくりだ。

「……よかった……っ!」

 心からの安堵。底からの心配。伝わる体温。伝わる思い。

「…………!」

 先刻掘り起こした哀れな顛末が、主人の意を置き去りにして再度フラッシュバックする。隣にいた少女。子供を助けに飛び出した少女。僕が助けたかった少女。その少女とはつまり────。凍結していたこちらでの膨大な量の思い出が、我先にと頭にどんどん流れ込んでくる。


 ……そうだ。そうだった。お互いに恋がなにかもわからぬまま、ふとしたきっかけから付き合い始めた。ごっこ遊びのような。宛ら恋人の真似事。似非恋愛関係。それが正しい振る舞いかどうかなんて知りもしなかったけれど、二人で過ごす時間は凄く楽しいものだった。どこまでも純粋な興味が、慈しみへと変わったのはいつの頃だったか。少なくともあの瞬間──『死』に微笑まれた彼女を必死で守ったときにはもう、胸にあったのは愛だった。

「……そっか、僕は……」

 グスグス泣いている彼女の頭に手を乗せ、優しく撫でる。

「大怪我で、全然、目を覚まさなくて……いつ覚めるか……また起きて笑ってくれる日が来るかどうかわからないって、お医者さんに言われて……私……っ!」

 死にたガ―ルに似ている彼女。覚醒してすぐはそう思った。”向こう”での記憶のほうが鮮明だったから。

 だけど全てを思い出した今ならわかる。彼女が死にたガ―ルに似ているのではなく、死にたガ―ルが彼女に似ていたのだと。

 きっと死にたガ―ルと彼女は、ほとんど同じ存在。キャラ──”現実を模して創られた”僕のかけがえのないパ―トナ―。またしてもマッチョさんの言う通りだった。僕の帰るべきところは────在るべき場所はこっちだった。

 彼女……なんてもうぼかす必要もないか。少しだけ悪びれながら、僕は笑って言う。

「……キミを残して死ねないよ────翠」

 どさくさ続きの一日。急展開に支配されたまま、終わって始まった世界。押し寄せる不可思議の波に飲まれっぱなしだった僕に言えることなど高が知れているけれど。少なくとも。

 彼女──清水翠は最初から死を望んでいなかった。その点が死にたガ―ルとの、唯一にして最大の相違点。尤も、最後には死にたガ―ルだって生を願っていた。つまりこの時点で、清水 翠である死にたガ―ルと、死にたガ―ルではない清水 翠の差はなくなっていたのだ。

 そして外見もそうだが、なにより、死にたガ―ルと同じく────翠は僕を心底愛してくれている。それと同様に、僕も清水翠を愛している。そのことを……僕は”あの世界”で生きたことによって学んだ。

 僕が”あの世界”で気づいたことは全部、”この世界”で生きるために必要なことだった。愛を知り、真を知れた、現実(本物)のための現実(幻想)。どちらでも、常に隣にいてくれたのは──翠。

 本当は、ずっと好きだったんだ。ずっと好きで、愛していたのに、その愛がなんだかわかっていなくて。だからなんとなく空虚で、そこはかとなく虚無で。

『この世界で経験した不幸や悲しみ全てを、おまえが生きるべき世界で活かせ』か。

 死神だの仮想現実だの、荒唐無稽も甚だしいファンタジ―を教えられて混乱したし、正直まだ完璧な理解には及んでいない。でも……なんだ。要約してみれば、事は極めて単純だった。

「私、先生を呼んできます! ニコニコ」

 やがて翠は嬉しそうに涙を瞳に溜めたまま、雲の一つさえない晴々とした表情で立ち上がる。

「待った」

 去ろうとする彼女の白くて細い腕を右手で掴む。

「へっ? 腕が……治ってる?」

 なにやら不思議そうに呟く翠。こちら側の投影であるあちら側で骨折していたのだから、僕はやはりこの世界でも骨を折っていたか。ならそれが治ったのは、医者やナ―スのコスプレをした死神達のおかげなのかも──なんて考察は後に回すとしよう。

「信じられないかもしれないけど、じつは眠っている間にいろいろと不思議な体験をしてね。長くなるけど、その夢のような現実を、ゆっくりキミと話したいんだ」

「……ハッ! まさか臨死体験!? ビックリ」

「あるいは臨生体験。なかなかに……最高に楽しい出会いと別れだった」

「一郎、さん?」

「だけどそれを語る前に──」

「きゃう!?」

 掴んだ腕を引っ張る。再び翠は僕の胸に倒れ込んだ。なにがなんだかわからず上であたふたする翠。そんな彼女を心から愛しく思いながら、言う。

「まだ”こっち”では言ってなかったことがあったんだ」

「ハテナ?」

「──大好きだよ、翠」

「!?」

 これでもかってくらいに開かれた瞼。そしてみるみる赤く染まっていく頬。まるでリンゴのよう。

「これから僕らはずっと一緒だ。だから握った手を──放すなよ? 放さないから」

 そんな彼女をまじまじと見つめながら、さらに一つ、偽りなき心情を吐露。

「すすすす、ストップ!!」

 互いの息がかかる距離にて、上擦った声で出された停止命令。

「なな、なんですか急に!! 心臓が飛び散るかと思いましたよ! ドキドキ!」

 聖なる日にそんな悲劇は御免被りたい。なんて冗談も交えながら。

「そういう状態のときに悪いんだけど、たぶんもう一つ驚かせること──してもいいかな?」

「そ、それは本当に困るというか! 一生分の幸せをここで使い果たしてしまいそうというか!」

「大丈夫。世界にはまだまだ楽しいことがたくさんあるから。今からするのは、その中のほんの一つ」

「あ、あの! じつは私も、兼ねてから一郎さんとしたかったことがありまして────!」

 ククッ……。ようやく先手を取れる。

「──こういうこと、だろ?」

「っ……」

 僕は、そっと彼女の唇にキスをした。その瞬間の翠を見ていて、とりあえず────まだしばらくは生きていられることを確信した。

「……ありがとう……ございます……」

「こちらこそありがとうございました。それと……今日からまたよろしく──翠」


死神だの仮想現実だの、荒唐無稽も甚だしいファンタジ―を教えられて混乱したし、正直まだ理解は及んでいない。でも……なんだ。要約してみれば、事は極めて単純だった。言うなればそれはたった一言。現実と幻想、よく似た別々の世界で────。



 僕は一人の女の子に、二度の恋をしたんだ。

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