終わって始まる世界
鞘真が去ったあと、僕らもじきに屋上から下りて、馴染みの病室へ戻ることにした。途中で出会う、彼女を探してくれていた者達。それぞれ思うところはあるだろう。謝罪ではなく、二人でその全員に礼を言った。
そしてあっという間に時間。
「なあ、死にたガ―ル」
「……」
「死にたガ―ル?」
「……また、呼び方が戻っちゃいました。ションボリ」
「そういえば昼間はその口癖、ほとんど姿を潜めていたね」
「ねぇ一郎さん。また名前で呼んでください!」
「翠」
「はい! なんでしょう?」
「いや、キミが呼べって──」
「私が『生きたガール』になったらその呼び方は改めてくれる約束だったじゃないですか!」
「じゃあ、生きたガ―ル」
「…………死にたガ―ルでいいです、もう」
うん。語呂もいいし、僕もそれに賛成だ。
「……そろそろ、いこうか」
「──はい」
僕らは一緒に鞘真達の待つ手術室へと向かう。
目的の場所へ到達するまでに交わした会話は至極他愛ない、ありふれたものだった。
二枚合わせの扉の前に立つ、ちゃっかり用意していたらしいスペアのメガネをかけた鞘真と、北条。もちろん他にもいるのだろうが、この二人が今日彼女の手術に携わる。
永遠のような瞬間を楽しめて、限りなく充実していた。
「時に、キミ達は今、幸せかい?」
「ああ、問題なく」
「はい、間違いなく」
「……よっし。だったら最良だ。最高にベストだ。その余韻を引き連れて──さあ、いこうか。美咲ちゃん、翠ちゃん」
「……はい」
「はい!」
扉が開く。北条は鞘真について手術室へ。その一歩後ろを歩いていた死にたガ―ル。一瞬立ち止まって、クルリとこちらに振り向いた。
「いってきます。ニコリ」
「ああ。いってこい」
認可を受けて、そんな彼女もついに”向こう側”へ。そして間もなく明確な境界の役割を担う扉が閉まり、上の『手術中』というランプが点灯した。
「……さって、と」
僕は近くのベンチに腰を下ろす。一人で病室へ帰る気にはなれなかった。ここで待つ理由。特にこれといったやつはない。それでも強いて挙げるなら──手術の成功を真っ先に知りたかったから、かな。
「これからどう時間を潰すか」
途方もない。そんなところへ、ムキムキの話し相手がやってきた。
「どうやらもう始まってるみたいだね」
「マッチョさ──」
「その舌、引きちぎってみせようか」
「……アリスさん」
「どっこいしょ」
マッチョさんは僕の隣に座った。それだけで窮屈に思えた。とはいえちょうど話し相手を欲していたところだ。そんな僕の心情を読んだみたく、マッチョさんは言う。
「この時間はちょいと暇でね。私の雑談に付き合え」
「しかたない」
嫌だ、と言わなくなったのは成長か。
「が、その前に一郎。物事と正面から向き合う覚悟はできてるかい?」
「とうに」
聞くまでもないこと。ここでその度胸は養った。
「そうかい。なら最初に言葉を送っておく。『信じる者も信じない者も、等しくこの世界では救われない』」
「いきなりずいぶんと空虚な意見だな」
「なぜなら真理が空虚だからな──と、脱線するところだった。私がそんな悲観的言い草で締めるはずないだろ。だから続きだ。『ただし──信じる者は報われる』」
ほう。これはまた一つありがたいことを聞けたかもしれない。深みのある人の言葉は、いつだって名言に思われるし思えるから感嘆する。
「聞こうか。どういう意味か」
「ああ。それを今からじっくり話していく。ほどよい時間を使ってな」
そこでようやく前口上が終わり、語りは本筋へと入っていく。
「そうだな──なにから語るか悩むところだが……よし。ここはいきなり真実を叩きつけるとしよう」
「そうしてくれ」
一拍の間を置いて、開口。
「この世界は虚構であり、たしかに存在するフィクションだ」
僕が発言の意味するところを探っていると、マッチョさんは釘を差すように付け足した。
「比喩でも暗示でもない。ここはちっぽけな神によって作られた、生と死の狭間空間」
ちっぽけな神。そういえば鞘真の怪談にあった『死神』も、神といえば神か。
「故になにもかもが虚無。なにもかもが空虚。ただ一人の生死を決めるために用意され、決まれば等しく全て消え去る宿命を負っている」
「全て、消え去る?」
「そう。設定も感情も命さえ、皆なくなる。創造者たる神だけを残してな」
それはなんというか……殺伐としているな。
「魂の導き手。それが神──即ち死神だ。死神はなんでもできる。唯一、選ばれた者の生死に関わること以外なら」
当たっていた。
「死神のくせして、生死に携わる以外にできることとは?」
「なんでもだよ。繰り返すが、死神はここの創造者。だからこそ、さっき言った束縛に目を向けなければここで死神は全能。幻を見せることも、雪や星を降らすことも、手から業火を放つことだって本当はできる」
とんだ魔法使いである。
「そしてその死神に”選ばれた者”が本当の意味で生きるためには、その世界で最も難しい行為に挑み、達成しなければならない。詰まるところ、『生きる』でも『死ぬ』でもない第三の選択」
「────『生かす』か」
「未来はいらない。生きる希望さえ抱かせればいいんだ」
これはまた驚くほど偶然。この話に触れた時期も加味するとなかなかない一致。
「まるで僕と死にたガ―ルみたいだな」
軽く笑い飛ばした。なぜならそれはほんの冗談で。なぜならそれは些細なたまたまで。
「…………」
だからマッチョさんが連れてきた、重たい沈黙の意味がわからなかった。
「……一郎、信じるんじゃなかったのか? たしかに荒唐無稽な話ではあるが──」
「ん? ああ、誤解させたか。僕は信じているよ。そういう世界があるんだろ。どこかに」
もしかすると認識の外では感づいていたのかもしれない。僕がなにかを聞かなかったことにしていると。
そしてそういう事柄は、大抵の場合自分にとって聞きたくない、都合の悪い類いのやつで。今回に至っても、その通例が特別に見逃してくれるなんてことはなかった。
「わかっていないようだから、もう一度言っておく」
聞くべきか、聞かざるべきか。そんな選択肢など既になく。僕の耳にその一言は、ただただ特質なく無神経に入り込み、そして出ていった。
「私は”この世界”の真実を語っているんだ」
…………この、世界? この世界ってことは……ここ? 今僕がいてマッチョさんがいて死にたガ―ルがいる──ここ?
道理に合わなかった記憶の骨組みが、語られた、あろうことか同じく道理を無視したファンタジ―によって肉付けされる。
──影法師を見た。死神はなんでもできる。
──骨折していた腕と足が突然『直った』。 死神はなんでもできる。
──幻想的な景色を見た。死神はなんでもできる。
────全ての現実的矛盾を、死神はこじつけられる。
…………嘘だ。
「まったく、質が悪いな。いくら僕が肯定的だからってそんな──」
「昨日、あのガキもナ―スも翠のところへたどり着けなかった」
「…………」
「”そういう設定”だからだ。いわゆるモブキャラが、おまえ達を根源的に救うことはない。……逆はあってもな」
あらゆる偶然必然が、彼女を殺そうとした。僕が彼女を生かす邪魔した。
────違う。
「モブなもんか。老人の中には僕らに歩み寄ってくれた人もいたし、北条は一々ツッコミをくれるし、鞘真はフェンスにぶら下がる僕らを引き上げてくれた。みんな”人間として”成長した。モブが自我を確立したり改めたりして勝手に動くなんてそんなこと──」
「ある」
並べた理屈が、たった二文字に押し負ける。たった一言の断言に、どんな反論も圧せられる。
「そういうものだ」
キャラも人間も相違ないってかよ。そんなの……。
「教えておく。私がその死神だ」
驚きはなかった。真偽はともかくとして、真実を知るのは他でもない神だけ。それを語れるのだから必然的にそうなる。
「そして北条と鞘真先生。この二人も私と同じ存在だ」
「──!」
こちらの発言には当然驚く。けれどそれから矛盾を見つけるのは早かった。
「待て。鞘真には僕と死にたガ―ルの命を救われた。おかしいじゃないか。死神に生死を左右することはできないんだろ? アリスさんの話は破綻している」
僅かな虚をついたことで否定できた気になっていた。しかしマッチョさんは幾分声色を落としたものの、返しに詰まることはなかった。
「……死神にとっての『できない』には二種類ある」
語りが始まれば、僕は黙って聞くしかない。
「『制限』による禁止と『掟』による禁忌だ。前者は結果の歪曲──要するに『死が決まった人間を生き返らせる』ことを禁じ、死神の力で禁止事項を破る者が出ないよう、私達はその術を”より尊台な存在”から剥奪されている。だからこっちは文字通り”不可能”」
「……なら、後者は?」
「『”選ばれた者”に助力してはならない』という掟。だけど法律や校則と一緒さ。罰を恐れさえしなければこっちは破ることができる。可能な非推奨だ」
あの夜北条は僕の額に口づけをした。次の日、僕の足が魔法にかけられたみたく完治した。昨日マッチョさんに背中を叩かれた。渇を入れられたのだと思っていた。だけどそのとき、今にして思えば不自然な爆発で包帯がとれて、僕は走れるようになった。そんな不可解な事実も、二人が死神ならば辻褄が合う。
「だけど、もしそうなら…………鞘真も含めて皆、揃いも揃って掟を破ったことになるじゃないか」
「ああ……まったく本当に。全員バカばっかりだよ」
溢れた苦笑が現実性を演出する。故に言葉が出せない僕へ降りかかる、決定打が二発。
「おまえは言っていたな。自分の記憶が朧だと。理由は一つ──おまえが死神に”選ばれた者”だからだよ」
「……!」
「ここは生と死の狭間。そこでおまえは彷徨うことになった。だから『もうひとつの現実』と折り合いをつけるべく、おまえの”生きているべき世界”での記憶は、じつは初めから──この世界に来たその瞬間からぼやけている」
「バカな! 僕はバスケの練習で骨折してここへ来た!」
「どうやって?」
「ッ…………!」
答え────られなかった。
言われてみれば、僕はどうやってここへ来た? 骨折して連行された。だれに? どうやって? そもそも僕とぶつかった体つきのいい選手って……いったいだれだ?
「……ッ」
頭にあるのは『そういうことがあったという事実』だけで、他はなにも……思い出せない。日常を連ねるのに別段必要なかった記憶のため、取り立てて気にすることもなかった。けれど本当はこんなに。僕の記憶はこんなにも─────脆くて不鮮明じゃないか。
「おまえがここへ来るまでに『あった』と思っている出来事は、全て私達死神が大きな違和を消すためでっち上げた偽の出来事。『なかった』ことだ」
この記憶倒錯が一発目。
「そしてそんなおまえに付き合わされる運命だった翠の記憶もまたおそらく──朧」
「彼女も……」
思い当たる節はある。死にたガ―ルは、自分の両親について詳しく説明できなかった。改めて考えると、僕もたぶん……できない。自分の身の上を事細かに語れない。『そういう人がいて、そういう経験をした』。頭にあるのはそんな”設定”だけで、それに関連した思い出や感情は…………なにもないのだから。
「翠の不幸な境遇は、翠に死にたいと思わせるための──そしてそんなあいつをおまえに救わせるためのもの」
…………僕は選ばれた者。イレギュラ―な存在。だから──主人公。
――繋がった。
……でも、待てよ。ここが狭間空間だとして。僕が死にたガ―ルを生かすことで僕自身”本当の現実”で生きられるとして。マッチョさんは言った。全てが──消えてしまうと。
「消え……る?」
「ああ。おまえはここから隔離される。そして僅か遅れて、この世界自体なにもない真っ白な状態になる。寂寞に──戻る」
荒唐無稽。ありえない。所詮理屈の上でのこと。ここまでなら、そう思うこともできただろう。だが、二発目。目を塞ぎたくなるほどの現実が、あらゆる否定を許さない。
「……タイムリミットのカウントダウンが始まった」
漠然とした違和感が、僕の全身を包む。芽生えた焦燥。その正体をどう確かめたらいいかもわからぬままあたふたと。していて、気づく。
「……!!」
足。手。頭。自分の身体から、無数の小さな光の粒が上がっていた。吸い込まれるように、院内の天井をすり抜けていく淡い輝き数多。
「これは……」
「おまえの存在をここへ定着させていた粒子だ」
認識が……崩れていく。やっと幸福の軌道に乗るかと思われた現実が、悪夢に……侵されていく。
「死神は魂の導き手。私が現実世界から、おまえの魂をここへ呼び込んだ。だから意志や思考はおまえのもの。身体は現実世界の構造から真似た架空のものだ」
「…………夢?」
「そう言うこともできるが、私からしてみりゃ違うね。ここでもし翠が死んでいたら、同時に現実世界でのおまえも死んでいた。というか、生死を左右する以上、この世界もまた紛れもない現実だ」
「どうして僕を……!」
「”ここにいない”おまえは、とある事情で死にかけていた。そんな状態からおまえを救うためさ。あらゆる偶然が翠を死に追い込んでいたのは、その度におまえが死へ向かっていたから。順序は常にこっちが後。いわばあいつは──死にかけのおまえを写した鏡なんだ」
僕のせいで彼女は苦しんでいた。
「だからあいつに生きたいと思わせることで、在るべき世界のおまえにもその意志が反映され、生きられる。気持ち一つで左右されるほど、おまえの容態は微妙だったからね」
だったら僕は僕が生きるため、彼女を無意識に利用したことになる。
……ふざけてるよ。ふざけるなよ。全部。語られた事が全部本当だとしたら、こんなの────!
「……最低じゃないか!」
ナース達も老人達も死にたガ―ルも皆──生きてるんだ。例え作り物の性格、創り物の身体、造り物の境遇だろうと──生きてるんだ。
それをたった一人、僕を生かすためだけに消し去るだって? そんなのただの虐殺じゃないか。
「この世界は狂ってる!!」
「ああ……そうだな」
酷く覇気を欠いた声で、創造者は肯定の意を示した。
「このことを知っているのは私達死神だけ。患者もナ―スもそれらに関係する人間も、全員自分が本物の人間だと思っている。そいつらの尊厳をこれから私達は踏み躙るんだ。ことごとく。そういう世界。そういう死神。余すことなく──最低だよ」
自分が関与している世界の劣悪っぷりを認めるのは、いったいどんな気持ちだろうか? 推し測ることは叶わない。
「……僕も死にたガ―ルも……消えるのか?」
「消える。おまえは生きるために消えて、翠はおまえを生かすために消える」
「ッ!」
身体が段々色を失っていく。少しずつ、透明になっていく。
「だったら僕はべつに”本物の世界”で生きなくていい! ここが──彼女と過ごしたここが僕の本物だ!」
立ち上がり息巻く僕へ、マッチョさんは哀れみと申し訳なさを含んだ眼差しを向ける。そして、諦めたように言の葉を落とした。
「……言っただろ一郎。死神に、決まった生死を変えることはできない。おまえは──生きるんだよ」
「そんな諦観似合わない! 探してくれよ、アリスさん! 僕が死にたガ―ルとここにいられる可能性を!」
「ない」
一蹴。感情のない断定で一蹴。
「それから。おまえは勘違いをしている」
「なにを!?」
「──私は、この世界を維持するのが最良の選択だとは思っていない」
「……! どうして!?」
「ここの仕組みは最悪だ。誰もここでは幸せになれない」
「だったら!」
「だからこそ!」
病院内に響き渡る叫びが僕の糾弾を抑制し、より強い意志として体を成したのは一人の人間的死神としての願い。
「だからこそ──おまえは生きるんだ! この世界で経験した不幸や悲しみ全てを、おまえが生きるべき世界で活かせ!」
どうして……! どうして僕が生きるために死にたガ―ルを犠牲にしなくちゃいけないんだ! そんなのは……そんなのは……望んだ結末から一番遠い未来じゃないか!
「僕は……僕らはこれから幸せになるはずだったんだ! だから……まだなんだよ。まだ僕は彼女になにもしてやれていない! 約束もした! 『二人で一緒に幸せになろう』って! だから────」
「その約束をした翠ちゃんから一言、伝言だよ」
手術室の扉が開く。同時に出てきた鞘真と北条。二人の死神。魂の道先案内人。内、僕の手を引いたとき以来であろう真剣な表情をした鞘真が、扉を背にして言った。
「──『一先ず生きてください』だとさ」
「ッ!!」
──またか、死にたガ―ル。またキミはそうやって、一人で勝手に終わりにしようとするのか。一方的に別れを示すのか。言葉にして告げることなく。『お別れ』という事実だけ僕に教えるのか。
嫌だ。認めたくない。けれど”異能”を持ち合わせていない僕が、死神にもできない世界構造の変革をできるはずなどなく。光の粒子が天へと昇っていく。僕の存在を消していく。
いつの間にか、あったはずの天井はなくなり、代わりだとでも言いたげな、空のようにどこまでも続く”白”があった。見回すと壁も所々塗装が剥がれるようにひび割れ、その隙間から”白”が見えている。
「空間崩壊が始まってるね」
鞘真の独り言。なんとなく、時間がないのはわかった。
「このままじゃ……終わらせない!」
走る。彼女のいる場所へと続く扉の前へ。同時に、パチン、と。鞘真の指が鳴らされた。僕は扉を押す。が、それまで軽い力で開け閉めされていたはずのその扉が──今はびくともしない。
「……なんのつもりだ?」
根拠はなかった。けれど一見して不要な行動を行った鞘真の企みと推測し、睨む。
「一郎くんこそ、なんのつもりだい?」
質問に質問で返された。
「僕は死にたガ―ルのところへ行く!」
「行ってどうする?」
「それは……!」
「一郎くんも翠ちゃんも、共に言った。『今日までに最高の日を過ごした』と」
「ッ……!」
「なら、後に待つのは幸せの降下だけだよ。僕と美咲ちゃんが、今し方この世界の理をなにも知らなかった翠ちゃんに説明し終えた。その上で、全部を知った上で彼女が最後に願ったのが──キミの『生』なんだよ、一郎くん。言ってる意味……わかるだろ?」
……わかっていた。わかっていたのに、北条がそれを言葉にしてしまう。
「……顔を合わせても悲しくなるだけよ。互いに、待っているのが『別れ』だと知ってるんだから……」
最後に見たのが悲しげな顔だと、彼女と作った思い出全てが悲しいものに思えてしまう。そういうことだろ。わかっているさ。
────だけど、それでも、僕は彼女に、まだ会わないといけないんだ。だって。
「『さよなら』を言えないほど不幸なことがあるかよ!!」
『終わり』があるから『始まり』がある。『出会い』があるから『別れ』がある。
逆を言う。『終わり』がないと僕らの物語は『始まらない』。あの日の『出会い』にちゃんと『さよなら』を告げないと、今日まで重ねてきた日が全部空虚なものになってしまう。なかったことになってしまう。そんな不幸──そんな最悪──僕は嫌だ!
「ここはもうじきなくなるのかもしれない。僕はもうすぐ消えるのかもしれない。それでも!」
それでもッ!!
「────ここで生きた僕は本物だ! ここで学んだ愛は本物だ! だから消させやしない! 虚無になんかさせやしない! 僕は彼女と──連続した瞬間を生きたんだッ!!」
だからッ!!
「その重ねた瞬間を、僕は彼女と終わりにするんだ!!」
まだ────結末にするには早すぎるッ!!
まっすぐ僕を見る鞘真が聞いてくる。
「そこに幸せはないと知っても──いくのかい?」
返事をしたのは、僕ではなくマッチョさんだった。
「……なにを望むかなんて千差万別だよ、鞘真先生」
幸せが人それぞれであるようにね。そう言葉が結ばれる。
「どうして……」
そして疑問を抱く北条に、答えを与えたのは鞘真。
「『いくな』と言われると『いきたくなる』──あまのじゃく、か」
扉以外はなにもなくなった無の世界に溢れ彷徨う長いため息。
それから。中指と親指が弾かれ、よく響く気味のいい音が一回。
「――わかった。これはキミの物語だ。キミが締め括れ」
扉に触れてみる。今まで重かったそれが、不思議と軽く感じた。まるで魔法が解かれたように。
「……終わらせてくる」
三人の人間味溢れる死神を背に、宣言。僕は扉を開けた。
†
────広がった空間はどこまでも続いているようで。終わりの見えない純白が包んでいて。限りない”無”で。そこにぽつんと存在していた少女。長い黒髪。澄んだ瞳。日焼けを知らない華奢な身体。けれど昔よりどこか強くなった、僕の始まり。僕の終わり。この病院で一番長く一緒に過ごし、一番近くで笑い合い、一番離れたくないと思わせてくれた──この上なく大切な人。
「──来て、しまったんですね」
彼女は笑う。その目に微かな涙を溜めて。
「……違うだろ。キミが言うべきは『来てくれたんですね』だ」
「あまのじゃく」
「他意のない訂正さ。孤独に終わるのは嫌に決まってる」
その雫がなによりの証明。
「クスクス。一郎さんには敵いません」
「死にたガ―ル……今、僕の身体はどうなっている?」
彼女は数秒思考し、答えた。
「ほとんど透明です」
スケスケってか。ということは、やはりそう長い話をする時間はなさそうだ。
なら仕方ない。伝言を残して別れようとした勝手を叱るのは省こう。
「もうすぐキミと僕はお別れだ」
だからこそ。
「今ここでキミに言っておかないといけないことがある」
それはもはや口にするまでもないことかもしれない。けれど改めて口にしておかないといけない。そんな気がした。
「……じつは私も」
「そのくせに鞘真を使って、一言しか残さず終わりにしようとしたのか」
「へへっ、ウッカリ」
ウッカリ、じゃないよ。まったく……最期までキミは……。
「もう言えないだろうから、ちゃんと聴いてくれよ」
「それはこちらのセリフでもあります」
「死にたガ―ル」
「一郎さん」
「僕は──」
「私は──」
「キミが好きだ」「あなたが好きです」
彼女の下へと歩いていく。彼女はただそれをじっと待っていた。次第に距離がなくなっていく。それは歩いているから。なら、次第に視界が潤んでいくのはなぜだろう?
なにもない空虚な空間。隔たれた僕らだけの世界。そこで僕らは互いの身体を抱きしめた。強く。この温もりを忘れないように。
終わらせたくない。当たり前だ。だけど、それでも。
「これで僕らは『さよなら』だ」
一筋の雫が頬を伝い落ち、真っ白な床を僅かに滲ませた。そこに彼女の涙がさらに重なり、”無”の世界の侵食を広げていく。
「ごめん死にたガ―ル……僕のせいで……」
「違います。一郎さんが言うべきは『ありがとう』です」
「……」
わかっていた。死にたガ―ルが誰も恨んでいないことくらい。今詫びようとしたのは、勝手な自己満足を求めただけ。
「私は一郎さんに出会えて幸せでした。一郎さんは私に幸せを教えてくれました。そこに謝るべき非や過ちなんて──きっとないですよ」
──僕はいったいどれだけのことをしてやれた? 僕はいったいどれだけのことを教えてもらった? その釣り合いは……とれているのだろうか?
「だから──最後は喜んでお別れにしましょう。ニコリ」
「…………そうだね」
マッチョさんも言っていた。『僕が生きて、彼女は消える』。そんな最悪の未来は、どうやろうが変わらないと。あまのじゃくになったって、確定した事実は覆らない。だったらせめて、結末は素直な自分で。
「死にたガ―ル」
悲しい。嬉しいわけない。それでも前向きに。今日までが”嫌な記憶”で統括されることのないように。思い出したくなる瞬間であるように。僕は涙でぼやけた彼女を見つめたまま、笑って言った。
「こんなにも……心の底から悲しめる『さよなら』をくれて────ありがとう」
この出会いは疑いようもなく、切に永遠を願える大切な縁だった。
身体が消えていく。本当にもう……これでさよならなんだ。だからこそ。今しか目の前にいない彼女をしかと思い出のフィルムに焼きつけるべく、ろくに景色を映さなくなった目を拭う。──死にたガ―ルはポロポロ涙を落としていた。
「死にたガ―ル……」
しかし視線を落とした理由に気づいたらしい彼女は、慌てて僕と同じことをして、その泣き顔をなかったことにする。
「私も、こんなに嬉しい『さよなら』はありません。グスッグスッ」
キミがそれでいいなら、僕もそれでいい。真実を突きつけるだけが正しさじゃないから。
「……一郎さん」
僕の名を呼ぶのは、この空間に入ってからこれで九度目。
「一郎さんと過ごした毎日は、まるで夢のような時間の積み重ねでした」
十回。
「だから──」
両方の目尻から綺麗な感情を垂らしながら、死にたガ―ルはそっと瞼を閉じる。なにを望んでいるか、望まれているか、すぐさま理解できたのはたぶん、僕も同じ気持ちだったから。
果たしていなかった星下の約束が──成就を願って言葉になる。
「最後に……特別な夢を私にください」
みずみずしい唇が、僕を求めて僅かに尖る。
理屈じゃなかった。それを求めるのに理由はいらなかった。
僕は彼女の頬を流れていく雫をそっと指で拭う。そして眼前の儚げな表情を少しの間だけ見つめてから──動いた。死にたガ―ルのことをずっと見ていたかったから視界は保ったまま。首を僅か傾けて。不器用ながらに。未知識ながらに。愛を形にしようと。
けれど行動の最中に付き纏うは懐疑の念。
……これで、いいのか? 彼女が泣いて。おそらく僕も泣いて。そんな中、交わす口づけは幸せか? 僕はそれを、そんな始末を祝えるのか? ない未来を与えて。一時を幻想にして。別れの、キス────。
「…………違う」
──違うだろ。僕らが本当に具現したかったのは、こんな悲しい愛の結末じゃない。
迫った別れ。溢れる涙。二点を結ぶ直線の長さ目測半センチ。僕は止まらない時間の中で息を止めた。
混濁した感情。混迷した思い。
でもここにきて明確に交わすべき恋慕などないことだけははっきりしていた。だから──僕は心底愛した人から一歩離れて呼吸を再開する。
「目を開けるんだッ! 死にたガ―ル!!」
声を大にしたのは、そうしないと自分で出した答えに弱い心が潰されそうだったから。
ビクン、と。驚いた死にたガ―ルが僕を見る。
「僕らが──ううん、僕らに限ったことじゃない。『人と人』が最期にすべきは、互いの心を埋め合うことじゃない。互いの生き様を称え合えてこそ最高の『人生』だ!」
間違ってなんかないはずだ。僕は魂だけの存在かもしれない。キミは僕のために”設定”された存在かもしれない。それでも──! それでも僕らは『人間』だ!!
「キミは僕と生きた。僕はキミと生きた。だから二人で死を見つめたこの世界は──絶対に夢じゃない! 覚めることのない現実だよ! だから僕は僕らしく。飾らず背伸びもせずに思いを言葉にする」
光に分解されていく右手を差し出す。もはやそれはないも同然。ほとんど純白と同化していた。
「今日まで本当にありがとう。おかげで──最ッ高に楽しい時間を生きられた」
暫時戸惑いを表情にしていた死にたガ―ルだったが、
「……その通りですね。私達の結末は握手こそ似合います。ピッタリ」
ついには晴々とした顔で僕の手を掴む。
「一郎さん。こちらこそ、かけがえのない永遠をありがとうございました。私は暫し死神のみなさんと、あの世で一郎さんのことを観察しておくことにします。チラチラ」
「そりゃ大変。ろくに隠し事もできないや」
僕はこれでもいろいろと隠したいことのある年頃。その辺の配慮はちゃんとしてほしいもんだ。
「幸せになってくださいね」
「ああ。だけど、これは今更言うまでもないことだと思うけどさ。強ち、幸せが即ち生きることにはならないからな」
僕は他でもない死にたガ―ルが傍にいたから、最終的にまだ生きていたいと思えた。死ぬには早いと思えた。けれどキミのいない世界。そこに魅力がないと判断したら。死んだほうが幸せだと悲観なく思えたら。
「僕は躊躇いなく『死』を選ぶ覚悟でいるし、選べる自信があるよ」
それは誇れることだろう。大勢より幾年先に、人生の答えを示せるのだから。たった一つの最高な、死に様も含めた意味での生き様で。
……まあ、なんだかんだ探すつもりではいるんだけどさ。言われた通り”一先ず”生きて。
「はい。ただし、そのときは笑って死んでくださいよ? 喜劇に悲劇はいりません」
宛ら人生の比喩。ライフイズコメディ―。なんとなく英語にしたかった。
「ああ。今度会う──その日までの約束だ」
握った手と手。互いにその小指を立てて、いつかあるはずの再開を契る。
まるで白い靄がかかるように、僕の瞳は彼女をだんだん映さなくなっていく。
懲りずに溢れて流れ落ちる定めの雫か。それとも世界から抹消される刻限の訪れか。どちらが理由だろうとそれは退っ引きならないことだし、だからこそ意に介そうとはもう思わなかった。
ただ一言。できるならもう一言。ひたすらに、可能な限りの言葉を送る。
「元気でな、死にたガ―ル」
「一郎さんこそ、お元気で」
握った手から伝わる揺るぎない『生』の鼓動が、温もりが、僕らが不器用に育てた命の結果なら、この握手もまた愛の具現と呼べるだろう。そう呼んでも──いいよな。
「じゃあ──またね」
「はい──また」
やがて朧は表情を隠し、姿を隠し、それでも最後の言葉だけは────きっと互いの心にしかと届いた。
「その日が来るまで──」
「とりあえずは──」
「────さよなら」「────さよなら」
意識が、あるいは魂が、なにかに引っ張られていくのを感じながら、僕は自然に”無”と同化した。
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