瞬間メメントモリ
ここ以外にないと、確信していたんだ。死ぬには飛び降りるのが一番だとか、そういう理屈めいた根拠はない。本能的に、直感的に、屋上だと。まるでなにかに導かれるような思いで、脇目も振らず走った。一段飛ばしでひたすら上へと駆け上がり、手すりを持って片足で床を蹴り、跳ぶように屈折。そうして辿り着いた、外へと続く一枚の扉の前。ノブを捻り、僕はそれを、今──開ける。
──広がった視界には、吸い込まれそうな群青色の空が広がっていた。憐憫。抱いているのはたぶん観測者の側。本来、天は天。空虚な虚無。
「……」
乱れた息を整えながら、黙々と前へ歩いていく。見下ろした世界は凄く小さくて、そのくせどこまでも続いているかのように錯覚させる。まるでその一つ一つが命の比喩みたいだ……っていうのは、ちょっと叙情に浸りすぎか。
「くくっ」
自らに向けた皮肉で一笑。僕の笑い方って、こんなに気取ったふうだったっけ? そんな適度に冷めた心境になったところで僕は、真冬の空を眺め寒風に吹かれている、フェンスを挟んで眼前の彼女に声をかけた。
「──空が、青いね」
「!」
ビクリ、と。死にたガ―ルが身体を強ばらせた。それからゆっくり振り返り、澄んだ黒い瞳に僕を映す。
「……一郎さん、足……」
「おっ、今回はすぐに気づいたね。見事完全復活だ」
言いながら、すぐ脇にある破壊された箇所を横目にしつつ、なんの気なくフェンスへ手を──。
「来ないでください!!」
ピシャリ、と。似合わない一喝が、その行動を拒絶する。
「こっちに……来ないでください」
自分のテリトリ―を侵害されまいと、力ない小動物が必死に威嚇する様を連想した。
偶然か、必然か。マッチョさんの言った通り、ここには誰もたどり着いていなかった。いたのはたった一人の死を決意した少女。僕の恋人。二人が挟んだ”それ”は宛ら生と死の境界線。彼女は彼女の意志で”あちら側”に立っている。僕を恐れるのは、その決定を覆してほしくないからか。
「──少し思い出を探ろうか」
暫し関与しないことを暗黙の条件に、僕はいつもらしく話を切り出す。
「……思い、出?」
「な―に、単なる確認だよ。キミが覚えているかどうかのね」
択一されたどちらが返ってこようとも、僕は全て覚えている。これが真実の前提。
凍てつく間際の風が、死にたガ―ルの長い髪を軽く靡かせていく。彼女の意識が、僕も見ている世界のほうへ戻った。
──というところで、問おう。
「覚えているかい? 僕とキミとの始まりの約束」
『宣告された終わりで終わらない』
僕達が立てた初めの目的。初めての目標。つまり戯れで、『生』にしがみついてみるのだと。
「……覚えています」
「そのあと、僕の前で北条に宣言した内容」
『私が生きても死んでも、こちらから一郎さんの手を離すつもりはありません』
赤面しながらの宣誓。一興への積極的参加。つまり戯れだから、『生』にしがみついてみせるのだと。
「覚えて……います」
「病室で一本杉を見せられた僕の放った言葉」
『僕がいる限り、キミには生きてもらう。いわばそういう運命だ』
すぐにぼやけた妄言。本物のような偽物。つまり戯れだろうと、『生』にしがみつかせるのだと。
「覚えています」
「語られた夢への僕なりの答え」
『僕はキミに──途方もなく幸せになってほしい』
つまり断じて戯れなどではなく、心から『幸』を望むのだと。
乱暴に掴まれたフェンスが悲鳴をあげる。
「覚えています! 全部覚えていますッ! 忘れるわけ──忘れられるわけないじゃないですか!」
死にたガ―ルは僕を見ない。だから声を荒げているその表情が見えない。
「私にとって一郎さんは……一郎さんと過ごした短い時間は……それまでのどんなに長かった時間よりも有意義で、かけがえのない──生きた時間でした!」
もう一度鉄が鳴き、小さな手でそれを握る力がより強く。
「楽しすぎた……束の間でした」
そして間もなく──静かに解かれた。
「……だからもう…………お願いですから死なせてください」
嘆願。導き出した人生という名の方程式が持つ解を仮定から結論にすべく……願い、請われた。嘆くように。
「勝手だな。二人で決めたことを、一人で一方的に全て破ろうとしている」
「……はい。でも、もう決めました。私はここから──飛び降ります」
「それは一切を無に帰し戻れなくなる選択だ。後悔はないのかい?」
「……決めたんです。ハッキリ」
断言する華奢な身体は僅かに震えていた。……ホントは、揺らいでいるんだろうな。出した答えに、心がまだ迷っている。
後悔がないかなんて、わかるわけない。未来が見えないから。僕という存在が見えなくしているから。それでも────彼女は決めたんだ。
「……そっか。やっぱりそれが、キミの『答え』か」
だったら僕も示そう。絶対に最高じゃない、たぶん最低寄りの『答え』を。
「それなら──お喋りはここまでだ」
タン、と。注意されるよりも先に境界線をよじ登り、飛び越える。そしてギリギリ両足を縦にして直立できる程度の細い足場へ着地。それまで”あちら側”だった世界を”こちら側”に変革する。
「一郎さん、なにを……」
慌てて距離をとろうとする死にたガ―ルに、僕は己の意志を吐露した。
「思えば全部、勝手だ。キミも、僕も。勝手に決めて、勝手に戸惑って。相手の瞳には自分を投映させるくせに、自分のそれには相手をまるで存在させない。映すのは、常に相手の姿をした鏡」
結局、彼女に幸せになってほしい理由は、その望みを叶えて僕が幸せになりたいから。キミもそうだろう? 死にたガ―ル。死にたいと呟く一方で、まだ生きる希望を捨てたくはなかった。だからキミを死なせないよう動く僕に依存した。みんな自分本位で生きている。そして僕はそれを否定しない。
「けれどたぶん『生きている』っていうのはそういうことなんだと、今はなんとなく思うよ」
むしろ自分のために生きられないなら、他人のために生きているつもりなら、それはきっと本当の意味で『生きている』とは言えないのだろう。
「とにもかくにも、一ヶ月近くに及んだ一回きりの人生ゲ―ム──どうやら僕の負けらしい」
……ならば終幕くらい、”自分本位で生きない選択”も悪くない。
「けれどべつに悔しくはないんだ。負け惜しみに聞こえるかもしれないけれど、一区切りついたおかげで腹を括れたよ」
──否。
「──キミが飛び降りると言うのなら、僕もそのゴ―ルへ一緒に向かおう」
“他人本位で死んでみる選択”も────悪くない。
『別段生きたくない僕は、死にたい彼女になにがしてやれるだろう?』 これが探っていた──その自問に対する答え。要は意向の従属だった。人任せ? 尤もだ。けれど。それでも。これが僕の────『答え』。
彼女の望みを叶えることで、結果僕は満たされる。だから──。
『死にたいなら一緒に死んでやる』
死にたガ―ルは暫時仰天の様相を表情に浮かべ、そしてやがて眉をひそめた。
「そんなことを言えば、私が臆して死ぬのをやめると思いましたか?」
──ここ一ヶ月足らずで彼女も、よくもまあこんなに捻くれたものだ。
「べつに。脅しているつもりは毛頭ないさ」
「ならどうして?」
「……どうにもキミは、僕の思考回路を複雑に思い過ぎている。簡単なことさ。『死にたいから死ぬ』。理由はこれだけ」
「簡単なわけないです!」
遠くの山から病院敷地のアスファルトまで視線を引き下げ、頭からいけばちゃんと死ねそうだな、などと冷静に考察していたところへまたも一喝。
「死ぬのが簡単だなんて、そんなこと! 簡単に死ねるだなんて、そんなわけ!」
出てこない言葉を噛み潰し、彼女は僕を睨む。
「一郎さんには、死ぬのがどういうことなのか──ちっともわかっていません!」
「ならキミにはわかっているのかい?」
「それは……!」
言葉が続くことはない。続くはずがない。
「生きることがどういうことかとか、死ぬのがどういうことかとか、成人すらしていない僕らに定義付けることなんかできやしないんだ」
だから言葉を借りよう。僕と似ていた者の言葉を。
「僕らはきっと、”所詮”の世界に”あえて”存在しているに過ぎない」
存在理由(レゾンデ―トル)は人それぞれ。けれどそれらは共通して、”生きるため”にはない。生きたいから理由があるんじゃない。理由があるから生きているんだ。そして。
「キミが死ぬなら、僕にもう生きている理由はない」
「ふざけないでください! 生きていられるのに! 死なずに済むのにわざわざ死を選ぶなんて!」
「みんな死ぬさ。遅かれ早かれ、みんな死ぬよ、平等に。それを虚しいことだと思ったこともあったけど、今も思っているけど──突き詰めれば生きていることだって、同じく虚しいことだ」
「そんなのは一時の迷いです! 昔に戻ってください。一郎さんがここに来たときより前へ。その頃だって、一郎さんは生きていました。生きる理由なんて、私以外にもいくらだって見出だすことができるはずです!」
「生きる理由はなくなった。けれど死ぬ理由は見つかった。僕にはそれでいい」
それで──いい。
どっちが正しいとかはない。生も死もただの選択肢。……いや、あるいは違うのか。『答え』を見つけるために生き、それを示すために死ぬ。そういう考え方もありかもしれない。だったら生きている限り、僕らは延々迷い続けていることになるわけだ。ならば人は──『いつか自ら死ぬために生きている』ようなものじゃないか。
「僕はここで自分の一生に決着をつける。『好きな人のために生き、恋した人のために死んだ』。速水一郎の物語は、ここで大団円のエピロ―グだ」
当人が果てしなく充足していて幸せなら、どんな形だろうとそれは間違いなくハッピ―エンドだろう。──なあ、神様。
「……やめて……くださいよ……」
隣で聴こえる、掠れて消えてしまいそうなほど弱々しい声。
「私は死にたいのに、その行為が一郎さんを巻き添えにしてしまうと知ってしまったら……死にたくても死ねません……」
「……」
『だったら生きればいい』なんて、軽々しいことはもう言わない。
「一郎さんが死にたくても、私は一郎さんに生きていてほしいんです! どうしても。どうしようもなく。だから……」
だから。その先に待つ願いはわかっていた。
だから────僕は先に彼女の唇を塞ぐ。
「一緒に────幸せになろう」
人差し指の力は強大だった。
そこでようやく気がつく。いったいいつからだ?いつからそうだった?
「うぐっ……えぐっ……」
────死にたガ―ルが、泣いていた。瞳に溜まり流れ落ちるは感情の雫。ポタポタと。ポタポタと。足下へ落ちる濁りのない潤い。
「死にたガ―ル……」
困らせているのはわかっていたし、こんな状況だ。大抵のことなら動じずにいられるつもりだった。けれど、潤んでいるとかじゃない。初めて目にした、本物の滴り落ちる涙に────心が揺れる。この涙は僕のせいだ。そして彼女は──僕のために泣いているんだ。僕のことを思って──泣いているんだ。
「……一郎、さん……生きて、ください……! お願いしますから……生きてください……」
嗚咽を漏らし、ついに死にたガ―ルはその場で泣き崩れた。
「……ッ」
胸が、締め付けられる。苦しい。苦しい。
僕はここへ死にに来たんだ。キミと一緒に、死ぬことを決めたんだ。だから……頼むから……!
────僕にこれ以上『生きてくれ』なんて……言わないでくれよ……。
どうしてこうも上手くいかない? どうしてこうも僕らは生殺される? いつの間にか立場も逆転しているし。
死にたい僕を、必死に否定する死にたがり。辛くないわけないじゃないか。一人孤独に死を迎えること。怖くないわけないじゃないか。だから僕がいつでも一緒に死んでやるのに……!
「僕は……死ぬんだ」
「嫌です!!」
嫌って、そんな感情論。そんな反則。そんなのがありなら──。
「僕だって…………」
キミのいない世界なんて……嫌だよ。
「…………」
僕はべつに生きたくない。でも彼女がそれを真に望むなら、たぶん生きられる。生きたいと思える。死にたガ―ルを幸せにすることこそが──僕の幸せだから。だからそれを彼女が望むなら、僕は彼女の幸せのために生きられる。
──だけど、ならその後の僕はどうなる? キミはどうなる?
死にたガ―ルの幸せが僕の生だけなら。僕が生きることだけが願いなら。叶えるのは簡単だ。けれど……違うだろう。違うだろうが。
「キミは”僕と生きる”から幸せなんじゃないのか! 僕が”キミと死ぬ”からこそ幸せなように!」
なあ、そうだろう!
「私、は…………」
「嫌なんだよ! なんでどっちかが欠けなくちゃ結末に向かえないッ!?」
そんなの、絶対にバッドエンドじゃないか。
「僕は……キミと幸せになりたいんだ! キミじゃなきゃダメなんだ!!」
「……!!」
こんなにも声を荒げたのはいつ以来だろう?窮屈な胸の内から出てきた言葉。心の底から出てきた言葉。これもまた──これこそが真実の────『答え』だった。
「そんなに僕に生きてほしいなら! もし並行して僕の充足を望むなら──!」
たどり着いた本当。故にもう決してこの意志が、要求が、思いが願いが夢が、あるべき重さを失うことはない。
「僕と生きろ! 清水翠!!」
覆ることは────ない。
彼女の長い黒髪が、風に吹かれ静かに踊る。
永遠のような、束の間のような。流れた長くも短くもあった沈黙。それが────終わりを告げる。
「私は……」
彼女が立ち上がる。瞳に紛れもない僕が映っている。僕の瞳には他でもない彼女が映っていた。
ゆっくりと、しかし確実に、互いの距離はなくなっていった。彼女が、歩いてくる。僕はただ、待つ。
この世界はどこまでも広がっているよう。それでもどこかに終わりがあるんだ。
『人は死ぬために生きている』
ああそうだ。そして──。
『人は幸せになるために人を死なせない』
僕は彼女がいる世界ならば、まだ生きていたい。だから心から彼女に『生きろ』と伝えられる。双方相手の生を願えるならば、僕らはまだ生きられる。死ぬにはまだ──早かった。
死ぬしか幸せになれないと悟るには──早かった。互いに互いを思いやれている。その結果こそが幸せ。『生きろ』と『生きろ』が『生きる幸せ』へと繋がる。
「一郎さん……」
そうしてきっと僕らは今日も明日もその先も──。
「私は…………」
──死を見つめながら生きていく。
未来へ繋がる内々の独白。──否。繋がるかに思えた究極の勘違い。
結局、『未来』なんてそんなものありはしなくて。『今』がただただ動いているだけで。僕は明日を見て、今日を見た気になっていた。そんな僕の目の前で、瞬間が────変動する。
「私は…………!」
良くも悪くも、物事が小さな奇跡の連続で成り立っているとして。彼女はあまりにも……その比率が偏りすぎていた。
突風が、全てを拐う。
それはまさしく読んで字の如く突然の一陣。通り過ぎていく風から吹きつける風へと。運命を分けたのは──姿勢だった。たった──それだけだった。歩いていた彼女。止まっていた僕。両足を地につけていた僕。片足を浮かせていた彼女。
「わた──」
彼女の────バランスが────崩れた。
目の前で、目前で、眼前で、ゆっくり、なだらかに、彼女の、身体が、傾く。呆気に取られたなんて、言葉にするのもバカバカしい。互いに、ずれていく互いを、最後まで、見ていた。
スロ―モ―ションになった世界。残酷な”時”が、最期の傍観者たるべく歩みを止める。
『早く死にたいなぁ』
『今日からキミは僕の恋人だ!』
『私はありもしない希望を願えません』
『僕が彼女にとっての生ある希望になってやるのだ』
『私は────彼女を一人から救い出してやりたかった』
『恋、とか。あるいは愛。または慈しみ』
『おまえに託したんだ。あいつの未来を』
『いつまでたっても誰かが死ぬのは悲しくて、悔しくて…………涙が出るんだ』
『どうしてあんたは翠ちゃんを生かそうとするの?』
『一郎くんはこの世界の主人公さ』
『おまえだけが────翠を救えるんだ』
『わからないんです。自分が死にたいかどうか』
『なにが幸せかなんて、あいつにしか決められない』
『あらゆる偶然が、あらゆる必然が、彼女を殺そうとする』
『私が死にたいと口にしたら、一郎さんは今でもまだ私を生かそうとしてくれますか? 運命に飲み込まれそうになったとき、その波を掻き分け手を差し伸べてくれますか?』
『翠ちゃんは運命に嫌われた子なんだ』
『偶然も、必然も、運命さえ、全てに道を開けさせろ!』
────『そんな運命、この僕が反逆してやる』
終わりへとたどり着いた物語──その巻末で、言葉にならなかった叫びがたしかに聞こえた。世界に飲み込まれていく彼女の手が────僕を求めて伸ばされる。それだけで、僕のするべきことは決まる。
使命じゃなくて。拘りじゃなくて。無我夢中。無心の能動。その手を掴んでやりたかった。だから────掴まないわけにはいかなかった。
「死にたガ―ル!!」
右手を伸ばす。ただ、伸ばす。
失いたくない。
失わせたくない。
失うわけにはいかない。
失わない。
なくしてたまるかよ!!
落ちていく──死に行く彼女。それを追う生の綱。両者の間はだんだん狭まり、そして──互いに密接に絡み合う。
と、同時。僕はあまりに強大過ぎる死に吸い込まれる。引っ張られ、重心を傾ける身体。地を離れる足。
「一郎さん!!」
──僕は死なない。まだ──死ぬわけにはいかないんだ!! だから、彼女に襲いかかる災厄よ……全てこの僕にひれ伏せ! 僕の進む道は──彼女の進む道は────二人で決める!
「らあっ!!」
伸ばした左手が、破かれていた境界線を握る。上で大きな悲鳴をあげるフェンス。そして──落下が止まった。
広すぎる世界の片隅で、二つの命が不安定にぶら下がる。許容を越えた不可によって震える左腕。傷跡を広げていく命綱の根元。
「一郎さん!? そんな!!」
「僕のことはいいから! 言うんだ! さっき言えなかった言葉をッ!」
真昼の屋上。世俗から解き放たれたような空間で、放たれた声はよく響く。
「私のことなんていいですから! このままだと一郎さんまで──!」
「言ってくれ!!」
彼女の願い。それ次第で、僕はどんなふうにもがんばれる。
「キミはこの世界でどうしたい!? 僕と──どうしたいんだ!?」
だから、まだ持ってくれよ。左手も、右手も。
「私は……!」
下を見る余裕はない。けれどこの重みが、伝わる温もりが、まだそこに命が繋がれていることを教えてくれる。
「私は、一郎さんと……!」
変われ、運命。
変われ、世界。
続け──日常。
僕は彼女と、
「一郎さんと……ッ!」
彼女と一緒にまだもう少しだけ──。
「私は一郎さんと────もっと生きたいですっ!!」
────生きてみたい。
「メメントモリ!」
苦しいのに、辛いのに、自然と顔が綻ぶのを感じながら僕は叫ぶ。
「僕らはどうせいつか死ぬ。だから現在(いま)を楽しめ──翠! 『死にたい』じゃない。『生きてよかった』と言わせてやる。『死にたくない』じゃない。『死さえも幸せだった』と言わせてやる」
「はい……」
そして僕にも言わせてくれ。
「だから今は僕に救われろ! この世界には──まだ置き去りにした幸福が多すぎる!」
「はい……ッ!」
そしてキミも歌ってくれ。世界を愛する人生賛歌。
「僕らの人生は、きっとまだまだ捨てたもんじゃない!」
「はい……ッ!!」
──そうだ。これがそうだ。底抜けに相手の幸せを願うこと。これが本当の──恋。そして相手のいる世界が尊いものだと知ること。これが本当の────愛。両者は同一。二つで一つ。
“相手を恋しく思い、世界を慈しむ────それが『だれかを愛する』ということだ”
「────僕はキミが大好きだ!!」
「────はい!!」
命題は、これで全て────証明終了(QED)。
「ぐっ……!」
奥歯を噛み締め、込み上げてくる痛みに耐える。僕には僕の手を掴む彼女を上まで放り投げてやる力はない。だからって落ちてやる気だって毛頭ない。最後まで運命に抗ってやる。けれどもし願っていいなら。ありもしない可能性を期待していいなら。
──あの人さえ来てくれれば。
「一郎さん!」
「僕らは……生きるんだ!」
フェンスが次第に悲鳴の音量を上げていく。接合部が、千切れようとしていた。
「僕らは生きるんだッ!!」
もう一度、溢れ出す望みを叫びに変えて、あの青々とした天空へ。
──頼む、いるんだろ? 神様。こんなところで……僕らの物語を終わりにしないでくれ。終わりに……しないでくれ。
寿命を削っていく命綱。
「聞こえてるんだろッ! 神様!」
それが先に限界へと達し、ついに──。
「聴いてるんだろうがッ!!」
────切れた。
恋人の命を背負った身体が、天から見放された無様なあまのじゃくが、今──落ちていく。
「聴こえているさ」
パチンと、なにかが弾かれる音。日の光を遮り、伸ばした手を掴む人間が一人。落下を止めた僕らの横を、青いメガネが落ちていく。
普段だらしない、白衣を纏うその男の顔はしかし初めて見せる真剣そのもので。無駄に端整な顔立ちの医者が、ピエロの仮面を脱いだ素顔の男が──そこにはいた。
「尤も、反応したのは不吉の神だけどね」
ぐい、と。まるでなにか人間を超越したかのような力に引っ張られ、僕らは鞘真によって屋上まで戻された。その、あまりに容易く行われた救助に、皮肉と疑問が同時に湧く。
「……腕一つで人間二人を持ち上げられる人なんて、せいぜいマッチョさんくらいだと思っていたんだがな」
「おいおい、感謝の言葉より先にそれかい? まっ、いいけどさ」
たしかこいつはここへ来られない”設定”だったはずなんだけど。
答えの出るはずもないそんな思考を止めたのは、
「っうおっと!」
背後からのタックルに近い──包容だった。艶のある長い黒髪が僕の胸に触り、心地好い温もりが背中から伝わる。心臓が動いているのが──伝わる。
「一郎……さん……っ!」
それ以上の言葉はいらなかった。僕は回された手をギュッと握り、互いが未だ打ち鳴らしている命の拍動に歓喜する。
「……ああ。僕らはまだ──生きている」
僕らはまだ生きていた。
僕らはまだ生きられる。
その現実が……堪らなく嬉しくて、愛おしい。
世界はまだ僕らを必要としている。僕らはまだ世界を必要としている。
────生きている。
「はぁ……柄にもないことしちゃったなあ」
鞘真が遠くの空を眺めながら呟く。
「後悔はないけどね」
そう言って顔を引き締めたかと思えば、
「──なんて」
二秒も待たずに揺らぐ意志。
「あ―あ―、ダメだダメだ。思うように動いてみたところで、結局過去も迷いも消えないし、後ろめたさが果てしなく尾を引くや」
こいつはこいつでなにかと葛藤し、悩んだ末にここへ来た。来れた。不明が降ろした闇の中で、見えている真実が一つ。
鞘真も──答えたんだ。白紙のまま放置していた答案用紙に、自分なりの正解を記したんだ。たぶん、おそらく、絶対に。メガネと一緒に剥がれ落ちていた仮面がなによりの証拠。
だから今僕の目の前にいるのが本当の──鞘真次良。
──なんだ、ちゃんと笑えるじゃないか。例えおまえの回答が間違いだったとしても、人として、その表情だけは間違いなく正しいと、僕が誰よりも大きな声で言い張ってやるよ。
「まっ、後先を憂うのはとりあえずこの辺にしておいて──翠ちゃん。医者として一応、改めて聞いておくよ。────覚悟は、決まったかい?」
投げられた質問。後ろの死にたガ―ル────”元”死にたガ―ルは、しっかり鞘真の顔を見て、言った。
「私は────手術を受けます! 痛くても、辛くても、この世にはそれに見合う──いいえ。それ以上の幸せがありました。一郎さんがいることだけで生きる理由には十分過ぎる。そのことに、ようやく気づけました」
「……そっか。ならすぐに準備するからちょっと待っててね」
「はい」
「…………翠ちゃんは、生きたいかい?」
「……はい、とっても」
「…………うん。わかった。今日の手術、がん、ばるから」
妙に歯切れの悪い意志表明を最後に、屋上から下りるべく院内へと続く扉を開ける鞘真。僕はその背へ、まだ伝えていなかった思いを届ける。
「ありがとう、奇天烈ドクタ―」
天空を見上げ、残された”無味なる感想”が一つ。
「…………空が────青いや」
────こうして、爆ぜた日常は少しだけ色を変え再び形になった。
そうやって、僕は、僕らは、ちょっとずつ世界の真理を紐解いていく。
『愛』を知り、『生きる』を知り、次に知るのはなんだろう?
虚無の中に価値を見出だした二人の人生は、一先ずまだ──続いている。
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