たった一つの最高な答え

 なにを隠そう、クリスマスイブだった。院内の雰囲気はあまり変わらないけれど。

「クッリスゥ―マス―。クッリス―マスぅ―。ワクワク」

「は、明日なんだけどね」

 ご機嫌なところに水を差してみる。しかし僕の一歩後ろを歩く死にたガ―ルの陽気さは変わらなかった。

「二日共クリスマスだと思えば、どちらも等しくハッピ―です」

「それもそうだ」

 だとすると、サンタクロ―スも分業できてちょっとは楽になるかもな。

「ビックリ。てっきり反論されるかと思いました」

「いいと思うよ。そういう考え方も」

「……なにかありましたか? ナゾナゾ」

「日常を重ねてきただけさ」

 そして──ゼロからゼロへと成長しただけさ。

「で、今日の獲物はどんな感じなんだい?」

 即ちわらび餅。なんでもクリスマス限定品が入荷しているらしいということだけは聞かされているものの、ここの売店に並んでいる品は十人十色ならぬ十個十色だからな。驚かないよう、情報は多いほうがいい。

「私もアリスさんに聞いただけで詳しくは知らないのですが」

 訝しそうにこちらを見つめる彼女に問うと、あっさり意識は勘繰りから語りへと傾く。

「なんでも、冬限定バ―ジョンの真っ白なわらび餅の上から、さらに美しい雪を模して真っ白なきな粉を振りかけた、それはもうわらび餅にはうるさい人すら黙らせる純白の、目にも舌にもおいしい絶品らしいです! ソワソワ」

 うるさいといってもそれは常に感嘆で、キミがわらび餅を批判しているところなんて見たことがないんだけど。と、脳内ツッコミをかましたところで、

「到着」

 だ。

 それまで足の悪い僕のことを気遣ってか、ずっと後ろからついてくる有様を崩さなかった死にたガ―ル。

「いってきます!」

 ついに和菓子コ―ナ―へと駆けていった。で、すぐに数パックを抱えて戻ってくる。

「白いものが丸くて透明なつやが雪でわらびがかまくらの限定──」

「わかった。物珍しいんだね。その話はあとで聞くから、とりあえず会計してくるよ」

 どぉどぉどぉ。無垢に興奮している彼女を宥め、レジへ──いこうとしたところで、幾分落ち着きを取り戻した彼女が口を開いた。

「あ、あの、一郎さん。さすがに毎回お金を出してもらうのは申し訳ないというか……」

「気にしなくていいよ。これは僕がそうしたいと望んでいる、ただの自己満足の行為だから」

 死を否定するため、マッチョさんから奪った善意。思いは変わってしまったかもしれないけれど、だからって形まで変わることはない。『勝利するためのわらび餅』が、『幸せを願うわらび餅』になった。ただ、それだけのこと。

 結局いつものようにレジ袋を彼女に渡し、僕らは一緒に帰路に着く。『人生』についてそこはかとなく考えながら。

(……べつに生きたくない僕は、死にたくても死にたくなくてもこのままでは死んでしまう彼女に、いったいなにができる?)

 昔というには最近すぎる頃ならば、無遠慮な希望の言葉を投げていた。投げられていた。だけど、もう無理だ。自分に願えないことを他人に願うよう求めるなんて道理に合わないこと……気づいてしまった今はもうできない。でも彼女には──やっぱり幸せになってほしい。

 本心を曲げずにまっすぐ願望を通す方法。生を望んでいない僕が、死を望む彼女にしてやれること。それは…………。

「──ねぇ聞いた? 清水翠ちゃんのこと」

 そんな声が聞こえてきたのはとある曲がり角近く。

 ドクン、と。一際大きく鼓動する心臓。なぜだろう? これより先を──聞いてはいけない気がした。なのに。身体はまるで釘で打ち付けられたかのように動かない。

「ああ、聞いた聞いた」

 彼女を見る。彼女もまた、ピタリと固まり動こうとしない。まるで時が止まってしまったような。進んでいた時計の針が壊れてしまったような。比喩することでしか表せない、得も言われぬ不可逆の停止。

「かわいそうに。今までは発見されてなかった腫瘍が見つかったんでしょ。今すぐにでも除去しないと危険なほどの」

 ────やめろ。

「でもその手術をすると、身体には絶大な負荷がかかる。痛みも相当だろうし、他にもいろいろ……ね」

 ──やめろ。

「どうしてあの子ばっかり……それで生きられるわけでもないのに」

 やめてくれ。

「こんなこと言うのもあれだけど、さ。そんな塗炭の苦しみを舐めるくらいなら……いっそ────」

 やめて……くれよ。でないと、偽りの平和でさえ──。

「死んだほうが……何倍も楽よね」

 ──壊れた。────繰り返してきた日常が────今、爆ぜた。

 切り離された時の流れに僕を引き戻したのは、すぐ近くで聞こえた落下音。次いで、床が強く蹴られる。

 ──死にたガ―ルが、走っていく。

「待て死にたガ―ル!!」

 制止を振り切り、彼女は道筋にあった階段を駆け上っていく。そして間もなく────僕の視界から姿を消した。交錯した瞬間だけ見えた顔に浮かんでいたのは──圧倒的焦燥。悲観でも達観でもなく、ただただ焦りだけが彼女を支配していた。

 騒ぎに勘づいたらしい二人のナ―スが驚いたように顔を覗かせる。突然の事態に半ば錯乱しつつも、刹那で引き起こされた出来事を荒い語気で伝える。話を聞いたナ―ス達は、己の犯してしまった失態に顔を青くする。それぞれが皆、冷静さを欠いていた。

「止めないと……!」

 それでも、死にたガ―ルがなぜ走ったかくらいは予想できた。なぜ走ってしまったかくらいは想像できた。

 ────死ぬつもりだ。直感が、僕にそう教えていた。

 自分がいずれ命を落とすこと──知っていただろう。自分の容態がいずれ悪化すること──知っていただろう。だからって…………怖くならない理由にはならない。唐突に、なんの前触れもなく宣告された絶望。枯れ果てた望みの上から、さらに運命を決定づけるべく塗りたくられた絶対的最悪。突き付けられた揺るぎない現実。怖くならない……わけないよな。

 だけど……止めないと。

「二人は彼女を探してくれ! 僕はマッチョさん達を呼んでくる!」

 指示の一声で、まとまった集団が一斉にバラけた。

 ──病院内がざわついてくるのがわかる。だがその騒がしさに反して、僕の歩みはゆっくりだ。急いではいる。全力で。全速力で。けれど、遅い。自分のできることのちっぽけさに虚しくなる。悔しくなる。両方の杖を前に出してから、同じラインに左足を進め、そこへ右足を持ってくることでようやく一歩。足の不自由な僕には、助けを呼ぶことしかできない。この足で、”死”に飲み込まれそうになっている死にたガ―ルを追いかけてやることもできない。ならばせめて…………『無能』にだけはしないでくれ! そう願って開けた診察室には、イスに座ってコ―ヒ―を啜る鞘真と、マッチョさんがいた。

「おや一郎、ずいぶんと慌てた様子だが?」

「死にたガ―ルが──!」

 僕は事の次第を説明した。精一杯、努めて、冷静に。そして、最後に要望を。

「頼む! 一緒に彼女を探してくれッ!」

 二人の表情が歴然と険しくなっていた。普段へらへら笑っている鞘真でさえ、その憎たらしい笑みを今は消している。────が、それだけ。

「……ついに、そのときかい」

 ありとあらゆる無念を、憎悪を、イコ―ルで繋いで体現したような顔で呟くマッチョさんから次に溢された言葉は、しかしどこか反攻の意を失っていた。

「……だから私は……この世界が嫌いなんだ」

 言っている間に動くことをしてくれない。『なにもできないからなにもしないのは最悪だ』と断言した彼女さえ。

「頼むから早く──」

「アリスさん。一応言っておくけど──」

「言わなくていい! 全部……なにもかも知っている」

 急かそうとした僕の声を遮った鞘真の声をさらに遮り、マッチョさんはゆっくりこちらへと歩いてくる。

「一郎……なにが起こったかは把握した。私もおまえと同感だ。翠は────死のうとしている。よく考えもせず、発作的にな」

 だったら、と返す前に彼女は僕を追い越し、開いた扉の前に。そしてそれを──閉めた。

 なにをしているのかわからなかった。なぜそんなことをしているのかわからなかった。それは僕がこんな切迫した状況にも関わらず、たぶん打算的に動いていたから。二人は医療関係者だ。この病院に勤めているナ―スと医者だ。例え死ぬほうが楽だろうと、助けることが叶わなかろうと、命を繋ぎ止めることに全力を注ぐべき立場の人間だ。だから必ず協力してくれると──なくなりそうな命を一目散に追って現身へ引っ張り戻そうとしてくれると──どこかで確信していたんだ。

 だからこそ、思いもしなかった。

「……だが、私達は翠を追えない」

 それが最悪の結果で打破されることなど。

「同様に、一郎……おまえにも翠は追わせない」

 マッチョさんが閉まった扉の──死にたガ―ルの下へと繋がる道の前に立ち塞がった。

 ふざけるなよ。それが一番に浮かんだ言葉。けれどあまりに常識を逸脱した展開に、咄嗟の叱責が口から出てこない。

「少し、荒唐無稽な話をしよう」

「惚けた空想より目の前の現実だ!」

 一拍遅れて、ようやく捻り出せた尤も。しかし当然であるはずの意見が、この診察室という限定された空間では当たり前の様相を呈(てい)さない。

「いいから聞け。そう時間はかからない」

 構わず扉を開けようと試みるが、マッチョさんの高圧的対応の前で、僕は際限なく無力。故に結局、僕はその”荒唐無稽な話”とやらを否が応でも聞かされた。

「まずおまえが指示した二人だが、そいつらが翠のところまで辿り着くことはない。それぞれ大きな自責に苛まれながら走っていることだろう。それでも、絶対に翠を見つけることはできないんだ。なぜなら”ここ”ではあらゆる偶然必然が、両者の遭遇を阻み、邪魔をする」

 鞘真も同じようなことを言っていた。『あらゆる偶然必然が死にたガ―ルを殺す』と。僕も彼女も見ることなく。ただ憐憫を孕んだ群青色の空を眺めて。

「そして繰り返すが、私達も、同じく北条も、自ら死ぬことを決めた翠を追うことはできない。……狂おしいほど追いたくてもな」

 末尾につけた感情は行動と結びつかない。けれど取ってつけた偽りでないことくらい、今日まで縁深く接してきて気づかないはずはなかった。だからこそ、この状況の理解に苦しむ。

「──だが一郎、おまえだけは違う。おまえだけは全ての偶然必然をかなぐり捨て、”その先にあるもの”を手にすることができる可能性を秘めている。おまえだけが────翠を救えるんだ」

「なんたって、一郎くんはこの物語の主人公だからね」

 鞘真の冷やかしたような言動が、マッチョさんの語る不思議話に終わりをもたらした。

「要は、そういうことだ。あの華奢な身には到底負えない『負』に蹂躙され、侵されている翠。そこに干渉できるのは他でもない──おまえだけなんだよ、一郎」

「……それを信じろと?」

「信じなくてもいい。あまのじゃくとして否定してもいい。だが……頼んでもいいなら、信じてくれ。なんでもできるのになにもしないのは……最悪の最悪だからさ」

 あの鈍色に覆われた世界の下で、雨に降られながら語られたことを思い出す。『神も悪魔も信じろ』。ついでにでたらめで現実味のない、寝覚めが悪いであろう夢物語も認めろってか。……バカバカしい。僕はそれを否定する。

 ──さらに、そんな僕を否定する。そして一週回って肯定しておいてやるさ。でも、

「その言説は矛盾している」

 現実と幻想が噛み合わない。

「僕しか彼女を追えないのに──なぜそこを退いてくれない?」

 神も悪魔もファンタジ―も、いいさ。なんでもありだ。僕にしか死を選んだ死にたガ―ルに言葉を届けられないという”設定”ならば、僕はその使命を果たすべく彼女の下を目指そう。なのに……なぜそれを、よりによってあなたが邪魔をする? 誰よりもまっすぐに、彼女の生を願っていたはずのあなたが。

「……ここまでの話は、私が”語るべくして語った”に過ぎない。そしてここから私は私として──『高城アリスとして速水一郎に』話す」

 両者がハッキリ違うことを明確にした上で、マッチョさんは続ける。

「翠は自分で『死』を選んだ。今までの、漠然とした願望に留まっているあいつじゃなくなった。そのほうが『幸せ』であると判断し、自らの思う幸福を選択したんだ。答えたんだ。その決心を、決意を、単なるあまのじゃくで覆そうというなら、私はそれを断固認めるわけにはいかない」

 それはなるほど先程までとは違っていて、矛盾なく、偽りなく、曲折なく。直線上で対峙した、紛れもないマッチョさんが僕に向けて言っていた。

「だから……おまえの『答え』を聞かせろ、一郎。おまえはここで命と向き合い、どう変わった?」

 どう変わった? 僕はきっと本質的にはなにも変わっちゃいない。ただ真の自分を知っただけだ。

「昔おまえは言ったぞ。『あまのじゃくとして翠を救う』と。なら、今はどうだ? 今、私の目の前にいるのは誰だ?」

 僕は『死』も『生』も望んじゃいない。だから彼女の『生』を願えない…………あれ? だったらどうして今僕はこうやって奔走して、必死に死にたガ―ルが選んだ『死』に歯向かおうとしてるんだ? おこがましい。道理上、道義上、そんなことできないはずなのに。してはいけないはずなのに。

「今、清水翠のために走ろうとしているのは誰だ!? 答えろ! 速水 一郎ッ!」

 ────知ったことか、そんな理屈。

「──決まっているじゃないか」

 人として──するべきではない。あまのじゃくとして──こうすべきだ。

 ……もう、いい。もういいよ。ああでもないこうでもないと右往左往。なにを僕はうだうだといつまでも。思えば答えなんて、あの夜北条に向けてとっくに発信していたじゃないか。理論も理屈も倫理も道理も理知も理想も空想も、常識も。全部が全部、くだらない。

 ──決まっているじゃないか。

「ここにいるのは他でもない────人間、速水 一郎だ」

 文句は言わせない。ここにいるのはあまのじゃくでニヒリズムな性格をした人間──速水一郎だ! だから──。

「僕は速水一郎として、大事な人の幸せを追求するべく後を追う! だからそこを退けッ!」

『死にたガ―ルに幸せになってほしいから』

 行動する理由としてこれ以外になにがいる? これ以上のなにがある?

 なぜ追わなければいけないか。一人で死のうとしているからだ。そんなの……寂しいに決まっているじゃないか。一人で死なれたりしたら……悲しいじゃないか。

「『僕は僕が幸せになるために彼女の幸せを願う』。これが僕の『結論』だ!」

 ──見つけた。僕の『答え』。一度見つけたら、もう絶対に──なくさない。

 暫時の沈黙。そして響いたのは豪快な笑い声だった。

「ククッ……ハァ―ッハッハッハッ!! これはいい。一流に捻くれたおまえらしい、じつに素直な回答だ!」

 もはや表情にそれまでの憂さはない。愉快痛快が溌剌と浮かんでいる。

「──いいだろう。おまえなりのフィナ―レを飾ってきな!」

 そして壁は壁でなくなった。眼前には幸せへと続く扉。

「頑張ってきなよ、一郎くん」

 鞘真の激励が背から。

「鞘真──たしかに僕とおまえは至極似ていた。悔しいがそれは事実だ」

「おっ、認めちゃうんだ」

「だが、もう違う。なぜなら僕は僕だけの、決してぶれない”真”を手にした」

「そうだね。謙遜なく、今の一郎くんは輝いて見えるよ」

「宙ぶらりんなおまえもそろそろ、ピエロの仮面を脱いで実直に空を眺めて見たらどうだ? 映る世界が変わるかもしれないぞ」

「……考えておこうかな」

 扉を開けながら、マッチョさんが言う。

「これが最後になるかもしれない。間違っても、後悔だけはするんじゃないよ」

「ああ」

 そして、

「行ってきな!」

「ぐはあぁ―っ!?」

 同じく激励──ただしこちらは背中への強烈な張り手による気合いの注入が僕に行われる。全身の骨がバキバキに折れるかと危惧したが、存外、そんなことはなかった。衝撃で、ギプス包帯は爆発するように外れたけど。

「きっと心のどこかで、翠もおまえが来るのを待ってるはずだ!」

「ああ!」

「偶然も、必然も、運命さえ、全てに道を開けさせろ!」

「行ってくる!」

「最高じゃなくていい。最低でもいい。おまえの答えを示してこい!!」

「任せろマッチョさん!!」

「誰がマッチョさんじゃゴルラアアァァア!!」

「ひいぃ―!!」

 ──僕は逃げるように走った。────走れていた。杖を捨てて両手を振り、両の足で床を蹴って走れていた。理由なんてどうでもいい。神様が魔法をかけてくれたって解釈で十分さ。階段を駆け上がる。駆け上がる。駆け上がる。

 ──待ってろ、死にたガ―ル。キミは僕と交わした約束をことごとく破ろうとしている。ならば破れない新たな誓いを立てるまで。独白にも満たない宣誓を。

 キミの最期──隣にいるのはこの僕だ!


          †


――――一郎は答えを揺るぎない覚悟にして心を括り、一路屋上を目指した。そんな彼を送り出し、すっかり勢いをなくして閑散とした診察室。彷徨う沈黙。互いに相手がなにを思って黙っているのか、考えるまでもなく理解している。知っている。だからこそ、安易なことは言わないし言えない。そして。もうすぐ昼の小休止も終わろうという頃合いになってようやく、口を開いたのは鞘真のほうだった。

「はぁ……はぁはぁはぁだよ」

「生憎、私に欲情されても困るんですが」

本来患者を寝させる簡易ベッドに腰を下ろし、ため息を連発する先輩の顔も見ずに冗談を返す亜理子。

対して、それを軽く笑い飛ばし、鞘真は少しだけ声色を落として、言った。

「禁忌は禁止以上に避けられるから禁忌たりえるんだよね。そんなわけで、僕は”禁則”をあえていつも”タブ―”って呼んでるんだけど」

「知ってますよ。私も先生と組んで長いんだ」

「おいおい先生はやめてくれよ。少なくとも、今は先生としては話してないつもりなんだ」

 薄ら笑い、ティ―カップのコ―ヒ―を軽く一口。熱気で曇ったメガネを外し、なにも介さない肉眼で亜理子を見る。映る表情が、全てを物語っていた。

「後悔はないさね。一縷(いちる)の申し訳なさはあるが」

 “為すべきことを為した。為したいように”。達成感にも似ている晴れ晴れとしたそんな思いがぶれることは──ない。

「簡単に言ってくれるよ。上司として、僕だって怒られるし相応の責任を取らされるんだからね! プンスカ!」

「その喋り方が許されるのは翠だけだ。先生……っと」

 気がつき、訂正。出会った当時の呼び方に。

「”あんた”が言ってもムカつくだけだよ。で、愚痴について返事をするなら、だから申し訳なさを感じてるんだがね。自分が咎められるのは一向に構わないが、他人を巻き込む覚悟はまだだった」

「ったく。どうして美咲ちゃんもアリスさんも易々とタブ―に手を出しちゃうかなぁ。……いや、美咲ちゃんはまだ新米だからわかるよ。でもアリスさんは違うでしょうが」

「今年でちょうど十年」

「ならなんで──」

「本当は、わかってるんだろう?」

 言い換えれば鞘真の下でこの、命を扱う職についてちょうど十年になる亜理子にはとうに見えていた。被った仮面の向こう側にある、ピエロの誠人間らしい素顔が。そしてそれは幻覚などではない。

「……そんなに一郎くんは、キミの心を惹いたかい?」

 自分も”そう”であるからこそ他人の気持ちを察することができる鞘真 次郎は、この上なく人間的である。

返される無言はつまり肯定。この場にいない北条もまた、同じ行動をしたという点から同意である。

双方共、一郎に特別ななにかを感じていたし、抱いていた。

 困ったなあ……。そんなぼやきが溢されて。

「賢人なアリスさんに今更言うまでもないことだろうけど、道理を教えるべき立場の存在として、一応言っとくね」

 曇りの消えたメガネが再びかけられる。

「一人を救うっていう『現実』は、それまでなら”救えなかった人達”だった全員を、”救わなかった人達”っていう『真実』にしちゃうんだ。僕を巻き込む覚悟より、その自責と向き合う覚悟はあるのかい? 罪悪感は…………無力でいるよりずっと辛いよ?」

 命の取捨選択。二人にとって、今を変えるというのはそういうこと。積み重ねてきた長い時間のジェンガブロック。頂点(ここ)に至るまで変えなかった過去を否定し、変えなかった己を否定し、自分のやってきたこと全てが間違いだったと認めて、形になっていたタワ―を自ら進んで崩す。苦行以外のなんであろうか。そして話を蒸し返すなら、それを易々とできる人間など──いるわけがない。

 故にこれが亜理子の出した、悩んで悩んで悩み抜いての『答え』だった。

「真実は、いつも変わらず同じ場所にある。私達がそこから目を逸らして、勝手に現実を見た気になっているだけだ。それに私は罪悪感を背負うより──無力であり続けることのほうが堪えられなかった」

 ただそれだけの、ことだった。

「……そっ、か」

 どこか諦めたように、悟ったように頷く鞘真。

「まっ、答えをはぐらかしている僕よりは、アリスさんも美咲ちゃんも一郎くんも、み―んな立派だし優れているよ」

「なら答えればいい」

「おいおい、僕にまで違背の片棒を担げってかい?」

「──やっぱり。とうに答えなんか出ているじゃないか」

「……あっ……らら」

 具体的にどうしろとまでは言われていない。だからどうするかの部分は本来回答者に起因するはずなのだ。結局、疑問がそのまま願望であり、答えだと。

 自嘲気味の一笑。頭を巡るは思い出の遺物。能動を縛る哀憐の過去が、諦観者でいることを選んだ鞘真に今一度問いかける。

『無力なおまえはまた罪悪を重ねるのか?』

「……僕は無力でいたほうがずっと楽だよ」

 一人で出した結論に、異を唱える縁深き者。

「私ゃあんたの楽そうな顔なんて、あの人との決まりきってた悲恋以来見ちゃいないよ」

「…………」

 その昔──朗らかで、慈しみと優しさでできたような女がいた。笑顔を絶やさず、万人に好かれていた女がいた。完全回復は間近だと、なにも知らない者達には囁かれていた女がいた。ただ一途に一人の男を愛した女がいた。その名前は────。

「永遠を惰性で生きるより、瞬間に本気で存在したほうが──たぶんずっと有意義だ」

「…………もしそうなら、いつまでも『考えておくよ』じゃいられないね」

 しかし、事実は──動かない。

「だけど……それでも絶対レベルで僕は、僕だけは────掟に縛られないといけないやつだから」

 残っていたコ―ヒ―が一気に飲み干される。亜理子の哀れむ言葉だけが、診察室にいつまでも長居していた。

「……まったくあんたは、昔から至極めんどくさいやつだよ」


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