鳥籠のモラトリアム
心地好い晴れ模様だった。この間とは一転。柔らかな陽光が、曇りのない窓から病室へ入ってくる。集中的な豪雨に見舞われたからこそ改めて認識する、日常の何気ない風景。
そういえば、僕らが初めて出会ったあの日も、天候はこんな感じだったような気がする。そこはかとない闇に触れて、そこはかとなくそれを照らす決意をした。まだあれから一ヶ月も経っていないのに、思えば全てが懐かしい。
彼女に関わって、僕も少なからず変わった。
「なあ、死にたガ―ル。藪から棒に聞いてもいいかい?」
死にたガ―ルは起こしたベッドに背中を預けたまま、首だけこちらに向かせて頷く。
「いつだって始まりは、多少藪から棒だと思います」
だんだん、僕の捻くれた話し方が彼女に馴染んできているような。以前マッチョさんが言った通りなのかも。まあとりあえずオ―ケ―ということで。
「前にキミの家は核家族だって聞いたのを覚えているんだけど、どうして見舞いに来ないんだろう?」
「う―ん……そういえばなぜでしょう? ナゾナゾ」
ふむ。やむにやまれぬ事情があるふうでもないし、言葉を選ぶ必要もないらしい。
「両親はいるんだろ?」
「はい。います……と思います」
「?」
断定からの想定。僕はそんな日本語を知らない。
「いや、あのですね、間違いなくお父さんもお母さんもいるんですが、それをどうにも詳しく説明できないというか」
「ふ―ん」
話したくないって感じでもなさそうだ。まっ、聞けないのならべつにそれでいい。所詮取るに足らない雑談だ。
「思えば、一郎さんの親御さんともしばらく会ってません。スッカリ」
たしかに。彼女が僕の親を見たのは、僕がここ標病院へ入院することが決まった当日のみ。まだあの頃は引っ込み思案で、ほとんど両者の会話もなかったのを覚えている。
まあ、とにもかくにも放られた質問に答えるならば、
「僕のところはそういう感じだから」
その一言で事足りるんだけど。
閑話休題。ちょうど一区切りついたということで、残りも聞いておこう。
「藪から棒をもう一本。死にたガ―ルはどんな音楽を聴くんだい?」
音楽鑑賞。ケ―タイ小説読破と並ぶ、彼女が有するもうひとつの趣味。
「音楽ですか……音楽……ジャンルについては詳しくないですが、とりあえず平和なのがいいですね。シットリ」
「ふ―ん、平和……。静かってことかい?」
「いえ、べつに『ドゥバアアァァアア!!』とか叫んでくれてもそれはそれでいいんですけど、やたら無遠慮に送られてくるメッセ―ジはあまり好きじゃありません。『頑張れ』にしても『頑張るな』にしても」
まるで前の僕のことみたいだな。無論彼女に限って、そんな皮肉が込められているはずはないけれど。
「僕は断然ロックだね。荒々しいリズムに乗せて、社会に蔓延る通念的不条理を糾弾してくれる。あまのじゃく心をくすぐるよ」
「一郎さんらしいです。ニンマリ」
……僕らしい、か。一人じゃ導けそうにもない結論。ならば、頼ってみるのも悪くない。
「なあ死にたガ―ル。キミの思う”僕らしさ”ってなんだい?」
やっぱりあまのじゃくなところだろうか? そう付け加えると、彼女はしばし唸りながら考え、その結果を口にした。
「私の思う一郎さんらしさは、”おもしろさ”にあると思います」
「おもしろさ? あまのじゃくでもニヒリストでもなく?」
「はい。仮に一郎さんが明日、今日までの一郎さんと真逆の主張をしたとしても、そこにおもしろさがあればそれはきっと一郎さんです。キッパリ」
「…………」
芸人になったつもりはないんだけどな。
──それでも少し、救われた。マッチョさんに、鞘真に、そしていつかは北条に、否応なく自分を省みさせられる問いを放られて。内心僕は──変わることに怯えていたのかもしれない。救世主気取りで彼女を生かす決意をした。でもそれが最善なのかとか、その行為を本当に望んでいるのは誰だろうとか。公演中の舞台に駆け上がってしまったような。取り返しのつかないところまで踏み込んでからようやく悩み、苛まれ出した僕。馬鹿馬鹿しいくらいに順序が逆だった。そしてそれを正当化するために、もしかしたら僕は限りなく素に近い状態で、宣った自分を演じていた節があったのかもしれない。皮肉にもそれを気づかせてくれたのは死にたガ―ルと、そしてここで重ねてきた時間や経験だった。
「明日といえば、明日はついにクリスマスイブです」
年の暮れを目前にして用意された最後のイベント──クリスマス。なぜその前日をより盛大に祝うのか謎ではあるものの、宗教自体には興味の薄い僕達がいつを楽しもうと些細な勝手か。
「そういえば『その便座、温めますか?』の完結日もクリスマスイブでした。明日が待ち遠しいです。ワクワク」
「……明日」
全てが終わりへと向かっていた。この日常も、おそらく──。
長いような。短いような。永遠に続いていくような束の間を繰り返し、今ここに辿り着いた僕は──原点回帰する。
「僕は……」
本物の『答え』を手にするために。
「一郎さん?」
あまのじゃくでも捻くれ者でもない──他の何者でもない僕は、いったい『命』に対してどうあるのだろう? それを知るため、もう一度聞いておくのも悪くない。
「死にたガ―ル」
「なんでしょう? ハテナ?」
変わった彼女の願望を。
「今でもまだ────死にたいかい?」
言葉に変わらぬ驚きと困惑が、綻んでいた表情を支配し、当たり前の沈黙が真昼の病室に降りた。
『死にたいのかい?』。以前もそう尋ねた。回答が返ってきたのは、僕の沈黙耐性が限界に近づいた頃。
今回の静寂は、きっと前のそれより長かった。けれど僕の方から急かすことはない。より強い耐性がついた? 違う、と断言できる。違っていたのは──角度。現在と過去じゃ、今日と昨日じゃ、命を焦点にした僕の立ち位置が違っている。諸々を知って、諸々を知らされて、そして今──僕はようやく、その命と正面から向き合える場所に立てた。
本来こんなにも、物事と正面から対峙するのは難しいことなんだ。そして目を合わせて離さなければ、沈黙など気にもならない。知識欲の前では、面目などその程度なのだと。要はその程度だったのだと。自戒すら追いつかない。ようやく口を開く決意を、観念を吐露する決心をした彼女もまた──そうであることを願う。
「私は……」
「……」
「……茶化さずに聞いてくれますか? 少しだけ屈折するかもしれない話を」
「言ってごらん──いや、言ってくれ。屈折していた『僕』を知るためにも」
「……あの日見た夢の答えは、結局出ませんでした────」
†
――――それから黙って、死にたガ―ルが見たという夢の話に耳を傾けた。二人の息づかいと一人の語りだけが、乳白色の鳥籠で流れる。時折思い起こすべく口を噤(つぐ)み、ただ間違うことだけはないようにを心がけ。そうして聞かされた全容は屈折どころか、本質的な部分でじつに僕の質問と直結していた。
────消えていくのだそうだ。僕が、自分以外が、ありとあらゆる全てが透明になり、ゆっくりと。そうして空白の──真っ白で形のない観念的世界に唯一取り残された彼女は泣いていた。しかし状況から連想される涙ではない。悲しみとか不安とか困惑とか。無論、あっただろう。それでも────笑っていたのだそうだ。泣きながら、嬉しそうに笑っていたらしい。心の底から。なにもない虚無の空間で、どこかを見て。誰かを見て。
そこは死後の世界。生者から隔離された、交わることのない光の闇。──というところまでは、死にたガ―ルだけでも考えが及んだ。でも、どうしても”そこまで”らしい。涙の理由が──泣きながら笑っていた、悲しそうでありながら、同時に嬉しそうだった自分の思考が──わからない。
「私は『死』を受け入れていたのでしょうか? それとも──拒んでいたのでしょうか?」
呟くように、問うように。溢した命題たりえる言の葉が回想を締め括る。そして、僕は閉ざしていた口を開く。
「つまり、キミは──」
「……はい。『わからない』んです。自分が死にたいのかどうか」
“不鮮明”は答えにならないといえば、たしかにそうだろう。けれど真実と相対せず、簡単に溢してしまった心情よりはよっぽど答えに近い。
「一郎さんはどう思いますか?」
「……」
どう、思う。僕は────。
「……『生きる』のって、『死ぬ』のって──いったいなんなんだろうね」
……理解していた。救世主が、その疑問だけは決して抱いてはならぬことを。
「私が『死にたい』と口にしたとき、一郎さんは今でもまだ生かそうとしてくれますか? 運命に飲み込まれそうになったとき、その波に抗い手を差し伸べてくれますか?」
「…………」
────答え、られなかった。わからなかったからじゃない。むしろその反対。今までの逆。わかってしまったから……答えられなかった。
本当の僕。僕の本当の願い。黙るしかできなかったからこそ、見つけてしまった。思えば始まりからしてそうだ。『死にたいから生かす』。命の冒涜、希望を見せるペテン師、大いに結構。けれどそれをするなら絶対に必要な”思い”が欠けていた。だから全てが戯れ。全てが繕い。全てが空虚。なんで気づかなかった? なんで気づかれた? 全ての行いがあまのじゃくで、彼女のためで、願わせるだけで、抱かせるだけで、思わせるだけで、ちっとも少しも全然まったくこれっぽっちも────僕自身は『生きること』を願っていないじゃないか。
「答えて……くれないんですね」
鞘真の言葉がフラッシュバックする。
『一郎くんは、生きたいかい?』
あいつは生も死も──なにも望んでいなかった。
『僕と一郎くんは、どこか似てるなって思うんだ』
否定した。けれど間違っていたのは僕のほうだった。──同じだ。『生かす』、『死なせない』、それだけで、僕は僕に対してなにも望んでいなかった。生きることも、死ぬことも。ただ死ぬことを望んでないから生きていただけで。その実質は空虚。まるで死後の世界と変わりない。死んだように生きていて。生きたように死んでいて。そういう自分に気づいてしまったから、望まれている答えを返してやれない。あまのじゃく──確立していたキャラも、手にした真実の前では霞む。
偽りを無くしてすり減った自分。そんな状態で感情を振り絞ってようやく口にできた言葉は、彼女と同じく”不鮮明”だった。
「……ごめん。わからない」
「……そう、ですか」
窓の外を眺める死にたガ―ルの顔が──見えなかった。死を望んでいた彼女は、いつの間にか生を望んでほしい彼女へ。死を否定していた僕は、いつの間にか生までも否定せざるをえない僕へ。これが”成長する”ということなのだろうか? だとしたら、それは必ずしもプラスではない。恥ずかしいくらいになにも知らないでいた頃の僕がゼロならば、気づいてしまった僕もまた──ゼロ。進まず、戻らず。結局、僕は彼女を『生かす』ことができないままでいる。
あいつは言っていた。生きるのも死ぬのも簡単だが、生かすのだけは難しいことだと。まったくもって、その通りだ。“僕ら”にとって、病気だとか運命だとか以上に高々と立ち塞がる壁──後ろめたさ。自分が生きたくもないのに、誰かに生きろだなんて────言えるほうがおかしいと。探していた”本当”は、見つけてはいけない最悪の答えだったと。気が……ついた。
──そして、それでも。
「だけど、ね」
思わずにはいられないんだ。
「ハッキリと、これだけは言えるよ」
揺らぐことのない信念。疑いようのない願望。
「僕はキミに──途方もなく幸せになってほしい」
初めからそうだったかと問われれば、きっと首を縦にも横にも触れないだろう。けれど、違うんだ、もう。始まりがあまのじゃくだったとしても、過ごした時間が真実をくれた。“彼女に幸せになってほしい”。これもまたどうしようもなく、”本物”なのだ。欺瞞の雲一つかかっていない”本当”なのだ。僕以外であるはずもない僕は、本心から──死にたガ―ルの幸せを望む。ひたすらに。ひたむきに。
彼女がゆっくり振り向き、僕を見る。それからか細い声で言った。
「私の幸せって……いったいなんなんでしょうか? ハテナ?」
マッチョさんは言っていた。そして僕も同じくそう思う。
「キミの幸せはキミにしかわからないし、決められないよ」
そして、こう思う。
「だから見つけよう。僕達を幸せへと導く方程式を。一緒に」
時間はもう、ないのかもしれない。でも、だからって、強ちバッドエンドとは限らないさ。幸せは──きっとそこらに転がっているのだから。拾った瞬間に、星屑も舞い踊る逆転ハッピ―エンドだ。
────日常、だった。全部が。喜んで怒って哀しんで楽しんだ、永遠に続いていくような鳥籠のモラトリアム。束の間の連続が、僕に答えをくれたんだ。
けれど物語がそうであるように。人生がそうであるように。事には須く終わりが用意されている。例外なく、普遍として、この普段も不変ではいられない。──いたくても、いられなかった。
故にこれが、僕と彼女が最後に過ごした最期の日常。世界に別れを告げる間際で紡いだ、交わらない二人の究極的独白。導火線は燃え尽きた。昂るカウントダウンがゼロをコ―ルする。
間もなく全てが────終わる。
だから今こそ繰り返そう。僕は吹く風も凍えるこの季節に、物事と正面から向き合う難しさを痛感した。これはそんな僕が語った僕の断片。そして僕にとっての、彼女の全てである。
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