真実のララバイ
エレベ―タ―の中では誰しも無言になりがちだと言う話を以前どこかで聞いたが、そのデ―タに裏付けされているであろう理論はしかし、彼女がいればいとも容易く崩される。今し方それが『ケ―タイ小説の展開予想』によって証明された。ちなみに話題にしていたのは『その便座、温めますか?』というタイトルの物語。上記について未だ互いに引かず、楽しい楽しい水掛け論で床を濡らしていると、
「おっ」
ようやく目的の階に到着。ドアが開いた。僕は昨日投擲(とうてき)した杖を使って狭い空間を出る。その後ろから死にたガ―ルが続いた。三階。僕らの病室があるフロア。今はわらび餅を買い溜めた帰りというわけだ。
「──おやおやあまのじゃく。ごきげんよう」
野太い声。獣の唸りにも聞こえるが、一応人語。心なしか地面が揺れている気がする。確認するまでもなく、僕をこんなふうに呼ぶそんな人間、一人しかいないわけで。
「ごきげんよう、マッ──アリスさん」
ドスンドスンと、ゴリラのようなゴリラが──じゃなかった。人間のようなゴリラが廊下を歩いていた。
「おまえ、また私を失礼に定義しただろう?」
「なんのことやら」
はいはい、マッチョさん。相変わらず人間離れした感覚をお持ちで。
「まあいいそれよりおまえ達、どこかで青い犬のぬいぐるみを見なかったか?」
「いや、僕は知らない」
「私も心当たりがありません」
「そうかい。となると……やっぱり屋上か」
呟いて、なにやら忙しそうにマッチョさんは僕らの前から消えていった。
、やれやれ、などと息を漏らしながら傍らに置いていた杖を持って立ち上がり、僕らだけの病室へ。向かっていたら、遭遇。
「オイスー、 アベック」
──北条。両手で抱えたかごには大量のベッドシーツ。
「なんの用だ?」
「洗濯、ですか?」
「そっ。屋上までこの荷を運ばないといけないんだけど、なんだかエレベーターの調子が悪いらしくて、階段を使わないといけないのよ。だから――手伝ってほしいなあって」
「なんで僕らが……」
たしかマッチョさんも屋上がどうのと言っていた。もう少し早くくれば屈強な飛脚がいたのに。間の悪いやつ。
「一郎さん、そういえば私、まだ屋上にはいったことがなくて。 軽―い探検気分で協力してみるのはどうでしょう? ワクワク」
──やれやれ、キミも物好きだな死にたガ―ル。
「……しょうがない。わらび餅一パックで手を打とう」
「交渉成立。じゃ、そういうわけで」
言って、北条はかごについている取っ手の片方を死にたガールへ。僕らは足並みを揃えて一路屋上を目指す。
上りの終着点に一枚の扉。柔らかな日差しが曇りガラスから溢れてくる。
よいしょっと。僕らはその前に立った。
「到着っと」
「ワクワク」
僅かばかりの高揚を表す呟きを乗せて、小さくて白い手がノブを捻る。それから数歩進むと──パッと視界が開けた。正面遠くにはマッチョさんの、上に何人乗っても大丈夫そうな大きすぎる背中。
「アリスさん、こんなところでなにを──」
マッチョさんはすぐに振り向く。
「い、一郎! べべつになにも」
そういって後ろ手に大変可愛らしいデザインのぬいぐるみを隠したのを僕はしっかり見ていた。
「あれ、アリスさんのお気に入りね」
北条がこっそりそう耳打ちする。
「……」
……ああ、肉体に似合わずそういう趣味をお持ちで。否定はしないよ。怖いもの。肯定もしないよ。恐いもの。
で、マッチョさんは北条の手伝いをする運びになり、それをさらに死にたガールが手伝うと言い出したので、未だ不自由の残る僕は傍から彼女らを見守ることにした。
――喜劇的日常。なんだかんだで女の三人。仕事中とはいえ、これだけ集まればいつぞやのように話の花が咲く。その中でも一番楽しそうなのが死にたガールがだった。
「あれが現在進行形で『死にたがり』なんだから……笑えるよ」
いつ死ぬかも知れぬ恐怖。彼女がそれを抱えていないわけがない。笑顔が消える日──年始。宣告された時は刻一刻と迫っている。……なくしたくないな、あの微笑みは。“これだけは”なんてせせこましいことは言わない。僕と出会って彼女が知ったこと。彼女に芽生えたこと。全部──失わせたくない。そのためなら、僕は────。
「一郎くん」
上から声がした。どことなく癪に障る口調。おかげで誰かなんてすぐにわかった。
「サボタ―ジュは感心しないな」
「コ―ンポタ―ジュはおいしいな」
鞘真だった。この適当さがもう鞘真次良だった。下へと続く扉を囲うように作られた壁。屋上によくある出っ張った部分。そこにいけ好かない医者が寝転び空を見上げていた。
「なにをしてるんだ?」
「おや、僕の茶目っ気ある呟きはスル―かい?」
──ちっ。わざと思考を閉ざしていたのに。これで本当にあの夜のメンバ―が全員揃ったことになる。
「まあいいか。お昼寝だよ、見た通り。忙しい仕事の合間を縫って、時々設けるようにしてるんだ。休息の一時を」
「あっそ」
大して興味もないや。そんな意志を語尾に隠す。
「真冬の空は憐憫を抱く」
「……」
「おいおいなにかしら反応を返してくれよ、寂しいじゃないか」
「……」
「絶対に反応だけはしちゃダメだ!!」
「……」
「いや、そこは反応してくれよ。あまのじゃくなんだろ」
「ネタとしてたまにやってはいるが、現実に命令されると必ず逆のことをする人間がいたら会ってみたいね。少なくとも、僕は逆のことをしたいと望むだけだ」
「やっと反応してくれた」
「……」
こいつは本当にいけ好かないやつだ。
「そうだ。屋上生活の長い僕が、ここ標病院屋上の名スポットをいくつか紹介してあげよう」
「黙って寝てろ」
「まず今僕が寝ている場所。通称『鞘真フィ―ルド』。僕だけの特等席ね。ここから見上げる空は格別なんだ」
聞いちゃいない。
「続いて視線を談笑している彼女らよりさらに向こうへ放りますと、見えてくるのはフェンス」
気になることがあったから、とりあえず見るだけ見てやる。
「まるで猪が突撃したかのように一部破れているのは、いろいろが見えなくなる雨の日にアリスさんが力一杯殴ったから。通称『アリスブラスト』」
疑問が解決した。それにしてもあれはもう、破れてるってレベルじゃない。”破壊”されている。頭を下げるまでもなく簡単に通れそうで、もはやフェンスとしての役目を担えていない。
「そして最後にフェンスの向こう側。通称『公平の悲劇』は、屈指の自殺の名所だったりしま―す」
「さすがに不謹慎だろ」
「あらら」
空を眺めて空虚におどけて笑う鞘真の顔が、瞳に映さずとも見えた。
「じゃあ観察対象を変えて」
「まだやるのか」
「美咲ちゃんを見てごらん」
北条、ねぇ。あいつはバサリとシーツを広げているところだった。
「見た。で?」
「いいお尻してると思わないかい?」
「セクハラ」
「空想さ。聞かれない限りはね」
「ということは、この一瞬でその先を空想したんだな」
「もちろん」
こんな医者にかかる女性患者は心底かわいそうだと思う。
「同じことをマッチョさんでやってみろ」
「できるよ」
「本気か?」
「ははっ、おかしなことを言うなあ」
「いや、だって」
「ウソに決まっているじゃないか」
「……チクろうか」
「『あなたのことでいろいろ盛り上がりました』なんて言えるものなら」
「やめておこう」
人としてひどい話題だとも自覚しているし。
「今日も今日とて、空が青いや」
なんとなく、僕も一緒に見上げてみる。群青色だった。あまりに濃い青には、”綺麗”よりもどこか”物悲しさ”を覚える。憐憫、か。空を見て僕が思うのか。僕を見て空が思うのか。
「翠ちゃん、楽しそうだね」
「おいやめろ」
すぐさま続く言葉の通行を止める。紛れもなく彼女が、この歪な医者の患者だった。
「違う違う。さすがに彼氏の前で下卑たことは語らないさ」
「語らないだけじゃないだろうな?」
「口を慎むよ」
こんなときだけ。都合のいい口だ。
「あんなに楽しそうな彼女でも──もうじき死ぬんだよ」
ボソリと。溢した何度目かの呟きは諦め。すっかり抗うことをやめた諦観の象徴。
「……死と戦う医者の言葉とは思えないな」
「なら医者じゃない僕の言葉なら納得してくれるのかい?」
「ああ。おまえはそういうやつだ」
だからきっと、僕はおまえが嫌いなんだ、鞘真。まるで世界の理を熟知しているかのように、賢人を気取って達観したように、笑って。笑って。────ピエロ。
「”そういうやつ”、か」
乾いた声で笑って。鞘真は言う。
「僕と一郎くんは、どこか似てるなって思うんだ」
「その不名誉だけは断固認めるわけにはいかないな。僕はおまえが嫌いだが、自分のことはまあまあ好きだ」
「ざっくり言うね」
「ハッキリ否定しておかないとな」
「でもほら、”一郎”と”次良”なんて名前のそこはかとない被り方とか」
「くだらない」
「なら一つ、共通の問いでも立ててみようか」
鞘真は僕を見ないまま続ける。
「一郎くんは、生きたいかい?」
なにをいうかと思えば、と。一笑に付す前に答えられた。
「先に言っておこう。僕の回答は『どうでもいい』だよ。死にたいかと問われれば答えは”ノ―”だけど、生きたいかと問われても”イエス”じゃないんだよね」
「……」
「で、どうなんだい?」
それはある種────僕の行動そのものを否定しかねない命題だった。だから。
「……僕は『死なせたくない』ね」
考えてみたものの、そう答えるしかなかった。
「『死なせたくないから生きたい』は、答えとして不足か?」
少しの沈黙が流れ、それから、鞘真は言った。
「うん。いいんじゃないの、べつに」
適当さが妙に腹立たしい。そう、思った。──でも、後で気づいたんだ。この時の僕が腹立たしかったのは、厳密には鞘真の適当さじゃない。こいつが適当なのは元から知っている。僕は────否定してくれないことに苛立っていたんだ。きっと、心のどこかで、自分の曖昧な返答を──一蹴してほしかったのだ。内々で揺らいでいる感情を『答え』にしてほしくなかったのだ。本当は。だから否定しない──かといって肯定したともいえない鞘真の返事が、歯痒かった。
「最近、雨、降らないね」
「さっきから藪から棒だな」
「だからって藪医者とか呼ぶのはやめてくれよ?」
「薮医者」
「しまった、あまのじゃく」
こいつと交わす会話ほど空虚なものはない。全てが言葉遊びに行き着く。
「この世はニヒルに覆われている。僕達は”所詮”の世界に”あえて”存在しているに過ぎないのかもね」
────まただ。
「つまり、なにが言いたいんだ?」
ため息混じりに問うと、声の波が勢いを変えることはなく、そのままの調子で告げられた。
「翠ちゃんは『運命』に嫌われた子なんだ」
「それは病を差しての発言か? それとも降りかかっていた不幸についてか? 少なくとも後者は、僕が少しずつ払っているつもりだ」
「強いて言うなら、真実を差して、かな。言ったろ、彼女は運命に嫌われているんだ。あらゆる偶然が、あらゆる必然が、彼女を殺そうとする。そして──本質的に彼女が救われることはない」
「なにが言いたい?」
「なにが言いたいんだろうね?」
もういろいろわからなすぎて頭がこんがらがってきた。
「そうだな―……とりあえず頑張ってよ一郎くん。生きるのは簡単だ。死ぬのも存外簡単だったりする。けれど生かすのはけっこう難しいことだったりするから」
「それは医者としての物言いか?」
「僕個人としての物言いさ。僕は案外──そういうやつだから」
言い捨て、鞘真はふいに腕に巻いた時計を見る。そしておもむろに立ち上がった。
「そろそろ戻らないと。僕は人気者だから」
ストン、と。記すまでもなく容易に着地。しかし今の僕にはできない技だったりする。
「ホントに疲れるよ、この仕事は」
愚痴り、扉を開け、
「早いとこ、誰か変わってくれないかな」
そのまま、鞘真は口を大きく広げてあくびをしながら下へと下りていった。
「運命に嫌われた子、ね……」
怠惰にまみれた男が去る前に言ったことを、もう一度自ら呟いてみる。いったいなにを思って、なにを知ってそんなことを宣ったのか。尋ねるチャンスを逸した今、それを知る術はなく。ただ一つ確実に言えることは。
「なら僕は、あらゆる偶然必然に抵抗するだけだ」
──しばらくわいわい騒いでいる彼女を見ていたが、やがて皆それぞれのするべきことに戻るというので、同じく僕達も僕達の病室に帰ることにした。深青色に染まった真冬の空が、そんな僕らを囲っていた。
────群像を翻弄する『運命』に導かれるべくして再びここにやって来ることを、このときの僕はまだ知らない。
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