《閉塞隔離の閑話モノクロ―ム》

 そんな出来事からおよそ一週間。メディアはそろそろクリスマスがどうのと視聴者を急かす頃。秋は豊富な食物で。夏はレジャ―で。春は出会いで。どこかで閑話を設けてほしいものだ。窓の外にはもうとっくに夜の帳が降りている。ベッドに寝転がり見上げれば微かに星。きっと隣のベッドからはもっと多くの等星が観察できることだろう。深夜零時を過ぎたこの時間。いつもとはいかないまでも、よく死にたガ―ルに”遊び”をねだられる僕は、すっかりゴ―ルデンスランバ―と疎遠になっていた。

「一郎さん、今日が昨日になりました。いつものやつを。ニヤリ」

「おやつは午後三時を目処に。現在午前」

「シュン……」

 その死にたガ―ルの要求をピシャリと断り、僕は先程までこちらに向いて瞳をキラキラさせていた彼女に問いかける。

「それに、今から一応人に会うんだ。口元にきな粉がついてたら恥ずかしいだろ?」

「それもそうでした。ウッカリ」

 そこは『きな粉なんてつけていきません』と否定してほしかったところだが。

「起きてるかい? 童共」

 扉が開き、屈強な送迎役がやってくる。

「じゃあそろそろいこうか。あまり気は進まないけど」

「はい!ドキドキ。ワクワク」

 汚れ一つないシ―ツを着せられたベッドを跳ねるように立ち、窓際で死にたガ―ルは大きく背伸び。

「いざ、怪談会場へ、です!」

 一人ズバ抜けたテンションで、車イスに座る僕とそれを押すマッチョさんを先導するのだった。


          †


 ────数日前、散歩も兼ねて一緒にわらび餅を買い足した帰り道、壁に貼られたそのポスタ―を見つけたのは死にたガ―ルが先だった。

「一郎さん! これを見てください! シッカリ」

 既にテンションを高めていた彼女に肩を叩かれ、指差された方を見るとあったのは、

「標病院……百物語……?」

 おどろおどろしい文字でそう記されたイベントの告知。そんなことしなくても、マッチョさんが「ガオ―!」とかいうだけで十二分に恐怖だろうに。

「いきましょう!!」

 聞くまでもなく、死にたガ―ルの意志は決まっていた。積極的に物事に関わろうとし出したこの傾向はいい。ただ一点、あえてそこに水を差すなら。

「今は冬だぞ?」

 怪談は普通夏にやるものだろ。

「冬のホラ―があってもいいじゃないですか。ソワソワ」

 語尾から察するに、どうやら楽しみでしかたないようだ。まあ彼女が行きたいなら、例え微塵の興味すらなかろうとそれが止める理由にはならないわけで。

「そうだね。一体何人が参加するかは疑問だけど」

 ────そうやって済し崩し的に決めたこの行動が、まさかあんな一瞬に繋がるなんて。このときの僕には知る由もなかった。


          †


 ――時は戻って当日。真夜中。

「で、この奇を衒(てら)ったようなメンツはなんなんだ?」

 遠くで明滅する非常灯。他の光源といえば、目の前の大きくない机に立てられた五本のろうそくと、その間で転がっている小さな懐中電灯が一つ。それを囲って、既に二人がソファ―という名の席についていた。、

「おいす―。心の準備はできてるかしら?」

 左に変態。

「やあ翠ちゃん。僕の隣なら空いてるよ」

 右にピエロ。

 そして残っているのがあまのじゃくと死にたがりとバ―サ―カ―。もうそろそろ予定されていた時間。加えて用意されているろうそくの数から察するに、上記の五人がこの集いの参加者というわけだ。……碌(ろく)なのがいない。

「さあて、翠は適当に座んな。一郎は特別席だ」

 マッチョさんは僕を廊下側に放置して鞘真と北条の間に。その瞬間の鞘真の表情が凄く残念そうだったのは置いておいて。

 なにが特別席だ。席もなにもないじゃないか。まあ車イスの僕にとって、ソファ―はあっても邪魔なだけなんだけど。

「──では、これより第五回標病院百物語を始める」

 死にたガールが腰を下ろすと同時、マッチョさんのドスの利いた声で告げられた開催。へぇ―五回もやってたんだ、なんてどうでもいい感慨に浸りつつ、促されるまま、僕は机の真ん中に集められていたろうそくのうち一本を自分の前へ。

「順番はフリ―だ。それぞれが話したいときに話し、終わったら自分のろうそくの火を吹き消す。最後の五人目が話し終えたとき、今回はいったいなにが起きるんだろうねぇ」

 まるで前まで毎度なにかが起こっていたような口ぶり。ちなみにそれじゃ百物語じゃなくて五物語だな、なんて皮肉は、語り手から飛ばされた獅子の如き眼光によって封殺された。

「……なかなかの雰囲気です」

 そう呟くのは死にたガ―ル。

「怖いのかい?」

「こ、怖くなんかないですよ! ガクブル」

 ああ、怖いんだな。表情とかもう引きつってるし。

「というわけで、誰からいくか」

 言って、マッチョさんは懐中電灯の明かりを消した。途端に辺りの雰囲気が不気味さを増す。闇が支配する病院。そこに集まった六人の顔を、揺らめく小さな炎が朧に照らす。全員、少なからず様相を違えていた。そんな中、スッと手を挙げたのは北条。

「私からいきます」

 宣言。そして────重たい静寂に包まれた夜の、長く短い怪異な物語が始まった。

「これはまだ、私がこの病院に来て間もない頃に体験した話なんだけど────」


          †


────カツン──カツン──。

誰もが寝静まった深夜の病棟。床を蹴る足音は、不要なほどによく響く。その日夜間勤務が当たっていた北条 美咲は、淡い光しか放たなくなった懐中電灯片手に、院内の見回りに従事していた。元来暗いところをあまり好まない彼女にとって、日中、先輩の高城 亜理子に絞られるのと同じくらい、この仕事は願わくば避けたい部類の一つだった。

(戸締まりよし、と)

 なるべく音をたてないようノブを軽く捻り、外へと続く扉が開かないことを確認。すぐに踵を返す。

(早くアリスさんのとこに戻ろう)

 北条は幽霊を肯定している人間ではない。だが──否、だからこそ怖いのだ。いるかいないか分からない存在。そしてそれを隠してより不明に近づける、四方に広がり自らを包むのっぺりとした闇が。無意識と有意識の中間で、一歩の幅と次の一歩を出す速度を次第に早めていく北条。僅かな時間でも明かりが欲しいとエレベ―タ―に乗り、二階のナ―スステ―ションを目指す。上昇下降時に聞こえる、いつもは気にも止めないくぐもった音でさえ、敏感になっている彼女の神経には指を沿わせるように触れた。実際は至極短く、しかし体感はとてつもなく長かった時間、得も言われぬ圧迫に耐え、安心に続く闇へと北条を解放するドアが開いた、その瞬間だ。

「……ッ?」

一瞬、目の前を通りすぎていく影のようなものを見た。

「な……に?」

 それは小蝿が一瞬眼前を横切ったときのような。見間違いだと処理しても何ら咎められることはないであろう刹那の目視。影は北条の瞳に映るとほぼ同時に、向けられたライトに照らされる間もなくすぐ左の角を曲がった、ように見えた。

 鼓動が速度を上げていくのを感じる。熱を帯びていくのを感じる。患者がトイレに抜け出した可能性もあるだろう。同僚の冷やかしの可能性もあるだろう。──でも、違った。そうじゃない。北条のなにかが、現実味のある”だろう”を全て否定していた。残ったのは疑い。疑念。”かもしれない”という不安。

(いかないと……)

 なにが彼女にそう思わせたのか。少なくとも、責任や探究心ではない。頼りに縋ることなく、北条は一人導かれるようにその影を追った。首を締め上げられたように息が窮屈になっていくのを感じながら角を曲がる。すると確かに影がトイレに消えていくのが見えた。自分の見間違いでなかったことに、やはりただの人だったことに安堵する。そして一応の形として、北条はその影の入っていった女性用トイレについていく。

(……あ……れ……?)

 けれど探しても、探しても、どこにも人の姿は疎か気配すらなかった。閉まった扉をノックしてみても、声はおろか物音一つ返ってこず。どんよりと広がっている静寂を形容するに、気味が悪いの一言ではあまりに不足すぎた。

「だれかいるの……?」

 そう尋ねてライトを揺らすも結果は同じ。……なにをやっているんだろう。ふと我に返り、北条は探索をやめて踵を返す。

 ──目に止まったのは鏡だった。手洗い場の前に設けられた、なんの変哲もない小さな一面鏡。なぜそこに注意がいったのか。なぜ立ち止まってしまったのか。それは彼女にも分からない。あるいは──誘われたのだろうか。数秒固まり、視線を逸らそうとした──まさにその瞬間だった。

「ッ!?」

 ベタン、と。絵の具を染み込ませた筆を乱暴にぶつけたように。鏡にドス黒い赤が塗りたくられた。赤は滴り、それがまた線を引いてまるで────。

「血……!?」

 認識さえしてしまえば、取り乱すまで時間は一秒とかからない。北条は出口を開こうとする。──が、開かない。いくら力を加えようと、目の前にあるのは鋼鉄の牢か格子か。焦り怯える彼女を嘲笑いびくともしない。

「いやッ! 出してよッ!!」

 叫びは無情に反響するのみ。助けは来ない。そしてまた、彼女は明言できる理由もなしにあの鏡に視線を送るのだった。

『さみしい』

なんとかそう読める血文字が、いつの間にか鏡に書かれていた。

本当に恐怖したとき、それを声に出せる人間がいったいどれだけいるだろう? 少なくとも、北条には無理だった。破裂しそうな心臓の音だけが聴こえる無音の空間で、彼女の目はもうそこから離れない。

『だから』

 一面真っ赤に塗り潰されたかと思えば、新たな意識を具現化する鏡。そして。

「一緒に死んでくれるわよね?」

 耳元で聞こえた生気を感じさせない声に、ついに彼女は限界を迎え、意識を彼方へ飛ばし倒れた。

 ──鏡──それはしばしばあの世とこの世を結ぶ通り道になる。故に、時偶映るのだ。こと、そういった類いが集まりやすい病院では。もし姿や思いが映って、そして出てきてしまったら────。

 案外、境界線は曖昧なのかもしれない。


          †


 ────ふう、と口を窄(すぼ)めて吹かれた息が、ろうを溶かす篝(かがり)火(び)を消した。

「どう? なかなかだったでしょ?」

 そう言ってドヤ顔を決める北条は、明かりが一つ減っただけでずいぶん暗闇と同化していた。

「ノンフィクションか」

「ええ。今ではこうして話のネタにできてるけど、当時はホンットに怖かったんだから」

「で、どうして今おまえはここにいるんだ?」

「アリスさんが倒れている私を見つけて、空いているベッドまで運んでくれたの」

「俯せで干からびたカエルみたいだったな」

「まったく惜しいことをしたよ。もし僕が第一発見者だったら今頃──」

「そこから先はセクハラです鞘真先生。あれからしばらく一人でトイレにいけなくって」

と、軽いオチがついたところで場の空気はリセット。

 さて次は誰がいこうかという話になったところで、僕はそっと手を挙げる。

「おっ、一郎くんがいくのかい?」

「いや、質問なんだが、これは僕や死にたガ―ルも話さなくちゃダメなのか?」

 ポスタ―には『集まった人間で怪談を語り合う』としか書いてなかったわけだが。

「当たり前でしょあまのじゃく。そのためのろうそく六本よ」

 困った。僕は怪談なんて考えてきていない。というかそもそもそんな体験をしたことがない。かといって、でっち上げるのも意に反する。さてどうしたものか。

「……ひとまず保留で」

「なら私がいきましょう! 凛々」

 流すが早いか、勇気凛々死にたガ―ルが宣言する。その顔に先ほどまでの恐怖はない、こともなかったが、相手を恐怖させてやろうという思いのほうが強く表れていた。いわく、至極の一話があるらしい。彼女の突飛な頭の中のことを考えるとどうしても怖がらせるなんてできそうになかったが、物は試し。とりあえず静聴してみることにした。

「これは私の大切なぬいぐるみであるわらびモッチ―ンにまつわる伝説なのですが────」


          †


「――――どうでしたか皆さん。怖くて声も出ませんか? ドヤドヤ」

 全員が同じようにポカーンと口を開けたままの状況で、いったいどこからそんな自信を供給してきたのやら。

「凄く怖かった。凄く凄い話だと凄く思うよ、凄く」

 なにはさておき、出任せの感想を口にしておく。

「怪談には類似した話が多々あるというのに、聞いたこともない話だったよ」

「さすが翠だ」

「驚いたな―」

 鞘真が次いで、あとは逆時計回りに次々棒読みの”それ”が溢される。

「してやったり。ニヤニヤ」

 うん。キミは純粋なままでいい。

『未来永劫わらび餅が食べられなくなる祟り』を恐ろしく思うのは、世界できっとキミだけだ。

 誇らしそうに破顔したまま、首を前に下げてふぅっと一息。闇を揺らめく陽炎が、また一つ静かに消えた。役目を担っているろうそくはあと三本。それは即ち残りの話数。初めの半分。

 ──頃合いだな。

「よし、次は僕がいこう」

 死にたガ―ルのおかげで、今ならどんな話をしても最底辺をいくことはないという安堵が生まれた。わらび餅奇談に感謝である。

「おや一郎、考えついたのかい?」

「なんのことやら。ここに来る前から語る内容は決めていたさ」

 いつも通り意味なく反抗。虚勢を保つための意味ある嘘。

「個性豊かな一郎くんのことだ。きっと、思わず声を出してしまいそうになる逸話を語ってくれるはずだよ」

 鞘真め。歯を見せて爽やかに笑いながら、これ見よがしにハ―ドルを上げてきた。

「断っておくが、これはあくまでノンフィクションだ。幽霊も出ない。怖いというよりは不思議な話」

 それを足蹴にして高さを元に戻し、皆が静まり雰囲気が出るのを待ってから、僕は声を作っておもむろに口を開く。

「具体的に”いつから”と線引くことはできない。だが、ふと数日前に気づいたことを話す────」


          †


 ────白昼夢、とでもいうのだろうか? この感覚をどう表現すればいいのやら。端的に述べるなら。──僕にはなにかが欠けていた。無論骨のことではない。そんなくだらないジョ―クをかますほど劣悪なセンスはしていないつもりだ。

 ──記憶、といってもやはり語弊がつきまとうわけだが。とかく僕にはどうやら頭の中の中の中──深層部に、とりとめのないぼんやりとした”なにか”があるらしい。感覚的には濃霧に近いその”なにか”が僕の”なにか”を隠し、見えなくしている。

 前記したが、僕自身その正体が掴めていないため、”記憶”と安易に一括りにするわけにはいかない。だが思い返してみると、確かに今の僕には”なにか”が欠落しているのだ。なんとなく、前は持っていた気がする。いつを境に”前”とするのかは定かでない。思考の湖に潜って取り戻そうとしたが、見つけたと思って手を伸ばしてみたら、ぼやけた蜃気楼を掻いただけで虚しくなった。

 僕はなにかを忘れているのだろうか? 僕はなにかを思い出さないといけないのだろうか? 速水一郎は紛れもなく今を生きているわけだから、おそらく過去に当たるであろうそれに苛まれて困るなんてことは性格上ないと思う。でもちょっと、気になってはいる。


          †


「短っ!?」

 ろうそくに息を吹き掛けようとした僕の側から、リアクション芸人北条の声。

「いいじゃないかべつに」

「そりゃ咎めはしないけども」

「一応言っておくと、ちゃんと調べたが、骨を折ったときにも頭部は打っていないぞ」

 ということらしい。語るマッチョさんの横で相変わらず笑顔を繕っている鞘真の頷きも、話の信憑性を出すのに一厘ほど買っていた。

「なにもないといいんですが……ナゾナゾ」

「な―に、僕の思い過ごしかもしれないさ」

 死にたガ―ルの心配を軽く笑いとばし、僕は今度こそ溶けていくろうそくを一陣の吐息で救った。……なんだか怪談には似つかわしくない空気だ。

「んなら、話せば毎回なにかしらの怪異を起こす彼女にトリは任せて、ここは僕がいこうかな」

 と、鞘真。彼の隣にドッシリ居座る重鎮へ、細いメガネ越しにチラリと皮肉の視線を放ってから口を開く。

「一郎くんに便乗して、僕も不思議なやつを一つ。ここ標病院にいると言われている死神にまつわる話だ」

 か弱い少女を除いた全員の厳しい視線が、一斉に不謹慎男を刺す。一番刃を鋭く磨いでいたのはたぶん僕。

「……ん? ……ああ、翠ちゃんのことじゃないから安心してね」

 刃先に宿っていた思いに気づいた鞘真が、貼り付けていた笑顔を一瞬固め、それからまた元に戻して軽々しく死にたガ―ルに笑いかける。

「あ、はい。大丈夫です。シッカリ」

 ……キミはもう少し自分のことで怒ってもいいと思うぞ。

「じゃ、気を取り直して」

 そんな会話のクッションを挟み、不思議系を自称する怪談が始まった。

「ここ標病院には、命を弄ぶ死神がいるんだよ────」


          †


 ────その存在は魂の道先案内人。あるいは命の裁定者。死に行く者を冥府へと導き、死の迷宮に迷い込んだまだそうあるべきではない者を現世へと還す。

 ──ある時、標病院に一人の女性がいた。名を──千代(ちよ)。朗らかで、慈しみと優しさでできたような彼女。笑顔を絶やさず、万人に好かれていた彼女。完全回復は間近だと聞かされていた。誰に予想できただろう。そんな彼女が、とっくの昔に迷宮の扉を開けてしまっていることを。

 ──千代は死すべき者だった。

 死神は宣告する。

「おまえの魂を貰い受ける」

 千代は言った。

「私はもう死んでしまうの?」

 死神は答える。

「そう。次の生が巡るまで、おまえは比類なき”無”となる」

 千代は尋ねた。

「それっていつのことかしら?」

 死神は返す。

「分からない。”無”となりすぐかもしれないし、永劫先かもしれない」

 千代は呟いた。

「そう……残念」

 その表情はとても儚げで。けれどどこか達観したようで。これまで幾人もに”終わり”を告げてきた死神は、尋ねずにはいられない。

「死が怖くないのか?」

 大抵の人間は目前に迫った”死”に対して怯えるか、堪らなくなった感情の矛先を死神に向けて乱暴に吐き出すかの二パタ―ンだった。にも関わらず、この反応。

「怖いわよ」

 あっさり切り返される。

「だけどそれよりも、残念」

「心残りでもあるのか?」

「いいえ、一つも。一つも心残りがないことが残念なの。じつに私らしくって」

 ────初めて、千代の空虚な微笑みを死神は見た。悲しい、見ているだけで悲しくなる力ない破顔。

「……生きたいか?」

 口を突いたのは、決して問うてはいけない問い。なぜか。それが無駄な希望だから。死神に、死が決まった人間を生に向かわせる力はない。

「できるの?」

 案の定、そんな言葉が返される。

「……」

 黙るしかなかった。

「そう……」

 沈黙で全てを察した千代は俯き、黙り、瞳を閉じて、やがて。

「ありがとう」

 ──笑った。偽りなき笑顔で感謝を口にした。自分のために、例え刹那より短い刹那だろうが使命と感情に揺れてくれた存在に。そして己から請願する。

「さあ死神さん、私を連れていって」

 魂が、誘われる。始まりを待つ永遠の闇へと。


          †


「──な―んつって」

 確かに怖くはなかったが、なかなか深い話だったように思う。鞘真にしては。だけどそれも、最後のおどけた物言いでパア。こんなのに賞賛を送るやつなんて無論誰も──。

「いい……話でした……ウルウル」

 あっ、キミがいたか。感じ入った様子で、瞳を潤ませ一筋の感情を頬に滴らせる死にたガ―ル。

「おや? 皆も翠ちゃんみたく感動してもいいんだよ?」

「心が揺れたら負けだと思ってる」

「おいおい酷いな。まさか僕が嘘を言うとでも?」

「二十四時間全身を嘘で塗り固めているじゃないか」

「」うわー、その発言はショックだなー」

 ザ、棒読み。

「まあ僕の話はこの辺で終わりにしといて、大御所に最後を譲るとするよ」

 それから軽く笑って、鞘真は始まりから既に半分くらいの大きさになるまで溶けたろうそくの炎を、手首のスナップによって生じる一陣の風でサッと消した。

 ────闇。深遠なる暗黒。隣り合わせた暗闇は、僕らを永久(とわ)の輪廻へと誘うかの如く。そんな猜疑心を晴らすはずの”芯炎”が照らしていたのは、般若。

「……」

 ごくり。思わず息と唾を呑んだ。怪談も後半へと差し掛かり、灯りが乏しくなってきた頃から意に留めないよう気を払っていたが、彼女が語り部となればそうもいかない。幽霊とか怪奇とかじゃない。そんなの比になるもんか。以前真夜中の密会でもまざまざと思い知ったが、マッチョさんの顔の怖さは暗ければ暗いほど増大する。深すぎるんだよ、彫りが。セルフ仁王像じゃないか。

「では、話そうか」

 口を開いただけで空気が一層冷えた。巡る季節の最果て。ただでさえ寒い時期なのに。

「ドキドキします……!」

ジェットコ―スタ―に乗る直前の子供みたいな表情で呟く死にたガ―ル。一喜一憂の変化が著しいことで。

とは言うものの、全員彼女と似たようなものだった。なにせ厳つい人相、重低を極めた声音、否応なく他を圧する雰囲気。人を怖がらせるのに彼女ほど適した人材はそういない。鞘真はニヤニヤ笑っているし、北条は外見(そとみ)特徴がないっぽいけど、それでも恐怖を与えられる姿勢は万全に見える。僕は……どうだろうか? それもこの話を聴き終わる頃にはわかることだ。

「これは……そう。ちょうど今日みたいな肌にまとわりつく寒さの夜にしばしば出会うことになる”奇異”だ────」


          †


 ――――“影法師”を知っているだろうか? 光の効果で壁や地面などに人の影が映ることを一般的にそう呼ぶが、ここ標病院に”いる”とされる”それ”は、根源的な部分で違っていた。彼らに光は必要ない。むしろその逆。唯一無二の闇さえあれば、日頃不可視の存在である彼らは時々戯れに姿を現す。

 高城亜理子が初めに見たのは”白”だった。全身真っ白で人の形(なり)をした発光体。闇からぼんやり浮き出てこちらを見つめ、視線が合うや否や走り去る。──即ち『幸せの影法師』。無理に追おうとせず逃げる彼を放っておくと、近いうちに小さな幸福が訪れるという。まだナ―スとして認められ幾何も経たない頃にその存在に出会った亜理子は、頭の片隅に残っていたそんな噂を半信半疑で実行し、後日売店の商品数多をセ―ルの名の下半額で手に入れることができた。

 前述の出来事に加え、他のナ―スも口々に『幸せの影法師』に遭遇したという話を語り始め、標病院に働く者の間で一時期ブ―ムになったのは余談である。

 ──さて、そういった浮わついた話の裏で内々に、なぜか消えないもう一つの噂があった。──即ち『不幸の影法師』。

 それは言わばコインの表と裏。光と闇のような関係。ささやかに語られながら、決して途絶えることはなかった陰の話。視て、”そう”だと認識すれば最後。逃げていく影を追いかけ掴まえなければ、近いうち大きな不幸が訪れるという。

 亜理子が二度目に会ったのは”黒”だった。全身真っ黒で人の形をした発光体。闇でもくっきり浮き出て存在していた”それ”こそ『不幸の影法師』。一瞬亜理子と目が合い、彼は走り去る。追おうかとも考えた。だが患者に話しかけられ、よく分からない”不確か”のために邪険にするわけにもいかず、結局諦めた。

 ──翌々日、その患者が亡くなる。容態の急変だった。病は回復に向かっていたはずなのに。

 亜理子は確信する。噂は本当だったのだと。──この病院には確かに”奇異”が存在すると。

 ────影法師は理不尽だ。そして狡猾だ。なにがその人にとっての小さな幸せか、なにが大きな不幸かをちゃんと知っている。“やつ”は突然姿を現す。

 例えば今隣り合わせている闇。違和感はないだろうか。人の姿には見えないだろうか。見えたとしたら────気をつけたほうがいい。


          †


 ────二人の影法師……。語り手の風格がそう思わせるのだろうか。荒唐無稽な話には変わりないのに、なぜだか今日の怪談の中では一番あり得そうだ。

「そこにいるんですか!? それともこっちですか!? ビクビク」

 死にたガ―ルもかなり怯えているし。おっと、それは元々だった。この反証に至るまで、僅かコンマ一秒掛からず。

「出会うなら皆はどっちを望む?」

「ももももちろん”幸せ”のほうに決まってます! 人は幸せが一番です! ゾワゾワ」

「だろうな」

 マッチョさんは想定していた通りだと言わんばかりに軽く笑う。

「マッ……アリスさんは違うのか?」

「ああ。私はぜひもう一度不幸の影法師に会って掴まえて、土手っ腹に一発鉄拳をぶちこんでやりたいね。あのときはよくも! って」

「……ハハッ……そう……」

 …………恐ろしすぎる。哀れなり、不幸の影法師。獣と視線を合わせることがどれだけ危険なことか、身をもって味わうことになるだろう。お気の毒に。

「──よっし。ならそろそろ」

「うむ」

 ソファ―に預けていた背を持ち上げる鞘真と、常以上重々しく頷くマッチョさん。

「みんな、今から残り一本になったろうそくの火が消えるわけだけど。準備はいいかな?」

「準備? なんの準備だよ? まだなにかあるってのか?」

「当然さ。むしろここが山場。百物語──それは往々にして、最後の人間が語り終え光を消したときになにかを起こす」

「な、なにかとはなんですか!? ビックリ!」

「さあ? なんだろうねぇ―?」

 含み笑い。繕われた笑顔にもいくつかパタ―ンはあるらしい。

 閑話休題。”なにか”とはまた曖昧な。”怪異”と素直に言えばいいものを。あっ、でもそれも曖昧か。

「ちなみに言っちゃうと、私が参加した夏の怪談でもとある”異変”が起きたわ」

 と、北条。

「ちなみにちなみに言っちゃうと、僕が無理矢理参加させられている第一回からずっと起きてるよ」

 と、鞘真。

「うむ」

 で、得意気に口元を緩ませるマッチョさん。

「再度私から聞いておこう。童共、心の準備はいいかい?」

 ふっ――愚問だな。

「怪異……起きるもんなら起きてみろ」

「ぜぜぜぜじぇんじぇんこ怖くなんかないですよ―、だ。ワナワナ」

「ふぅ!!」

 突風を巻き起こす息で、拙い灯火が消え去った。

──真っ暗。今更ながら、窓のないここ談話室に星の明かりは届かず。遠くにある非常口を示す光もまた同様だった。とはいえ既にある程度闇に目が慣れていたので、なんとなく死にたガ―ルが不安に身を縮めているのは分かった。気づいていないフリをしてあげるけど。

命令されたわけでもないのに全員が一様に息を潜め、それから数分。ぼんやりと各々の姿も見えてくる。

「……そろそろ、いいんじゃないか?」

 ライトを灯しても。その言葉は続けなくても伝わった。やれやれと懐中電灯を手にする、やたらガタイのいいシルエットがマッチョさん。

「……今回は不発かねぇ」

 がっかりしたように呟きながら、しかし名残惜しそうになかなか暗闇を払うスイッチを入れようとしない。まったく、なにを期待しているのやら。幽霊や死神なんているわけが────。「……ね、ねぇ……」

 と、誰にともなく勝ち誇った感覚に溺れている僕の横で、声。心なしかそれは少し震えていた。

「北条、か? どうした? わざわざ隣まで来て」

「あ、あれ……!」

 黒い影に覆われた手を伸ばし、指差す先には長い廊下がただあるだけ。生憎、僕は死にたガ―ルほど単純じゃない。

「僕を怖がらせようったって──」

「あれよ! アレ!」

 なんだようるさい。そんなにかまってほしいのか。このかまってちゃんめ。このままやたらめったら喚かれても迷惑だ。……しょうがない。僕は仕方なく冗談に乗ってやることにした。あくまでもわざと”驚いてやる”つもりで。

「いったいなにがあるって────ッ!?」

で、固まった。そこに”やつ”がいたからだ。

「何事だ?」

「可愛いおにゃのこでもいるのかい?」

 僕と北条の異変に気づいた者から、ぞろぞろと周りに集まってくる。そして”それ”を目にし、同じく動きを奪われていた。

 ──真っ白な発光体。遠くの闇にぼんやり浮かぶ、完全に人の形をした”朧”。バカな……そんなバカな……!

「なんなんです──」

 か、が出てくるより先だった。

「──し、しししし、幸せのかげかげ影法師ですぅう―!!」

 恐怖とときめきを内包して叫び、北条と同じく”それ”を指差しながら、一方で僕の身体を激しく揺する死にたガ―ル。同時、マッチョさんの話通り”やつ”は逃げた。夜の廊下を疾走していく姿はやはり人間そのもの。

「……あってたまるか、こんなこと……ッ!」

 僕は認めない。妄想空想上の生き物が現実に干渉してくることを、僕は認めない!

「北条! “やつ”を追うぞ! おまえの成長を見せてみろ! 北条ダッシュだ!」

「え、ぇえ!?」

「早くしろ! 見失う!」

「わ、わかったわよ!」

 車イスの背を持ち、久々に北条が真夜中の病院を駆ける。目まぐるしく流れていく景色。

待っていろ、幸せの影法師──今取っ捕まえてやる!


          †


「ほら、おまえが遅いから見失ったじゃないか!」

 くそっ……廊下は一本道のはずなのに。

「まさか私が悪いの!?」

「当たり前だ。おまえの取り掛かりがあと二秒、足があと一秒速ければ歴史は変わっていたかもしれない」

「私ゃクレオパトラか!」

「安心しろ。おまえの鼻はあと三センチ高くても所詮北条美咲だ」

「所詮……グサリ」

「死にたガ―ルの真似、下手だな」

「ほっとけ!」

 しかしどこにいった、影法師。一部屋一部屋調べることもできるが、そんなことをしている間に逃げられてしまうのが関の山だろう。

 ──あれは光の屈折とか見間違いとか、そんな些細な誤魔化しでは否定できないところまで明確な”怪異”だった。悔しい。じつに悔しいが……認めるしかないのか、あの存在を。

「べつにいいじゃない、掴まえなくったって。おかげで幸せになれるんだから」

「”小さな”な。僕に──今の彼女にそんな量じゃ足りない。目も眩むような”幸”じゃないと」

 僕の最大の幸せ──彼女を生かすためにそれくらいは必要だ。

「気づいていないかもしれないが、マッチョさんは不幸の影法師は『掴まえないといけない』と言ったのに対し、幸せの影法師は『放っておくといい』と説明した。つまり『掴まえてはいけないわけではない』わけだ。だから仮にそんなものが実在するなら、マッチョさんのところにしょっぴいて、死にたガ―ルを死の運命から救ってやりたかったのに……」

 だけどそんな打算も、どうやら水泡に帰したらしい。

「……やむを得ない。帰るぞ、北条」

「……」

「おいどうした?」

「……ん? ああ、なんでもないわよ。ただあんたって、ホントに翠ちゃんを生かすことに一生懸命なんだなって」

「瞬間に全力で存在しないやつに永遠は訪れないぞ」

 急に恥ずかしいことを言いやがって。思わずあまのじゃくになったじゃないか。

「死の運命に抗うなら、鞘真先生の話に出てきた本物の死神に頼るのも手段だと思うけど?」

 おっ、スル―か。

「あんなやつの話に登場するだけで信用できないね、その死神ってやつは。それにとても融通が利きそうにないキャラだったじゃないか。そんなやつに死にたガ―ルを助けられるとは思わない」

「それもそうか」

 鞘真の怪談なんて、ここにおいても言葉遊び程度にしかならないから悲しいものだ。

「ねぇ、ところでずっと聞いてみたかったんだけど、どうして?」

「どうして?」

「あんたは翠ちゃんとゲ―ムをしてるんでしょ。命を賭けた人生ギャンブル」

「命を扱う人間として、不謹慎な僕を咎めてみるか?」

「そんなことしないわよ。口で勝てる相手じゃないし。純粋に知りたいの。あんたが翠ちゃんの生を願うのはあまのじゃくだから──つまりゲ―ムに勝ちたいから?」

「他になにがある?」

「恋、とか」

「!」

 ドクン、と。心臓が大きく脈を打った。

「あるいは愛。または慈しみ」

 僕にとって縁遠い言葉を並べ、質疑は最初に戻る。

「ねぇ、どうしてあんたは翠ちゃんを生かそうとするの?」

 僕は彼女と出会い胸が高鳴った。それが最初。次に恋をして、だから賭けをした。事実は決して変わらない。でも────。

「……笑うなよ?」

 保険としてそう前打っておく。

「僕にはいまいち恋とか愛とかがわからないんだ。一時期わかった気になっていたときもあった。でも最近、なぜだかその感覚を疑い始めている。恋はドロドロでグチャグチャしたものじゃないのか?」

 ぜひ先日恋だの愛だのに触れた”北条先生”にご教授願いたいものだ。

「ふふっ。翠ちゃんにでも聞いてみたら?」

 軽く笑って流された。

「『僕はキミに恋をしているのだろうか』ってか。どこの吟遊詩人だ」

「あら、その辺の感性は敏感なのね」

 こいつは僕をどんな人間だと思っているんだろう? 恥ずかしさなんて、彼女と出会って腐るほど感じている。

「まあいいわ。今はその選択肢はお預け。あんたの言葉でいいから教えてよ。彼女の生を願う理由を」

「えらくこだわるんだな」

「気になってたって言ったでしょ」

 僕の言葉、ねぇ。それはそれでこっ恥ずかしい気もするが……いいだろう。自分を確認するためにも、ここで一つ言葉にしてみようじゃないか。暫し考え、内に潜む”僕”と心のガラス越しに向き合い、そして──口を開く。

「僕は────」


          †


 ────話し終えたとき、北条はこれみよがしに笑っていた。ヒッヒッ言いながら、堪えきれないといった様子だ。辺りが暗くなければはっきりと見える表情は、きっとさぞムカつくものなのだろう。

「……言わなきゃよかった」

 むくれる僕に、彼女は必死のフォロ―を送る。

「いや、捻くれたあんたが、あんまりにも素直だから、つい」

「確かに僕を一言で表すなら『捻くれ者』だが、ちゃんと素直な部分もある。多面性を持つ人間にレッテルを貼って正しい評価をしようとするのが土台無理な話だ」

「ハイハイ悪かったって」

 悪いと思ってない。この軽さは絶対悪いと思ってない。

「ケッ」

 舌打ち紛いを落とす僕に、北条は笑いながら提案。

「もう。わかった。お詫びあげるから目、瞑って」

「誰が瞑るか」

「目だけはなんとしても瞑っちゃダメよ!」

 ……そんなに語気強く命令されては、逆らわざるをえない。僕は悪態をつきながら視界を閉ざす。北条はそれに小癪な反応を返す。

「ほら、早く詫びろ」

「了解。いい? 絶対に目、開けちゃダメだからね?」

「わかったから」

 適当に頷き、僕は待っていた。だからその行動は言うなれば不意討ちで。卑怯で。当然想定などしているはずもなく。端から別段強い意志で守ろうと決めていたわけではない約束。だから、言葉もなく額に当てられた柔らかく温かい温もりに、僕は間抜けな声を出して呆気なくそれを破ってしまった。

「────えっ?」

 瞳が、彼女の小さな顔で埋まっていた。ぬるい鼻息が僕の髪に当たる。不快ではなかった。そんな感覚など、この状態を視認したその瞬間からとっくにマヒしていた。元より真ん中で分けられている前髪を手で抑え、刹那前の僕と同じく瞼を閉じている北条。

 静かに。そっと。優しく。────彼女の唇が、僕の額に宛がわれていた。

 時が──止まっていた。僕達が世界から外れたのか。世界が僕達から外れたのか。

「北……条……?」

 なにから問うべきかもわからぬまま、ただ硬直して、声を出す。

「……もう。開けちゃダメっていったのに」

 近く。本当に近くで恥ずかしそうに笑って、北条は僕からゆっくりと離れる。魔法が、解けていってしまうような気がした。

 為す術もなく、北条を見る。ただ、見る。北条もまたこっちを見ていた。沈黙。気まずいというかいたたまれないというか。なのに胸ばかりがざわついて、なかなか状況を脱することができない。一瞬のような永遠のような出来事が、目まぐるしく頭の中を駆け巡る。唇が触れて、けれどそれは偶然ではなくて、ということは必然であって、もう影法師などどうでもよくて初めての行為で伝えられた好意でだってあれは────。

「ふふっ。な―に赤くなってんのよあまのじゃく」

 ようやく進むことを思い出した時間。けれどまだ僕はその流れに乗り切れない。

「……」

「あら、もしかして初めてだったかしら?」

「……うるさい」

 軽いノリ。僕の持つ拙い常識に当て嵌めたところで、事実と挙動が結びつくことはなく。不相応なものが相応になる道理はなかった。だからこそ────ありのままになれた。

「……変態なのは知れていたが、まさかここまでとは……! このビッチが」

「だれがビッチよ!?」

 いつものやり取り。しかしその実、脳内回路が一時的にショ―トして考えずに済んだだけのことなのは秘密にしておく。

「よくも僕の純情を弄ぼうと……ッ!」

「弄ばれた?」

「バカを言うな」

「あら残念」

 溢したそれは魔性の微笑みか。

「まっ、安心なさい。今のはいつかの感謝よ。他意はないわ」

 言いながら、指で自分の額を軽く叩く北条。

「やけに友好的な感謝だな、おい」

「知ってる? 綺麗な女の綺麗なキスには魔法が宿るのよ」

 キス────ダメだダメだ、考えたらあいつのペ―スになる。

「綺麗な……女?」

「目の前にいるのは?」

「変態ビッチナ―ス美咲たん」

「……あんた、その名前を他の人がいる前で呼んだら怒るわよ?」

 それにしても、怪談を聴いて怪異に触れて、最後には魔法ときたもんだ。なんともファンタジ―な夜だこと。

「ちなみに、どんな魔法をかけてくれたんだ?」

「ナ―スが患者に願うことは一つでしょ?」

 早くよくなりなさいよね。そう言って北条は僕の後ろに回り、車イスを押しながら皆のところに戻るのだった。

「唇はちゃんと”大切な人”のためにとっとくのよ?」

 からかい言葉を頭上から落として僕を冷やかすあたり、本当に他意はなかったらしい。ホッとしたような、でも少し……ったく。なんなんだろうな、この感情は。

 ────とりあえずあまのじゃくになって反抗しようとしたが、戻ってきた北条を待っていましたと言わんばかりに早速、マッチョさんが忠告の名の下教えを与える鉄槌の如き拳で病院(リング)に沈めたのでやめておいた。

 ────振り返ってみても、なんとも可笑しくて謎に満ちた一時だったように思う。それはもう、願えばなんでも叶うだなんて夢物語さえ容易く信じてしまえそうなほどに。そんな夜の話を一つの余談で締め括るなら、理由はきっと異形の存在への畏れだろう。トイレについてきてくれるよう恥ずかしそうにせがむ死にたガ―ルは、笑えるくらいに可愛かった。

────この日、寒風に晒された絶望へと続く遊歩道で、いくつかの奇跡が芽吹いたことを僕はまだ知らない。


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