第六話 黒い犬
無機質なコンクリートの上に、殴り書きしたかのような太い血の筋が走る。それを辿るようにして走るアベル。リィンは置いていかれない様、ついていくのが精一杯だった。
曲がり角で大犬とアベルの姿が見えなくなっても、水路に沿って伸びる道は一本。息を切らせながら走り、ようやくアベルの姿が見える。三方向を高い壁に囲まれた袋小路。大犬に追いつき、対峙している形。
「あの人――」
「……無理だ、もう死んでいる」
助けなければと声を上げるリィン、アベルは大犬との間に彼女を隠すように動いた。リィンは危険な状態の人間を助けたい一心で気づかなかったが――アベルには、その男の姿に見覚えがあった。
――二人にホテルの場所を教えた、下品な男である。そんな彼は、虎の更に一回りほどの大きさもある大犬に喉元深くまで食いつかれ、既に息絶えていた。力なくされるがままに引きずられる四肢を見て、既に手遅れだとアベルは悟る。
これまでの大きさの野生動物が街中にいる、ということ以前に、その外見がこの世のものではなかった。夜なら見間違いということもある。しかし、まだ日は高くに上がっており、アベルの見間違いなどでは断じて無い。まるで光を吸収している黒体のように、凸凹の全く無いシルエットのように、そのフォルムがくっきりと黒で現れていた。
「まさか自分から尾を出してくるとはな……」
――“悪魔”。
つい先程まで二人で話していたそれが、目の前に現れたのだった。
姿形は決まったものではなく。翼が生えているものもいれば、人と全く同じ姿をしているものもいる。そういう意味では、今回二人の前に現れたそれは非常に分かりやすいものだった。
「――――」
「――っ!」
大犬は男をその牙で咥えたまま、コンクリートの壁に大口を開けている用水路の出口へと飛び込んだ。逃がすわけにはいかないとアベルが追おうとするも、その奥は日の光が入らない暗闇の世界――大犬のホームグラウンドといっても過言ではない場所で。歯噛みをしながらも、踏みとどまるほかなかった。
「……ねぇ、アベル……」
リィンが声をかけたのは、宿へと戻るために血の後を辿り元の場所まで来たところだった。彼女が指さしたその先にあったのは、コンクリートの上にある血溜まりと――
「……吸い殻……?」
そこに散らばっていたのは
「ゴミ……だよね、やっぱり」
「……あの男、規則を破っていたのか」
あたりの壁や床に、押し付けるようにしてつけられた焦げ跡。男は監視カメラのない場所で、日常的に規則を無視し続けていた。
「街の死角をわざと作り、餌となる人間を誘い込んでいるのか?」
管理者を操り街の規則として処刑者を出していても、どこかに穴ができてくる。雁字搦めにして抑圧するよりも、こうした分かりやすい“餌場”を作った方が違反者が出てきやすいのだろうと、アベルは推測する。
二人の目的は最初から決まっている。
悪魔の都合のいい餌場となっているこの街を、見過ごせるわけもなかった。
「おい。この街に住んでいて、“黒い犬”の話を聞いたことはないか」
「な、なんだよ急に……」
ホテルに着くなり、フロントにいた男に詰め寄るアベル。
「“見えないところでゴミを捨てると、大きな犬に襲われる”みたいな噂を聞いたことはないかな? もしくは、試して襲われたことのある人の話とか」
リィンの質問に、何を言っているんだという表情をする。
「万が一見られたら即死刑なのに、試す奴なんていねぇよ。……だけどもまぁ、知らないうちに人がいなくなる、つうのは聞いたことがあるがな」
もともとこの街では死罪になる行為なのだから、どちらも住人にとっては変わらないこと。『もしかしたら、ガキを躾けるのに誰かが考えたんだろ』という男の態度に、二人は今見たことを話したところで信じはしないだろうと察した。
「……今日の夜、死にたくないのなら何か見ても知らないふりをしていろ。“黒い犬”を見てもすぐに知らせなくていい。次の日の朝にしてくれ」
最後にそう伝えて、リィンとアベルは部屋へと戻った。
二人が悪魔を見つけたということは、向こうにも二人の姿を認識されたということ。今日の夜にでも、闇夜に紛れて襲ってくる可能性をアベルは危惧していた。
「優しいんだね」
「別にあの男がどうなろうと知ったことじゃない。ただ、余計なことをして殺されてしまっても面倒だからな」
アベルは頭の中で、街に訪れてからの情報を整理していく。
定期的に災害的豪雨に見舞われる街、雨の街エマルビア。
その街で定められた“街中でゴミを捨てると死罪”という規則。
そして人を襲う、黒い大犬の姿をした悪魔。
規則は街の管理者であるベンジットが定めたものだった。
悪魔がベンジットに規則を作らせたのか。人の命を食うために。
そうなると、邪魔者である自分達に何かしてくる可能性はある。
管理者としての権限で街を追い出すことも。
「明日の朝、向こうが動きだす前にもう一度話をしに行く。早めに寝ておけ」
「……アベルは寝ないの?」
くるくる回るベッドの上で仰向けになりながら、リィンがアベルを心配する声をかける。アベルはベッドに横になるでもなく、ソファーに腰掛けるでもなく。窓際の壁に寄り掛かるようにしていた。
「俺は睡眠をとらないでも問題はない。明日、管理者の家に乗り込むぞ」
回転しながら眠りに就くリィンと、一晩中起きて警戒を続けたアベル。そうして二人が迎えた次の日の朝は――エマルビアに訪れて初めての雨模様だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます