第五話 悪魔憑き《ディーブッグ》

「――っ!?」

「リィンっ!」


 寝たままの状態から、上体を勢いよく起こし――ピアノに触れようとしていたリィンを一喝したベンジット。この老人のどこからそんな声が出たのか。もともと人見知りだった彼女は、怯えるように肩を震わせ、ピアノから離れていき謝罪の言葉を口にする。


「……勝手に触ろうとして……ごめんなさい」


 そのままリィンは、アベルの後ろに隠れるように移動したのだった。


「すまない、こちらの監督不行き届きだった」

「……素人に手を触れられては音が歪んでしまう。今の私では満足に演奏もできないが、それでも最高の状態に調律している。儂も咄嗟とっさに大きな声を出してしまったのは悪かった。驚かせて申し訳ない」


 リィンは素直に謝り、そしてベンジットも必要以上の大声を出したことを謝る。しかし緊張した空気は依然として続いており、アベルが解決したい問題は依然として好転していない。


「こちらの話に戻っていいだろうか」

「この街において――」


 力の入りにくい身体を起こし、女給の手を借りながらベッドから降りる。杖をつきながら、アベルのすぐ目の前まで寄って行く。老化により腰が曲がり、目線は身長の高いアベルの胸あたり。そこから、睨みつけるようにして見上げていた。


 ――ベンジットの身体は非常に小さく見えた。

 しかし、静かな、じりじりとした圧力をアベルは受ける。


「決められた場所以外で『ゴミを捨てる』という行為は――『自らの命を捨てる』という事と同義だ。規則を守れない者は、この街にいる資格などない。住みよい環境を用意されている側である以上、それを維持することに協力するのは当然の義務だ。欲望に負ける者なんぞは……人ではない」


『話は終わりだ』と吐き捨てる。

 ――掃き捨てるように、吐き捨てた。


 冷静さを湛えたベンジットの目に、アベルが外部から見えない程度に警戒を強めた。リィンもただならぬ気配を感じ、先程の一喝によるものとは別に身体を縮こませる。


 …………。


「……これ以上用がないのなら、お引き取り願おう。些か疲れてしまった」


 そして数秒の沈黙の後、言葉を発したのはベンジットの方だった。部屋に控えていた女給に、アベルとリィンを玄関まで送るよう命令をしてベッドへと戻った。








「……ねぇ、アベル……」


 屋敷から出て、まっすぐに宿にしているホテルへと戻る。街の中でも一段低い、用水路の通ったコンクリートの道を歩く二人。人通りがないことを確認してから、リィンがアベルの名を呼ぶ。


「――あれはもうアタリで間違いないだろう。手帳に出てきたんだ、この街にいることは疑いようがない。十分すぎるほどに異常は出ている」


 アベルも、周りの監視カメラの数を確認しながら小さく応えた。


「……悪魔憑きディーブッグだ」


 悪魔憑きディーブッグとは、“悪魔に唆された者たち”を指す呼び名である。この世界にいる百体あまりの悪魔は、どこかの街に住み着くと自身の欲望のために、大小様々に人を唆す。悪魔に抵抗できる人間などごく一部を除いておらず、本人の自覚もないままに、しかし奴隷の如く操られるのが殆どのケースだった。


「うん……でも……」

「最初のコンタクトで尾が掴めると思ったんだが、甘かったか」


 ――その欲望は悪魔それぞれ。単純に食料を大量に用意させる悪魔もいれば、ひたすらに死を望む悪魔もいる。


 過去にアベルが出会ったのは、人間の不幸を見ることが目的だという悪魔だった。一貫性のない悪魔憑きディーブッグの行動に予測が立てられず、後手後手に回らなければならないという苦労話ナシでは語れない出来事である。


 少し知恵の付いた悪魔であれば、自分の身の危険を察知することもある。自分達悪魔にとって邪魔な存在を、ひたすら人の手の届かぬ場所に監禁するという手も使ってくる。現に、していた時の記憶がアベルの中にはある。


 ――そんなときだった。


「ヒィっ!? な、なんだお前……こっちに――っ」

 

 人気のない場所で聞こえてきた、悲鳴混じりの男の声。そして突如くぐもったものへと変わり、それから先は聞こえなくなる。日常とはかけ離れた“何か”。


「リィン、付いてこい! 離れるんじゃないぞ!」


 不穏な空気を察知し、走りだすアベルとリィン。アーチ状になった橋をくぐると、床には引きずるように伸びた血の跡と、タバコの吸殻が散乱していた。


「言った側からか……!」


 コンクリートに延々と続いている血の跡を追い、走る。声を聞いたのが、ほんの十数秒前のこと。引きずりながら移動するにしても早すぎた。人一人ができるレベルを越えていた。


 アベルが追いついた先で見たのは――


「こんなことができるのは、複数人で動いているか、もしくは……」


 喉元に深々と食らいついていたのは、黒々とした――まさに“影”としか形容できないような、大きな犬の姿だった。


「――悪魔」

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