10.王子はヒロインではなく、姫が欲しい
「手の掛かる姫様だね。ここまでならないと、休んでくれないなんて」
くたっと壁に寄りかかり、キスを待っている婚約者に玲は一つ苦笑いをする。
目を閉じている彼は、既に夢路を歩き始めているのだろう。静かに寝息を立て、かっくんと一つ首を動かす。それによって目を開けるも、眠気が優ったのだろう。目を閉じてしまう。
優しく唇を舐めてやるも、「ん」という言葉しか出ない。
少し体を押してやれば、ずるずると倒れていくため、その場で横たわらせてやった。
「可愛い寝顔を見るのは久しぶりだよ。最近、まったく見れなかったから。毎日焦らしプレイをするって約束をしたのに、君は僕と一緒に寝てくれないんだからなぁ」
小さな独り言を呟いた後、彼の傍を離れ、布団を敷きに移動する。
それが終わると、婚約者を布団に入れてやった。あどけない寝顔に頬を崩し、首にキスの痕を付ける。
「おやすみ豊福。今日は勉強をさせてやらない。これは僕からの命令だ」
聞こえていない眠り人に命じ、電気を落として部屋を出る。
早足で向かう先は自分の部屋。そこで寝るわけではない。寝るのは彼の隣だと決めている。ただ、やるべきことが残されていた。
自室に戻ると、迷うことなく自分の机に着き、山積みになっている資料に手を掛ける。これは婚約者のスケジュールと、勉強の範囲、そして関わる教師たちの情報だ。
婚約者は知らないだろう。自分がこうして情報を手にしていることを。
すべては祖父からの警戒心だ。
あれが過度なスケジュールを組ませるなんて、何か理由があると考えている。賢い祖父は分かっているはずだ。婚約者の限界を。
非効率的なやり方など毛嫌うはずなのに、今のやり方はまんま非効率だ。このようなやり方では、いずれ婚約者が病気になってしまう。
「僕を試しているようにしか思えないんだが。たとえば『小泉彩』という教師」
婚約者にフランス語と礼儀作法を教えていた、この女性。
家系は代々医者のようだが、彼女だけ家庭教師の道を選び、生徒に勉強を教えている。他の兄弟は皆、医者に対し、彼女だけ……祖父はどうしてこのような女性を家庭教師に選んだのか。普通は家系と家庭環境を踏まえて勘繰るだろう。
情報によると、かなりプライドが高いそうだ。婚約者につらく当たっていたのは、生徒が名家ではない落胆と、嫉妬からによるものだろう。
庶民出身のくせに財閥の婿養子になる、それが向こうからしてみれば小癪なガキに思えたのかもしれない。
身分の無い世の中というが、そんなことはない。現代の社会とて職柄や年収等々によって見えない身分を作っている。身分は今も昔も存在している。ただ目に見え難くなっただけであって。
御堂財閥はまがりものでも財閥の名家。
知名度を欲し、家庭教師をしたいと志願する教師は多い。彼女もその一輩にし過ぎなかったのだろう。
今頃、彼女は自分の失態に気付いていることだ。
婚約者に向けていた感情が原因でクビになってしまうとは。自分の発言ひとつで、家庭教師を変えられ、それどころ教育に差があると返される。
御堂財閥の知名度は高い。だがリスクも高い。一度失敗すれば、どうなるか、彼女は身をもって知ったことだろう。
「クビだけで済むならいいけどな」
ああいう輩ほど、父は毛嫌いしている。
なんらかの形で彼女の家に泥を引っ掛けるのではないだろうか。
詳しく聞いたことはないが、過去に母も同じ目に遭っていたそうだ。それを父が守っていたと聞く。婚約者のやつれ具合を一目にするや、すぐに気付いたのだ。家庭教師の下心と醜い嫉妬に。
彼には言っていないが、この家には防犯用に各自監視カメラが付いている。
玲が婚約者の腕のことを知っていたのも、そのカメラのおかげだ。
滅多なことではカメラの映像を見返すことはないが、なにか遭った時のために備えてある。その映像を父は送りつけ、「これが教育の一貫ですか?」と問うことだろう。
財閥は常に地位と名誉を狙われる。父は狙った奴等を、決して見逃さない。そうして家庭を守ってきた。祖父とは違うやり方で。
「斎藤春子先生は豊福に合った先生だ。彼のペースをよく分かっている。多くの財閥の子供を相手しているだけあって、いい目を持っている。財閥の生徒に必要なのは、ゆとりある時間、だということも」
ファイリングしている資料から、小泉彩の情報が載った紙を抜きだすと、四つに破く。
「あの狸ジジイ」
自分がどれだけ婚約者に心を寄せているのか、それを分かっておいて、あんな人間を派遣させるとは。
苛立っている自分を楽しんでいるのかもしれない。
思うように言うことを聞いてくれない孫の弱点は彼だ。その彼を翻弄させれば、孫も言うことを聞くだろう。見え見えの悪意に唾を吐きかけたくなる。
「だから、僕は縛り付けるしかない。豊福を縛り付けるしか守れる手段がない」
日に日にやつれていく婚約者は、忠実に祖父の命令を守っている。
自分の休め、という命令を笑って流し、「先輩の隣にいたんっす」の理由で、スケジュールをこなす。どうしたらあの無茶を止められるだろう、いつもやきもきしている。
「お嬢様。さと子です。入っても宜しいでしょうか?」
親指を噛んで一点を睨んでいると、廊下からさと子の声が聞こえた。
「ああ、悪いな。呼び出して。入ってくれ」
静かに障子を開けて、中に入って来るさと子が会釈をしてきた。
堅苦しい。今は女中ではなく、友人として接して欲しいと頼むと、彼女はやや態度を崩した。
「お嬢様。空さまのご様子はどうでしょうか? かなり参ってしまっていましたが」
「家庭教師がかわってから、すこし元気を取り戻したようだ。僕の見ていないところで、ずいぶんプレッシャーを掛けられていたみたいだね。さと子、教えてくれありがとう」
「いいえ。私は……お友達として、見ていられなかったので。自分は出来が悪いと思い込んでしまって」
「あいつも自意識過剰だ。自分は勉強をすれば、なんでもできる奴だと思っている」
「ち、違いますよ。空さまは」
「分かっている。僕の婚約者として見合いたい、そう思っているんだろう?」
こくこくと頷くさと子は、「お嬢様は愛されているのですよ」その愛が今回仇になってしまったのだろうと指摘する。素直に愛だとは受け取れず、曖昧に笑ってしまう。彼が無理する理由のは愛ではなく……やめよう。拗ねるだけ醜い気持ちがこみ上げる。
せめて、限界だと自分に相談してくれたらいいのに。見栄を張る姿ではなく、素の姿を見たい。今のところ弱っている彼を見ることはない。
「さと子に、少しでも弱音を吐いているようなら、僕も安心だ。あいつが、悩んでいたらまた声を掛けてやってくれ」
「それは勿論です。ただ、空さま自身が気付かせないことが多いので、私も寂しい限りなのですが」
「あいつの得意分野だ。豊福はうそつきだからね」
あのうそつきさえどうにかすれば、もっと楽に接することができるだろう。
だが嫌いではないのだ。あのうそつきなところも。玲はひっくるめて好きになったと思っている。
「好きな人の前では、うそつきになるんでしょうね」
「え?」思わず聞き返してしまう。
「だって」さと子は苦笑いを零した。
「私は何度もお嬢様に言った方が良いと言ったのに、心配かけたくないの一点張りだったので。空さまはそうして、いつもうそをついてきたんじゃないかって」
うそをついてまで心配させたくない、そうだ彼はいつもそうだった。
鈴理と付き合っていた時も、そうやってうそをついていた。自分はそんな彼を見たくなくて近付いた。
「豊福自身に、何かあるのかもしれない」
「だったら聞いてみるのも手じゃないでしょうか? 好きな人のことって、何でも知りたくなりません? 私もよく博紀さんに声を掛けてしまうんです」
玲はさと子の片思い相手を知っている。
見れば分かるのだが、わざわざ彼女の方から教えてくれた。
あの人は優しい。なんでも失敗を庇ってくれる。ドジな自分を励まし、支えてくれる。憧れの人であり、素敵なお兄さんだと。そんな彼に積極的に声を掛け、なんでもいいから話題を振っている。小さなことでも彼が知れたらいい。そう思って。
「お嬢様は知りたくありません?」
「いや、そうだな……知りたくないと言えば嘘になるが。あいつ、うそつきだし、自分のことなんて話してくれるかな?」
こういう時、恋敵の鈴理なら話すのだろう。
次第に脹れ面になってしまう。嫉妬だと分かっていたが、それでも拗ねずにはいられない。
「僕に話してくれるかな」
「ええ、きっと話してくれますよ。だって空さまはお嬢様のことが大好きじゃないですか。知っています? 自分が弱っていると、無意識に好きな人が恋しくなるんですよ」
さと子にこれからも婚約者のことを頼むと頭を下げ、しばらくファイルの整理をする。
明日の勉強範囲と家庭教師を確認した後、それらを片付けて自室を後にした。
婚約者の部屋に戻ると、溜息が零れてしまう。二時間ほど部屋を空けていたのだが、その間に彼は起きたようだ。机に着いている。
「豊福。起きたのかい?」
首だけ動かし、彼が小さく笑う。
「目が覚めてしまって」
見え透いた嘘にまた一つ溜息。本当は眠いくせに、勉強のために起きたのだろう。
しかし、彼は本当に目が覚めてしまったようだ。机上には筆記用具すらない。
そんな婚約者の手元には、写真立てがふたつ。中身を拝見させてもらったことがあるのだが、二種類の写真立ては各々写っている人物が違う。玲は諸事情で生い立ちを知っていたし、彼からも実親と育ての親のことを聞いていた。
どちらも大切な両親なのだと語っていた彼にとって、あの写真立て達はお守りであり、精神的な支えなのだろう。それを眺めている、ということは、彼が弱っている証拠。
「ホームシックかい?」
おどけ口調で言ってやると、「分からないです」と空が返す。
「ただ、ふと目が覚めて……誰もいない空間に違和感を覚えたから。まだ両親は仕事かな、とか思って。だから写真が眺めたくなって。変ですね、小さい頃の癖が抜けていないんですよ」
違和感ではない、それは寂しいという感情だ。
なのに、彼は違和感と口にする。
「親が仕事でいないと、なんとなく思うんです。このまま帰ってこないんじゃないかって。俺を置いてどこかへ行くんじゃないかって」
「そんなことないよ。君は愛されているじゃないか」
「でも、俺は本当の子どもじゃない。だから、少しでも両親の好きな子どもでいよう。そしたら、ずっと置いてもらえる。そう思って」
仕事で遅くなる、ごめんね。それに対して大丈夫だよ、と笑った。
明日仕事になった、ごめんね。それに対してひとりでもへっちゃら、と笑った。
来月には約束のオモチャを買ってあげる、ごめんね。それに対してもうイラナイよ、と笑った。
手の掛からない子どもだったら、両親は傍にいてくれる。だって、自分は本当の子どもじゃない。心配を掛けさせてはだめだ。迷惑をかけさせてもだめ。我慢。がまん。がまん。
「ませた子どもでした。今も、たぶん、そうかな。見栄ばかり張ってしまう」
「豊福」
「変な話を聞かせてごめんなさい。なんとなく、話したくなって」
そうか、うそつきになった本当の理由は寂しさを我慢するため。
ただ皆に心配を掛けたくないから、ではなく、寂しさや苦しさを我慢しようとしていたのか。うそつきになることで、誰かの傍に置いてもらおうとしていた。
きっと彼の両親はそれに見抜き、寂しい思いをしていたことだろう。自分だって一緒だ。そんなことで、嘘をついてもらっても嬉しくもなんともない。
「ごめんごめん。目を覚ましたら、ひとりだった。その現実が怖かったんだね」
否定すると思っていたのに、うそつきは写真立てを元の位置に置いて、また一つ苦笑い。
「俺は怖いんでしょうね。貴方に切り捨てられるかもしれない、現実に」
ずるいと思う。
「先輩。今日だけ、すみません、今日だけ」
うそつきのくせに、ふと見せる素直な一面。弱った一面。特定の人間にしか見せない一面。自惚れてしまうではないか。
「俺が眠れるまで傍にいて下さい。夜は寂しいから」
ああ、自分も大概で重症だ。いつから、こんなにも彼を想うようになったんだけ。
恋は盲目になりがちで、ちょっとしたことで弱点になる。一方で強味にもなる。自分にとって、彼はそういう存在であってほしい。
だからこそ、ああ、邪魔だな。祖父の存在が。
怒りを通り越して、憎しみすら感じる。
婚約者を糸も容易く命令して、弄ぶことのできる祖父が、とても邪魔だ。性差別だけなら、今まで男装で耐えてきたが、今回はべつだ。
「じゃあ、布団に入ろうか。君は僕の時間を削ってまで勉強をしている。疲れているだろう?」
「わ、棘のある言い方。怒ってます?」
「当たり前だ。優先順位を履き違えているじゃないか。君が眠れるまで傍にいるよ。そうだ、眠れるまで豊福の話を聞かせてよ。なんでもいい。君のことを教えてよ」
後ろから腕を回し、彼のことについて尋ねる。
それこそ鈴理が知らないような、小さな思い出話を聞きたい。
そんな醜い本音は腹の中に隠しておこう。気付けば、こんなにも元カノをライバル視している自分がいるのだから困ったものだ。
「もう少し、このままでいてくれますか」
こまったものだ。
始まった頃よりも、ずっと本気で恋する自分がいるのだから。
祖父の呪縛は生まれながら付き纏っている。
ちょっとやそっとじゃ解放されないことも、身をもって経験している。幼い頃はジッと耐えるばかりの毎日だった。
けれど、祖父のせいで自分の人生を棒に振るなんて真っ平ごめんだ。今でこそ女性として生きたい気持ちは薄れていれど、恋や人生は自分の自由に生きたい。
後継者も財閥も正直どうでもいいのだ。玲は玲らしく生きることができたら、それでいい。
そのためにも祖父の呪縛から少しでも解放されなければ。日に日にやつれていく婚約者を縛り付けることで、守ることしかできない。そんな日々に身を任せたくはない。
「え。今度は華道がキャンセルっすか?」
ある日を境に、外に出る習い事が次々とキャンセルされる。
婚約者は自分の受ける姿勢に問題でもあったのかと聞くが、玲は師範の諸事情だろうと返事した。
「だけど、連日のようにキャンセルが続いているじゃないっすか。昨日はパソコンでしたし、その前はマナー講座。こんなに続くものです?」
「悪いことだって続く時があるじゃないか。それと似たようなものだよ。良かったね、今日は一日自由じゃないか。僕と過ごせるよ。嫌かい?」
「嫌ってわけじゃ……ただ腑に落ちないと思って」
察しの良い婚約者が何か感じ取る前に、触れるだけのキスをして話を流した。
今の自分では祖父の呪縛を完全に断ち切る力は持っていない。
だから水面下で動いている。やつれていく彼に少しでも、自由な時間を与えるために。
相次ぐキャンセルは、玲が人物の情報を元に動いた結果だ。
ある者はここの家庭教師より、良い話を持ち掛けるよう仕向け。ある者は夫婦間に闇があったために、それを表に出した。ある者は父伝いに、婚約者の成績は芳しくないため、変えてもらうよう頼んだ。
玲が直接手を下したわけではない。興信所などといった伝手で、間接的に手を下した。金は掛かるが、財閥らしいやり口だろう。
少しでも祖父に抗えていたら、万々歳だ。
「玲お嬢様。蘭子は心配でございます。少し、動きが大きくありませんか?」
協力者のひとりである教育係の蘭子が、玲に進言したこともあった。
計画そのものを否定するのではなく、目立つ動きは控えて欲しいと申し立ててくる。目に余るようなら祖父が動くだろう、と。
しかし玲は冷然と返事した。これくらい行動の範囲にも入らない。
「僕はジジイのやり方に反対しているだけさ。豊福に家庭教師をつけるな、とは言っていない」
「ですがお嬢様。気に食わない教師を切り捨て、空さまに自由なお時間をお与えする行動は……やはり目立ちます。空さまも鈍くございません。何か遭ったのではないか、と思っている様子ですよ」
「変なところで勘が良いからね。けど、僕はやり方を変える気はないよ。こうでもしないと、豊福は倒れてしまう。ジジイは僕の気持ちに気付いている。あいつが倒れる姿を目にする僕の反応に期待でもしているんじゃないかな」
「……ご自分には逆らえない、とお嬢様に見せつけるために、でしょうか?」
「それが気に食わないんだ。豊福の人生は豊福のものだし、僕の人生は僕自身のものなんだ。なのに、あいつは他人の人生すら財として考える仕事人間。家族なんてどうでもいいと考えている」
あの狸は父母のことすら駒と考えているに違いない。
想像するだけで腸が煮えくり返りそうだ。自分達をなんだと思っている。さっさとくたばればいいとすら願う。あれさえいなければ、御堂財閥は、いや御堂一家は穏やかなのに。
借金の肩代わりとして、ここに身を置く婚約者だって、もっと有意義に過ごさせてやるのに。
「豊福の王子だと名乗っている以上、それらしいことをしてやりたい。それに嫌なんだ。鈴理の傍にいた時は、自由に笑って過ごせていたと思うと……金であいつを手に入れた僕の気持ちが汚いとすら思える」
吐き捨てるように吐露するも、蘭子は驚きもせず笑うだけ。
「まあまあ、貴方様が嫉妬なんて珍しいこと。お嬢様は恋に落ちると、とても情熱的になるのですね。誠実でありたい、誰かを守りたい、そして自分に笑って欲しい。恋とは素晴らしいものですね」
「蘭子。この気持ちは男性的なのかな。それとも、女性的なのかな。僕には分からないんだ」
「どちらの気持ちを取ろうと空さまは、受け入れて下さりましょう。女装をするくらいですから」
「……少しは僕に気持ちが傾いていると思ってもいいよな?」
「借金のカタとなった空さまの笑顔を取り戻したのは、誰でもない、お嬢様。貴方様ですよ。自信を持って」
そう言われても、借金で繋いだ関係など脆いに等しいではないか。
命令する従う関係なんて、本当に脆い。ふとした瞬間に気持ちが変わってしまう原因すらなりえる。それが怖いのだ。今の時間が心地よいからこそ、婚約者に負の感情を持って欲しくない。結局は自分の我儘なのだと気付き、自嘲してしまう。
玲の行動は父にもばれている。
書斎に呼ばれ、相次ぐキャンセルの意図を探られた。娘を持つ親としては複雑なのだろう。が、父母も祖父の呪縛に捕まった哀れな被害者。気持ちを理解できるらしい。
特に父は玲と似た立場を経験している。そのため、娘に対してこう助言をした。
「玲。お前の取っている行動は、本当に信用のできる人間にだけ見せなさい。屋敷の人間を簡単に信じてはいけない。相手は私の父、どこで繋がりがあるか分からない。あの人は権力で他人の心すら捻じ曲げてしまう」
過去に辛酸を味わったのだろう。
父は信用を置く人間はひとり、ふたりにしておくよう何度も繰り返した。それこそ婚約者も、女中の友達にも伏せておくように。
庶民出の彼等に権力の脅しは、何にも優って効くだろう。
「覚えておきなさい。お前のいる世界は、まともな世界じゃない。どんなに人道に反した行動でも、権力が強ければ、それが正義として通ることもある。父の行いは常に正しいと見られていた。間違っていても、だ」
できることなら、そんな世界から娘を引き上げたいものだと父は言葉を続ける。財閥の闇を垣間見た。
□
玲の望みはひとつだけ。
祖父の呪縛からの解放されること。
それだけなのに、それが罪とでもいうように、現実が重くのしかかってくる。祖父がいる限り、自分は幸せにはなれない。
「まったく、久しぶりに電話を掛けてきたと思ったら、なんだい。鈴理。急に僕のことを教えろ、なんて。僕に惚れたのかい? だったら、今ここでフッてあげるけど」
『あんたがあたしの下で鳴くのならー……まあ、あたしのものにしてやらんでもないが。おっと、玲をあたしのものにするということは、空も必然的にあたしのものだな。ふむ、それも手か』
「相変わらず品のない女だね。早く大雅に食われたら良いものを」
『ばかめ。あたしが大雅を食らうの『ざけんな犯すぞ!』……あれが、もう少し可愛げがあれば食っても良い。欲求不満だ』
スマホの向こうでため息をつくライバルに、改めて何の用だと尋ねる。
こっちは婚約者の無茶なスケジュールを緩和しようと、あれやこれや手を打って忙しい身分なのだが。出掛かった言葉を呑み込み、自分のことで教えられることなど無いと返事した。
すると鈴理が言うのだ。
「空が妙な質問をしてきてな」
これは聞き逃せなかった。
『質問の内容は“財閥の習い事について”だ。あいつは金銭事情で習い事など受けたことない。だから家庭教師などは初めての経験だそうだが』
「うん。それで?」
『“よく顔色を窺われるんです。財閥関係者だからっすかね? 最初はそんなことなかったのに”と。ご機嫌取りをされることが多いらしいそうだ。一方、あたしはこんな噂を耳にした。“御堂財閥の婚約は本気だ。婚約者につけている家庭教師に、少しでも気に食わないところがあれば切っている”と』
「へえ。ご大層な噂だね」
『やっぱり犯人はあんたか。財閥界の噂は早い。特に善からぬ噂は面白ネタとして、すぐ囁かれる。人の不幸事ほど好きな世界は他にないだろうしな』
「お金が有り余っている分、何か刺激が欲しいんだろうね」
『はぐらかすな。何を考えているんだ玲。悪目立ちしているぞ。何が遭ったのかは分からんが、婚約を負のイメージにさせるつもりか。それはそれであたしは美味しいが』
表向き皮肉を浴びせる鈴理に、お人好しな奴だと肩を竦める。
彼女なりに心配を寄せて連絡をしてきたようだ。婚約者の心配も勿論あるだろうが、鈴理は会えて自分のことについて聞きたいと電話してきた。
つまり、ライバルではなく友人として声を掛けてきたのだろう。
竹之内鈴理はそういう奴だ。
腹の黒さは少なく、表裏の顔もない。婚約者が惹かれてもおかしくない女性だ。もっとも、獰猛という点に関しては感心できないが。
『空を守るために起こしている行動だと思うと、あー腹立たしい。本当に腹立たしい。それはあたしの役目だったのに。あいつはあたしのヒロインだというのに。しかし、残念だったな。あいつの初々しさの殆どはあたしが奪っている。親の計らいで別れる運命を辿ったあたし達は、まさしく王道カップルと言える立ち位置ではないだろうか? ん?』
前言撤回。
鈴理はやっぱりムカつく女だった。
電話を切ってやろうか。こめかみに青筋を立てていると、
『悪目立ちも程々にな。目を付けられるぞ』
彼女は打って変わったように硬い声音で警告してきた。
『財閥の婚約は新たな家の財と財を結ぶための、謂わば儀式のようなもの。しかしながら、空は庶民出だ。遅かれ早かれ、空の家柄は財閥に知れ渡る。五財盟主ともあろう一族が庶民出の人間を受け入れるなど、それ相応の理由があるのだと勘繰られる。
特にあんたは男嫌いで有名だ。なのに、空への想いは周囲にばれている。財閥会合で馬鹿なことをするから」
公衆の面前でキスをしたことを言っているのだろう。鈴理が不機嫌に鼻を鳴らした。
『分かるか玲。あんたの空に寄せる想いは周囲に知られている。そこに、家庭教師の噂だ。賢い輩ならこう思うに違いない。“御堂家の長女は婚約者に入れ込んでいる。なら、婚約者を利用しよう。五財盟主に近付く最速の手だ”と』
「はは、利用? させるわけないじゃないか!」
笑いがこみ上げてくる。
どうして笑えてくるのかは分からないが、玲は一頻り笑った。
机に放っていた茶封筒を手に持つ。中から書類を取り出し、それに目を通す。
一枚目は婚約したその日に、豊福家の借金並びに連帯保証人が記載されている書類だ。もっとも、これは複写。本物は祖父の手元にあることだろう。
書類を斜め読みする限り、一千万円の借金。豊福家の署名。そして借金を作った張本人の署名が載っている。
“
豊福裕作の従兄弟に当たる人間、この男が豊福家に借金を押し付けた。
婚約者は豊福裕作の兄夫婦に当たる子供だから、彼にとって血縁関係がないとは言い切れない人物だ。
二枚目は婚約証明書。割印が押されているそれは、二枚で一組となっている。記載内容は婚約についてと各々御堂家、豊福家の署名がされている。
父達の名前の下には自分達の名前が、その横には拇印が押されていた。彼が御堂家に嫁ぐと固く約束された証明書にしてはやや信憑性に欠ける。
ああ、自分がこの書類を持っているかって?
それは勿論、書斎の金庫から無断で取ってきたに決まっている。
父の悪い癖だ。我が家だからと安心しきって、金庫やスマホの暗証番号を母とお見合いにした日に設定しているのだから。娘の自分だからこそ、容易に見抜ける暗証番号だ。
「鈴理、あいつは誰にも利用させないさ。それこそジジイにだって。豊福は豊福のものだよ。それが叶わないなら、あいつは僕のものだ。どんな手を使ってでも縛り付ける。ジジイには渡さない」
『……玲。あんたは、やはりおじいさまに』
「笑えるだろう? 男嫌いで有名だった僕が、たった一人の男のために翻弄されているんだから。けどね、本気なんだよ。悪いけど、君に豊福を返すわけにはいかない」
返すつもりもない。
だって彼には責任を取ってもらわなければいけないのだから。抑えていた女としての感情を目覚めさせた、彼には。
婚約者なら男性的な自分も、女性的な自分も受け入れてくれると知っている。
「婚約にどんなイメージを持たれてもいいさ。僕はお姫様を守れたらそれでいい。隣で笑ってくれたら、それでいいんだ」
うそ、本当は求めて欲しい。自分が求めているように、彼にも求めて欲しい。ヒーローではなく、王子を求めて欲しいのだ。ヒロインではなく、姫になって欲しいのだ。
「君はヒトの心配をしている場合じゃないだろう? すでに一ヶ月半経った。残り一ヶ月半で結果が出せるのかい?」
『はぁ……警告の電話を入れた筈なのに、これはブーメランだったな。玲、あたしはしつこいぞ。簡単に諦める女じゃないことだけは胸に刻んでおけ』
だって、ねえ、こんなにも王子は姫を求めているのだから。
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