09.私の名前はアーデルハイド
――遠のく意識の向こうでチャイムの音が聞こえた。それは聞きなれた心地良い音。時間を知らせる合図。生徒達に行動を教える鐘の音。
浮上しては沈むその意識を懸命に覚醒させた俺は、鉛のように重たい瞼を持ち上げる。
一瞬きするだけでまた深い眠りについてしまいそうだった。まだ夢を見たい。その気持ちが勝って俺は瞼を下ろす。
けれど、軽く体が揺さぶられた。眠りを妨げられた俺は再び瞼を持ち上げて今度こそ覚醒する。
視界に飛び込んでくるのは目を射す木漏れ日。葉と葉の間から零れる光は直視すらできず、苦痛にさえ思えた。
「おい空。起きろって、授業に遅れちまうぞ」
不意に聞こえてきた声と、覗き込んで来る見慣れた顔ぶれに俺はぼんやりと相手を見つめ返す。
あれ、アジくんじゃん。何しているんだ。此処で。その思いはすぐに打ち砕け、俺はさっきのチャイムが昼休み終わりのチャイムだってことに気付いて血相を変えた。
やっちまった、昼休み勉強する筈が……寝ちまった。
飛び起きるとアジくんと頭をごっつんこ。
表現は可愛いけど、かんなり痛い頭突きを相手に食らわせてしまい、双方身悶えてしまう。
「お、お前。今のは痛烈」
額を押えるアジくんにごめんと片手を出し、俺は額を擦りながら散らばった本に視線を向けた。
んでもって大きく溜息。はぁあ、一ページも進まないまま終わっちゃったな。どうしよう、今日はフランス語が待ち受けているから予習するつもりだったのに。
ポリポリと頬を掻き、深い溜息をついているとエビくんが俺の名前を呼んできた。
顔を上げれば、エビくんが視線を校舎側に流す。俺がそっちに目を向ければ、脱いだブレザーを肩にかけて戻っている元カノの姿が。長い髪を風に梳かせて颯爽と校舎に向かっている彼女の後姿に、俺は瞠目してしまう。
「鈴理先輩」
ぱちぱち。ぱちぱち。
瞬きを繰り返して去っていく彼女を見つめる俺に、「僕達が此処に来たら」彼女が君の隣に座っていたんだ、ぼそっとエビくんが小声で教えてくれる。
鈴理先輩が俺の隣に? え、座っていたって。驚愕する俺に、「ずっと傍にいたみたいだぜ」俺達が来たら、後は宜しくと頼まれたとアジくんが肩を竦める。
言葉を失った。
ずっと傍にいてくれたって、もしかして俺が此処で眠りこけている間、ずっと?
夢路を漂流していた俺なもんだから気付く術すら持てなかった。
改めて鈴理先輩の背を目で追う。早足で歩く彼女の背は見る見る遠ざかっていく。なんで先輩が俺の隣に腰を下ろしていたのか、俺には知る由も無い。
けれど一つ、分かることがある。
先輩、俺、俺を……。
「鈴理先輩! その携帯で俺を隠し撮りしたでしょ! そうでしょ!」
ご機嫌な足取りで去って行く鈴理先輩の背に向かって俺は吠えた。
だってブレザーを持つ手とは反対の手でご機嫌に鼻歌を歌いながら携帯を操作している鈴理先輩の姿を見たらっ、付き合い上、嫌でも分かっちまうよ! あの人、ぜぇったい俺の写メ撮りやがった!
俺の怒号が耳に届いたのか、鈴理先輩が足を止めて振り返ってくる。
起動した携帯の画面を俺側に見せ付けながら、
「残念だったな。写メではない」
と、ウィンク。
視力の良い俺は画面に映っているものが映像だと気付く。ちょ、まさか。
「あたしが撮ったのはムービーだ。コレクションとして保存しておくから安心しろ」
尚のこと悪いじゃないっすか! ナニ考えているんだ、あの人!
「と、盗撮っす!」
「何を言う。中庭で無防備に寝ていた空が悪い。それにこれは盗撮ではなく撮影だ。あんた、野良猫のムービーを取る際、猫に許可を求めるか? 求めないだろ? よってあたしの行為も許されるのだ。あと隠し撮りではない。堂々とあんたの前で携帯を構えた」
気付かない空が悪いとシニカルに笑い、今度こそ彼女は校舎に姿を消してしまう。
残された俺はなんで寝ちまったんだろうと頭を抱える。油断していた。
まさか鈴理先輩から撮影(という名の盗撮)をされてしまうなんて。手を出さないって約束はどーしたんっすか。
いや、あの人のことだから多分、「撮影しただけ。手は出していない」とか言うんだろうけどさ。これが御堂先輩の耳に飛び込まないといいんだけど。あの人は意地の悪い仕置きをしてくる傾向があるから。さすがは攻め女だよな。
ついでに鈴理先輩、俺の人権は無視っすか。俺は野良猫と同レベルなんっすか。
小さな欠伸を零して頭部を掻いていると、フライト兄弟に微笑ましいと笑われてしまった。
盗撮行為に微笑ましいと言われてもあまり嬉しくないのは、俺の認識が間違っているからだろうか? 油断も隙もあったもんじゃないと吐息をつき、俺は散らばった本達をかき集めて立ち上がる。
次いで、迎えに来てくれたフライト兄弟に礼を言った。
最近の俺は勉強に集中し過ぎて、午後一発目の授業に遅れがちだった。担当教師からも注意を受けていたところだったから、フライト兄弟が気遣って俺を探しに来てくれたんだろう。気遣いは本当に助かる。
今日なんて居眠りしちまったからさ。
二人が起こしに来てくれなかったら、俺は午後の授業をすっぽかしていたと思う(それとも鈴理先輩が起こしてくれたのかなぁ)。
「俺達は別に気にしちゃないけど、お前は大丈夫か? 寝れてないんだろう?」
校舎に足先を向けながらアジくんが心配の念を口にしてきてくれる。
「今は三、四時間睡眠かなぁ」
ちょっとシンドイや、俺は苦笑いを零して有りの儘の感情を吐露する。
二人になら気兼ねなく本音を吐き出せた。
「俺、六時間は寝ないと頭が回らないんだ。睡眠を多く取る方だから、ほんと、毎日が眠くてねむくて」
そう二人に零すと、「だよねぇ」エビくんはシンドそうだもん、と眼鏡のブリッジを押して眉を八の字に下げた。
なんで俺がこんなにも睡眠不足かっていうと、先日から淳蔵さんの命令で家庭教師をつけられたからだ。
じき財閥の子息(っていうのかな?)として公の場に出しても恥ずかしくない男になるよう、淳蔵さんが今以上に勉強しろとご命令。
異論は許されないから、当然俺はそれに従っているわけなんだけど、毎日の勉強の濃度がやたら高いんだ。
起床したら学校に行って、学校の勉強。
それが終わったら、家に帰って家庭教師から経済や語学を教えてもらったり、実際に企業を回って現場を見たり、教養の幅を広げるためにゼーンゼンやったことのないテニスとかをやったり。悲しきかな、芸術の成績がすこぶる悪いのに水彩画やお琴やピアノ等いたらん楽器をさせられたり(リコーダーすら不得意なのに!)
とにかく知識人且つ社交的な人間になれるよう、毎日俺は勉強しています。
ほんっと日々がてんてこ舞いでパンクしそうだ。
スケジュールがきっちり決められて、学校が終わったら今日は英会話が待っていますよ。その後はフランス語を学ぶ時間として設けています。明日は社会マナー講座に出てもらいますので念頭に置いといて下さい。
ああ、そうそう、家庭教師から出された課題は忘れずやって下さいねエンドレス。
自分の時間がまーったく持てない。
以前、鈴理先輩が自分の時間が持てなくて嫌だって嘆いていたけど、今ならその気持ちが痛いほど分かる。
将来を背負う令息令嬢の世界は、庶民出身の俺からしてみれば本当に窮屈だ。自分の時間が持てないことがどれだけ苦痛か、もはや表現しがたい。鈴理先輩が金持ちってことで毒づいてしまった中学時代の俺のことを毛嫌っていた理由も普通に頷ける。
おかげさまですっかり寝不足になってしまっている俺は、授業中に居眠りしてしまうことも少々。
寝不足になると偏頭痛を起こしやすくなるっていうけど、まさしくそれで俺は二日に一度は薬を飲まないとやってられなくなった。目の奥がじくじく痛み出して、頭が痛くなるんだよな。寝不足はやーね。
ただしこれは平日に限ったことで、土日は自分の時間を持てる。
淳蔵さんの慈悲なのか分からないけど、通常どおり土日は実家に帰宅することを許されている。
だからバイトを終わらせたら俺は即行で実家に帰り、布団を敷いておやすみなさい。
夕飯だと母さんに起こされるまでグースカグースカ寝て、夕飯を取ったらまたおやすみなさいと寝るのが土日の日課になってしまっている。風呂にすら入らず寝ることも多い。そんだけ睡眠を欲しているんだと思う。
勿論、家庭教師から出された課題や学校の宿題はやらなきゃいけないから、充分に睡眠を取った後、それをこなしている。
今、俺が欲しい時間は睡眠なんだ。一にも二にも三にも睡眠。多忙な毎日を癒してくれる一番の方法が睡眠だから。
嗚呼、思えば思うほど忙殺されそうな毎日だ。
多忙の『忙』は心を亡くすと書くわけだけどさ、スケジュールをこなしている間はマジ心を失くしている気分。
気付けば英語してたり、数学してたり、ドイツ語をしていたり……だもんな。
その『忙』を殺すと書いて忙殺。心を失くすどころか、殺される勢いだ。参ったね、本当に。
「空くん。今日の予定は」
エビくんの問い掛けに俺はなんだっけと脳内スケジュール帳を呼び出す。
「確か今日はフランス語と、俺の苦手な情報処理の勉強がある予定」
「情報処理ってパソコンを使うヤツだよな?」
「うん。今の時代、ワードやエクセルが使えて当たり前らしいんだけど、俺、機械音痴だから。エクセルに使う関数は分かるんだ。SUM関数とかIF関数とか、ただ入力がすこぶる苦手で。先生からも『関数が分かっているのにねぇ』って苦笑いされてっ……パソコンは未知な領域だよ。俺、ついていけないや」
両指でキーボードを打つブラインドタッチとか全然できないし。
だって俺のタッチは一本指打法。両人差し指でキーを叩くことしかできないんだ。
先生からは、絶対に両指で打つべきだって注意を促してくるんだけど、キーの場所も把握していない野郎が両指でキーを弾くとか至難の業だと思うんだよ。まじで。
フランス語も課題は終われど発音に自信がないから予習しようって思ってはいたけど、睡魔に負けてしまうという。
今日の家庭教師が怖いな。
フランス語の先生とかむっちゃ怖いから、ヘマできないんだよなぁ。こんなことも分からないんですかって目で見られるのが超堪える。パソコンの先生は既に俺がどれだけ機械音痴か分かってくれているから、優しく教えてくれるんだけど……憂鬱だなぁ。
しかもフランス語の先生、女の先生なんだけどさ。
フランス語だけじゃなく俺に礼儀作法も教えてくれる先生だから気が滅入る。一々言動をチェックしてくるんだ。俺の口調が最近畏まっているのもこの人のせい。
『―っす』とか言った日には、指し棒で叩かれる。
いつの時代のスパルタだよってツッコミたいくらい指し棒で容赦なく叩いてくる。
だから俺は鈴理先輩達のことを令嬢令息と呼ぼうと思っているし、御堂先輩のこともその先生の前じゃ“御堂令嬢”って呼んでいる。まだ正式な婚約者じゃないから“令嬢”って呼ぶのが正しいんだって。
御堂先輩は「豊福にそう呼ばれても嬉しくないな」って苦笑していたけど、でも呼ばないとあの先生怒るし。
くっそー、あの人の目はまんまロッテンマイヤーさんなんだよなぁ!
アーデルハイド、こんなことも分からないのですか?
どうしてこのような礼儀作法も出来ないのです? アーデルハイド、聞いていますか。アーデルハイド! みたいな目で見られるからっ、俺の心境は『うわぁあああアルプスという名の庶民の生活が恋しい! 山に帰りたーい!』だったりする。
気分はなんちゃってハイジだ。
そろそろ山恋しさに夢遊病になってもおかしくない気がする。
父さん母さん、息子はアルプスに帰りたいです。ヤギ達と戯れたいです。
「ロッテンマイヤーさんに会いたくない。俺、あの人怖いし苦手だ」
ロッテンマイヤーさん改め、フランス語の先生に会いたくないと嘆く俺はグズッと涙ぐんだ。
あの人に会うんだと思うだけでストレスだ。胃がよじれそう。でも弱音なんて吐いてられないから、此処で愚痴るしかない。あの人に会いたくない。
ズーンと落ち込む俺に同情したフライト兄弟が、
「俺。ペーターになってやるぜ」
「じゃあ僕はおじいさんになってあげるから」
と微妙にずれた慰めをかけてくれた。
俺も微妙にずれた感動を覚えて、「クララを紹介するから」と返事した。俺はよっぽど寝不足のようだ。
その日の授業を終えると、俺は真っ先に正門に向かってお迎えの車に乗り込む。
走行中の車内でフランス語の予習をし、御堂家に帰宅すると十字を切って自室へ。既に到着しているロッテンマイヤーさんに挨拶して、地獄のお勉強がスタート。
まったく聞きなれない発音を言わされ、文法の出来具合に怒られ、言動を厳しくチェックされ、これまた礼儀作法がなっていないとお叱りの言葉を多々頂き、パソコンのお勉強へとうつる。
苦手も苦手なパソコンと向き合った後、なんとロッテンマイヤーさんが礼儀作法のお勉強させたいからと急遽お勉強内容を増やされて俺は心中で大号泣。
結局、すべての勉強が終わる頃には夜十時を過ぎてしまった。
夕飯もろくすっぽう食べないままの勉強に俺はマジ泣きしそうになったけど(メシ抜き休息抜きの勉強とか酷くね?!)、なんとか泣かずに一日を乗り越えることができた。
マジもうロッテンマイヤーさん、鬼すぐる! 容赦なく指し棒で引っ叩いてくるんだぜ?!
まだ若いけど(でも三十路は過ぎていると思われる)執拗にビシバシと人を叩いて良いと思っているのか?!
おかげで俺の腕は赤い筋だらけだ。
彼女曰く、筋の数だけ未熟者らしい。そうは言っても不慣れなことばっかりなんだからしょーがないでしょうが。
(ううっ、微妙に痛いんだけど。腫れたらどうするんだよもう)
熱を持っている赤筋に溜息をつき、俺は机上に散らばった教科書類を片付ける。
まだ背後にいるロッテンマイヤーさんは(本名:小泉 彩先生)、俺の出来の悪さに溜息をついていた。
「庶民出身だから仕方がないにしてもよ」
礼儀作法がまったくなっていない。あまりにも酷いわ、とお小言を垂れてくる。
「口調の『―っす』私が聞くだけで27回。気を付けようとする意識が足らないわ。姿勢も一時間で崩れる。フランス語もまだ初歩も初歩なのに教科書の半分しか終わっていない。パソコンのデキなんて最悪。
イイ? 豊福。貴方は御堂家財閥の子息となるの。こんなにも未熟じゃ社交パーティーすら出せないわ。どういう教育を受けてきたのかしら」
ぐっ、こいつ……父さん母さんの悪口を遠まわしに言ったな?
お、お、落ち着け。俺への嫌味だと思って甘受しよう。父さん母さんの悪口じゃない、じゃない、じゃないんだぞ。
こめかみに青筋を立てる俺を余所に小泉ロッテンマイヤーさんは、「出来が悪すぎ」本当に貴方はエレガンス学院の奨学生なのかと失望を垣間見せた。
これは普通に聞き流せる。初対面から言われ続けている嫌味だから。
「あまり酷いようなら、婚約者をおりるべきだわ」
と、こんな感じに辛酸なことを言ってくれる。
この人の中の俺はどんだけ出来が悪いんだろう。
きっと出来て当たり前の世界に身を寄せているから(小泉てんてー自身も良いところのお嬢様らしい。ご両親が医者だとか! ンマ、腹立つ家柄だわ!)、財閥界に戸惑ってばかりの俺に苛立っているんだと思う。
教える身にもなって欲しいとお小言を言われてしまい、俺はぐうの音も出ない。
「申し訳ないです」渋々と謝罪を口にするしかないんだけど、俺が悪いのかこれ! まだ家庭教師をはじめて二、三週間なのにここまで言われなきゃなんないのか?!
ええい、実力に差があるのはしゃーないっしょ! 俺、塾も何も習っていなかったわけだしさ!
なんかものすっげぇ俺ってカワイソー! んでもって逆上しない俺、すっげぇぞ! 此処までぼろくそに言われたら反論の一つでもぶつけてやるレベルなのに!
段々と腹が立ってきた俺の心情など露一つ知らないロッテンマイヤーさんは、「課題は多めに出しておくわ」と極刑を言い渡してきた。
う、嘘だろ。普段だって課題が多いのに。
つい泣き言を漏らしてしまう俺に指し棒が構えられたのはこの直後。掛けている眼鏡のレンズが煌いているもんだから余計に恐怖心が煽られた。
項垂れて感謝の言葉を口にする俺に(課題を出されたらお礼を言え。それが彼女の教えだ)、満足げな顔をしてロッテンマイヤーさんはいつもの五倍課題を出してきた。
絶句どころじゃない。途方に暮れてしまう。
どーしよう、土日も眠れないレベルなんだけど。俺、別の科目も課題があるのに。学校の勉強もあるのに。
それでもこなさいといけないのは分かっているから、やっぱり俺には感謝の言葉しか言えない。
反論とか無理だって。この人、逆ギレしそうだし。
泣きたいような、匙を投げたいような気持ちに駆られていると、ロッテンマイヤーさんは意地の悪い嫌味を一つ。
「貴方の出来の悪さは御堂財閥に報告するわ。せいぜい、婚約を切られないようにしなさい。貴方ほどの実力なら、そこらへんに沢山いるもの」
べっこべこにへこんでしまったのは、寝不足のせいにしておく。
俺はロッテンマイヤーさんを見送った後、参考書や筆記用具を机に置き、小さな溜息を零す。分かっているって、そんな嫌味もらわなくても。
みみず腫れになってしまっている両腕に目を落とし、俺は時計に目を向けた。御堂先輩は部屋で演劇の練習をしているだろう。
さすがに、この腕を見られるわけにはいかない。
俺は自室を出ると、誰にも見つからないように早足で移動する。
向かう先は召使さん達が使用している部屋。博紀さんに湿布をもらおう。そう考えていたけど寸前で足を止め、彼じゃ御堂先輩の耳に入るかもしれない、と顔を顰める。
あの人は心配性だから、何かあったらすぐ蘭子さんに報告するし。なら、あと頼れそうなのは……。
「さと子ちゃん。ごめん、いる?」
さと子ちゃんが使っている部屋の障子の前で声を掛ける。
仕事を終えていたのか、彼女は部屋にいた。スクーリングに備えて、勉強をしていたんだろう。ひょっこり顔を出す彼女の手には、シャーペンが握られている。
「空さま。どうなさいました?」
「ごめんね。勉強中に。ちょっと湿布をもらいたくて」
「湿布ですか。なら、博紀さんが救急箱を管理していたような……あの、お怪我でも」
やっべぇ、博紀さんが管理しているのかよ。困ったな。
頬を掻いて溜息をつく。結局、博紀さんのところに行かなきゃいけないのか。大丈夫かな。
「な、なんですかその腕!」
頬を掻いた際、下がってしまった浴衣の袖のせいで、両腕のみみず腫れを見られてしまう。急いで浴衣の袖に隠すけど、さと子ちゃんは見逃さない。
俺を部屋に入れて無理やり座らせると、浴衣の袖を捲った。
「ひ、ひどい。腫れている。これは、一度タオルで冷やさないと」
「湿布で治るよ。大丈夫」
「いいえ。冷やしましょう。それからお嬢様に」
「ダメダメダメダメ! さと子ちゃん、それだけは勘弁して!」
「へ?」
間の抜けた声を出す彼女に、御堂先輩には黙っておいて欲しいと頼み込む。
理由を求められ、俺は隠し事ができなくなった。御堂先輩に言わないで欲しいと条件をつけて正直に話す。これは自分の出来の悪さが招いた罰だと。ロッテンマイヤーさんからの懲罰だと。
勉強の出来が悪いから、こんな目に遭っているだけだ。
けれど、御堂先輩の耳に入れば、きっと心配する。彼女にだけは知られたくない。これは俺の問題だから。
事情をぽつぽつと語る。
さと子ちゃんは始終静かに聞いてくれた。そして聞き終わると、「分かりました」御堂先輩には言わないと約束してくれる。
「だけど、御手は冷やしましょう。腫れが目立ちます」
「ありがとう。そうしてくれると、助かるよ……あのさ、博紀さんにも秘密に」
「それは無理ですよ。救急箱の管理は博紀さんがやっていますから」
「な、なら湿布はいいかな。あはは、やっちゃった。さすがに、こんなに腫れるとは思わなかったよ」
するとさと子ちゃんが、どことなく泣きそうに笑い、「空さまは出来が悪いんじゃありません」無理しているから勉強が身に入らないのだ、と指摘する。
これは主従関係としてではなく、一友人としての意見だと彼女は呟き、がばっと顔を上げて俺を見つめた。
「もう少し、お勉強時間を削ることはできないのですか? ご無理が過ぎていますよ」
分かっている。
自分のキャパシティーがオーバーヒートを起こしているってことくらい、分かっているんだ。それでも努力を止めるわけにはいかない。どうしても。
「俺、庶民出身だからさ。どうしても他財閥の令息令嬢と差があるんだ。少しでも差を埋めないと、婚約者すら名乗れない。先輩の傍にいられないから」
「そうは仰いましても。空さまはとてもやつれました。お体を壊したら努力も水の泡となってしまいます。なにより玲お嬢様がご心配していますよ。周囲の眼や評価もありますでしょうけれど、彼女を御思いならどうか休まれて下さい」
それも分かっている。
王子が俺の無理に気付いていないわけがない。
だけど、ロッテンマイヤーさんの言う通り、俺の代わりはいくらでもいるんだ。財閥の糧にすらなれない人材なんて、ただの粗大ごみだろうよ。
そうだよ。くそじゃないか。粗大ごみじゃないか。嫌になる。勉強ができない自分が。もっと、努力しないと……いつか切られる。その現実が怖い。
「空さま。お嬢様は貴方様を愛していますよ」
いつの間にか震えている両手を取り、さと子ちゃんが優しく微笑んでくる。
「玲お嬢様は、勉強の良し悪しで空さまを好きになっていますでしょうか? 違いますよね。空さまの人格に惹かれて好きなっています。私も、空さまの人格に惹かれてお友達になることができました」
それは勉強の良し悪しなど関係ない、彼女は小さな両手で俺の手を優しく包んでくれる。
「こんなに努力されているんですもの。必ず実ります。大丈夫。でも、ご無理をされたら、それも無駄になってしまいますよ」
「でも、俺」
「勉強はいつだってできるじゃないですか。空さまの好きな方を心配させてはいけませんよ。ご夫妻だって心配してます。今、やるべきことは休まれることです」
さと子ちゃん、変わったな。
初対面はあんなに噛み噛みで、人に洗濯物を投げつけたり、赤面したり、人見知りしていたのに。それだけ彼女自身が成長しているんだろう。ちょいちょい仕事の失敗は聞くけど、あの頃のようなデッカイ失敗は聞かないし。
「そうなのかな」
俺は友達にそうした方がいいのかな、と聞く。
うん、大きく頷くさと子ちゃんは、絶対にそうするべきだと助言した。
泣けてきた。さと子ちゃんが天使に見えるんだけど。
「父さん母さん、ハイジに友達ができたよ。さと子ちゃんこそクララだったんだ」
「お、お、お休みしましょう。空さま。何を仰られているか、分かりませんよ!」
「大丈夫だよクララ。俺、山に帰りたいとは言わないから」
「私はさと子です、空さま!」
「クララ、大丈夫。ハイジはもう大丈夫だから」
「ふええ、空さまがお勉強のし過ぎでおかしくなりました。ひ、博紀さんを呼んで来ますね!」
半べそを掻いたさと子ちゃんが、大慌てで博紀さんを呼びに行く。
そのせいで結局博紀さんにばれてしまい、俺の腕を見て血相を変えられた上に、どうして黙っていたのだと叱られてしまった。優しいながらも、妙な威圧感を放つ世話役だから、気付けば事情をすべて白状してしまったという。
それでも御堂先輩にだけは知られたくない一心で、このことは黙っていて欲しいと頭を下げた。首を縦に振ってもらえないなら土下座を、と行動を起こしたところで止められてしまい、博紀さんは困ったように溜息をついた。
「仕方がありませんね。お嬢様には秘密にしておきますが……湿布だと臭いで気付かれてしまうでしょう。インナーを差し上げるので、それで隠して下さいませ」
「ありがとうございます。助かります」
「ですが、次、このようなことが遭ったら必ず僕にお申し付けください」
だったら毎週申し付けなければいけないのだども。
一々指し棒で叩かれる度に報告なんて、疲れるだけじゃないか? お互いに。
困ったように彼を見つめると、「貴方様は婿入り前の体ですよ」傷物にされては困ると舌打ちをした。
「時期御堂財閥の御子息になる以上、体は労わって頂かなければ。大体、御堂財閥の御子息を指し棒で叩くとは、いつの時代の教育でございましょうか。今どきスパルタ教育で、成績が伸びるとでも? 伸びているのであれば、話は別ですが……僕からしてみればどう見たって」
「あ、あー……博紀さん」
「それに小泉先生は御堂財閥を舐めていますね。貴方様の出来の悪さを御報告するのでしょう? だったら、してみたら良いと思います。果たして旦那様と奥方様がどうご判断を下すのでしょうね」
にこやかな笑顔を浮かべる博紀さんが怖くて仕方がない。
え、それはどういう意味なの? 世話役の言葉の意味が理解できないまま、俺はその日を終えた。
それから三日は何事もなく、ハードスケジュールをこなす。
腕の腫れも誤魔化すことができた。一緒に寝ている御堂先輩にばれるかなって思ったけど、課題があるという理由で彼女には先に寝てもらっている。インナーを着ていることに疑問を持たれたけど、「寒いんっすよ」で通した。
さてさて、問題はフランス語の課題。
馬鹿みたいにフランス語の課題を出され、思わずぶん投げてしまいたくなる、それ。けど今回のフランス語の嫌味は地味に堪えたため、睡眠時間を削って少しずつ消化していく。
元々睡眠時間が削られていたところに、フランス語の猛撃。
四日目の朝を迎えると、すっかり朝食が手をつかなくなった。夫妻や先輩を心配させないように、なんとかスープを口にするけど、気付けばウトウト。ウトウト。Zzz……だ。
「わっ! 豊福、スープを零しているぞ!」
なんだか、太腿があったかいな、と思ったら、盛大にスープを零してしまう始末。
なのに俺ときたら、「クララが立つ日は近いんっすかね」阿呆なことを言っていた。寝不足と無理が重なった結果である。
勉強し過ぎると頭が馬鹿になるって言うけど、あれは本当だ。頭の中がピヨピヨしているもん。
「ほら、豊福。おしぼり」
「ああ、ありがとうございます。イタダキマス……味がしないですね。これ」
差し出されたおしぼりを食んだ瞬間、御堂先輩がそれを引っ張り出してスープを拭いてくれた。見かねた一子さんが「貴方様」、我慢の限界だと言わんばかりに御堂先輩が「父さま」、腕を組んでヒゲを触る源二さん。そこでやっと自分の失態に気付くのだから救いようがない。
「す、すみません」
寝ぼけていたみたいだと謝罪するも、源二さんは右から左に流し、こう言った。
「空くんの家庭教師の成績が思わしくないと報告が入っている」
途端に千行の汗を流し、「申し訳ありません」謝り倒した。
ロッテンマイヤーさんの嫌味を引き摺っている俺は、もっと睡眠時間を削って勉強しないと、と心の中で焦った。本当に焦った。
お前はその程度の実力だ、と切られることに怯えているのは、俺自身の弱さだろう。それに気付いているのか気付いていないのか、源二さんは話を続ける。
「特にフランス語と礼儀作法が思わしくないらしい。ふむ、なら話は早い。切るか」
もはや絶望である。
切る、ああ、やっぱり俺の努力じゃ財閥令息令嬢の足元にも及ばないと。ご、ごめんよ父さん母さん。豊福家は路頭に迷うみたい。俺の成績が悪いばっかりに。
「そうですね。切った方が宜しいでしょう。相性と言うものがありますし」
「だから僕は若い女性の家庭教師は反対だったんです。可愛い豊福にあーんなことやこーんなことを。僕と一緒にいる時間すら奪われるし。毎日焦らしプレイするって約束も果たせないし」
え、うん? あの先輩?
戸惑う俺を余所に、源二さんが深いため息をこぼした。
「はあ。まったく、こっちの事情を考えて家庭教師を選んでくれたら良いものを。父にも困ったものだ。空くん、申し訳ないね。ちゃんと君に合った家庭教師を選んでくるから」
あれ、話がなんか別の方向に。
先輩に切るの意味を尋ねると、「家庭教師をかえるってことだよ」とのこと。
「成績が良くないということは相性が悪いか、指導法が悪いか、豊福が努力を怠っているかの三つだ。君が僕との時間を削って勉強をしているから、努力の点は違う。ということは、相性か指導法に問題があるということ。なら、さっさと先生をかえた方が早い」
「そ、そういうものなんですか? 家庭教師って」
「さあ。一般家庭事情は分からないけど、僕達財閥の家庭じゃこんなもんさ。相性はどうにもならないし、指導法が悪いなら、その先生に金を払うだけ無駄だろう? 成果の出せない家庭教師を雇って何になるんだい? 邪魔だよ」
ドライ、ものすごくドライだ。財閥の家庭事情。
鈴理先輩や大雅先輩、宇津木先輩の家庭もこんな感じなのかな。
「玲の言う通りだ。どのような環境に置かされ、その生徒がどういう環境で育ち、どれほどのレベルかも把握できず、君の才能を伸ばすどころか妨げになる家庭教師だとしたらそれは不要だ。ビジネスでいえば損害になる」
「ビジネスで考えるものなんですね。勉強も」
「勿論さ。財閥はそういう世界だよ。空くん、今日から一週間、フランス語の時間を増やそう。君の成績にケチをつけるのは、もっぱらフランス語担当の小泉先生だから」
やっぱりあの人か。なんだ、俺のことが嫌いってか?
へいへい、ハイジだってロッテンマイヤーさんのことはでぇきれぇです。
「どうも彼女は君の成績に不満があるらしい。だから彼女が進めているところまで、別のフランス語の先生で教え、その成績を比べてみよう。これで空くんの成績が変わらなければ、君に問題があるし、変われば指導に問題があるということだ」
はぁ、お金の掛け方が違うな。さすがは財閥だ。
「小泉先生を雇ったのは父だが、君にとって損害になると知れば、さっさとかえろと言うはずさ。父は一にも二にも損得で考えるからな。念のために、カメラで確認してみるよ」
「え、源二さん。カメラって? 何を確認するんです?」
「おっと、なんでもない。こちらの話さ」
源二さんが咳払いをする余所で、御堂先輩がぽつりとこんなことを言う。
「豊福。僕に何か隠し事をしていないかい? しても、すぐばれるからね。僕には何でもお見通しなんだから」
もしも、隠し事をしているのなら、その時は覚悟をしておけ。
王子は片目を瞑って、俺に極上の笑顔と最高の脅しを紡いだ。何も悪いことはしていないのに、血の気を引かせてしまったのは何故だろうか。
源二さんの提案はその日の午後から早速始まる。
予定だったお琴やらお茶はすべてキャンセルし、新たなフランス語の先生を呼んで勉強を開始。
その先生は斎藤というおばあちゃん先生で、ハイジに優しくしてくれる、朗らかな先生だった。俺の性格を把握している源二さんが厳選して選んだ先生らしい。
俺のフランス語のレベルを知るために行われたテストは、やっぱり点数が良くなかった。が、おばあちゃん先生は「最初だもの」まずはここから始めましょうね、と言って初心者レベルからスタートしてくれた。
はっきり言おう。泣きたくなるほど優しい!
指し棒で叩くこともなければ、嫌味もない。苦手としている文法ができなくとも、おばあちゃん先生曰く、最初だから当たり前。
「ずいぶんと難しいところからしているのね。基礎ができていないのに、この問題集はハードルが高いわ」
ロッテンマイヤーさんは最初から上級者レベルで教えていたようで(なのに出来が悪いって言われていた俺って!)、成績が悪いのも当たり前だと言ってくれる優しさ。
それだけじゃない。ちゃんと休憩をくれるんだ!
一時間経つと自分がおばあちゃんだからと言って、参考書を閉じると世間話に花を咲かせる。フランスに留学していた話をたくさん聞かせてくれた。
今まで詰め込み授業だった俺にとって天国も天国。まさしくクララのおばあちゃん。すごく良い先生だった。
あんまりにも良い先生だったから、俺はその日の夜、御堂先輩の前でワンワン泣いた、もうガチ泣き。
「あの先生は山に帰りたいハイジの気持ちを分かってくれる、クララのおばちゃんなんですけど! 俺、夢遊病にならずに済みそうです。おじいさん、ペーター、ハイジは都会で頑張っていますよウワァアアアア!」
「……豊福。少し休もうか。うん、何を言っているか分からない」
そんなこんなで嫌いだったフランス語が、とても好きになった。
ロッテンマイヤーさんの課題も忘れて、おばあちゃん先生の課題ばっかりやっていた。課題が少ないから寝る時間を削らずに済むんだけど、ついつい予習を頑張ってしまう。あの先生の授業なら、満点を取りたいってすら思った。
そうして一週間を過ごすと、あらぁ不思議。フランス語の成績にはっきり差が表れたという。簡単に言えば百点テストで満点を取ったか、40点を取ったか、くらいの差が出た。
「これは凄いな。相性でここまで差が開くのか。うん、空くん。これからも、斎藤先生に頼もう。成績の結果は小泉先生にも報告しておくから。今まで指導してくれた彼女にはお礼として“新しい指し棒”を贈ろう」
ロッテンマイヤーさんの指し棒スパルタ教育がばれている。
そのことを知っているのは博紀さんか、さと子ちゃんだけだ。もしや二人が告げ口をしたんじゃ。いや、でも源二さんは聞いた様子もなさそうだし。
「小泉先生は舐めている、御堂財閥を。知名度に目が眩む教師の代わりなんて、世の中たくさんいるんだよ」
源二さんの据わった目に、質問をできる勇気もなかった。
ただただ財閥の怖い一面や、財閥なりの価値観を見せられた気分になっていた。
こうしてフランス語の家庭教師が代わり、ハードスケジュールに少しだけ平穏が訪れた。
おばあちゃん先生の授業がなによりも癒しになり、フランス語の日はいつもご機嫌になっている。
それでも、やっぱりハードスケジュールは変わらない。庶民出の俺には窮屈な毎日だ。
「豊福。やっぱり君は隠し事をしていたね」
大好きなフランス語を終えたある日の夜。
部屋で授業のおさらいをしていた俺の下に、恐ろしいほど綺麗に笑っている王子がやって来た。何の話だと首を傾げると、「君はSMプレイに興味があるのかな?」と言って、シャーペンを持っている右手を取り、浴衣の袖を捲った。
「小泉先生から施しを受けていたそうじゃないか。この腕に」
三拍くらい間を空け、「ゲッ」俺は顔を引き攣らせてしまう。
なんで知っているの?! さてはチクったな、博紀さん! さと子ちゃん!
「ああ、言っておくけど、僕は誰にも聞いていないよ。知っていたんだ。あの夜のことは」
「え? エ?!」
「豊福から言ってくれるかな、と思っていたんだけど……ちゃんと警告もしていたんだけど、君はちっとも言ってくれない。痺れを切らしてしまったよ。ああ、それともわざとかな? 僕に怒られたかった?」
迫ってくる王子の視線に恐怖を感じ、大慌てで椅子を引いて逃げ出す。
もちろん、御堂先輩が逃がしてくれるはずもなく、獲物を壁側に追い詰めて、そのまま壁ドン! 獲物は身を小さくするしかない。
「あ、あの」愛想よく笑うも王子には通じない。
「このうそつき」自分の立場をちっとも分かっていない、そう言って迫ってくる。
「豊福。言った筈だよ。僕は君の関係を縛り付けるって。そして、僕のものにするって」
「い、言いましたよね。俺はちゃんと従うって」
「だったら、なんで報告しないのかな? んー? 自分が誰のものなのか自覚していないんじゃないのかい?」
いや、これは御堂先輩を心配させないための配慮でありまして!
陳腐な言い訳は相手に通じない。笑顔の下では怒りをふつふつと煮やしているようだ。誰の許可を得て、傷を作ったのだと詰問してくる。
これは支配欲の強い男性的な王子の一面かな、それとも独占欲の強い女性的な王子の一面かな。ハイジわっかんなーい……馬鹿をしてみたいけど、空気が許してくれない。本気と書いてマジで怒っているようだ。
「今度から言います!」だからご慈悲を、半べそで頼み込むも、「うそつきの言うことは信用できない」王子は一蹴して目を細めてきた。
「こんな調子じゃ繰り返されそうだよ。僕が何のために君を縛り付けていると思っているんだい?」
「え、えーっと……ハイジが夢遊病にならないために」
「なるほどね。体で分からせる必要がある、と」
「ぎゃあああ! 冗談です! 俺を守るためですよね! 王子カッコイイ! 惚れちゃいそう! 姫ときめくー!」
裏声を使って両手の指を組み、可愛らしく首を傾げてみるも、逆効果だったようだ。
意味深長に微笑むばかりの王子がひとの顎を掬うと、顔を固定して、ゆっくりと右耳に吐息を掛けてきた。瞬く間に期待をしてしまうのは、王子の調教の賜物だと思う。
どんなに忙しくても、彼女は合間を縫って焦らしプレイをしてくる。酷いんだぜ? 煽るだけ煽って放置することもあるんだから。その後、俺がどれだけつらい思いをしていると。
「悪い子。誰のものかを忘れているなんて」
その、耳元で囁く行為はやめてくれませんかね。耳に響く。
「反省しますから」
だから、もうそろそろやめよう。俺はまだ課題が残っている。そう主張すると、また忘れている、と御堂先輩。
誰を優先にするべきなのか、誰のものかを忘れていないのなら分かっているだろうに。王子はくつりと喉で笑う。
「少し時間を置くとこれだ。豊福は悪い子だね」
ぞくぞくっと背筋がわななく。
首に舌が這って……くすぐったいと言えばいいのか、生温かい舌に気持ちが悪いと言えばいいのか。鎖骨に舌が這うと、ぶるっと身震いしてしまう。ここも、俺の性感帯だと最近知った。甘噛みされると堪らない。うう、着実に開拓されているな。くそう。
「豊福、おさらいをしたいなら、僕が教えたことをおさらいしてみようか?」
「せ、先輩の教えた……え?」
「あらら、もう忘れたの? ディープキス」
だったらおさらいをしよう。君が思い出すまで。
お仕置き宣言の代わりに告げられた言葉は、もはや死刑宣告そのもの。
触れるだけのキスから、あっぷあっぷになるキスに代わり、そこからの戯れが長い。息継ぎ時間が極端に短い上に、自分のすることを真似しろって命令するもんだから、そんなむちゃな! と匙を投げたくなった。
無理なんだって。キスをされるだけで頭がぐわんぐわんになるのに、自分からディープなんて。やっと息継ぎが与えられても、足が震え支えることで手一杯。
しかも、その間、耳をなぶられ、もうどうしていいか分からない。
少しでも声を漏らせば、「外に聞こえるよ?」と言われ、我慢するしかなくなる。王子が一番好きな姿らしいけど、俺にはつらいことこの上ない。
最終的に自分からディープをする前に足が崩れ、その場に座り込んでしまう。比例して、頭がぼうっとした。キスによる酸欠なのは分かっていた。
でも、それ以上にあれだ、眠い。もう死にそうなほど眠い。なけなしの体力を我慢に使ったせいで、尚更眠気がきている。
ここで眠れば死ぬぞ、お前は死ぬぞ。課題もあるのに、怒らせている先輩もいるのに、お前は死にたいのか! と、自分に叱咤するも、眠気はピークだ。
「豊福。目を閉じて。キスをしよう」
今、目を閉じれば絶対に寝れる自信がある。
だけど王子の命令ならしょーがない。目を閉じよう。目を閉じて、キスして、それから。それから――……。
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