08.Sleeping Beauty



 その日も鈴理は企業分析に没頭していた。


 場所は学校なのだが、時間が無いためそこに着眼点を当てる余裕はない。

 空き時間中は企業分析に当てなければ、本当に時間がないのだ。三ヶ月と自分で決め付けているため、なにがなんでも三ヶ月で終わらなさないといけない。今日の昼休みも大雅の教室、もしくは自分の教室で分析を進めていかなければ。


 そう気張っていると、事情を知っている早苗が少しは息抜きも必要だと助言してきた。


「うちには企業なんちゃらって分かんないけどさ。息抜きしないと詰むよ。少しは充電しないと」


 彼女の助言により、本日の昼休みは学食堂で昼食を取ることになった。

 企業分析の資料は持っていこうかなぁっと思ったのだが、それでは休息にならないとすっぱり早苗に言われたため、渋々資料は教室に置いていく。


 こうして婚約者や早苗達と共に久しぶりに手ぶらで学食堂を訪れることになったわけなのだが、その途中で鈴理は偶然にも後輩と鉢合わせてしまう。


 いや、後輩というより元カレというべきだろう。

 階段を下りて曲がり角を曲がった刹那、鈴理は生徒とぶつかった。その生徒が元カレだったのだ。相手方は派手に尻餅をつき、持っていた本を散らばしてしまう。


「アイテテ。申し訳ないです」


 ちゃんと前を見てなくて、そう詫びを口にしてくる元カレはぶつかった相手が誰なのか気付くや否や、血相を変えた。


「も、申し訳ないです。鈴理先輩! ……じゃなかった、えーっと鈴理令嬢。お怪我はないですか?」


「大したことは無いが、なんだその畏まった口調は。とてつもなく似合わないぞ」


 眉根を寄せる鈴理に構わず、「良かったっす」と元カレは胸を撫で下ろしていた。が、自分の口調に気付き、「良かったです」と言いなおしていた。


「改めましてこんにちは。鈴理令嬢、川島先輩、それに大雅令息、宇津木令嬢。ご機嫌は如何でしょうか?」


「豊福。テメェどうした。ンなに畏まっちまって。此処は公の場じゃねえぞ」


 大雅のツッコミに、「やっぱ似合わないっすよね」空が口調を戻し苦笑いを零した。

 自分もこの口調は慣れなくて困っているのだと肩を竦める。礼儀作法は常日頃から心がけておかなければ公の場で使えないと教えられ、畏まった態度をとっていたらしい。


 ふーんと鼻を鳴らす大雅だったが、空の持っていた本の数々に目を向け驚きを露にする。彼が持っているのは複数の語学本だった。


「ドイツ語にフランス語、中国語に韓国語だ? お前、いっぺんにそれをやってんのかよ」


「はい。財閥の令息令嬢は英語以外、最低四ヶ国語は喋れないといけないらしいんで。今から習って間に合うかどうか不安ですけど、やれるところはやっていかないと」


「……俺でも二ヶ国語しか学んでねぇぞ。ちと量が多くねぇか?」


「そうなんでしょうか? 俺には分からないけれど、与えられたことはしっかりやっていかないと」


 空は覇気のない笑みを返した。やや、いやだいぶんお疲れ気味らしい。よくよく見ると顔色も優れていないようだ。


「これも御堂先輩のためですから」


 彼はすべての理由をそれで片付け、そろそろ行くと会釈してぶつかったことを詫びて歩き出す。


 ふらふら、ふらふら、まるで蛇行運転でもしているかのような覚束ない足取りは間もなく壁に激突。空は額を押えてしゃがみ込んでしまった。

 なんで此処に壁があるのだと、無機質な壁に対して憤りを見せている。完全に八つ当たりである。


「そ、空。大丈夫か」


 見かねた鈴理が駆け寄って声を掛けると、「ヘーキっす」なんてことのない事故だとよろめきながら立ち上がった。


「ちょっと寝不足でして。いやなんで此処に壁があるんっすかねぇほんと。あ、口調……ゴッホン。なんで此処に壁があるのでごぜぇましょうか。ん? なんで此処にお壁がおありなんでしょうか……あれ?」


「空。無理に畏まろうとすると、単なるギャグになってしまうようだ。今は普通にしておけ。あんた、何も食べてないんじゃないか? なんならあたし達と一緒に」


「あぁあ、大丈夫っすです。俺、今から図書室に行って勉強をしないといけないんっすです」


「うーむ。重傷だぞ空。口調がやたらおかしくなっている。頭をぶつけたせいか? よし、問題だ空。150円のジュースを一ヶ月飲み続けると費用は幾らになる?」


 ここで普段の空ならば瞬時にこう答えるだろ。

 キリリッと真顔で『30日の場合なら4,500円。31日の場合ならば4,650円っす!』と。彼のケチ……じゃない節約心ゆえの計算能力の高さは鈴理も高評価している。そのためすぐに答えられる筈なのだが。


「えーっと、150円のジュースっすよね。150円のジュース……ジュース? はペットボトル入りですよね?」


「なるほどな。深刻な重症者と見た。空が、あの空がお金の計算すらできないなんて!」


 由々しき問題じゃないか、鈴理の指摘にボケボケの元カレは大袈裟だと愛想笑い。

 少し寝不足で頭が回っていないだけなのだと肩を竦めると、今度こそ自分達に会釈して図書室の方に足先を向けてしまった。

 やっぱり足取りはふらふらで、また壁に激突しかねないのではないかと懸念してしまう。


「空さん。随分とやつれましたね。体を酷使してお勉強をなさっているのかもしれません」


 一度に四ヶ国語だなんて無理にも程がある。

 しかも外国語だけではなく、あの様子ならば幾多の勉強を強いられているに違いない。眉根を下げる百合子は次いで、こんなことを言う。

 彼は庶民出身。だからこそ、財閥の生活は酷かもしれない、と。


 財閥の生活は裕福に彩られているように見えて、時間という自由がない。

 将来のため、財閥の存続の糧となるため、自分の持つ時間を費やすのだ。自由な時間を奪われる、それは心が支配されている錯覚に陥りやすい。十二分にその体験をしている百合子は同情を込めて吐息をつく。


「だなぁ」


 大雅は軽く同調した。自分達だって現在進行形で自由な時間が無いと嘆いているのだ。庶民出身の空は尚、窮屈な世界だろう。


「多分、玲のじっちゃんが命令してるんだろうけどよ。あそこまでやつれてちゃ……可哀想に思えるな。あいつも逆らえる立場じゃねえし」


 借金事情を知っているため、強く無理するなとも言えないし、後輩を助けることもできない。

 御堂家と豊福家の事情に第三者は割り込めないのだ。財閥界に身を寄せているといえ、自分達は部外者。何も言えない。できることといえば、気さくに声を掛けて気分を晴らしてやることくらいだろう。


 

(……空)



 鈴理は去った後輩に想いを寄せる。

 傍にいられない苦しさと、無理しているその背中に切なさを感じて仕方がない。


 今、彼はどんな思いで毎日を過ごしているのだろうか。

 それすら鈴理には分かりえないことだった。以前は当たり前のように傍にいたのに。悔恨の念が胸を締める。どうにも元カレの様子が気掛かりだった鈴理は、学食堂で昼食を取った後、手洗いに行って来ると口実を作って後輩の行方を追った。


 居場所はお松のおかげで既に知れている。

 彼は図書室で本を借りた後、とある中庭の木陰で勉強をしているらしい。


 鈴理がその場に赴くと、彼は確かにいた。が、誤報が混じっていたようだ。何故なら語学の勉強をしているであろう彼は木の根元に寝転んで眠りこけていたのだから。


 本を開いたまま眠りこけている元カレの姿に鈴理は苦笑を零し、そっと歩み寄るとしゃがんでその手を伸ばした。木漏れ日を浴びている指先には想い人がいる。

 しかし、すぐその手を止めて目尻を緩める。


「触れない約束だからな。我慢してやるさ」


 こんなにも近くにいるのに触れることすら叶わないなんて、随分と安い悲恋をしているものだ。


 

「このままアンハッピーでは終わらせないけどな」


 

 簡単には玲に渡さない、この存在。


 彼女は知らないだろう。

 彼がどれだけ自分のことが好きなのか。自分がどれほど彼のことを見てきたのか。


 彼女は知らない。

 彼が自分のことをどれだけ守ってくれたか、自分が彼をどれだけ支えてきたか。


 勿論、玲が彼をどれだけ支え、今何処で何をしているのか、自分に知る術は無い。

 知らないところで確かなキズナが生まれているかもしれないし、双方に想う気持ちも出てきているかもしれない。


 けれど自分達だって負けていないのだ。

 どんなに彼が玲の傍にいようと、口で婚約者と言おうと、まだ彼が自分のことを意識している。自意識過剰ではなく、想ってくれると絶対的な確信があった。簡単に自分達が築き上げていた関係を築けるとは思わないでもらいたい。


「空」


木漏れ日を一身に受け、その暖かさに包まれて眠っている元カレに鈴理は一笑する。


「手は出さないさ。手は」


 だがムービーを撮るなとは言われていない。

 そのため、鈴理はイソイソと携帯を構えて彼を映像におさめる。


 撮影の際、大きな音が鳴ったというのにも関わらず元カレは微動だにしなかった。疲弊しているのだろう。


 「うーむ」携帯越しに彼を見やりながら鈴理は唸った。

 つまみ食いは許してくれないだろうか。とても空腹になってきた、性的な意味で。


 噛み付いてやりたい衝動を抑えながら、鈴理は携帯を下げると自分の着ているブレザーを脱いで相手に掛けた。

 微かに瞼を持ち上げた彼だが、またすぐに目を閉じてしまう。本当に疲れているようだ。どれだけ酷使して勉強しているのか、鈴理には想像もつかない。彼の婚約者がきっと全力でサポートはしているだろう。陰で支えていることだろう。癒しとなっていることだろう。




 けれど、彼女は今、此処にはいない。




 彼の隣に腰を下ろし、鈴理は吹きぬける風を頬で受け止めた。傍にいるなとも言われていない。

 だからこうして傍にいよう。せめて無防備に寝ている今この瞬間だけは玲ではなく、自分が王子として、ヒーローとして、一端の攻め女として彼を守りたい。誰にも彼の眠りを妨げて欲しくないのだから。


 チャイムが鳴り休み時間が終わるまでの、その時間までは、あの頃のように。



「攻め不足だ。腹減ったなぁ」



 欲求不満を口にし、鈴理は眠り姫に向かって微笑んだ。




「Good night. Sweet dreams, baby」


    


 必ず、迎えに行くから――。


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