04.俺はそれだけの理由を持っている。



 □



 結局、迎えに来た御堂先輩がイチゴくんに闘争心を向けてしまったために、某ファーストフード店を出たのは九時になってしまった。


 随分長いこと居座ってしまったけど、俺は三人と別れを告げて御堂先輩と共に帰宅した。

 居候の身分で長い時間遊んでしまったことをちょっち後ろめたく思っている俺は怒られると覚悟していた。が、出迎えてくれた博紀さんから告げられたのはお叱りの言葉ではなく、至急大間に来るようにとの要請。御堂夫妻が激怒しているのかもしれない。


 緊張やら不安やらを抱えながら先輩と大間に向かう。


「怒ってるんっすかね。源二さんと一子さん」


「そんなわけないさ。父さまも母さまも、君の引き篭もりの方を心配していたほどだよ? 外に出てくれて嬉しいと思っている筈なんだけど」


 彼女は気鬱を抱く俺に大丈夫だって励ましてくれたけれど、気は重くなるばかり。生唾を飲んで大間に入ることとなった。


 不安が爆ぜたのはこの直後。

 そこで待っていたものはお叱りどころの話じゃなかった。

 何故ならば大間には御堂夫妻、並びに会長の座に腰を据えている御堂淳蔵さんがいたのだから。淳蔵さんも夫妻も長テーブルの片側に腰を下ろしている。妙に源二さんの表情が硬く、一子さんの顔色が優れない。

 また孫に当たる御堂先輩も祖父の存在にドドド不機嫌になり、俺は俺で心構えもなく現れた淳蔵さんに眩暈がした。


 一度しか会ったことがないけど、この人の存在は心構えの一つでもしておかないと気が滅入りそうなんだ。それだけ威圧感が凄い。


 どうにか気を持たせると俺は深くお辞儀を一つ、挨拶をして婚約者と共に中に入る。

 柔和に、だけど何処か翳りのある笑みを浮かべている淳蔵さんは俺達に座るよう指示した。含み笑いが不安を煽るけれど、黙って淳蔵さん達とは反対側の席に着く。


 こうして長テーブルを挟んで向かい合ったわけだけど、嗚呼、空気が重たい。

 なんで今日に限って淳蔵さんが……折角フライト兄弟達と遊んで気分を爽快したのに。これじゃプラマイゼロ、寧ろマイだ。 


 ドッドッドと緊張で高鳴る心臓を抑え付けていると、「何しに来たんですか」御堂先輩が噛み付くように相手を睨んだ。

 「先輩」物の言い方を窘めるけど、婚約者は聞く耳を持たない。前触れもなしに我が家に来た目的を聞いている。まるで脅すように。


 何処吹く風で受け流す淳蔵さんは孫達の顔を見たかったのだと細く笑った。

 これでも孫達が可愛いと思っている。だから顔を見たかっただけだと淳蔵さん。


 孫に複数形が付いているのは、俺もまたその孫に含まれているからだろう。あんまり実感は湧かないけど、淳蔵さんにとってはそうなるのかな。まだ正式に婚約式を挙げていないから、実感がないけどさ。


「さてと孫達の顔を見に来たのだけれど、何故、この時間に帰宅しているんだい?」


 いっちゃんツッコまれたくないところを聞かれてしまい、俺の胃が悲鳴を上げた。よりにもよって淳蔵さんからお叱りを受けるとかっ、どんな苦行だよ!

 俺が返事する前に、「彼は僕と遊んでいたのです」これでも一端の高校生ですから、遊ぶ時間だって欲しいのですよ。

 素っ気無く返して腕を組む御堂先輩に、「別に咎めてはいないさ」子供は遊ぶことが仕事だからね、と淳蔵さん。


 けれど遊ぶだけが仕事じゃないだろう? 遠まわし遠まわしに責め立ててくる。


「財閥の婚約者に相応しい常識やマナーを彼は学べているのかどうか、非常に疑わしい。特に豊福くんは庶民出身。他の財閥令息と比較とその差は歴然、足元にも及ばないだろう。遊んでいる暇などないのだよ。それは分かっているね? 豊福くん」


「……申し訳ございません。反省しております」


「豊福はいつも遊んでいるわけじゃありませんよ。家にいる間、大半を勉強に費やしているのですから。息抜きだって必要です」


「お前は黙っていなさい」


 丁寧口調、けれど有無言わせない声音に御堂先輩が舌打ちを鳴らした。一子さんが御堂先輩を注意するけれど、彼女は視線を畳に向けたままだ。


「まったくお前の躾はどうなっているんだ」


 一変して口調を荒くする淳蔵さんは、ただでさえ息子を産めなかった恥さらしが……と、口汚く一子さんを罵った。


 いつもこんなカンジなんだろう。

 源二さんが一子さんや娘を庇っても聞く耳を持たない。

 御堂家は女系から脱さないとこれからの時代、必ず他の財閥に食われて泡沫と消える。所詮女は男に守られて果てる生き物。ビジネス界にとっては足手纏いなのだと決め付けたように言ったところで、淳蔵さんはころっと表情を変えた。


 「すまないね」驚いただろ? と俺に微笑んでくる。


 このギャップに俺は慣れなかった。

 一貫して罵るような性格ならまだしも、表裏ある性格は慣れない。俺にはそれを意見する権利は無かったけどさ。


「君の使命は二つ」


 財閥の糧になること。そして息子を作ること。


「これが果たせなければ、御堂家に恩を返したとは言わない。分かるね? 君の人生は誰のものか、どうするべきかも」


 淳蔵さんの問い掛けに俺は首肯した。それは以前にも言われたことだ。


“御堂家のために生き、そして死になさい”


 それが俺の尤もすべきこと。今も、そしてこれから先もずっと。


「分かっているなら話は早い。豊福くん、これから暫く家庭教師をつける」


「家庭教師、ですか?」


「既に源二達には許可を得ている。なに、安心しなさい。一般常識を得てもらうために付けるだけだよ」


「で、ですが」


 「問題でも?」威圧さが増す。萎縮しながらも俺は率直に意見した。


「家庭教師を雇うようなお金は、俺のバイト代で賄えるものなのでしょうか?」 


 四万弱の稼ぎだし、家庭教師なんて雇えるかどうか。

 眉を下げる俺の心配はどうやら見当違いだったらしく、淳蔵さんに笑われてしまった。


「君は自分で払う気だったのかい?」


 家庭の生活も満足に賄えないのに、何を言い出すかと思いきや。

 皮肉を向けられてしまうけど、そこは聞き流すよう努めた。本当のことでもあったし。心配しなくとも御堂家直下の家庭教師を配属してくれるらしい。とにかく他の令嬢令息並みに知識とマナーをつけてもらいたい、それが淳蔵さんの命令だった。


 一日のスケジュールも組んでくれたようで、時間配分と勉強内容が記載されたプリントを手渡された。


 俺は驚愕してしまう。

 殆ど勉強一色で息つく間もなかった。

 これ、毎日こなすの? え? 平日はこれを毎日? 塾の強化合宿並みに勉強が詰まっていたもんだから(塾の合宿も地獄だって聞いているからこの表現がぴったりだ)、隣で聞いていた御堂先輩があんまりなスケジュールだと非難する。


 病気をしてしまうのではないか、彼女の言葉に癇癪を起したのか口答えはするなと淳蔵さんが一喝。

 すかさず源二さんもこのスケジュールについて物申すけど、財閥の現状を甘く見るんじゃないと淳蔵さんは鼻を鳴らした。


 今までどおりの生活を送っていると、必ずツケが回ってくる。のらりくらりしている場合じゃないのだ。

 元凶はそこの女が息子を産まなかったばっかりに、跡継ぎ問題でゴタつくのだとあんまりなことを吐き捨てた。別に養子をとっても構わなかったのだと淳蔵さんは冷然と言う。女の孫に継がせるよりかは、ずっとマシな手もあった。

 けれども息子の源二さんの気持ちを考慮して、こうした手を打っている。だからこそ婚約者には見合った教育が必要なのだと権力者。


 それじゃあまるで御堂先輩が生まれてはいけなかった子供のようじゃないか。

 喉元まで出掛かった反論を嚥下して腹の底に沈ませておく。


 今、俺がしゃしゃり出ると火に油を注ぎそうだ。


「彼が無理なら、それこそ別の相手に見合わせる。もしくは養子を作らせる」


 どれだけ御堂先輩に財閥を継がせたくないんだろう。


 女だから? 彼女が女だから駄目なの?


 「養子なら」女の孫より使えそうだ。淳蔵さんの一言に一子さんがやめてくださいと悲痛の懇願。


 同時に御堂先輩が腰を上げて荒々しい足音を立てながら大間から出て行く。

 「あ。先輩!」腰を浮かせる俺に対し、「父さん」源二さんは娘の侮辱はやめてもらいたいと眉根を寄せて反論した。


 どんなに男勝りな子でも、彼女は女の子。物の言い方には傷付く年頃なのだと言う。


 それは弱いからだと淳蔵さんはせせら笑い、だから女は駄目なのだと言い放った。次いで、俺に座るよう命令する。


 まだ俺の話は終わっていない。


「あれは放っておけ」


 随分な物の言い草に俺は握り拳を作る。

 でも追い駆けられなかった。すぐにでも追い駆けたかったのに、俺もまた淳蔵さんの命令には逆らえない身分。腰を下ろすしかなかった。俺には御堂家の家庭事情なんて、よく分からないけれど、分かりっこないけれど、一つだけ分かる。


 御堂先輩は絶対に傷付いている。




 ようやく淳蔵さんに退室許可を貰った俺はその足で御堂先輩の自室に向かった。

 傷心を抱いた彼女が篭れる場所といえば、そこしか思い浮かばなかったから。


 でも御堂先輩はいなかった。

 障子向こうにいると思って声を掛けたけど、応答なし。失礼だと分かってはいたけれど、障子を開けて中を確認した。部屋はもぬけの殻。

 そこで場所を移動して家内をうろつきまわる。御堂夫妻の部屋付近を探し回ってみたり、茶室を訪れてみたり、女中を捕まえて行方を聞いてみたり。さと子ちゃんに聞いてみたけど情報は手に入れられなかった。

 困り果てながら家内をうろついていると、お目付けの蘭子さんに声を掛けられる。俺が彼女を捜していると知ったらしく、情報を提供してくれた。


 そこは庭園の奥地にある蔵。

 さと子ちゃんが以前、蔵の陰で泣いていた場所だ。

 これまたご立派な蔵で瓦屋根が俺を厳かに見下ろしていた。横開きする扉が半開きになっている。まるで蔵の中に招かれているようだ。薄気味悪さを感じつつ、俺は迷うことなく戸を引いて中に足を踏み込んだ。


 月光が差し込むその中は、沢山の物で溢れかえっている。

 一々物を把握することはできないけれど安易に触れてはいけなさそうなつづらやダンボール、木箱が目に付く。貴重品が入っているんだろう。ダンボールの側らで侘しく転がっている掛け軸の束を見つけ、目を細める。

 埃が舞い上がっているのが月光の青白い光によって分かった。あまり空気の入れ換えはされていないらしい。まるで此処だけ時間に取り残されたような、褪せた空気を肌で感じる。


 積み重ねられたつづらや木箱の間を過ぎって俺は彼女の存在を探した。

 俺の王子は一体何処にいるのだろう?


 視界の利かない蔵を覚束ない足取りで歩いていると、微かに物音が聞こえた。

 天を見上げれば真っ暗な視界ばかり。けれど圧迫感があった。どうやら蔵には二階があるらしい。聴覚を頼りに俺は不安定な木造階段をのぼり、二階を覗き込む。格子窓から月光が零れているせいか、二階は一階に比べて荷が少なく青白いながらも明るい。


 俺は目を細める。

 捜し求めていた王子を見つけた。

 お行儀が悪いことに、頭の後ろで腕を組み格子窓の下で寝転がっている。窓越しに夜空を見ていたようだ。埃っぽいだろうに、飽きもせず窓の向こうを見つめていた。眼には羨望が宿っている。


 何かを欲するような、うらやむような眼。

 彼女は今、ナニを思って夜の空を見つめているのだろうか?


 静かに階段をのぼきってしまうと俺は静寂を裂くように先輩の名を呼んで歩んだ。

 視線だけ投げてくる王子は「来るな」素っ気無く言い渡し、俺の動きを止めてくる。言われたとおり、足を止めた。それを合図に上体を起こした彼女は、すぐに此処から立ち去るよう命じてくる。


 今は誰にも会いたくないし、口も利きたくないし、傍にいて欲しくない。

 放つ言葉にはやけに茨が巻かれていた。そして、その言葉は嘘偽りにしか聞こえない。彼女の本音ではないのだと、すぐ理解する。


 だから俺は返事した。


「嫌です」


 ひたすらに格子窓を見つめている彼女は慰めにきたのは分かっているのだと鼻を鳴らす。

 けれど、その感情は今の自分にとって不要なのだと苛立たしげに舌を鳴らした。嘘だ。表情こそ見えないけれど、背中が嘘だと物語っている。


 傍にいることは迷惑かと質問をする。

 一瞥もすることなく、迷惑だと返事する御堂先輩。そんな彼女に近付くことにした。だって口にすることと放つ態度が180度違うんだ。傍に行かなければいけない衝動に駆られた。


「傍に来るな!」


 鋭い怒声が鼓膜を振動させる。

 もう二、三歩の距離。三歩進めば、彼女に触れられる距離まで俺は近付いていた。

 気配で分かったのか、彼女はしきりに離れるよう命じてきた。あの彼女が俺に本気で“命令”しているんだ。命令されたら最後、俺は従う他ない。そういう身の上だ。


 これ以上の接近は無理だと判断し、俺はその場に腰を下ろした。

 正座をして相手の背を見つめる。学ランを身に纏っている王子の背が妙に小さく見えた。

 ようやく一瞥してきてくれた彼女は、「なんでそこにいるんだ」離れろと言っただろ? と問いかけた。「離れていますよ」目分三歩ほど、返答にふざけるなと一喝されてしまう。ふざけてはいない。本当のことだ。


「どうしても傍にいては駄目ですか?」


 俺は貴方の傍にいたい、そう告げると慰めは要らないのだと繰り返した。

 次の言葉に胸を抉られた錯覚に陥った。「男の慰めなんていらない」与えられるだけ不快なのだと王子は言う。つまるところ、今の彼女にとって男の俺は不快でしかないということらしい。

 だから傍にいて欲しくないのか。三歩分の距離が性別の壁を思わせてくれた。

 それでも俺は今の彼女を放っておけない。「傍にいたいんです」俺もまた想う気持ちを繰り返す。


「借金ついで、だろ?」


 借金があるから、だから傍にいなければいけない義務を持ってしまっているのでは? と御堂先輩。

 「いいえ」貴方だから傍にいたいと言っても信用してもらえず、気にすることなく部屋に戻ればいいと冷たく返された。彼女の苛立ちを肌で感じる。もっと苛立てばいいと思った俺は、先輩が戻るまで部屋には戻らないと断言する。


 しつこいと思ったのだろう。


「傍にいるとうざいんだ! 君という人間が今はうざくてしょうがない。いや男がうざくてしょうがない」


 男が傍にいると思うだけで嫌悪してしまう。振り返った彼女が血反吐を出すような面持ちで悪態をつく。

 だって俺もまた淳蔵さんと同じ男。二種類しかない性別の“男”に属する人間。異性と思うだけでムカムカするのだと言う。



「なんで君は男なんだ。人格は好いても、性別はどうしても好きになれない。君が女だったらっ、どんなに良かったことか」



 女の君だったら、もっと好きになれていたのに。

 “男”に対する憎悪すら垣間見える彼女の綺麗な瞳を見つめ返し、「俺は女にはなれません」そして貴方は男にはなれないんですよ、と答える。


 背中が床に叩きつけられた。

 押し倒されたのだと気付く前に、馬乗りになってくる彼女に胸倉を掴まれ、そんなことは分かっているのだと睨まれる。誰よりも分かっているのだと揺すられ、「男の君に何が分かる!」だから男は嫌いなんだと毒づいた。


「男は女を弱い生き物だと決めつけ、子を生産する道具のように見るばかり。なにが平等社会、男尊女卑の思考が根付いているじゃないか。あのジジイも、父も、君も、男は女を蔑む、そんな生き物でしかない。嫌いだ、男なんて嫌いだ。女は従順に命令を聞くだけの生き物なのか」


「先輩」


「もし、本当に君が僕の傍にいたいと言うなら、捨ててよ――男の君を」


 欲しいのは男の俺じゃない、興奮状態の王子が毒づいた。

 苦しげに吐き出す感情を耳に傾け、彼女の怒りを受け止め、嫌悪する瞳に微笑を向けてやる。意表を突かれたのか少しだけ彼女の怒りが弱まった。


「良かった。ちゃんと感情を出せるじゃないですか」


 一安心だと目尻を下げる。感情を殺すよりも、爆ぜて、出してくれた方がずっといい。

 そっと手を伸ばし、目に掛かっている前髪を払ってやる。

 ハッと我に返った王子が男の手を強く払う。乾いた音が蔵に響いた。そうして男を拒絶する。男の俺じゃどうにもならないようだ。


「女の子なら、こういう時、貴方になんて言って慰めてあげるんっすかね?」


 途方に暮れた気持ちを抱えながら、相手に笑いかける。


「ただ男の俺にも分かることがある。貴方は俺とおんなじくらいにうそつきです。本当は誰かに傍にいて欲しい、そんな顔をしていますよ」


「信じる、ものか。男の言葉なんて、男なんて」


 俺の上に乗っていた御堂先輩が走り去っていく。

 垣間見た王子の悲しみに染まる歪んだ顔。残された俺はゆっくりと上体を起こし、「へたれ」自分に悪態をついた。

 俺はいつだって王子に救われてきた。彼女はつらい時にいつも傍でいてくれた。俺は自然と笑顔を作れた。

 なのに、俺は彼女を救えない。男の俺じゃ、王子を救うことも、言葉も届かない。こんなにも男を呪ったことはない。


「婚約した時に、覚悟を決めていただろ。王子を、御堂先輩を守るって。傷付けてちゃ意味ないだろ」


 そう、傷付けたって、なんの意味もないんだ。


 王子の後を追いたい気持ちをグッと堪え、俺は自室に飛び込んだ。

 制服を畳の上に脱ぎ捨てると、箪笥から浴衣を引っ張り出す。

 俺は目利きじゃないけれど、どれも先輩が選んでくれた浴衣は良質で高価なものだろう。その中でも、特に彼女が気に入りそうな柄を探す。

 きっと彼女が俺に渡した浴衣は、俺のためのようで、自分が着たかった柄。彼女の女性的な部分のかけら。


「空さま。如何しましたか?」


 半開きの障子に気付いた博紀さんが、部屋に入って来る。

 丁度良かった。俺は振り返り、世話係に浴衣を選んで欲しいと願う。ついでに剃刀を持って来てくれるよう頼んだ。


「それと蘭子さんを呼んで下さい。彼女にもお願いしたいことがありますので」


 不可解な言動だったんだろう。彼が俺の前に膝つき、理由を尋ねてくる。そんなの決まっているじゃないか。



 部屋に呼ばれた蘭子さんと、世話係の博紀さん、更に助手を担当してくれるさと子ちゃん。三人がかりで、俺の頼みごとを叶えてくれる。

 それはそれは物言いたげな顔をされたけれど、みんな事情を察している。だから誰も何も言わない。俺も自分が自分じゃなくなる姿に、吐き気がしてきたけど、これでいいのだと言い聞かせる。

 かぶされたウィッグを指で弄る。ああ、まったくもって化粧なんて似合わない。今日ばかりは男の娘になりたかったよ。


「最後に口紅を付けますので。空さま、こちらを」


 女の人って大変だな。

 こうやって化粧に30分も、一時間も掛けるのだから。

 仕上がりを三面鏡で確認した俺は、協力してくれた三人にお礼を言う。「空さま」さと子ちゃんが力なく眉を下げてきた。

 「似合う?」聞くと、「はい」素直に頷いてくれる。建前でも嬉しいよ。


「後は声だけど、こればっかりはな」


 俺は声変わりを終えてしまった喉をさする。方法は一つ、極力喋らない。これに限るだろう。できるかな。無理かな。現実的に。なら裏声か?

 すべてが終わると、俺は部屋を出た。

 さと子ちゃんが心配だと言わんばかりに呼び止めてくるけど、静かに目を瞑る。


 向かう先はもちろん、御堂先輩の下。彼女は自分の部屋に籠っていることだろう。


「御堂先輩。いらっしゃいますか」


 障子の前に立って声を掛ける。

 うんともすんとも言わない。中にいるくせに……少しくらい返事をしてくれても良いじゃないか。

 「入りますね」障子に手を開けると、「入るな」即答の拒絶。いるじゃないっすか! シカトとかあんまりじゃありません?

 静かに障子を開けると、くるっと御堂先輩が背中を向けた。

 

「何の用だい。勝手に入ってくるな。失礼だな。男のくせに」


「それは失礼しました。ご無礼をお許し下さい」


 障子を開けたまま、その場で膝を曲げる。

 王子は妙に畏まった口調に違和感を覚えているようだ。けど、まだ振り向くことはない。


「で?」


 棘ある問いに、俺は返事する。


「三つ、先輩にお約束をしに。一つ、貴方の傷付けることはしない。一つ、貴方の望みはできる限り応える。一つ、貴方の幸せを第一に考える」


「それはご大層な約束だな。守れるのかい? へたれ男に」


 分からない、俺の力なんて高が知れているから。きっと、ちっぽけなことしかできないのだろう。

 それでも王子を思う気持ちは本物だと、自信を持って言える。

 「君に何ができるんだい?」彼女の意地悪な質問に、数拍の間を置き、俺は陽気に答える。


「王子に相応しい人間となるために御花でも楽しんでみましょうか」


 素っ頓狂な答えだったようで王子がゆるり、と首を捻ってくる。

 目を白黒させる彼女の反応が、良しとするものなのか、悪しとするものなのか、俺には判断しかねる。 

 ただ、この方法しか、もう思いつかない。覚悟はしてきた。


「捨てられるものは捨ててきたつもりです。声は裏声でも使います。口調も頑張ってなおします。貴方の前ではこの姿でいるとお約束します。もう二度と、男の俺が貴方の前に現ることはありません」


「と、よふく。君、なにをいって」


 困惑している王子に微笑む。


「貴方の好みの女の子にはなれないでしょう。けれど、精一杯のことはします」


「なんで、捨てて」


「邪魔だからです、男の俺が。貴方の傍にいるだけで傷付ける。俺がなんのために貴方の傍にいると思います? 借金? 婚約? 違います、そんなの大人の都合です。俺個人の本音は」


――守りたい、ただそれだけ。とんでもないへたれくんを好きになってくれた、王子を。

 へたれくんを一途に守ってくれたように、俺も王子を守りたい。そのためだったらなんだってできる。

 人間は凄いよな。守りたい気持ちが生まれると、プライドすら捨てることができるのだから。


「最初は違和感ばかりでしょうし、男の面影が残っていると思います。その時は拒絶して下さい。貴方の男嫌いを、無理に治せと言うつもりなんて毛頭もありません」


 けれど、もしも、俺に拒絶する気持ちがなくなったら、男の面影がなくなったら、その時は。



「貴方の部屋に入っても、一緒にお話をしても……お傍にいても良いですか?」



 今夜は部屋に入らない。王子の嫌がる行為はしない。約束する。

 小指を出して指切りのポーズを取る俺と、御堂先輩の行動、どっちが早かっただろう。

 押し倒す勢いで飛びついてくる王子の体を受け止める。彼女は何度も俺に謝った。その言葉しか、喋れない人形のように、同じことをなんども。

 何も悪いことをしていないのに。

 御堂先輩とまた気兼ねなく喋れたら、そう思って起こした行動だ。自分のためなんだ。王子を想う気持ちも。守りたい気持ちも。俺はそれだけの理由がある。


 なのに、彼女は肩口に顔を埋めるばかり。


「性差別される苦しみは僕が一番分かっているのに。君に当たってしまった。一番当たりたくなかった君に」


 ぽつり、と零す王子の心。

 心のどこかで分かっていた、彼女が俺のために突き放す言動の取っていたことは。我儘で王子の中に進もうとしたのは、俺の自己責任だ。どうか謝らないで欲しい。


「知っていたのに」


 背中に回る彼女の手の指が、ぎりっと背中に食い込む。感じる痛みこそ、彼女自身の心の表れなのだろう。


「悪意ある否定が人を殺せることを、ぼくは、知っていたのに」


 御堂先輩。


「否定にどうしようもなく死んでしまった人間を、ぼくはしっているのに」


 それは彼女自身の、女性的な部分のことを指していた。

 ああ、そうか、王子は好き好んで男装をしているんじゃない。男に負けるか、そんな負けん気だけで男装をしているわけじゃない。淳蔵さんの悪意ある否定で、本来持つべき姿の自分を殺してしまったんだ。


 これは、あくまで御堂家のやり取りをみた俺の憶測。

 女として生まれてきた御堂先輩は、懸命に淳蔵さんの期待に応えようとした。娘を産んだ一子さんに罵声を浴びせる母親を見たくなくて、父親と祖父の口論が見たくなくて、少しでも男らしく振舞って期待に応えようと努力した。

 けれど、淳蔵さんは御堂先輩を認めなかった。女の彼女を根っから受け入れなかった。愛そうとしなかった。生まれた時から今に至るまで存在を否定し続けた。


 御堂先輩は心の底から傷付いたに違いない。

 いや、現在進行形で傷付いている。誰だってそうじゃないか。自分の存在を否定されたら、誰だって。


「もう、会えないんですか?」


 俺は王子の髪を手で梳き、否定で死んでしまった人間には、もう会えないのかと聞く。

 俺は会ってみたい。本来持つべき姿で笑う彼女の姿を。可愛いんだろう。けれど、とびっきり意地悪な攻めでヒトを困らせるのだろう。

 ねえ、先輩。これだけは信じて欲しい。


「俺の王子はいつだって、男顔負けの、カッコイイ女性なんです。貴方を一度も男として見たことはない」


 彼女が軽く、首を横に振った。

 ちがう。そうじゃない。ぼくは女じゃだめなんだ。でも、男にもなれない。だから男として振る舞うしかない。途方に暮れたように呟いている。

 そっか。ならそれでもいい。俺も考え方を改めるから。


「たとえ御堂先輩が男でも、女でも、俺の王子は貴方だけです。女の貴方だって、俺の立派な王子ですよ」


「ぼくは女じゃだめなんだ。それは死んだんだ」


「いいえ。死んでいない。女の貴方は先輩の中に、ちゃんと眠っている。先輩自身が先輩を否定しないで。貴方は俺の王子です。男でも、女でも、俺の王子様。女の王子様だっていいじゃないですか。それの何が悪いんです?」


「わるいんだ」


「悪くない。否定で死んでしまったなら、俺が肯定してあげます。何度だって」


「ちがう、ちがう。ぼくは女になっちゃだめなんだよ。分かるだろ豊福。女になったところで、だれも、幸せになれない」


 いつも、家族の幸せを壊したのは女の自分だった――!


 両手で頭を抱える御堂先輩が、混乱したように悲鳴を上げる。

 ああ、それが貴方の脆い一面。そうやって、ひとりで抱え込んでいたんですか。男装をしている貴方の、本当の姿は孤独だった。

 どうして傍にいた俺は、それを早く見つけ出してやれなかったんだ。誰かに見つけて欲しかっただろうに。


「御堂先輩、もう頑張らなくていいです」


 ゆるり、と彼女が見つめてくる。

 貴方は十二分に努力した。源二さんや一子さんを守るため、実の祖父から放たれる暴言を真正面から受け止めた。男のように振る舞って、親は正しいと主張した。凄いことだ。

 ふたりだって分かっているはずだ。御堂先輩の努力を。

 なら、今度は貴方の番だ。


「俺は欲張りだから男の子の貴方だけじゃ足りないんです。女の子の貴方も、いっしょに幸せになりたい。大丈夫、貴方のご両親の幸せは壊れませんよ」


 寧ろ、今の先輩を見て悲しむ。女の自分を否定する娘を見て、幸せだと思う親が何処にいるんだよ。もういい、いいよ、先輩。


「今までよく頑張りました。えらいです先輩。貴方は誰よりも強い男の子であり――強い女の子です」


 決壊したように御堂先輩に目から大粒の涙が零れた。

 違うのだと否定する彼女がいた。男に生まれたかったと嘆く彼女がいた。女に生まれなければ良かったと訴える彼女がいた。

 そして、それをすべて涙に変える、幼い彼女がいた。


「どうしてぼくはっ、きみを好きになってしまったんだろう。ずっと……男として振る舞っていたのに、ぼくはどうして、どうしてっ!」


「……先輩」


「おとこにうまれたかった。おんなになんか、生まれなれなければよかった……っ、でも、ぼくはっ、いまのぼくを手放させないっ、どうしても。どうしてもっ……手放せないんだっ」


 身を丸め俺の膝もとで、ワッと声を上げる御堂先輩の背中を優しくさする。

 一際、声が大きくなった。きっとその声は屋敷中に響き渡り、ご両親の耳にも届いていることだろう。娘の泣き声を耳にして、夫妻は何を思うのかな。

 先輩はただ、家族に認められたかった。それだけなのに。

 どうして、傷付くことばかりなのだろう。どうして、女の子の自分を殺さなければいけなかったのだろう――どうして、彼女は幸せとすれ違ってばかりなのだろう。


 夜空に輝く半月の光が床板を照らす。

 静寂に包まれた廊下で、いつまでも王子の声がこだました。

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