05.不純、でも合意の上



 □ ■ □



「女の俺、か」



 洗面所で化粧を落とした俺はタオルで顔を拭い、鏡と向かい合う。

 そこにはいつもの自分いた。見慣れた顔は、どこをどう見ても男。これが可愛い女になるとは到底思えない。女の子を羨ましいと思うことはあれど、女の子に本気でなろうと思ったこともない。それは俺が生まれた時から男として育てられたから。


 それでも、俺が女として振る舞わなければいけなくなったら。


 王子のように周りの目も気にせず、女を演じることができるのだろうか。できないだろうな。向けられる偏見に挫折しそう。


「御堂先輩は今まで、無理してでもやってきたんだよな」


 浴衣をはじめとする衣服をすべて脱ぎ、広い浴室に足を伸ばした。

 湯を張った桶を頭からかぶり、一日の出来事を見つめ直す。

 とんでもない一日だったな。友達と遊んだり、乳揉み事件が遭ったり、自分の立場を淳蔵さんに諭されたり。

 なにより、御堂先輩の脆い部分に触れた。


 王子は部屋で休んでいるだろう。

 泣くことにエネルギーを使い果たした彼女は、しばらく放心した。声を掛けても、うん、しか言わない。話すことも億劫だったようだから、風呂に入って今日は休むよう促し、後は蘭子さんとさと子ちゃんに任せた。


 本音を言えばもっと傍にいたかったし、話したいこともあった。


 けど、疲れ切った王子にもひとりの時間は必要だろう。なにより、俺にできる役目は終えてしまった。部屋にいたところで気を遣わせるだけだ。


「彼女が落ち着くまで女装すっか。学校に行くときはどうしよう」


 御堂先輩のように、学院に着くまでは制服を女物にするべき?

 だけど、俺は女物の制服を持っていない。困ったな。途中まで浴衣で行くかな。

 化粧のことを考えるとめんどいこと極まりないけど、朝は必ず先輩と顔を合わせる。王子の気持ちを考えると、やっぱやらなきゃな。俺の高所恐怖症と同じで、男嫌いは簡単に直せないだろうし、言いだしっぺだし。


 なんとなく湯船の中で腕をさする。


「…………つるつる」


 毛がなくなった腕を見つめた後、足に目を向け、同じようにさする。やっぱりつるつるだ。


「やっべぇ。ここまでする必要なかった。はずい」


 一応スカートを穿くかも、と想定して剃ったけど……。

 こんな腕や足を野郎どもに見られたら、ああ、笑いの的じゃんかよ。体育の着替えが鬱だ。

 さすがに、あーんなところの毛は剃っていないけど、こーんなところの毛を剃ってしまうなんて。

 また一歩受け男に近付いたな。ん、男の娘? いや男の娘には、そもそも無駄毛なんて生えていない。たぶん。


「足をさすってどうしたんだい? 空くん」


「わわわ?! 源二さん?!」


 ヒノキの浴槽の縁に右足を置いて、毛のなくなった肌の感触を確かめていると、浴室の引き戸を開けた源二さんが入って来た。


「一緒にいいかい。それともお邪魔をしたかな?」


「だ、大丈夫です」


 まさか義理のお父さん(予定)が風呂に乱入してくるとは。急いで足を引っ込める。

 御堂家は屋敷なだけあって、広々とした浴室と浴槽を備えている。まるで旅館のような風呂場だから、源二さんがひとり入って来ても支障はない。


 俺自身は気まずいけどね! 特に今なんて、ほっらぁ裸だし? 腕や足がつるつるだし? もう一度いうけど、腕や足がつるつるだし?!

 男ってもんは、毛があってなんぼなんだよ。毛があってさ!


「さっきは父が無理難題を押し付けて申し訳ない。そして娘のことも」


 体を洗い始めた源二さんは、今宵の内輪揉めと、今後の過密なスケジュールについて謝ってくる。後者については、自分も積極的に意見を出し、負担を軽減すると約束してきた。あの様子では実の父親に口答えできる立場ではないのだろう。

 けれど、源二さんは優しい。俺に決して無理はさせないと安心させた。まるで実の息子のように、あれこれ気を回してくる。こんな俺のために。


 前者について、直接話を聞くことができた。


「父、御堂淳蔵は今の御堂家の礎を築き上げた。その手腕は誰もが唸るほど。仕事に関しては完璧だった。完璧すぎた。だから、偏見的な物の見方に固執した」


 もとより、御堂家は女系一族。

 淳蔵さんの前の代までは、本当に小さな財閥だったそうだ。時代背景により、どうしても女の力じゃ通らないだった原因も挙げられる。

 彼が御堂家の先導者に立つようになって、その名は財閥を轟かすようになった。カリスマ性の高い男として名高い。

 財閥の頂点に立った男は思った。女など弱い。対等であるべきではない、と。


「私の母はフランス人だった。寡黙で賢く、とても優しい人間だった」


 随分昔に、それこそ御堂先輩が生まれる前に亡くなっているそうだ。

 いわゆる政略結婚の犠牲者で、生前は淳蔵さんからあまり大事にされていなかったらしい。淳蔵さん自身が仕事人間だったせいだ。

 それでも文句一つ言わず、淳蔵さんを愛し続けた。そして源二さんという息子を一人で育て上げた。立派な女性だったのだと語り手は目を細める。


「母は私を愛し、冷え込むを常に温めようとしてくれた」


 源二さんが吐息をつく。

 淳蔵さんは息子をビジネス的な意味で必要としても、家族として愛す人間ではなかったようだ。 


「一子との仲も、いつも応援してくれたよ。あの頃は、正直上手くいくとは思えなく、いつも私は一子を泣かせてばかりだった」


 泣かせて、ばかり?


「私達も父が仕組んだ政略結婚の犠牲者なんだよ。一子の実家が、小さな資産家でね。もっと規模を大きくするために、父が一躍買った。見合いは私が24、一子が14の時だ」


「じゅ、じゅうよっ、中学生じゃないですか」


「もちろん、公の見合いではなかったよ。だが一子は不安で仕方がなかっただろうね。拒否権なんてなかったのだから」


 それは源二さんも一緒だろう。

 俺達よりも過酷な見合いを強いられた二人は、それこそ異性と意識し合うまで時間が掛かったという。源二さんは一子さんを女性ではなく少女として見ることしかできず、一子さんは源二さんを年上すぎるオトナとして、互いに付かず離れずの関係を保っていたそうだ。


 二人に自由な恋愛など許されなかった。常に考えておかなければならないのは、家を継ぐ未来。


「一子と結ばれた時、彼女と約束した。ふたりで”幸せな家庭を築こう”と。生まれてくる子共には家など考えないよう、自由を与えようと。結局理想でしかない約束だったが……」


 けれど、源二さんは言う。

 自分は幸せな家庭を築けたのだと。妻と娘に恵まれ、とても幸せなのだと。

 困惑してしまう。どうして、その話を俺に?

 源二さんが浴槽に入ることで、お湯のかさが増す。こちらの心情を見透かしている彼が、優しく微笑んだ。


「自由が許されないのなら、その中で精一杯足掻けばいい。空くん、私はね、娘が女として幸せだと感じて欲しいんだよ。あの子は女の自分に劣等感を抱いている。父の理不尽な言動のせいで」


 ぴちゃん。

 立ちのぼる湯気が天井に溜まり、やがて水滴となって湯船に落ちる。俺はその冷たい水を鼻先で受け止めた。


「だから、御堂先輩は男装をして強くなろうとしている。家族に笑ってもらいたい、その一心で。俺、彼女の気持ちが分かるんですよね。自分のせいで、家族の空気が悪くなる、その負い目」


 家族がお前のせいじゃないよ、と慰めても、俺は俺が許せない。実の両親を死なせる原因を作った自分が。

 同じように御堂先輩も許せないんだろう。女として生まれた自分が、家族を泣かせる原因を作った自分が、どうしても。


「俺は、これからも彼女が生きたい道を行けば良いと思います。きっと、それが彼女の幸せにも繋がる。女性として生きるとしても、男性らしく生きるとしても、先輩の選んだ道こそ幸せじゃないかと」


 そりゃ女の子の自分を受け入れることができたら、俺も嬉しい。

 けれど、これは御堂先輩自身の問題。本人の気持ちが変わらないと、どうしようもない。


「男装の自分と、女性の自分、いっしょに幸せになるのが一番なんでしょうけどね。そう思ってくれたら、きっと先輩の考え方も変わります。きっと」


「そうか。なら、その時は空くんの玲の見方も変わるんだろうな」


 間の抜けた声を出してしまう。

 意味深長に笑う源二さんは、「孫はいつだろうな」俺の腕に視線を落として肩を竦めた。


「安心したよ。玲の一方的な片思いだと思っていたが、君もちゃんと娘を思っているようだ。腕や足の毛まで剃って」


「なっ、な?! こ、これは」


「博紀から聞いたよ。玲のために、女装趣味を持とうとしているんだって? なあに、心配ない。私は男装する娘を持った父親、義理の息子が同じような趣味を持とうと、寛大な心で受け止めるさ」


「ち、違います! 趣味じゃなくって」



「覚えておきなさい空くん。玲は女の子だ。男装で強くあろうとしている自分を、君という存在が女の子に戻したんだ。あの子は空くんの前では、ひとりの女の子なんだよ」



「え……うわっぷ?!」



 頭に手を置かれたと思ったら、力任せに押しつぶされる。

 不意打ちに、お湯を飲んでしまった。むせ返る俺が涙目になって源二さんを睨めば、義理の父になる人がニッコリ。


「私の可愛い娘に手を出されているんだ。さっさと見方を変えないと、な?」


 ぞく、背筋に悪寒が走る。

 もしかしてもしかしなくとも、この威圧的な目は、愛娘を愛する父親の、敵意ある視線……?

 俺を心配してくれるかと思ったら、やっぱそうですよね! 娘第一ですよね!


「なんなら、私と一子の馴れ初め話でも聞いて、ヒントを得るかい? 恋愛に手本があっても良いだろう。うん、ではどこから話そうか。やはり見合いから」


 え、それ今から聞くの? ここで聞くの? 馴れ初めをぉ?

 あんまり長湯していると、俺のぼせる……ああもう、これだから婿養子になる俺の立ち位置はつらい。拒否権ねぇんだもん!



 ◇



 指先がふやけるまで、源二さんの娘自慢話を聞かされた俺は、覚束ない足取りで自室に向かう。一体どれくらい湯船に浸かって御堂先輩の話を聞かされたのか、ああ、想像もしたくない。のぼせなかったことが奇跡だ。

 火照った体を夜風で冷ましながら、静まり返る廊下を進む。

 ふと足を止める。御堂先輩の部屋を閉ざす障子を見つめ、視線を右に左に泳がせた。明かりは落ちている。彼女は寝ているのだろう。


 王子の気が落ち着くまでは無暗に入らない方が良い。分かっている。


(でも)


 物音を立てないように、障子にゆっくりと手を掛ける。

 ひと一人分の隙間を開け、間接照明が点っている部屋に侵入する。

 彼女は床に入り、体を休めていた。疲れていたのだろう。無防備に腕を出して、寝息を立てている。つらいことも、苦しいことも忘れた安らかな顔だ。

 微笑を零すと、膝を折り、布団から出ている腕を中に入れてやる。

 布団を引き上げた後は、王子の頭を撫でた。目にかかりそうな前髪を払ってやり、その寝顔を見つめる。


(御堂先輩はいつも、俺を助けてくれた)


 破局して、借金を負って、なにもかもが嫌になって崩れそうになっても、ずっと傍にいてくれた。

 そんな彼女に俺は何ができるのか、正直自分にも分からない。どうしたら恩を返せるのか、もらった優しさを返せるのか、それすら馬鹿な俺には見当もつかない。

 ただ、そうだな、こんなへたれにもできることがある。


(なにがなんでも先輩を守る。淳蔵さまの無茶は全部俺が買う。もう彼女に、つらい思いはさせない。幸せになって欲しい)


 守りたい。 

 強く芽生えた気持ちに決意を固める。

 これが俺にできる精一杯の恩返しだ。財閥から見た小僧なんて、ちっぽけな力だろう。カリスマをいかんなく発揮した長の淳蔵さんにとって、俺という存在は駒にしか過ぎない。

 それでも御堂先輩が笑ってくれるなら、無茶でもなんでもいい。やれることをやりたい。


(これくらいなら許されるかな)


 そっと額にキスをして立ち上がる。

 踵を返した瞬間、浴衣の裾を握られ、歩き出そうとしていた体が派手に倒れる。藁にも縋る気持ちで、明かりの紐を掴むも、見事に畳と鼻が正面衝突。

 部屋の明かりは完全に消え、俺は涙目になって鼻を押さえた。今のは痛恨の一撃だ。


「豊福」


 ぎくり。

 さまよう声に肩を震わせてしまう。

 王子を起こしてしまったようだ。ああ、もう、慣れないカッコつけをしようとするから!

 返事待ちの声に応えず、ほふく前進で障子に向かう。が、御堂先輩は裾を引いて離さない。


「ねえ。豊福なんでしょう?」


 体を起こし、頭を掻く。

 振り返りたい気持ちはあれど、今の俺は男だからな。不法侵入するから、こんな状況になる。こりゃ自業自得だな。


「もしかして、怒っている?」


 一向に返事をしない俺に焦れたのか、御堂先輩が起き上がったようだ。布団の擦れる音が聞こえる。

 怒っていないと声のトーンを高くすると、彼女がおかしそうに笑う。不意打ちだったようだ。高過ぎたか? うんっと、うんじゃあ、少し低く……もっと笑われた。なんでだい?!


「いいんだ。普通に喋ってくれて」


 でも。


「豊福、僕は謝らないといけない。さっき、僕は君に女の子ならもっと好きになっていた、と言った。けどね、それはないんだと確信している、だって君を好きになったのは紛れもない女の僕なのだから―――」


 思いがけない告白に、俺はその場で頭を抱える。

 なんで、このタイミングでそんな恥ずかしいを言ってくれるのかな。


「あとキスは普通口じゃないか?」


 人の行為に不満を訴えるもんだから、穴があったら入りたい気持ちに駆られた。今すぐ消えてしまいたい。狸寝入りしていたんっすか? うそでしょまじっすか。上手すぎでしょ。


 華奢な腕が伸びて前に回ってくる。

 逃がさないと言わんばかりに、強く抱きしめられた。

 こういう場合、普通落ち込んでいる人間が抱きしめられるだろうに。王子はそれを許してくれない。身を捩れば、押さえ込むように力を強くするばかり。


「お願い。逃げないで」


 勘違いを招いていたようだ。俺は裏声も、動くこともやめて、彼女に寄りかかる。


「今の俺でも、傍にいてもいいですか? ここにいる不法侵入は男ですよ」


「今、僕を女の子にしたのは、君なんだ。君のせいなんだ。だから傍にいてよ」


 うん、一つ頷く。

 それが御堂先輩の望みなら、俺は傍にいる。貴方が傍にいてくれたように。

 「ねえ」呼び掛けに、「はい」返事をすると、御堂先輩が自嘲気味に一笑をする。


「僕はまともじゃないのかな。男になりたいはずなのに、ちょっとした拍子に女になる。服も好みも性格も、理想の男に近付けたのに。気付けば、女になろうとする自分がいる」


 捨てたはずの女が自分の中で息衝いている、それが弱い自分に繋がっているのではないか。男にもなれず、女にも戻れず、中途半端に生きる自分がまともじゃないように見えると王子は言う。

 本調子を装う彼女だけど、心の均衡が崩れているのだろう。体が震えていた。その震えを慰めるために、軽く腕をさすってやる。


「分かっているんだ。男になれるわけがないことも。男として偽り続けられるはずがないことも」


 だけど先輩は女にも戻れずにいる。

 戻れば、今までの自分の努力を否定すると思っているのだろう。


「僕はおかしい。男にも、女にも、なれない」


 我慢ができない。

 今までおとなしくしていた体を思い切り捩ると、王子と向き合う。「寝ましょうかね」きっと疲れているのだ、俺はわっしゃわしゃと髪を乱してやった。


「おかしい? 馬鹿言わないで下さい。俺の方がおかしいでしょう。女の子に押し倒され、恥ずかしいことをされ、なんとか貞操だけは守って。こんなおかしい男がどこにいます? ここにいますけど!」


「……僕は」


「先輩は男にも、女にもなれる。普通の人にはできないことをやってみせている。それだけっす。おかしいことなんて何もしていない。貴方は気分で振る舞う性別を変えられる。すごいことじゃないですか」


 そんな自分を持って誇って欲しい。できたら、捨てた女の子の部分も愛して欲しい。俺の王子は男であり女なんだから。

 そして。意識しているのは女の王子なんだよ。先輩。


「大丈夫。先輩、大丈夫」


 背中を優しく叩き、なにもおかしくないと言い聞かせる。今の自分も、過去の自分も、否定しなくていい。


「こわい、な」


 仄暗い部屋の向こう、先輩が力なく笑った気がした。

 なにが? 問いに答える前に彼女は、俺の両頬を包んで「君はいつまで、僕を慰めてくれるんだろうね」


「ごめんね豊福。君の優しさも、気持ちも、すごく嬉しい。純粋に言ってくれていることも分かっている。でも、素直に受け取れないんだ」


 もしも受け止めてしまえば、ああ、傍にいなくなった時、自力で立っていられなくなる。だって、自分達の関係は不純。オトナの都合で作り上げられた関係なのだから。

 「君は借金」不純な理由、「僕は世継ぎ」不純な動機、脆い関係がいつまで保ち続けられるだろう。先輩は疑問を投げかけてくる。


「ジジイの無茶な命令だって、君なら聞くだろう。僕のために、とか思って傍を離れる。それが恩返しできることだと信じて」


 見透かされている心に鼓動が鳴る。


「君の優しさが嬉しいのに、それを素直に受け取れないのは僕の心が狭いから。比べてしまう。純粋な関係だった鈴理と君の関係を」


 卑屈なことを思って脹れてしまうのは、自分の中の女心がそうしているのかな。彼女は苦々しく笑声を零す。


 土器で頭をかち割られた気分だった。

 俺は王子に甘えていた。恋心が育つまで待ってくれる、健気な彼女の不安を一切見抜けなかった。

 そうだ、俺達の関係は不純だ。まともな付き合いじゃない。だからこそ、早く捨てないといけない。鈴理先輩に対する気持ちを。


 言い聞かせる。彼女と付き合った日々は忘れろ、と。


 ほら、彼女との思い出なんて、もう薄いじゃないか。公衆の面前でキスされたことも、追い駆け回された日々も、何気ない学院の生活も、今の生活に比べれば薄い。

 俺に恋を教えたのがあたし様だったとしても、誘拐事件でいっしょに逃げたのが鈴理先輩だったとしても、俺の両親に対する罪悪と高所恐怖症を包んでくれたのが彼女だったとしても、思い出は薄い。思い出は消えかけている。


「先輩。今の俺は貴方のことを」


 口元に人差し指が押し当てられる。

 「うそつき」それは嬉しくない嘘だと王子。俺の右腕に手を滑らせ、『誘拐事件』で作った銃痕を悪戯気に触る。


「おかしいね。鈴理と違って、僕は恵まれている。関係を親に公認され、書類上で正式に婚約も結んだ。手に入れたはずなのに君は遠い。いつも君の近くには鈴理がいる。悔しいな」


「……先輩」


「だから、今ここで君を抱かせてよ。そしたら、素直に優しさも受け入れられそうだから」


「え、それはだめです。面倒なことになりそうじゃないですか」


 考えるよりも先に口が動いてしまい、「あ」空気を壊したと急いで咳払いをする。

 しまった、うっかり本音が。今のはいいよって返事するところだ。


 けど、でも、だけど、それとこれとは話が別なんじゃないんっすか?! 気持ちを確かめるためにカラダをあーん、なんて、俺達はそんなにできた高校生じゃない。そう、俺達は高校生! エッチィなんて早いんだよ! 少なくとも俺はそう思っている!


「もっとべつのことにしましょう。例えば、あー……手を繋ぐ、とか」


「豊福の頭はお花畑なのかい? この空気で手を繋ぐはあんまりだろ」


「で、ですよねぇ。ならレベルを上げて、ぎゅっとハグ」


「さっきしてくれたじゃないか。もっとレベルを上げてくれ」


「しょ、しょうがないじゃないっすか! 俺は根っからのへたれっすよ! 無駄に常識だけ唱えるチキンに”素直に受け止めたいから体を繋げましょう”と、言っても無理むりむり! 童貞にはハードルが高すぎます!」


 ならキス? ……そうだな、それなら頑張れると思う。触れるだけのキスなら。


「だったらディープキスでいいよ。今日は僕が受け止めてあげるから」


 それも童貞にはハードルが高い!

 前にも言ったけど、俺はキスがドがつく下手くそ野郎。自分からキスすることも一苦労するのに、ディープをしろ、だと? 俺に死ねと?


 沈黙。

 俺はあーだこーだと腕を組んで唸り、何度も舌を出す。そのままチロチロ動かしては引っ込め、チロチロ出しては引っ込め、試しにイメージトレーニングをしてみる。

 まったく想像がつかない。俺にできるわけがないんだよ! 受け身ばっかだし!

 ひとりで身もだえていると、王子が声を上げて笑った。


「それが素の豊福だよね」


 世継ぎも借金もしがらみもない、純粋な俺だと指摘し、自分はそんな彼と付き合いたい。そうハッキリと言った。


「意地悪を言ったね。傷付けるつもりも、気遣わせるつもりもなかったんだ。ただ、我慢できなくて」


「すみません、俺が優柔不断だから」


「いや。僕が君の立場なら、たぶん恋どころじゃないと思う。君は色んな事を背負い過ぎている。鈴理の時とはまったく状況が違うんだよ。僕もそれは分かっているんだけどね。なんか、悔しくて」


「…………」


「鈴理は地位も名誉も金も使わず、持ち前の性格と気持ちだけで君を落とした。それだけで僕と彼女は明確な差がついている。どこかで思っている。鈴理は羨ましい。許婚の件で元カレを傷付けたのにも関わらず、豊福からまだ想われているんだから」


 これも女の自分が嫉妬しているのだろうと、王子は冷静に自己分析する。


「だからって女に戻れない」


 邪魔な女の一面、でも捨てられない一面。どう足掻いても自分は男にはなれない。そう独り言を呟き、遠い顔をしているであろう王子に想いを寄せる。


 中途半端な自分に苦悩している彼女を見たくなくて、俺は王子の腕を引き、いっしょに布団へ倒れ込む。驚きの声をくすぐりで笑い声に変えてやり、頃合いを見計らって、彼女の懐にすり寄る。精一杯の甘えだ。


「こういう時、腹黒い王子なら”不純な関係なら不純らしく命令するよ”とか言ったらいいのに。俺はきっとそれに従いますよ。エッチでもね」


 それをしないから、俺は彼女に惹かれるんだろう。


「俺は貴方を意識している。女の子にも男の子にもなれる、貴方を。それはほんと。嘘じゃないです。そんな先輩の望みを叶えてあげたいけど、今の俺には叶えてあげられそうにないですね。女装はできても、純粋な関係だけは」


 王子に謝り、彼女の手と俺の手を重ねる。


「借金を負った俺でごめんなさい。もっと別の形で貴方と繋がりたかった。お金も、家も、なにも考えないで貴方の隣に並びたかった」


 源二さんの話を思い出す。

 彼もきっと、こんな気持ちで一子さんと向き合っていたのだろう。不純な理由で成り立った関係だからこそ、お互いの気持ちを信じるまでに時間が掛かった。そうに違いない。


「少し前なら言えるのに。”俺が邪魔になったら切り捨てて下さい”と。借金を背負った人間と婚約なんて、デメリットしかない」


「…………」


「なのに、それが言えないのは、俺が我儘を抱いているから。貴方の傍を離れたくないと、心から望んでいるから。そのためなら女装をしようと構わない、そう思えるほど」


 これは先輩と俺だけの間にある、関係性。

 不純な関係から生まれた純粋な気持ちだと告げる。

 そして、どこまでも純粋な関係を求めているであろう王子に俺の胸の内を明かす。

 淳蔵さんにいつか利用されるのではないか、という恐怖。彼の判断により、見切りをつけられるかもしれない恐れ。自由がない窮屈さ。先輩を守りたいのに守れないかもしれない、自分の不甲斐なさ、俺の弱さをぜんぶ王子に晒す。


 すると先輩も弱音を口にした。ジジイに利用される自分が嫌だ、令嬢なんて苦痛だ、自由になりたい、と。


「令嬢じゃなかったら、僕は純粋な女の子だったんだろうね」


「ええ、きっと。可愛い女の子だったんでしょうね」


「今は可愛くないって?」


 わざとらしい不貞腐れを呟き、彼女が俺の体を抱きしめる。


「カッコイイ方が優っているので。俺の王子様ですし」


「豊福はへたれているところが腹立つし、可愛いよ」


「なんっすかそれ。褒められている気分じゃないんですけど」


「だってへたれだし。キスのひとつもできないし」


「でぃ、でぃーぷはハードルが高いんですって。普通のキスはできます」


「できるんだ?」


「……と、時と場合によりますけど」


「ほらへたれじゃないか」


 うん、へたれだよ。先輩、俺はへたれ。

 彼女がいつもの調子で会話できるように笑い、へたれで何が悪いと返す。


 王子も分かっているのだろう。

 俺を何度もへたれと悪態をつき、そして、「ごめんね豊福」この関係はどうしようもない。なら、利用される前に利用するしかない、と宣言してきた。


 間を置いて、うんと頷く。

 結局、純粋な関係になれないなら、不純な関係で突き通すしかないんだ。源二さんと一子さんがそうだったように、俺達もこの関係で足掻くしかない。


「僕は君の心を縛るつもりはない。でも関係は縛っておく。いつかジジイから解放してやる、その日まで――豊福、誰を想うと君は僕の姫だ。傍を離れることは許されない。今からする行為を拒むことも、僕のものにする行為も」


 これはお願いでも、告白でもない。

 借金カタとして引き取られた人間に対する命令であり、決して逆らってはいけないという脅しだ。「いいえ」という選択肢は許されない。「はい」しか許されない。


 はじめての命令だ。

 王子は俺を守るために関係を縛る。少しでも、淳蔵さんの命令から逃れられるように、自分の傍に置こうとしてくれる。不誠実な行為は嫌いだろうに。


「王子。三ヶ月経ったら、俺は完全に貴方のものです。その時は貴方を俺に下さい」


 返事の代わりに、俺なりの覚悟を彼女に伝えておく。

 これから先、俺は淳蔵さんに逆らえない命令をされるだろう。御堂先輩をやきもきさせてしまうだろう。利用された結果、傍にいられなくなるかもしれない。それでも、心は王子に渡す。もう迷わない。

 友人想いの王子に三ヶ月後の話をし、「行為は拒みません」命令には逆らわないと誓った。そういう立場なのはちゃんと分かっている。大丈夫、命令なら拒むつもりはない。


「顔がよく見えない。間接照明を点けるね」


 間接照明を点けられたことで、王子の姿がよく見える。

 目が闇に慣れていたからだろう。間接照明が眩しい。

 「男ですけど大丈夫です?」拒むつもりはないけど念のために。「うん、大丈夫」自分が欲しいのは男の豊福だと御堂先輩。そっか、なら良かった。

 御堂先輩が覆いかぶさってきた。焦る場面だけど、おとなしくしておく。大丈夫、拒まない。こばまない。


「ものすごく緊張しているね。体全体に力が入っているよ」


 拒まないとゆーとるでしょうが。

 だから、そう、まじまじと人を観察するのはやめて下さいよ。これでも精一杯へたれ心を抑えているんですから。逃げたい気持ちはいっぱいだけど、覚悟はしているつもりなんですよ。


 「豊福」「は、い」「空」「は、はい」「姫」「っ、はい」「さと子」「はははい」「蘭子」「はいっ」「ふふ、すーごく緊張しているね」


 覚悟しているから、もうやるならいっそ早くやって殺してくれ。

 先輩の言う通り、めっちゃ緊張しているんだって。俺の経験は、あらやだぁ行為からの所有物宣言が多かったから、先に宣言されると口から心臓が出そうなくらい緊張するんだよ。


「あれ、豊福。足がつるつるしてる……つるつる」


 触れられたくないところを触れてくるし!

 御堂先輩が俺の足に自分の足を絡ませて、何度もそこを触ってくる。やだもう、泣きたいんですけど!


「剃ったの?」


「スカートを穿こうと考えていた俺を変態と罵って下さい。生きててごめんなさい。どうか俺のことは忘れて下さい。先立つ不孝をお許しくだ」


「こらこら、逃げようとするんじゃない。僕のために身を張ったんだろう。嬉しいな。豊福が僕のために。それは素直に嬉しいと思えるよ」


 強張った体をほぐすように、ゆっくりとした動作で首筋を下から上に舐められた。ぶるっと身を震わせてしまう。


 「あ」吐息が左耳にかかり顔を紅潮させる。

 焦らしなのか、あえて性感帯のある利き耳は避けているのだろう。左をぺろっと舐めてくる不慣れな感触に戸惑いを覚えつつ、無意識の内に相手の浴衣を掴んで堪えた。


「舐めにくいね」


 相手の独り言に羞恥を抱きながら少しだけ顔を右に傾けた。これで舐めやすいと思うのだけれど。

 彼女が左の耳殻を食んでくる。右ほど感度があるわけじゃないし(あったら困る!)、殆ど開拓もされたことがない。

 よって露骨に身悶えることはなかったけれど、婚約者に耳を舐められている行為には羞恥が募るばかり。縁から耳たぶ、内の順に舐められるだけで体温が上昇していく。


 なによりおかしい。左をなぶられている筈なのに、ズンズンと疼くのは右耳だ。まるで舐めて欲しいと言わんばかりに疼いている。

 ああっ、くそ、マジでないんだけど。左を舐められれば舐められるほど、熱に浮かされていくのは右耳だなんてっ! どうなっているんだい、俺の耳! そんなに舐められたいか!


 艶かしい水音に目を瞑り、相手の行為に身を委ねて身を小さくする。そっと舌が抜かれた。ぐるっと縁を舐め、耳たぶを食む彼女はそのまま胸、脇、腹部に手を這わせていく。感触に軽く震えていると、「ねえ豊福」彼女が顔を覗きこんできた。


「最後までする覚悟はある?」


「さっ、最後っ……」


 想像するだけで吐きそうである。いや、無理ぃ。ほんっと無理ぃ。

 でも、やれと言われたらそりゃあ、もうなんかもう、がんばるしかないというか!


「なんてね。最後までしないよ。鈴理と交わした三ヶ月の約束があるから」


「あと、その、できたらキス止まりだと嬉しいような」


「分かった分かった。へたれくんのご要望だ。キスと耳だけにしてあげる。でもね、三ヶ月の間に君を僕好みにする。それは宣言しておく。言っておくけど、たかがキス、耳の戯れだとは思っていたら痛い目に遭うよ」


「え?」


 大袈裟に肩が震える。

 王子の唇が右耳を食んだ。待ち望んでいた感触、その先の快感を知っている俺は声を漏らしそうになる。その間にも舌が付け根や裏側を縦横。左耳よりも感度が良いそこは、これだけで快楽を拾い始める。やっぱり右は弱いようだ。


 でも物足りなくなってきた。

 俺が耳で一番感じるところは外じゃない、中だ。耳の裏から付け根、耳たぶ、縁、輪郭の順に舌でなぞられると内側が甘く疼く。左を舐められていた時の熱を思い出したようだ。脈打つように熱が疼いている。 


「っ!」


 体が大きく揺れる。

 そろそろーっと御堂先輩が敏感な右耳の内に舌を入れてきた。無意識に期待してしまう。すぐに抜いてしまう、その感触が堪らなく気持ちがよかった。

 なのに、御堂先輩はまた外側の、しかも左耳を舐めるばかり。妙に口の中が渇いてくる。


「今の豊福の顔が僕好み。触って欲しいのに、触ってもらえない。つらい、触って欲しい。そんな焦れている君が、とても可愛いね。もっと焦らしたくなるなぁ」


「う、うそでしょ。好みってそういう」


「だって僕は君の泣き顔や、我慢している顔が好みなんだ。鈴理の好みプレイは押せ押せな快感攻めなんじゃないかなっと思っている。でも僕はね、焦らしプレイが大好きなんだよ。じりじり、じわじわ君を可愛がってあげる」


 最悪なんですけど、この人の好み!

 押せ押せプレイだったら、「あ。俺も理性を飛ばしていたよな。てへぺろ」とか言い訳ができるのに、この人の好みは焦らし。精神攻め。

 なにからなにまで相性最悪だよ! まじか。まじですか。焦らしプレイがお好きなの?!


「耳を鈴理に開拓されていることは腹が立つけど、べつにいいよ。僕好みにすればいいだけだし」


 右耳を指で触り、軽くくすぐってくる。

 ああ、布石はひとつ打たれている。さっきの左耳の戯れはこのための焦らしだったんだ。

 欲求不満のあまりに体が小刻みに震え始めた。どんだけ舐められたいの? 俺の右耳……これもそれも鈴理先輩のせいだくっそう! あの人が俺の耳を開拓なんてするからっ!


「じゃあ、覚悟してもらおうかな豊福。ああ、簡単に降参しないでね。夜は長いんだから」


 にっこりと笑う王子は、まぎれもなく鬼畜王子だと、その時の俺は思った。




 宣言通り、ここからは地獄だった。

 御堂先輩は耳や、首、胸部に腹。浴衣の帯を解いて好き勝手に触ったり、舐めたりするのに、俺の性感帯は白々しく避けた。


 あ、ついに触ってくれるのかな、と思ったら、その周りを舐めたり、指で触ったりするだけ。神経をじりじり焼かれている気分だ。

 基本的にエッチは逃げている俺だけど、快感を受け流す技は身に付けていない。それどころか快感はすべて受け止めてきた。

 だから焦らしにはまったく慣れていなくて、途中から頭の中が快感が欲しいの一色。これなら、まだ快感に溺れた方がマシだ。

 なんなの。耳だけで、こんなになることってあるの? 確かに弱点だから、色々調べてはいたけど、いたけどさ!


「キスしようか。深いキス、好きだろ?」


 やっと自分を忘れられる快感のひとつを与えられる。

 そんな期待も淡く崩れてしまう。王子は酷いことに、俺のキス下手を理由に、ディープキスも一々呼吸の時間をくれた。今まで呼吸すら与えられないキスをもらっていた俺だ。そんな時間があれば、当然快感は中途半端に終わる。

 意識が朦朧とするほどのディープキスをくれるのならば、俺もそっちに気がそぞろになって募っている欲のことを忘れただろうに。 


 半端なキス、半端な愛撫、半端な戯れ。

 溺れられない、理性を失うこともできない、頭がおかしくなりそう。もう無理だ。キスでもなんでもいいから、この焦らしから逃げたい。


「せ、んぱい」


 限界を感じた俺は王子の頬を触り、恥を忍んで触って欲しいと呟く。


「まだ、だめ」


 神経が擦り切れそうなのに、王子はまだ我慢だと命令してくる。命令なら逆らえない。でも、限界は近い。


「いい顔をしているよ豊福。下品な言い方をすれば、とても興奮する。可愛いよ」


 肩で忙しなく息をし、どうにか欲の熱を逃がそうとする俺の髪を撫で、先輩は可愛いを繰り返す。彼女の瞳は嬉々に満ち溢れていた。


「今、君は僕に触って欲しくて、頭の中がいっぱいなんだろうね。その姿を見ると、ああ、僕のものだなって思える。だから焦らしは好きだよ」


 それ悪趣味って言うんですよ。ほんっと限界なんですけど。

 ツッコミたい言葉も呑み込んでしまう。どうしようもなく体が熱い。火照っている。


「なら豊福、ディープキスのやり方を教えてあげる」


 でぃーぷ、きす? やり方?


「上手にできたらご褒美をあげる。触って欲しいだろう?」


 顔の真横に両肘をついてくる彼女を見つめ、おずおずと相手の首に腕を回した。


「僕の真似をして」


 まずはお手本を見せるから。目で笑い、そっと唇を舐めてきた。

 触れるだけのキスをおくり、上唇と下唇を食んでくる。まるで味わうように唇に吸い付かれ、正直気持ちがいいと思った。

 ここまでが一区切りらしく、ゆっくりと形の良い唇が離れていく。


 合図がある前に後を追いかけ、その唇を奪った。

 たどたどしいながらも相手の唇を舐め、触れるだけのキスをおくり、優しく唇を甘噛みする。彼女ほど上手くはできなかったけれど、「そうそう」それでいいのだと褒めてくれた。


 理性が保っているようで、ほぼ俺の理性がなくなっていることを御堂先輩は見抜いているに違いない。自分でも自制がきかなくなりつつある。


「せんぱいっ。もう、おれ、むりです」


 持て余す疼きを解消したい俺の口から弱弱しい本音が零れた。


「駄目だよ。まだディープまでいっていないだろ?」


 もう少し頑張ろうと口角が持ち上がる。無理だと訴えても許してくれない。彼女の心は簡単には動かないようだ。

 今の気持ちはディープキスを教えることでいっぱいなのだろう。これを人は調教と呼ぶ。

 しかもえげつないことに、俺の苦悶している姿を楽しんでいるというね。鬼畜王子め!

 とことん精神攻めを楽しんでいる攻め女と俺の相性は最良。精神攻めを最も苦手としている俺にとって最悪の状況下だ。


「本番にいこうか。相手の唇を舌でノックするんだ。OKサインは相手が薄っすらと口を開いた時、覚えとくといいよ」


 とんとんと唇をノックされる。

 既に何度もディープキスを受け止めている俺だ。反射的に唇を開き、相手を招き入れる。先輩が人の口腔でどう動いていたのか把握できたのは最初の内だけだ。鼓膜を打つ卑猥な音が堪らなく恥ずかしくなり、何も考えられなくなる。

 生理的に涙目になる俺に目尻を下げ、角度を変えて舌を絡めてきた。欲望の強さがこのキスで垣間見える。


 互いの舌が離れていくと銀の糸ができあがった。えろい光景だ。


「糸を引くキスは、興奮している証拠なんだって。知っていた?」


 首を横に振り、喉を鳴らして息を吐く。

 それを見やった王子が口端を舐め、「これがディープキス」大人のキスだと俺の瞳を見つめ、笑声をもらした。相手を見つめ返すと、「もっと僕を見て、君を攻めているのは鈴理じゃない。僕だ」と現実を認識させてくる。


「豊福、分かる? 君を攻めている相手が今、誰なのか。キスを教えているのは今、誰なのか。体温を共有しているのは今、誰なのか――今の君は僕のものだよ。君の瞳も、体温も、キスさえも。今の君は僕のもの」


 声を上げそうになった。

 それまで放置されていた右耳の中をねっとり舐められたせいだ。触れられたのは一瞬。それでも確かに求めていた快感だった。

 正直に言おう。もうディープキスの練習どころじゃない。

 身悶える俺の心を何もかも見透かしているであろう、御堂先輩が細く笑って右の耳元で囁いてくる。


「豊福。約束して」

「やく、そく?」

「毎夜僕に触れさせてくれるって約束。そしたら今日はこれで勘弁してあげる」


 ま、毎夜? まじで言ってんの?

 こんなこと毎夜されたら、俺、まじ耳とキスだけで色々あはーんになりそうなんですけど!

 ああでも。これを蹴れば、もっと焦らされる。我慢を強いられる。夜が明けるまで、焦らされるかもしれない。そんなの気が狂いそうだ。


「どうする? 僕はどっちでもいいよ。君の要望に応える」


 あくまで俺に選択させるところが意地悪の極みである。


「約束っ、しますから……だからっ、先輩。もう焦らさないで」

「明日も焦らされるかもしれないのに、約束して本当に大丈夫?」

「いいからっ」


「ふふっ。必死だね。約束だよ、豊福――毎夜、君は僕のものになるんだ」


 御堂先輩が右耳を食んできた。蓄積された快感が爆ぜ、微かに声がもれる。


「屋敷だから響くかもよ」


 とか、なんとか言われたから、根性で声は抑え込む。

 焦らしに焦らされた右耳の内側を舐められると凄く気持ちがいい。望んでいた快感、いや、予想を上回る快感に涙が出た。舌を抜き差しされると視界がぱちぱちと弾ける。


 ぴくんぴくん肩を震わせながら、それでも必死に手の甲を噛んで声を抑える。普通ならとっくに声を上げているところだけど、俺にだってプライドがある。他の人間に声を聞かれたくない。


「はっ、ぁ……ふぅっ」


 でも、この鬼畜王子は容赦をしてくれない。強く内側を擦ってくるばかりだ。

 焦らしプレイの効果は半端ない。熱帯びていた疼きが一気に爆ぜ、大きな快感を生み出すのだから。

 うっ、うっ、と手の甲の隙間から声が漏れる。目を瞑ると涙が零れた。ぬちゃっとした音がまた快楽を拾う。最後の力を振り絞って堪えるけれど震えが止まらない。

 がまん、まじ、むりかも。

 

(あっ)


 ふと、視線を持ち上げる。

 どこか、甘えたそうにしている王子の空気に気付き、俺は彼女の背中に腕を回した。


「豊福?」


 顔を上げた彼女の肩口に顔を埋めて、欲のこもった吐息をつく。口を開くだけで、嬌声が零れそう。

 でも、言ってやりたかった。


「いま、俺は貴方のものです。御堂財閥のものじゃない。御堂玲のものですから」


 先輩、これは合意の上だよ。

 そう言ってやりたかった。俺は望んで王子のものになろうとしている。不純な関係を踏まえた、合意。

 だから、どうか責任を感じないで欲しい。貴方は優しいから。命令したのは先輩だけど、貴方は俺のためにしてくれた。その気持ちは分かっている。俺は貴方の優しさを知っている。


「だから。こんな意地悪を向けるのは、俺だけにして下さいね」


 わっしゃわしゃと両手で頭を撫でてやれば、「失敗したな」彼女はもっと焦らせば良かった。発狂寸前の顔を見たかった、と呟く。

 とんだ鬼畜発言! だけど王子はしごく真面目に言うんだ。


「それくらいしないと、僕のものだと思えないんだ。これは支配欲の強い男性的な僕なのかな。それとも独占欲の強い女性的な僕なのかな。どっちがいい?」


「先輩の気分に任せますよ。その欲が男性的でも、女性的でも、俺の気持ちは変わりません」


 耳元で熱のある吐息が吹きかけられる。


「たぶん、僕は好きな子ほど酷くするタイプなんだと思う。もっと君の泣き顔が見たくなった。声を我慢している顔も、悶絶している顔も。君が足りない」


 うへえ。まじっすか? ホント趣味悪いっすよ。まーだキモイ俺を見たいんっすか? 俺的には勘弁なんですけど!

 だけど、先輩が望むなら。命令するなら。俺は。


「御堂先輩。俺も触りたいです。いい?」


 つたないおねだりの真意に、聡い御堂先輩はきっと気付いているだろう。彼女は「キスが上手にできたらね」と、片目を瞑って、顔を近づけた。


「さあ、ディープキスの復習をしよう。最初はどうするんだっけ? ねえ、豊福」



 こうして先輩は俺を縛り付ける。心ではなく、関係を縛り付けて、俺を守ろうとしてくれる。

 なら、俺も同じことをしよう。この脆い関係が崩れないように、先輩が傷付かないように。

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