XX.天気予報、誤解注意報



【豊福夫婦・タクシーにて】



 豊福家。

 只今の天気模様、小雨のち曇り。


 仕事から帰宅した豊福裕作は背広のまま、めかし込んでいる妻と共にタクシーに揺られていた。

 普段であれば交通手段にタクシーなど贅沢品は使わないものの、今宵は特別。約束を果たすために最速の手で目的地に向かっている。

 俯き気味の妻に気付き、久仁子の名を呼ぶ。過労で倒れた頃より、ずっと健康的な肌を取り戻している彼女は小さな吐息をつき、不安を口に零した。


「空さん。苛められていないでしょうか。婚約者といえ、借金のカタとして向こうに預けられている身ですから」


 二人が向かっている先は御堂家だった。

 御堂夫妻から声を掛けられ、夕食を共にしようと約束している。その際、夫婦のちょっとした気遣いにより息子には内密にしてもらっている。

 豊福夫妻は知りたかったのだ。普段、息子がどのように生活しているのかを。

 子供の口からは皆良くしてくれる、と良いことばかりしか聞いていないが、親に言えないだけで苦労もあるのではないだろうか。訳アリ婚約だからこそ不安は耐えない。


「大丈夫。御堂夫妻は良い方々だ。信じよう」


「だけど、家に子供がいない日々は辛いですよ」


 久仁子が呟く。横顔が本当に寂しそうだ。

 無理もない。妻にとって息子は我が子同然に可愛がってきた子供だ。無論、自分も同じ気持ちを抱いているが彼女には劣る。それだけ久仁子は息子を本当に可愛がってきた。


(久仁子は結婚する以前から子を欲しがっていた。けれど、彼女は子を作りたくとも作れない体だと診断された)


 その時の彼女の絶望した表情を今でも忘れられない。

 所謂、不妊症と診断されてあらゆる原因と治療法を探したが、妻に当てはまる術はなかった。あれから幾年経っただろうか? 不思議なものだ。子に恵まれなかった自分達に、悲しい別れと新たな関係が待っていたなんて。亡き兄夫婦は今の自分達の現状をどう見ているだろう?


 息子を想う。

 親子となって11年、先日はじめて親子喧嘩をした。

 いつも親の自分達を優先していた息子が、烈火の如く自分の意見を主張することは親子関係として良い傾向といえる。ただ原因が、母親の過労に関するもの。

 もっと些細なことで喧嘩をしてみたいものだ。親子として自分達は近いようで遠い。


「腕のある弁護士を早く見つけないとな。空を解放してやらないと」


 身に覚えのない判を思い出す。

 これが偽りだと証明することができれば、一千万円の借金は此方のものではないと法的に主張ができる。取り立て屋が来た時は、法的手段も話し合いの余地もなく、息子を取り上げられてしまった。それが限りなくブラックゾーンで働く取り立て屋の手なのだろうが。


「どうせ雇うなら名のある弁護士がいい。そのための借金なら幾ら背負っても惜しくはありません。そして、いつか必ず濱さんに」


 先の言葉は最愛の妻とて聞きたくない。無言で肩を抱く。

 母親の愛は子を奪われることにより、憎悪と変わる。愛憎とはいったもの。いつだって愛と憎しみは紙一重なのだ。


「あの子が財閥界で生きられるとは到底思えません。ですから弁護士を立てて」


「今更、婚約を取り消すことは容易じゃない。久仁子」


 「ですけど」財閥界が庶民出の人間にとってどれほど過酷だと、妻は吐き捨てる。


「私達じゃ想像もつかないところに、あの子は放り出されているのですよ。幾ら努力をしようと、将来のために幼少から英才教育を受けてきた子供達には敵わない。それどころか、潰される可能性もあります。空さんは、空は純粋で簡単に人を信用する子です。今まではそれで良かった。だけど、財閥界では、それが仇となりかねない」


「分かっている。空もそれは十二分に分かっている。それでも受け入れて前へ進んでいる。私達にできることは、金のせいで上下関係を築き上げられている立場を解消してやることだ」


 借金のせいで、きっと息子は肩身の狭い思いをしているに違いない。

 親としてあの子を解放してやりたいのだ。借金という理不尽な環境から。

 息子にはいつも我慢をさせてきた。欲しい物だってあっただろうに、殆ど我が儘を言わなかった。その一方で並々ならぬ努力をしてきた。両親思いの良い子なのだ。少しケチな面もあるが……兄夫婦の一件を思い出して未だに自分を責める節がある。息子は苦労ばかりしている。その上、また苦労だなんて可哀想ではないか。


「空さんは私達に引き取られて、果たして幸せだったのでしょうか?」


 妻の仄暗い感情を宿した問いに、裕作は強く返事した。


「久仁子。それを直接空に言えるか? あいつはどう思うだろう」


 「忘れて下さい」妻の力ない謝罪に頷き、静かに口を閉じてしまう。

 金の確執とは厄介だ。時に親子関係や愛情を疑わせてしまうのだから。愛は金以上、世間体は口ずさむが、時折錯覚する。金は愛以上なのではないかと。

 人間、誰しも苦境に強いられると金を欲し、豊かな生活を求め、他人を羨ましがる。



 御堂家に到着すると、約束を知っている女中長の高槻蘭子が二人を出迎えた。

 恭しく頭を下げる彼女は女中を三人従え、各々豊福夫妻に挨拶。大間に御堂夫妻が待っていることを伝え、屋敷に案内してくれた。

 彼等は訪問した二人をあたたかく迎え入れ、今宵の食事会を心より楽しんで欲しいと微笑んでくれる。

 少しならず夫妻の優しさに裕作は安堵するものの、妻は息子のことが気掛かりで仕方がないようだ。何処にいるのかと尋ねていた。


 すると一子がおかしそうに厨房にいるのだと話してくれる。


 借金のカタとして働かせているのか。

 血相を変える久仁子に気付かない語り手は、おかげで娘も厨房だと微笑んだ。

 曰く、空が率先して家事を手伝っているらしく、それに婚約者も引っ付いているらしい。部屋に籠って勉強ばかりしては駄目だと注意し続けた結果、掃除や食事等の家事を始めた。

 そのせいで屋敷の女中、仲居がてんやわんやになっていると一子。


「けれど玲には良い刺激になっているのですよ。あの子は家事を一切放棄する子ですので」


「少しは女の子らしく家事をしてもらいたいと思っていたので、彼の存在は非常にありがたいもの。なにより男嫌いのあの子が、こんなにも男と親しくなるとは」


 男泣きする源二と、目元をハンカチで拭う一子の愛は深かった。

 女の子を婚約者に取る未来じゃなくて良かった。ああ、本当に良かった。あの子は男の子を愛させる子なのだ。そう言って涙していた。ややずれた愛の深さだった。


 様子を見に行くために揃って厨房を覗き込めば、一子の言う通り、女中仲居達がてんやわんやと騒いでいる。

 「お嬢様。危のうございます!」やれ右側では包丁を持った玲に、それを置くよう慌てている声。

 「空さま。それは僕がしますので」やれ左側では大きなタライを持って野菜を洗いに行く空を止める声。

 大変な賑わいとなっている厨房に御堂夫妻と女中長の蘭子は笑っていた。


「今までにない厨房の賑わいですよ。おかげで空くんの世話を任せている博紀が苦労していましてね」


 裕作と久仁子も顔を見合わせ、つい一笑。

 ああみえて息子は逞しいようだ。どのような苦境に立たされようと、持ち前の明るさで乗り切っているのだから。あの姿を見ていると、少しならず安心する。

 ただ、その、ひとつ疑問を物申せば息子の格好だ。藍色の無地浴衣を着ている玲に対し、薄紫の下地に水仙柄を着ている息子……どう見ても女物にしか見えないのだが、あれは。


「豊福。キャベツを千切りにしようと思うんだが、何処まで剥けばいいんだい?」


「剥く? あぁあああ、なんで千切った葉っぱを捨てているんですか! そこは食べられるんですよ! 勿体ないぃいいっ、馬鹿バカバカバカ! 何処触っているんっすか!」


「無防備な腰をしている豊福が悪いんじゃないか。君の寝顔を見ると、いつもムラムラするんだぞ」


「……親父くさい発言はやめて下さい。いっ、耳たぶを触るのも駄目です! また手を洗わないとっ、ひっ! 女中さん達が見ているところで何してくれるんですか!」


 おや、おかしい息子がちょっかいを出されている。

 想像していた仲の良さではない。睦まじいとはいったいなんぞや。

 婚約者の方もまんま美男子のような姿であるから、その、なんだ。様子を見守っている内に妙な気分となった。大丈夫、婚約者は男じゃない。

 己に言い聞かせていると、「空くんは良き妻になりそうだな」「ですね」素っ頓狂な会話が聞こえ、裕作と久仁子は瞬く間に混乱した。


「あ、あの息子が妻とは」


「なにぶん我が娘は男のように振る舞う傾向がありまして、将来は旦那になると言い張るのですよ。なあに問題ないです。呼び方なんて今の世の中多種多様、大切なのは娘が男と付き合うことです」


 息子が妻になる。主夫じゃなく妻。

 呼び方もわりと重要な気がするのだが、自分がおかしいのだろうか。裕作は頭を捻る。

 隣で微笑ましそうに光景を見つめている一子が夢を口にする。


「あの調子ならば三年以内に孫を抱けることでしょう。その前に正式な婚約式を済ませましょう」


 とんでも発言に裕作は思った。

 金持ちの考えは決して庶民の自分達と相容れない、理解することができないのだと。だって息子は未だ16以下省略。三年以内ならハタチにも満たな以下省略。婚約の後にすぐ結婚式が来るの以下省略。三年以内に自分達はおじいちゃんおばあちゃん。

 息子達の将来の図を想像するだけで、何やら総身の毛が立ちそうである。


「空さん。玲さんと戯れるならお部屋にしておきなさい。お手伝いをするなら、ちゃんとしないと、此処で働く皆さんが困っているでしょう」


 何かに吹っ切れた久仁子が息子に声を掛けて助言。

 「え?」名を呼ばれた空が玲と共に振り返り、「は?」驚きの顔、からの「はいぃ?!」大きな悲鳴が上がっていた。

 なんで、どうして、どうやって此処に?! そんな単語を発している息子とは対照的に、「こんばんは」婚約者は頬を崩して会釈をしてくる。


「なんだ。豊福、今日は御両親が遊びに来る日だったのかい? 教えてくれたらよかったのに」


「おおぉおお俺の動揺を見て下さいよ! うわぁあああなんで父さんと母さんがいるのっ、着替え、着替えないと!」


「どうして? これでも十分に可愛いよ」


「違います! めかしたいんじゃなくて、女物を着ている時点で、アウトって言いたいんです! 親にだけは見られたくなかったのにぃいいいああぁああ、御堂先輩にちょっかい出されているとこも見られたぁああ! 俺はもう生きていけないっす!」


「空さん。立派な奥さんになるんですよ」


「しかも母さんがワケ分からないこと言っている! どうしたの母さん?! 俺にどうして欲しいの!」


 大パニックを起こしている息子だが、実は妻もパニックになっているのだと裕作は把握。

 片や微笑ましそうに未来を見つめている御堂夫妻を横目に、ついつい腕を組んで本音を漏らしてしまう。


「せめてハタチだな。三年以内におじいちゃんと呼ばれるのはちょっと」


 問題はそこじゃない、誰も裕作にツッコミを入れる人間はいなかった。


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