14.王子の決意



「――お、お、お嬢様。今、なんと仰いました?」


「だから蘭子。鈴理と大雅が婚約破談をしたいそうだ。破談後は僕と豊福を賭けて勝負したいらしい。そのために僕は呼び出された。僕も刺激が欲しいから勝負にのった。理解できたか?」


 

 リムジン内は悲鳴で満たされる。

 走行中にもかかわらず、「何をお考えなのですか!」青褪めた蘭子さんが腰を浮かし、声音を張って御堂先輩を叱り付ける。

 剣幕に身を引いてしまう王子様はそんなに怒ることでもないだろ? と、弱弱しく反論するけれど、そんなに怒ることである。普通。


「空さまを賭けて勝負をするだなんてっ! これが旦那様や奥方様の耳に入れば如何するおつもりですか!」


「べつに黙っておけばいいじゃないか。君に教えたのは、あまりに呼び出しの用件をしつこく聞いてきたから言ったまでだし」


 「お嬢様!」蘭子さんの声のトーンが一つあがる。さすがは御堂先輩の教育係、すっかり王子が萎縮している。


「此方は豊福家のご子息をお預かりしている身の上なのでございますよ! それを恋愛という賭け事にのってしまうなんて。空さまもっ、どうして止めて下さらなかったのですか?」


「俺は反対しましたよ。でも、だあれも聞いてくれませんでしたからね」


 深い溜息をついて車窓に視線を流す。

 後ろに流れていく景色。交差点に差し掛かっているせいか、やたら人を見受ける。主に学生が多く、私服制服関係なしに若人が友人と駄弁りながら、また携帯を弄りながら、音楽を聴きながら道路を横断していた。


 かたわらでシクシクと泣いているのは蘭子さんだ。

 どこでどう教育を間違ってしまったのでしょう。蘭子は悲しゅうございます、等など泣き言を漏らしている。心中お察しするところだ。


 「ほら大騒動じゃないっすか」視線を戻し、婚約者を捉える。

 唇を尖らせて「勝てばいいんだろ勝てば」と、彼女は開き直りを見せた。そういう問題じゃないだろうに。


「まずは三ヶ月内に婚約を白紙にできるかどうか、見守ってやろうじゃないか。僕は僕で君を落とすまで。ふふっ、大雅を受け男になる姿を早く拝んでみたいな」


 負ける気などさらさらないのか、御堂先輩が三ヵ月後のことを想像して愉快気に一笑を零す。

 まずはこの件が御堂夫妻にばれないかどうか、そこを心配すべきだと思うのだけれど。

 ふと御堂先輩が指を鳴らす。頭上に見えない豆電球を明滅させ、いいアイディアが思い浮かんだと迫ってくる。下から上を見上げるように迫られ、ちょっち身を引いてしまった。嫌な予感がするのは俺の気のせいだろうか?


「三ヵ月後のその日、鈴理は大雅を抱くと言ったな?」


 白紙にできなければ、の話でしたよね。それ。


「なら三ヵ月後のその日、僕も君を抱きたい」


 口元が思いっきり引き攣った。

 「俺の望んだ展開じゃないんですけど」相手に物申しても、「僕は君のために走ったよ?」助けに来てくれた行為をダシに使われる。確かに助けに来てくれたのは嬉しいですけど、でも、それとこれとは話が別だと思うんっすよ!


 三ヵ月後も俺達、まだ学生っすよ? 幾ら大雅先輩が抱かれる可能性があるとしてもっ、俺には関係ないっすよね!

 大体、行為は安易にしちゃならないと思うんっすよ! セックスを甘く見ていると追々大変なことになるっす! 保健の授業で習ったでしょ!


 主張してみるけれど彼女は迫ってくるばかり。

 反射的に車窓側に逃げるけれど、限られたスペースのせいですぐに捕獲されてしまう。


 「豊福」顎を掬われて視線を固定される。冷汗を流して駄目だと全力で拒絶するけれど、「ね?」笑顔で脅してくるばかり。

 もし鈴理達が間に合わなかったら食べていいだろ? なあなあなあ? と目で訴えてくるもんだからタチが悪い。


「三ヵ月後のご褒美が欲しい。そしたらもっと頑張れる」


 そげなこと言われましても、これは俺が望んだ勝負じゃ「耳が性感帯らしいね」


 ウゲッ、新手の脅しがキタコレ。


 含み笑いを浮かべる御堂先輩。どれほど感じるのか試してみたいな、と唇を右耳に寄せてくる。

 吐息が掛かっただけでぞわっとした。久しぶりの感覚に危険信号が出る。不味い、鈴理先輩と別れてからろくすっぽう触られたことの無かった場所だ。久しぶりだから忘れていると思っていたのに、体は憶えている。耳から感じる快楽を。

 御堂先輩越しに蘭子さんの姿が視界に映り、「人がいますから!」両肩を掴んでどうにか押し返す。が、シクシクと泣いていた蘭子さんが余計な気を回してくれた。


「ご安心を。私は御堂家の安泰を願っておりますゆえ、こういうものを常備しています」


 懐から巾着袋を取り出し、そこから耳栓を右と左に。鶴と亀の模様が入った扇子を取り出して顔を隠してしまう。

 大変宜しくない気遣いだ。蘭子さん、俺達をなんだと思っているのだろうか?


 余計に羞恥心が駆り立てられた。

 同時に、「イ゛っ」耳殻を食まれる。甘噛みはじんわりと鈍痛を生じさせるけれど、それだけじゃない。一度快楽を知ったら体はそれを呼び起こそうと信号を発する。俺はそれを何度も経験している。


「らん、子さんいますから」


 まだ快感に程遠い、今だからこそ余裕がある。

 人がいるからやめて下さい、切に訴えると「恥ずかしいね」王子が銜えたまま言葉を紡ぐ。その感触がこそばゆい。


「蘭子もそうだけど、車外は普通の人達が健全に生活している。豊福は車内で性感帯を弄られている。同じ昼下がりなのに、こんなにも過ごす時間が違う」


 鼓動が高鳴った。

 そんなことを言われると自分がヤラシイ人間に思えてくる。

 外では和気藹々と生活を送っている人間がいるのに、俺はこんなところで何をされているのだろう? 恥ずかしくて死にたくなる。比例して体の芯が火照った。羞恥による言葉攻めが快楽を呼び起こす近道だと俺は気付けずにいる。


 縁を舐めていた舌がそろそろーっと中に入ってきた。

 「あ」身を硬直させて瞠目。その間にも舌先でつつくように内をノック。すぐに引いて熱い息が吹きかけられた。やけに中が感じる。濡れているせいだ。体がビクビクと軽く痙攣してしまう。


 久しぶりの感覚。感触。感度。


「や、べ」


 微かに自分の呼吸が速くなった。

 やばい、興奮し始めている。久々だからこそ体の火照りが速い。キスが無いだけまだマシだけど、それでもこれはやばい。

 俺、耳の性感帯を携帯のネットで調べたんだけど(弱点を克服するためにはまず知るところからだよな?)、情報によると耳の性感帯が強い人は此処の刺激だけで……その、なんだエクスタシーに似た快感を得られるそうだ。


 それまで地道に開拓をしなければいけないらしいんだけど、その方法は時間を掛けて舐め触れられること。言葉攻めすること。


 今の状況ですら身の危険を感じるのに、そこのレベルまで達したら俺はどうなるんだろうか? それこそ自分から求めそうで怖い。

 耳に性感帯がない人もいるらしいよ。あっても中を舐められることに不快感を感じる人もいるとか。俺はその人達が羨ましくてしょうがない!


 息を何度も吹きかけられ、知らず知らず相手の学ランを握り締める。吹きかけられるだけだとなんだか物足りない。


「豊福は分かりやすいな。舐められる方が好きなんだね」


 態度に出していたみたいで、御堂先輩に心を読まれてしまった。

 最高潮に赤くなる顔を見たいのか、彼女は顎に絡ませていた指を持ち上げ、自分と視線を合わせようとする。


「お願いしたら舐めてあげるよ」


 とんでも発言をされて脳内が爆発しそうになった。まさか自分から求めさせようとするなんてっ!

 鈴理先輩の場合は激流のようにあれよあれよと人を押し流すタイプだけど、御堂先輩は快楽を弱火でコトコト煮るタイプのようだ。つまり焦らしや羞恥、言葉攻めが大好き人間!

 俺にとって尤も苦手な類いである。精神的な攻めは本当に弱いんだ。肉体的な攻めはまだ自己防衛が張れるけど、こういう攻めには免疫すらない。


 本音を言えば、求める刺激が足りなくて焦燥感を噛み締めているところだ。

 けど、自分からお願いするなんて無理だ無理! キスのおねだりはしたことがあったけど、これは次元が違うだろ。


「物足りない顔をしているよ。ねえ、豊福」


 ぐぎぎっ、そんな顔をしている自分を殴り飛ばしたい。

 「た。足りてます」どうにか返事することに成功したけど、「うそつき」ふーっと息を吹きかけられ、耳の縁を優しく舐められた。

 違う。そこじゃなくって……思った直後、あくどい笑みを浮かべている御堂先輩と視線がかち合ってもう、俺、死にたくなった。何が違うだよドチクショウ。この受け身男! お前なんて夜の繁華街に行ってオネェバーであらやだぁしちまえええっ!



 ゴンッ!



 あまりの羞恥に耐えられなくなり、先輩の手を振り払って車窓に後頭部をぶつけた。しかも勢いよく。

 目を点にしている王子に対し、俺はこれでよしと自分に言い聞かせる。快楽より痛覚が勝った。一瞬にして痛みが快楽を吹き飛ばしたよ!



「ぷははっ、これは参ったね。豊福に一本取られたよ」



 片手で後頭部を押さえている俺を抱き締めてくる御堂先輩に、「苛めすぎです」相手の肩口に顎をのせてしがみ付く。

 これ以上耳をとられないための防御策でもある。この体勢なら耳を舐めることは不可能だろう。


 ごめんごめん、そう言いつつも「可愛いな」予想以上の反応だったよ。今すぐにでも抱きたくなった。アマーくけれど物騒に囁いて背中に回していた手が筋を撫でてくる。


「今晩抱きたい」


 もっと感じる君を見たい、妖艶に笑う御堂先輩に血の気を引かせてしまう。この人ならやりかねない。目がマジだよ。

 ニッコリ笑顔を作る彼女に駄目だと必死にかぶりを振る。


「なら三ヵ月後に先延ばしをしてもいいよ」


 それなら文句も無いだろう?

 選択肢は今晩か、三ヶ月後か、この二つだけらしい。こんの悪魔は最初からこれを狙っていたに違いない!

 勿論、どっちも嫌に決まっている。青い過ちは犯したくないし、この歳で子持ちにでもなったら……嗚呼、お先真っ暗な未来だ。仮に子供ができたら若い父ちゃんでごめんよ、な気分になる。


「どうする? 僕は今晩でもいいんだよ?」


 目と鼻の先の距離まで詰め二者択一を迫る攻め女に、「三ヵ月後がいいです!」半泣きでお返事。


「そう? 今晩でもいいよ?」


 意地悪い笑みを浮かべて額と頬にキスをしてくる婚約者はいつだって抱けると物騒なことを仰る。無茶苦茶だ。俺はいつだって逃げたい人間なのに!


 嗚呼、不本意ながらも鈴理先輩達を応援したくなったよ。

 彼女達の婚約が白紙になれば大雅先輩の受け男危機は回避。俺も貞操の危機回避だろうし!


 何度も首を横に振って三ヶ月後がいいと主張すると、「忘れないでね」今日から三ヵ月後だよ。ちゅっと鼻先にキスをして御堂先輩が受け入れてくれた。

 これによって今晩の危機は回避された、が、三ヵ月後のその日はきっと……想像するだけでもおそろしい。


 唸り声を上げ、眉根を寄せていると首筋を舐められた。

 「ひっ!」間の抜けた声を上げ、何をするのだと赤面する俺に、「身体検査」彼女は悍ましい四字熟語を放ってきた。


「僕の婚約者でありながら、あの鈴理に押し倒されていたんだ。それはそれは、それなりに僕も気にしているわけで?」


「え゛?」


「豊福、何をされたか洗いざらい白状してもらうよ。そういえば腕を噛まれていたね。痕になっていないか診てあげる」


「いやその」


「幸いにも蘭子は空気を読んでくれている。大いに検査ができるな? とーよーふーく」


 ニッコリと笑顔を作る皮下ではきっと怒が渦巻いているに違いない。王子様の目が笑っていないのだから!

 「お、俺。被害者なんですけど」怯えに怯えきっている俺に、「うん。知っている」だから心配したんだよ。体に異常がないかチェックしないとね。御堂先輩がふふっと笑声を漏らした。地を這うような笑みが恐怖を駆り立ててくる。


 伸びてきた手に声にならない悲鳴を上げ、次の瞬間、


 


 暗 転 。





「お帰りなさいませ。玲お嬢様、空さま。蘭子さん、お疲れ様です」


 御堂家の正門前。

 リムジンの停車と共に扉が開かれ、おかえりなさいの挨拶が飛んでくる。

 迎えてくれたのはさと子ちゃんと博紀さんだった。各々熊手を持っているところからして、落ち葉を片付けていたのだろう。


「おやつの準備を致しますね。和菓子と洋菓子、どちらが宜しいでしょうか? 和菓子なら源氏巻。洋菓子ならモンブランですよ」


 ひょっこりと車の中を覗き込んでくるさと子ちゃんの表情が柔らかい。

 仕事が上手くいっているんだろう。作る笑顔が自然に思える。生活に馴染んできた証拠だ。良かったよかった。


 また、博紀さんと一緒に掃除が出来て嬉しいってのもあると思う。

 どうもさと子ちゃんは博紀さんに恋心を寄せているみたいだ。優しい先輩だといつも話を聞かせてくれるんだけど、あの笑顔は羨望だけじゃない。話終わる頃にはいつも顔が真っ赤っかだもん。

 俺も、御堂先輩も、ついつい微笑ましく彼女の話に耳を傾けている。可愛い恋だよ。


「ただいま。さと子。今日は餡子を食べたい気分だから、源氏巻でお願いするよ。博紀、ほうじ茶を用意してくれるかい?」


「畏まりました。自室でお召し上がりますか?」


「豊福の部屋で食べるよ」


 先に降りた御堂先輩が鼻歌交じりに玄関へ向かう。

 「ご機嫌ですね」「良いことがあったんだよ」背中に会釈した女中と仲居が、後から降りる俺に視線を向けた。口を揃えてデートでもしたのかと尋ねてくるのだけれど、次の瞬間ギョッと驚かれてしまう。

 乱れた制服とぼさぼさの髪が大層目をひいたようだ。


「そ、空さま? 大丈夫ですか?」


 さと子ちゃんが地に足をつけた拍子によろめいた俺を気遣ってくれる。

 力なく首を横に振って、ダイジョーブじゃないとべそを漏らした。


「御堂先輩は鬼だ。あ、あ、あ、あんな羞恥プレイ……鈴理先輩だってあんなことしなかったのに。蘭子さんがすぐ傍にいたのに」


「問題だ豊福。鬼ごっこの鬼と、畜生の畜を足すと、どんな二字熟語が生まれるでしょうか?」


 答えは鬼畜……でしょうか。

 嘆きがバッチシ聞こえていたみたいで、玄関扉に手を掛ける彼女が顧みてきた。


「君がそうして欲しいなら頑張るよ。僕に鬼な性格でいて欲しいの? ん?」


 ひっ、身を強張らせる俺はついさと子ちゃんを盾にしてしまう。

 綺麗に微笑んでくる御堂先輩の目が据わっていた。

 虎視眈々と狙う、獣のような眼に冷汗が出る。誰だ、この人を紳士王子だと呼び始めた奴。ちっとも紳士でも、王子でもねぇんですけど。


「鬼呼ばわりだなんて、僕の愛情が伝わっていないのかな?」


 こてんと首を傾げてくる王子に、「たっくさん伝わってます!」もう消化不良を起こしそうなくらいだと笑顔を作った。

 受け男らしく俺なりに可愛らしい笑顔を作ったつもりなんだけど、女中さん方には不評だったみたい。双方苦笑いしか零さない。


「分かっていないようだから、もっと可愛がってあげる」


 おいでと手招きを一つ、御堂先輩は引き戸を開けて中に入ってしまった。その際、「豊福。首のそれ、隠しきれていない」ぱちんと指を鳴らして、ウィンクをしてくる。

 世話役の二人が自然と俺の首に目を向けてきた。急いで手の平で隠すも、「御仲が良いことですよ!」赤面したへたれくんに対して、懸命にさと子ちゃんは励ましてくれ、「睦まじい限りでございますね」博紀さんは空気を散らすように咳払いをした。


 俺は俺で更なるべそを掻くことになる。

 一応、御堂先輩のあれはお誘いの域に入るのだろうから一端の男としては喜ぶべきところだろう。


 けど、可愛がってくれるってあれだろ? あれ。

 俺に主導権のない、あれ、をされるんだぜ。

 不思議だなぁ、あれという言葉を多用に使うだけで卑猥に感じる。俺だけ? 俺だけ? あーれーおよしになって、とか叫ぶべき? あれれ? あれの用法が分からなくなってきた。

 取りあえず、あれだ。御堂先輩にあれを言ったせいで、俺はあれの危機。やっぱりあれは卑猥……馬鹿なの頭弱いの意味分かっているの俺!


「……逃げるか。いやでも、何処に」


「空さま。お嬢様がお待ちになっていますよ。女性を待たせるなんて、男として如何なものでしょうか?」


 背後に回った御堂家至上主義の世話役が、ニコニコっと微笑んでくる。よって頭上に雨雲を作って玄関に向かう他ない。

 もしかしたら、さっきみたいに精神崩壊を起こすかも。御堂先輩の言葉攻めは精神的にくる。


 ちらりと振り返って救済の目を向けるも、各々手を振って見送ってくれる。

 最後に下車した蘭子さんに至っては、意気揚々と耳栓を取り、扇子を折り畳んで満面の笑みを浮かべた。


「玲お嬢様、空さま。末永くお幸せに。御堂家は安泰です」


 なにこの流れとプレッシャー。

 えっち、しなきゃだめですか。まだ日があるうちから? 違う、そこじゃない。俺達、未だ扶養中の高校生なのに?


 重い足取りで玄関に上がり、迎えてくれる女中さんや仲居さんに挨拶。

 一子さんが帰宅していたから未来の義母さんにも会釈をして自室へ。

 障子を開くとそこには既に浴衣に着替えてしまっている御堂先輩がいた。藍の帯を結びながら、「遅いよ」文句を言われてしまう。


「あんまりにも来ないから、迎えに行こうかと思っていたよ。豊福の逃げ足は天下一品だからね」


「腹を括る時間があってもいいでしょう? 逃げなかっただけ褒めて下さい」


「どうせ博紀に逃げ道を塞がれただけだろう。君が逃げないことを考えないわけがない」


 図星。

 本当に何もかも俺のことを見透かす人だ。


 口のをへの字に曲げながら障子を閉め、鞄を机上に置くとブレザーを脱ぐ。

 王子が部屋を出た隙に着替える計画を目論んでいたのだけれど、遺憾なことに浴衣の帯をひとりで結ぶことができない。練習はしているけど、大抵迎えてくれる博紀さんに結んでもらっているから、大した時間も費やしていない。

 仕方がなしにカッターシャツ姿で過ごす。


「何をしているの。ほら、浴衣を選んであげたから脱いで」


 可愛がってくれる意味を察した鈍感な俺は、丁重にお断りするも、さっきのことがあるため強く拒絶も出来ず。

 結局、従順にシャツを脱いで御堂先輩に浴衣を着せてもらう。


「今日は橙の稲穂柄。白の下地と合って可愛いな」


「これも御堂先輩のお下がりですか?」


「着る予定だっただけで、僕は未だ着ていないから安心しろ」


 何が安心ですか。

 女物を着せられている時点でアウトですよ、アウト。


「痕が目立つね」


 膝立ちになった御堂先輩が帯を片手に、人の肌着を捲る。

 胸部から腹部にかけて赤い斑点がぽつぽつと自己主張していた。勿論、犯人は感想を述べた目の前の人間だ。白々しく目立つと口笛を吹く彼女に、小さく溜息を零す。御堂先輩って実は鈴理先輩よりも容赦がないのかも。

 ただ一つ、王子はヒーローと違う点を持っている。


「見えない場所で助かりましたよ。首に同じことをされたら、体育もまともに受けられませんし」


「見える場所に証は一つでいい。多くつけると下品に見えるからね」


「隠れる場所なら多くつけてもいい、と?」


 数にすると、両手足指じゃ足りないだろう。


「人間というのは欲望に忠実だ。誰かをものにしたい、奪いたい、征服したい。それが形となって表れる。これは僕の気持ちさ。鈴理が復活した以上、手加減する必要もなくなった」


「……ディープキスは手加減の類いだったんですか」


「今まで悔しい思いをしていたんだ。あれくらい許されるだろう? 僕にとっては初めてのキスでも、君にとっては初めてじゃないし」


 結び終わった彼女と目が合い、何も言えなくなってしまう。


「もっと好きにしていいっすよ」


 御堂先輩はそれだけの権限を持っている。俺は肩を竦めた。

 本当は借金を媒体に体を繋げることだってできる。借金を言われたら、幾らノットスチューデントセックスを掲げている俺でも拒絶することはできないだろう。

 けれど御堂先輩は人情味ある女性だ。「一方的なんてツマラナイだろ?」そう言って俺の立場を酌んでくれる。とても優しい人だと思った。


 だからこそ俺はこの人を特別視している。

 もう、友人の枠だけじゃ足りない感情を抱いてしまった。今の俺にとって、この人はなくてはならない女性だ。


「先輩、座って下さい。髪を結いなおしてあげますよ」


 ほどけそうな後ろ髪に気付き、俺は彼女に座るよう指示した。

 最近、一緒に寝起きしているせいか、彼女の髪を梳いたり、結ったりするのが日課となっている。


 嬉しそうに胡坐を掻いてゴムを取っ払う御堂先輩は、随分髪が伸びたな、と自分の髪をつまんだ。

 箪笥から櫛を取り出した俺は彼女からゴムを受け取り、その場で膝を折って正座をする。「いつ見ても綺麗っすね」亜麻色の長い髪を手にとって櫛で梳く。一本一本が絹糸みたいだ。本人は殆ど手入れをしないらしいけれど枝毛は見当たらない。


「豊福は長い方が好きかい?」


 振りかえろうとする彼女に前を見ておくよう指示し、どちらも好きだと答えた。


「でもどちらかと言えば、ロングの方が好きっすね。髪を解く瞬間を見るとドキッとします」


「じゃあ僕にもしてくれるのかい?」


 「はい」素直に返事すると、「恥ずかしい奴だね」御堂先輩は不貞腐れたように肩を竦めた。焦る俺を見たかったんだろう。

 笑声を噛み締めた。一本取ってやった気分だ。


「君は男装する僕のこと、どう思う?」


 ふと話題が切り替わる。

 櫛に髪を通しつつ、「カッコイイ女性ですよ」それ以上も以下もない、と返事。


「女の子の中にはね。こんな僕を“男”同然として見る人もいるんだよ」


 告白されたこともあるのだと暴露してくる。

 驚きはしない。彼女の女前らしい性格や立ち振る舞いを見ていたら、そりゃ惚れる女性もいるだろう。

 一方で男にはあまり告白をされないらしい。持ち前の男嫌いが祟っているのは言わずもだ。


「男嫌いを抜かしても、男は男装する僕っ子を敬遠する傾向にあるみたいなんだ。両親ですら好くは思っていない。君はどう?」


 どうしてそんなことを聞くのか、俺には真意が見えない。

 けれど聞かれたことには答えるべきだろう。


「考えたこともなかったですね。カッコイイ女性とは思っていましたけど、好き嫌いかなんて考えたこともなかった。先輩は男装する自分を気にしているんっすか?」


「婚約者の気持ちは知っておきたいものだろ?」


「なら、大丈夫ですよ。御堂先輩はカッコイイ女性で通っていますから。俺の王子ですしね」


 手首に通していたゴムで髪を縛る。

 御堂先輩が大きく動いたせいで綺麗に結べなかった。

 「ジッとして下さいよ」愚痴ってゴムを解く。再び櫛で髪を梳いていると、意味深に彼女が吐露した。


「これからも僕は女性らしく振る舞えないと思うよ」


 俺は微笑を零して、「女性らしくして欲しいと言った覚えはありませんよ?」セクハラに対しては女性として控えて欲しいところはあるけれど、基本的な身なりや言動に対しては口にしたことはない。

 それが御堂先輩のひとつの一面だと思っているから。


「俺は貴方を王子と見ても、男性だと見たことはありません。俺の中では常にカッコイイ女性なんですよ。その一面が俺は好きです。何度、女前な貴方に救われたか」


 今度こそ綺麗に髪を縛ることができた。満足のいく出来栄えである。

 終わったと彼女の両肩を叩く。体ごと振り返ってくる王子に綻んで、「俺を女性だと見ますか?」逆に問う。

 それこそ初対面のあの夜は人を女性だのなんだのイチャモンつけてくれたけど、今は、きっと違う。彼女は俺を一端の男と見てくれている。かち合う瞳で分かる。


「豊福は口説いている女の子達とは違う。君は僕の中で男だ。姫でも、やっぱり男なんだ」


「男の俺を嫌悪、しますか?」


「そうだね。性別を考えると、少し」


「正直にお願いします」


「ごめん。白状してしまえば性別を考えると、何処かしらで嫌悪する僕がいる」


 俺に女物の着物を着せる理由のひとつが垣間見えた気がした。

 御堂先輩は人が困るようなことをする一方で、男らしい人間を婚約者として置かないよう努めているのだろう。ショックは受けない。なんとなく分かっていた。

 ただ王子は優しいから、俺に女装を強要しない。


「豊福は可愛いよ。焦る姿も、泣きべそを掻く姿も」


 つい、溜息を零してしまう。

 もっと別の姿を褒めて欲しい。


「ただ時折、女の子の方が可愛いな、いいな、と思うことがある。女に恋をしたことはない。でも出来ても驚かない自分がいるだろうな」


「空子と改名すべきです? 身なりも頑張りますけど、期待はしないで下さいよ」


「はは、嫌なくせに。僕も嫌だな。自分で好き勝手に弄るのは好きだけど、僕の嗜好のために無理やりイメチェンされるのは。豊福は豊福のままがいいんだ。性別で君を区別することはもうできない。もしも君が財閥の女子に虐げられることがあれば、きっと僕は彼女達を突っぱねてしまうだろう」


 それだけ大切なんだと言ってくれる男嫌い王子に、「俺を受け入れてくれてるんっすね」ありがとうございます、と目尻を下げる。男嫌いは早々治らないだろうに、男の俺をこんなにも受け入れてくれる。傍にいて支えてくれる。感謝すべきところだ。

 そんな彼女の気持ちに報いたい。だから俺も受け入れよう。男装少女の嗜好を、男を目指す気持ちを。


「俺が何故、受け男であり続けると思いますか?」


「望まれたから、じゃないのか?」


 櫛を手に持ち、それを眺める。

 竹製品の櫛はとても高そうだ。歯がきめ細かい。指で軽く弾き、返答を待つ彼女と視線を合わせる。


「それもあります。けれど、それだけじゃ俺は拒絶するんですよ。実際、鈴理先輩に強いられていた頃は逃げてばかりでした。女扱いすら嫌で仕方がなかったんです。なのに、こうして受け入れるようになった。それは俺自身が相手を喜ばせたいと思うようになったからです」


 今でも逃げることはいっぱいなんですけど、それでも俺は相手の喜ぶ顔を見ることで少しならず嬉々しました。

 嗚呼、そうか。草食男にできる俺なりの愛情表現はこれなんだ、と思えるようになったんです。今でもリード権を持ちたい、男ポジションに立ちたい、攻められるものなら攻めたいと思う俺がいます。


 けれどそれ以上に攻め女を受け入れたい俺がいる。だから受け男であり続けるんですよ。



「世間がどう思うが構わない。情けないと罵られてもいい。俺は攻めたいと切望している女性を受け入れたいのだから。いざという時だけ男として女性を守れたらそれでいい。―――そう思える人は限られているんっす」



 彼女がそっと寄りかかってきた。体を受け止める。

 滑るように膝に頭をのせた彼女は胴に腕を回し、体に顔を押し付けた。折角結った髪が俺の膝から畳にかけて散らばっている。

 「男は嫌いだ」ぽつりと呟く御堂先輩に相槌を打つ。「男装をやめるつもりもない」それにも相槌を打つ。「女の子が好きなんだ」知っていると返事した。


「それでも僕は君が好きなんだ。男の君を好きになってしまったんだ。僕は君の王子であり続けたい。この三ヶ月で僕は君の、本当の王子になる」


 ここで好きを返すことない。

 俺の好意は、彼女と同じところに達していないと知っているのだから。真摯な告白が穢れてしまう。なら、今の気持ちをありのままに。


「守ります、貴方の姫として。必ず。だからありのままの貴方でいて下さい。貴方が俺にそう言ってくれたように」


 頭を抱き締めた後、散らばった髪を一束掬った。

 「勿体無いな」洗うには手間の掛かる髪だったけれど、僕はわりとロングがお気に入りだったみたいだ。独り言を零す彼女に、うんっと首を傾げる。なんの話だろう?



 俺が言葉の意味を知るのはその夜のこと。

 すっかり女中のさと子ちゃんと仲良くなった俺はここ最近、夕飯の手伝いをしに厨房に侵入している。その度に仲居の博紀さんや蘭子さんに見つかってお小言を貰うんだけど、俺の言い訳はこうだ。


「友達の手伝いをしているだけっすから」


 それに夕飯の手伝いもできない人間が婚約者だなんて世間様から笑われてしまうじゃないか。二人を言いくるめては夕飯の手伝いを買って出ている。


「はぁ。また此処にいらっしゃったのですか」


 今日も料理の盛り付けを手伝っていると、博紀さんに見つかって注意された。

 へへっと笑い、サラダの中に入っていたきゅうりをつまみ食い。うん、美味い。和風ドレッシング味。

 悪びれた様子もなく厨房に入り浸っている俺に、博紀さんは溜息をついて肩を落とした。

 「貴方様は時期御堂家になる方ですよ」小人がこなすような仕事は触れてはいけないと世話役。その主張に俺は笑いながら返した。


「働かざる者食うべからず、と言うじゃないですか。俺は居候の身ですし、部屋に引き篭もって勉強ばかりしていると博紀さんに注意されますし。あ、そっちの大皿持っていきます」


「いけません空さま。これは我々のお仕事です」


 ひょい。大皿を奪われるも、「さと子ちゃん。手伝う」俺は彼女が持っている料理を運ぶために足を向ける。


「これからは教育係になるべきですか」


 端正な表情を崩して額を当てる博紀さんに大袈裟だと返し、友達と共に厨房を出る。

 「すみません」微苦笑を零すさと子ちゃんに、「いいんだよ」勉強ばっかりじゃ俺もしんどいから、陽気にケラケラと笑った。


「仕事の方はうまくいっているみたいだね」


「はい。失敗がグーンと減ったんです。蘭子さんや七瀬さんに褒められちゃって」


 まだまだ半人前ですけど、とテレテレの彼女に、俺は良かったねと微笑んだ。

 何より好きな人に褒められたことが嬉しかったらしく、「すべて空さまと玲お嬢様のおかげです」此処の暮らしが楽しくなってきた、と言ってくれる。

 そっか、良かった良かった。今度は舞い上がりすぎて失敗しないようにしないとな、さと子ちゃん。


「今日は鰤のかぶと煮か。贅沢だな」


「空さまは鰤より、鮭や鯖がお好きだとお聞きしております」


「よく知っているね」


「皆様の嗜好を書きだした表がありますので。例えば目玉焼きですと、旦那様と空さまは半熟の目玉焼き。前者は塩コショウで、後者はお醤油。奥方様は両面焼きのお醤油。玲お嬢様はそれ自体お好みではないため、甘めの玉子焼きにする、と書いてありました」


 あ、そんな風になっているの。お金持ちの厨房って。

 四人の嗜好に合せるなんてめんどうな。


「そういえば空さまのお嫌いなものが表になかったですね。料理長が困っていました。把握したいそうです。是非教えて下さいませんか?」


「嫌いなもの? 消費期限が切れた食べ物かな」


 「え?」目を丸くするさと子ちゃんに真顔で、それが嫌いだと返事する。


「食べたら腹を壊すから嫌いなんだ。勿体ないけど、捨てるしか他ない」


 “消費期限”。

 これは豊福家の敵だ。

 賞味期限は味の問題だから、期日が過ぎても躊躇わずに平らげてしまうんだけど“消費期限”となれば話は別だ。これを過ぎれば、体に害が出ますよ。腹を下しますよ。それでも食べますか? 貴方は食べる勇気がありますか? 勇者になりますか? という問いかけが浮上する。


 折角買った饅頭も“消費期限”が切れているとなると食べようか、食べまいか。

 勿体無いから食べるべきなんだろうけど腹を下したら追々出費の方がでかくないか?! 出費をでかくするくらいなら、饅頭とおさらばするべき。嗚呼、ごめんよ饅頭! ……葛藤の末に処分してしまうという。


「目を放したうちに、食べられなくなってしまった。本当は食べられたのに! それが一番精神的にきつい。だから嫌いなんだ。消費期限が切れた食べ物」


「…………空さま、嫌いな食べ物の根本がずれている気がします。苦手なものはないのですか?」


「苦手うんぬんで食べ物を避けていたら、俺の家は飢え死にするからね! 大抵なんでも食べるよ。あ、でも、そうだな、ひとつ苦手と言えば」


「あるのですね! それは」


「カビ始めた食パン。カビを取り除いて食べはするけど、なんとなく気分的に落ち込む。だからカビは苦手かな」


 満面の笑みで答えれば、さと子ちゃんが目を潤ませた。

 「違います空さま」自分が聞きたいのはそういうことじゃないのだとシクシク。シクシク……俺の食の価値観と、お金持ちの価値観は違うようだ。

 ごめん。庶民出だから、と片手を出すも、「それ以前の問題です!」ツッコまれてしまった。俺とさと子ちゃんはかなり仲良くなったよ、ほんと。

 

 廊下を歩いて大間を目指していると、目的の部屋から絹を裂いたような悲鳴が聞こえた。

 肩を並べて歩いていた俺達は顔を見合わせる。「今のお声は」「一子さんだ」料理を零さないように駆け足で大間に飛び込んだ。


 目を点にして絶句。思わず持っていた料理を落としそうになる。

 さと子ちゃんにいたっては口をパクパクと金魚のように開閉、声という声が出ないようだ。部屋の柱に縋ってオイオイシクシク泣いているのは一子さん。着物の袖を食んで悔し泣きをしている。


「ど、どうして酷(むご)いことを」


 唯一女の子らしいチャームポイントだったのに、両手で顔を覆い大袈裟に嘆いている。まるでこの世の終わりを見たように泣いている。


「髪を切っただけじゃないですか」


 面白おかしそうに綻んでいるのは浴衣を着た美少年! ではなく、俺の婚約者。自分の席に着いて今か今かと夕飯を待っている。

 あんなに長かった髪が無残に切られ、バッサバサに跳ねている。

 自分で切ったんだろう。切り方が雑だ。胸のふくらみがなければ美少年と間違われてもおかしくない。


 皆の反応を余所に、当の本人はより学ランが似合う女になっただろ、と俺にウィンクしてくる。


「王子に近付いたかな?」


 花咲く笑顔を向けられたため、俺は呆気取られ、次いで微苦笑を零すしかない。

 料理をテーブルに置くと、彼女の隣に腰を下ろした。


「ますます俺の立場ないっすね。こんなにイケメンになっちゃって」


 そっと頬を撫でる。

 すると横から伸びた手に掴まれ、勢いに任せて彼女の膝にのせられた。あっという間に目に毒な体勢の出来上がりである。


「決意表明する手っ取り早い方法は髪だと思ったからね。僕も、一応女ってことで大切な髪を切ってみた。三ヵ月間、僕も勝負に出る」


 すべては三ヶ月で決まる。

 三ヵ月後、一体どんな結末が待っているのかは分からないけれど、状況が変わらなかったら、俺は未だに引き摺っている鈴理先輩の気持ちを完全に断とう。そして本気でこの人を好きになってみよう。

 セックスは……どうしよう。約束しちまったけど、うん、まあその時になって悩むことにしよう。


 これが俺が決めたことだ。

 鈴理先輩の気持ちを引き摺っていたのは、俺達自身が納得して終わらせた関係じゃないから。

 だから何度言い聞かせても想いを断つことができなかった。

 でももう違う。今度は俺自身が決めた。


「勿体無いことをしましたね」


 右に左に跳ねている柔らかな髪をわっしゃわっしゃ撫ぜてやると、「またすぐ伸びるさ」気持ち良さそうに彼女が目を細めた。

 決意に免じて初めて、俺は自分から彼女の額に唇を落とす。いつも支えてくれている貴方への、今の俺の気持ちだ。受け取って欲しい。


「君って男は小っ恥ずかしい奴なんだな」


 瞠目する俺の王子様は、軽く頬を紅潮して抱きすくめてきた。

 この体勢の方がよっぽど恥ずかしいっすよ。さと子ちゃんは両手で顔を隠しつつ指の間から光景を見てくるし、一子さんだってそこで泣きながら見ているんだから。


 取りあえず下ろしてください、小っ恥ずかしい。

 そう言っても聞いちゃくれない。決して俺の体重が軽いわけじゃないのに。


「ちゃんと髪整えないと。これはあんまりっすよ」


「豊福が整えてくれ」


 人の助言に対して無茶振りを寄越してきた。

 さすがの俺も人の髪を整える技術はない。これは美容師さんにしてもらわないと。



 三ヶ月。


 そう、すべては三ヶ月で事が終わる。そして始まる。

 泣いても笑ってもこの三ヶ月は怒涛の期間となるだろう。待ち受けている近未来に想いを寄せながら、俺はもう一度短髪になった婚約者の髪を撫ぜた。

 くすぐったそうに、だけど気持ち良さそうにすり寄ってくる御堂先輩はまるで猫のようだった。

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