12.これが肉食あたし様!



 □ ■ □



(やっべ。すっげぇ眠い)


 大あくびを噛み殺す俺は眠たい目をこじ開けて授業を聞いていた。

 今の授業は大好きな数学、なのに眠気はピークに達している。てんてーの話がちーっとも耳に入ってこない。

 そんな俺に声をかけて来たのがアジくんだ。

 「お盛りだったのか?」小声でからかってくるキング・オブ・男前に違うと反論したかったけれど、相手がトントンと首筋を叩いて意味深に笑ってきたもんだから何も言えない。ああもう、なんて弁解すればいいのやら!


「本多。遊んでるんじゃない」


 「ゲッ。やっべ」教科書で顔を隠すアジくんが名指しされて、黒板に呼び出しを食らってしまった。

 失敗こいたと隠れて舌を出すアジくんに、ド・モルガンの法則で解けと数学教師の飯塚が言う。「ド・モルガンの法則ってなんっすか?」立ち上がったはいいけれど、法則がちっとも分からんとアジくんが頭部を掻いた。


 途端に教室が凍りつく。

 何故ならば、飯塚は“分からない”と言われるのが大嫌いなのだ。

 面倒なのは“分からない”と言った途端、クラスメート全員がとばっちりを食らってしまうということ。

 ひくりと口元を引き攣らせ、指し棒で黒板を叩く飯塚は「他の奴も分からないのか?」なら、本日の課題は三倍に増やすが? と脅しを口にしてくる。これがあるから飯塚は生徒間では不人気なんだよな。


 クラスメートの視線がアジくんに集中する。

 「ごめんって」片手を出すアジくんは能天気に笑い、本当に分からないんだと爽やかに言った。


 そんな問題じゃないだろうに。

 嗚呼、そして皆の視線がこっちに流れてきた。

 補助奨学生はこういう時に超絶人気者になれるけれど……やめてくれよ、俺、プレッシャーにはすこぶる弱いんだから。


「飯塚先生。俺が解きます。ド・モルガンの法則で解けば良いんですね?」


 結局、皆の視線に負けて立たざるを得なかった。

 黒板に向かい、短めの白チョークを持って問題を読み、解答となる式を書いていく。


 片隅で思い返すのは俺の首筋の痕のこと。

 これは御堂先輩がつけたキスマークだ。

 彼女はあの日以降、俺の部屋で寝るようになった。一緒に寝たことに味を占めたらしい。

 俺が風呂からあがって、さあ寝るかと障子を開けたらもう彼女がいるもん。わざわざ枕を持参。その内、枕を俺の部屋に置くようになったもんだから困ったもの。自分の部屋で寝て欲しいんだけど。


 一緒に寝るだけならまだしも、寝ている間に絶対ちょっかいを出してくるんだ。悩みの種は尽きない。

 今、俺が寝不足なのは彼女のせいと言っても過言じゃない。


 腰を触るなんて可愛い方だ。

 袂に手を突っ込んでは腹を触ってくるし、反応すれば歯の浮くような台詞を囁かれるし、それに。


「できました」


 チョークを置いて飯塚に視線を送ると、「よし」正解だと上から目線で返事し、席に戻っていいと指示してくる。


 踵返して席に向かう。

 その際、自分の首筋を軽く触った。この辺りには紅い痕が咲いているだろう。

 制服に隠れるか隠れないか、ギリ見えるか見えないかのラインに先輩が痕を付けてくるようになったんだ。俺が深い眠りについている頃を狙っているんだろう。知らぬ間に痕が花開いていた。


 歯を磨いている時に気付いて、思わず口の中の歯磨き粉を呑みそうになったよ。


 大慌てで御堂先輩を詰問したら、ケロッとした顔で「可愛いぞ」と口説いてきた。

 なあにが可愛いよっすか! 人の意識がない間に好き放題してからにもう。だから別個に寝るべきなんだ。

 けど俺は居候させてもらっている身の上だから、他の部屋に移動することは出来ない。御堂先輩を部屋に戻すしかないんだ。婚約者はちーっとも言うこと聞いてくれないし、どうしたものか。



 無事に数学の授業が終わる。

 課題増量の危機はどうにか免れたので良かったと思う。


 次の授業は移動教室だ。

 準備をしていると、「悪い悪い空」お前には助けられたとアジくんが片手を出してきた。隣に並ぶエビくんが「君のせいで危機だったよ」ただでさえあいつの課題は多いのに、と愚痴を零している。


「しょーがないじゃんかよ。空が悪い。首に目立つ痕を付けているんだから」


 アジくんが肩を竦めてくる。

 「痕?」エビくんが覗き込んできた。そしてなるほど、と納得。お熱いね、とからかってきた。


「御堂先輩と随分仲良くやっているみたいだね。良かったじゃないか、次に進めているみたいでさ」


「色々苦労あると思うけど、気楽にいけよ」


 心に余裕が出来始めた俺は、フライト兄弟に婚約事情とその裏事情を話した。

 親しい二人になら話しても良いと思えたし、俺自身も何処かで隠し事をすることに疲れたのかもしれない。婚約していると公言もしているわけだから、変に隠し立てして付き合うより、全部を打ち明けて今までどおりの付き合いをしようと思ったんだ。

 財閥界に無縁で且つ、親しい二人にだったら話してもいいって思えたしさ。


 一千万の借金事情については、二人を大いに驚かせてしまった上に困らせてしまった。

 身近で人身売買取引が成立しているなんて思いもしなかったようだ。本人だって俄かに信じがたいのだから、フライト兄弟にとって尚更。


 けど、彼等は敢えて借金について弄ってきた。

 「空が一千万?」「どんだけ価値のある男なの?」「ヤラレルが趣味なのにな」「普通の女の子なら幻滅じゃん」等など、フライト兄弟は明るくおどけて湿気た空気を飛ばしてくれた。

 ついつい笑ってしまった。やっぱり二人に話して良かった。同情じゃない、でも俺の望む明るい振る舞いをしてくれるんだから。


 アジくんなんてさ、勝手に消えたら許さないからな。この先、何かあったら絶対言えよ。飛んできてやるから! とか言ってきてくれたんだぜ?

 超男前! 何この人、イケメンすぎて眩しい! 俺は男前くんに羨望を抱いたよ! いっそのこと崇めようかと思ったね!(そしてちょっちエビくんがひいていたのは余談にしておく)。


 御堂先輩との婚約事情についての感想は、さっさと未練を断って結婚しちまえ、である。


「ったく、あの頃に戻ったよな。お前のそれを見ていると。オンナ趣味はともかく、お前は幸せもんだなぁ。美人な女の子と毎日ウフフしているんだから。普通ねーぜ。そんな美味しい日常」


「お金持ちの結婚式ってどんな感じなんだろう。空くん、是非呼んでね。二千円くらいしか包めないけど」


「ばっか。そこは無償の友情で割愛だろう? 俺達の金なんて、向こうにとってしてみればちっぽけだぜ」


「確かに確かに」


 二人は散々人のキスマークを弄くってくる。

 恥ずかしかった一方で、本当にそうだと同意した。

 鈴理先輩と付き合っていた時は、これをどう隠そうか悩んでいた。それだけ数多くのキスマークを付けられていた日々。もう戻らないけれど、あの日々も今となっては良い思い出だ。

 そして今、ある意味であの頃に戻った。ただあの頃と違うのは付けてくる相手が違うだけ。


「で。どうなんだ、御堂先輩のこと」


 教室を出て二人と移動する。

 あーんなことやこーんなことをしているのだから、くっ付いたも同然だろうとアジくん。

 苦笑いを零す。正直に気になっている存在であること、誰より傍にいたいことを明かした。そして、好きになりかけていることも。


 「なりかけ、ねぇ」それは贅沢な悩みですこと。揶揄してくるアジくんは、俺を未練がましい女々しい男だと憮然に吐息をつく。

 「吹っ切るのに時間を要するタイプなんだね」エビくんがさり気なく擁護してくれるけど、ごめん、違う。女々しい悩みは鈴理先輩のことよりも、俺自身の身分にある。


「御堂先輩を好きになることで、彼女を傷付けることがあるかもしれない。俺は御堂先輩のものじゃない。御堂財閥のものだ。俺を買った淳蔵さまが豊福空を不適材と見なしたら、即斬り捨て御免になる。彼女が嫌がろうと、決定権は淳蔵さまにある」


 連れ二人の足が止まる。

 敢えて足も口も止めず、語りを続ける。


「俺は最初こう思っていた。男嫌いの御堂先輩の婚約者になることで、彼女の嫌がる見合いを止められる存在になれたらって。そして時期がきたら、身を引こう。淳蔵さまのところに行こう。別の形で借金を返そう。俺なんかが財閥の子息になれるわけがないって分かっていたから」


 なのに最初の気持ちは、今の楽しい日常によって塗り替えられる。

 本当の家族のように接してくれる御堂夫妻。ひとりの男を偏見なく好きになってくれる御堂先輩。御堂家に仕える女中仲居。


 皆と触れ合うことで、俺は欲が出てきてしまった。

 嫌だ、この日常を終わらせたくない。楽しい生活を手放したくない。なにより御堂先輩と離れたくない。何も考えず、馬鹿みたいに女の子を好きになりたい。これは俺達の借金じゃない。幸せになりたい。


「素直に好きになれない原因は、鈴理先輩。それも一理あるけど一番は身分。借金のカタとして預かっている男と、本当に御堂先輩は幸せになれるのか。いつも思い悩むんだ」


「なれねぇよ。空が保守的な考えを持ち続ける限り」


 教科書の角で頭のてっぺんを刺され、俺はその場にしゃがんで身悶える。

 追いついたアジくんは、「ちとは馬鹿になれよ優等生くん」先のことは考えるなと背中を蹴っ飛ばしてくる。


「今、あれこれどうなるか分からない未来を考えたって一緒だろう。お前の家事情は知らんし、正直分かってやれない。けどお前の悩みが、この場じゃ解決できるないってことは分かる」


 だったらもう、必要以上に悩むな。男だろう。アジくんが鼻を鳴らした。


「空くんが御堂先輩の立場なら、もどかしいんじゃない? 幾ら言っても、気持ちを信じてもらえない。届かないって。そんなのむなしくない?」


 少しは楽観視してみるのも手だとエビくんは、眼鏡のブリッジを押して微笑する。


「君は身分のせいで一度大破局している。だから怖いんだよ。身分のせいで傷付くことに、自分の無力さを目にすることに」


 目から鱗が落ちる。

 ああ、そうか。エビくんの言う通りだ。

 逃げることが大得意な俺は、傷付きたくないがために御堂先輩の好意を盾にした。言い訳に使った。やめよう、すぐに逃げることは。俺の悪い癖だ。


 首筋に咲いた痕を確認するように手の平で撫でる。

 俺は御堂財閥のものだけど、心だけ俺自身のもの。王子はそれを願っている。なら、たった一つの所有物である心は、自分の意思で動かしたい。 


「変なことを聞かせてごめん。もう言わないよ。代わりに惚気話を聞かせてあげようかな。今でも充分に幸せなんだ。あ、ごめん。二人とも未だにカノジョなしだった。聞くだけ寂しくなるよね」


 ぷーっくすくす。嫌味たっらしく笑えば、フライト兄弟の引き攣り笑いが向けられる。

 「君って男は」こめかみに青筋を立ててくるエビくんがノートを投げつけてきたので、大慌てで回避。すかさず、アジくんが俺の背後に回ると「ヤラレくんのくせに」力任せに首を絞めてきた。


「ごめんって幸せで!」


 ギブアップを口にする。

 いっぺん死んで来いとハモられてしまう。他愛もないやり取りが心を軽くした。


 とにもかくにも連日のように痕が付けられるようになったことで、俺が誰の物になっているのか目で確認できるようになった。

 改めて婚約しているのだと思い知り、俺はもっと勉学に励みたいと思った。少しでも御堂先輩に見合いたいから。また彼女のことをもっと知りたいと思った。小さなことでもいい。彼女を知って好きになりたいと思うようになったんだ。


 また片隅で息づいていた鈴理先輩の存在は、少しずつ消えている。

 薄情者だと思われるかもしれないけど、これが一つの恋心の終焉だ。

 彼女にも俺と同じように婚約者がいる。こっちがどうこう想おうが、俺は御堂財閥のもの。そして彼女は二階堂財閥のものなんだ。

 婚約していると伝えてから、彼女の姿をめっきり見なくなった。


 向こうが俺を避けているのかも、



「1年C組豊福空! 空はいるか! 竹之内 鈴理がわざわざ、大切なことだから二度言うがわざわざ足を運んで来た! あんたに会いに来たぞ!」



 避けて、避け……あれ?


 それは放課後のこと。

 帰りのSHRが終わり、身支度をしていると前触れもなしに勢いよく前方の扉が開かれた。

 同時に聞こえてくる大音声は俺を名指しする声。つい昔にもこんな場面があったようなかったような……じゃなくって! なんで鈴理先輩が俺のクラスに来て俺を名指ししているんっすか!

 度肝を抜いてしまい、つい持っていたペンケースを机上に落としてしまう。


「むっ。返事がない。このあたしが呼んでいるというのに、返事がないとはどういうことだ」


 高飛車口調は相変わらずである。

 「いるではないか!」俺の姿を見つけると、鈴理先輩がずんずんとこっちに歩んできた。足を止めると仁王立ち。腕組みをして俺を凝視してくる。


「そーら。あたしが呼んでいるというのに、何故返事をしない?」


「え、あ、す、すみませんっす。突然のことで……ど、どうしたんっすか?」


 何か御用でもあるんでしょうか。

 小声で尋ねると、


「御用がないと来てはいけないのか? ということはなんだ? 御用を作らなければあんたに会いに来てはならないと? あたしに向かってよくもそんな生意気な口を叩いたな!」


 ビシッと彼女が指差してくる。


 えぇえっ、普通そう思うでしょ。

 特に今の俺達の関係は先輩後輩関係で成り立っているんっすから、御用があるって思うのが普通でしょ! なんで怒られているんっすか俺!

 クラスメートの視線が集まる中、「まあ良い」御用を作らなければならないのならば御用を作ってやらんでもない、鈴理先輩が不敵に笑った。


「御用はひとつ。空、あんたを襲いにきた。性的な意味で」


 雄々しすぎる御用に唖然の絶句。大混乱。

 え、何言ってるのこの人。性的な意味で襲いに来た? 性的な意味で襲いに来たぁ? えっちしに来たの? あらやだ。まだ太陽も沈んでいないのにこの人は何を仰っているの?


「ば。馬鹿言わないで下さいよ、貴方には婚約者がいるでしょう。俺にだって婚約者がいるのに」


 相手にそう言っても、「だから?」である。どゆこと?! それじゃあ理由にならないってか! そんな馬鹿な!


「鈴理先輩。浮気は駄目っすよ」


 椅子を引いて大主張すると、「安心しろ」浮気は一人じゃ成立しないのだぞ、彼女が勢いよく親指を立ててきた。


「つまりあたしとあんたは共犯なのだ。同じ罪を被る。む、アダルトな世界だと思わないか?」


「勝手に共犯者にしないで下さいよ! 俺には御堂先輩がいるんっすから! 大雅先輩にも申し訳が立たないっす!」



「なにより、だ。空はあたしじゃないと満足できない体なのだ! あんたが拒もうと体は既にあたしの虜。 例えば空の性感帯は耳の中だが、付け根や裏も感じやすい。左より右の方が感じやすいのだ。また首から鎖骨にかけて舐めあげると微かに反応する。ここはまだ開拓途上だな。それに臍も「もうやめて下さいぃいいい! 耳が痛いっ、俺の存在も痛いっす!」



 まさかこんなところで性感帯を暴露されるなんて思いもしなかった! 明日からもう学校に来れない。不登校決定だ。

 真っ赤っかになって机上に撃沈する俺に勝ち誇ったような笑みを浮かべる鈴理先輩は、「欲求不満のようだな?」とけしからんことを述べてきた。冗談じゃない。俺は浮気は断固反対派っすよ。


 すると鈴理先輩が、「ではあたしと付き合っていた頃に、玲が仕掛けた行為はしても良いのだな?」意味深に視線を向けてくる。


「浮気は互いの気持ちが一致してこそ、だしな。ならば一方的に攻める行為は許されるよな?」


「えっ、ちょッ! 先輩!」


 椅子から引き倒された俺は床に頭をごっつんこ。

 可愛く表現しているけれど、無茶苦茶痛いのは補足として付け足して欲しい。

 「アイテテ」背中も強打してしまい、身悶えていると腹部に重みを感じた。ハッと気が付いておずおず視線を上げれば、ニンマリ笑っている悪魔が! じゃね、あたし様が俺のネクタイを解いてビシッと両手で張った。


「ほぉ? 一丁前にキスマークが付いている。ふっ、玲め。あたしに対するアテつけか? 良かろう。その挑戦、受けて立つ!」


 ぐぎぎっ、と笑顔を深める鈴理先輩の禍々しいオーラに千行の汗を流した。乱心している。鈴理先輩が乱心しているよ。怖いよ!


「いい声で鳴けよ」


 手を縛ってこようとするあたし様に全力で抵抗して、「駄目っす!」俺は貴方とはシませんっ! 浮気はしません! スチューデントセックスは反対している男ですから!


 「目を覚まして下さい先輩ぃいいい!」俺の叫びに、「覚ました結果なのだよ」と鈴理先輩はにやっと笑う。


「む、視線が多いな。こら、あんた等は空気を読んで教室から出ないか!」


 勝手に人の教室に乗り込んできたくせに、そこにいた連中に退却命令を下す。さすがあたし様である。

 鈴理先輩の気迫に負けたクラスメートがトンズラする中、「どうしよう」「どうするって言われてもよ」フライト兄弟は果敢にも残って俺を助けようかどうか考えてくれている。考える前に助けて欲しいんだけど!

 「ウゲッ!」一瞬の隙を突かれて手首を一括りにされた。硬結びされているらしく、解こうにもなかなか解けない。


「暴れている空を縛ることなど容易い。空のことで不可能など、あたしにはないのだ!」


「何、満足した顔で人を縛ってくれているんっすか! ほんっと、こういうのは不味いんですよ。俺の立場的にもッ……どこ触っているんっすか!」


「脇?」


「いや首を傾げるところじゃなくってっ、シャツに手を突っ込まないで下さいっ!」 


 お触りお触りしてくるあたし様の手を必死に掴んで止めていると、「鈴理ー?」大雅先輩がひょっこりと教室に顔を出してきた。

 やっべ、この状況! 傍から見れば浮気に見られるよな!


「あのっ、大雅先輩ッ! これはその」


「あー、もう豊福を襲ってんのか? テメェは我慢ってのを知らないのかよ。どんだけ欲求不満だったんだ?」


「仕方が無いではないか。禁欲を強いられて早幾月経ったと思う? もう限界も限界だ!」


 ねえ、なんで二人は能天気に会話してくれているの? わっけ分かんないよ俺。泣きたくなってきたよ!

 もう俺の頼みの綱はフライト兄弟しかない。助けて助けてSOS! 信号を送れど、二人の首は横に振られるばかり。助けたいけど助ける術を見出せないらしい。俺だって合気道を習っているお嬢様に勝てる気がしない。


 どうしてこんなことになった、心中で涙ぐんでいると大雅先輩がスマホを取り出した。親指で操作して電話を掛ける。

 テレビ電話にしているらしく、「よっ」俺だよ俺、と画面に向かって手を振っていた。何の用だと不機嫌に返ってくる声音にギクリと肩を震わせる。この声はもしかしなくとも。


『大雅。僕は今から部活なんだ。君と違って多忙な身の上でね』


 嗚呼、やっぱり。

 嫌味を飛ばされてもなんのその。大雅先輩は大袈裟に溜息をついて、「俺は親切心から連絡を寄こしてやったんだぞ?」でもお前がそれならしゃーないよな。べっつに俺は切ってもいいぜ? ヤーレヤレと言ってスマホの画面をこっちに向けた。

 刹那、「センパイィイィイイ!」俺は婚約者に全力でSOSを出す。驚愕しているのは御堂先輩。あ、学校にいるのかな。制服が学ランじゃなくてセーラー服にっ、じゃなくって!


「御堂先輩っ、助けて下さい! あたし様がいきなり襲ってきたんっすよ! このままじゃ食われちまいますぅうう!」


「こら空。今はあたしとお楽しみ中だ。こっちを向く」


 両手で無理やり首を捻られた。

 にっこりと笑ってくる悪魔は「さあて何処から頂こうかな」なにせ空の性感帯は複数あるしな。耳にしようか、その中にしようか、耳殻を丹念に舐めるもよし。おっと耳たぶも美味そうだ。唇も良かろう。臍を舐めてやるのも悪くは無い。それとも未開発地に触れてみるか。

 物騒なことを仰る鈴理先輩に青褪めてしまう。目っ……目が本気だ。イッちゃってる。


「ふっ、ふふふっ、禁欲を強いられた分、鳴せるから覚悟しろ。そこにいる連中は置物とでも思っておけばいい。人の目も時に快楽となるものだ」


 俗にいう公開プレイだ。嬉しいだろ?

 にっこりからニンマリに笑い方を変えてくる鈴理先輩は両手を合わせてイタダキマス。意気揚々と俺のボタンに手を掛けた。「エッチっす!」死守する俺に、「褒め言葉として受け取っておこう」あたし様が口角をクイッとつり上げる。

 はてさてこのまま流されてしまうのかと思いきや、そうは問屋が卸さない。



『鈴理―――!』



 大雅先輩の持っている機具から怒声が上がった。


『君は何をしている! 婚約者がいながら、僕の婚約者に手を出すなんて!』


 ギリリと奥歯を噛み締める王子に対し、鈴理先輩は疎ましそうに顔を上げた。


「邪魔をするな。あたしと空はこれから、愛の時間を過ごすのだから」


『大雅でしろと言っているんだ! その手を退けろ。触れていいのは僕だけだぞ!』


「誰に向かって口を利いているんだ。あたしはシたいようにスるだけのこと。あんただって婚約以前はすーぐ空にちょっかい出しただろ? それに、婚約はしたがそれはそれ。これはこれだ。一度くらいエッチして何が悪い!」


 一でも十でも悪いもんは悪いですよ鈴理先輩! どんだけ暴走しているんっすか!

 大雅先輩も、のほほんと見物していないで止めてやって下さいよ!


「残念だったな玲。他校生がゆえに婚約者の貞操が守れないとは。せいぜい悔しがるが良いさ。そこで指を銜えて見てろ!」


 勝利の笑声を上げる鈴理先輩がどうしょうもない悪女に見えるのは何故だろう? あれでも彼女は俺の元カノなのだけれど。

 スマホの画面の向こうが微動している。こめかみに青筋を立てている御堂先輩がそこにはいた。今にも噴火してしまいそうな怒気を纏っている。


「テメェな。あんま玲を怒らせるなって。目的が変わってくるだろ?」


 やっと大雅先輩が口を出してきた。仕方が無い、俺の腹の上に座り込むあたし様は「一時間だ」と時間を口にした。


「一時間以内にエレガンス学院に来い。でなければ空を食う。多忙なら来なくても良いぞ。あたしがこいつを美味しく頂くまでだ」


『そこまで挑発になるということは、それなりの覚悟があってのことかい?』


「さあな。それはあんたが此処に来て確かめるがいいさ」


『応援団は何をしているんだ。豊福を監視しておけッ、ゴホン。見守っておくよう指示していたのに』


「あいつ等ならあたしのドS攻撃にハァハァしておったぞ」


『……あのクソ男共、シバキ倒す』


「とにかくいいな、玲。一時間以内だぞ。空はあたしが預かった!」


 言うや否やネクタイで括っている人の右腕を取ると、がぶり。


「アイッター! なんで噛むんっすかっ!」


 ぎゃあぁあ痛いっ、この人、本当に肉食獣に成り下がっているっす!

 ブンブンと腕を振る俺をもろともせず、鈴理先輩は人の腕をがぶがぶしている。表現は可愛らしいかもしれないけど、結構痛いよこれ!


 「何してるんっすか!」「うまひ」「美味いじゃないっすっ。お放しなさい!」「むーっ」「嫌じゃないっすよ!」「むっ」「アイダダダっ!」「ぬっ、ひょふへい?」「嬌声じゃなく悲鳴っす!」


 ギャーギャー騒いでいる俺達にやれやれと大雅先輩が肩を竦めて、「元気になった途端これだもんな」呆れ顔を作ってスマホの画面を自分に向ける。



「ってことだ、玲。なるべく早くこっちに……あ、切れちまった。学院の何処に来いってまだ言っていないのに」



 こりゃ一時間分後が修羅場も修羅場だな。

 頬を掻いて肩を竦める大雅先輩がこっちを見てくる。まだ俺の腕をがぶがぶしている鈴理先輩に煽り過ぎだと呆れた。


「うゆひゃい」


 反論するけどやっぱりお口を放してくれない。いい加減にしろと俺様があたし様の頭を叩いたために彼女がようやく解放してくれる。

 痛かった。噛まれた箇所を吹き、改めて俺は先輩方を見上げる。いや睨む。


「どういうつもりっすか。鈴理先輩といい、大雅先輩といい、なんかグルみたいっすけど」


「悪い悪い。ちと玲とお前に用があってよ」


 片手を出す俺様の余所で、「あたしは本気で襲うつもりだったのだが」ああ美味そうな獲物だな、ジュルッと生唾を飲んでくる……怖い。あたし様が本当に怖いんだけど。


「おーっと豊福。なに逃げようとしているんだ?」


 事情を聴く前に逃げてしまった方が得策だと、本能が警鐘を鳴らす。

 それに従い、腹の上に乗っているあたし様を退けようとするも、俺様に見つかり、万事休す!


「さすが獰猛な鈴理から逃げていただけあって、察しが良いな。だが逃がす気はねぇ。面貸せ」


 シュルッ、大雅先輩が自分のネクタイを解いた。

 とてつもなくヤーな予感がした俺が悲鳴をあげたのはこの直後のことである。すっかり傍観者になっていたフライト兄弟が廊下に避難し、陰からそっと「ごめん」「助けられねぇ」と言って見守っていたのは俺の知るよしも無い。


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