10.草食は王子が気になる
□ ■ □
「貴方様。空さんは大丈夫でしょうか」
寝室、三面鏡の前に座っていた御堂一子は己と向かい合い、結っていた髪を解いているところだった。
鏡面の向こうでは夫が座椅子に腰掛け、経済新聞の見出しを目でなぞっている。
一子の問いを受け止めると老眼鏡を外して、手に持っているそれを折り畳む。表情は憂慮が滲んでいた。
「わたくし達の前では明るく振る舞っていますが、あれは誰がどう見ても空元気ですよ。必要最低限の行動以外は、部屋に閉じこもってしまっていますし。先程の夕食時も、半分以上残してしまったそうですよ」
その点で世話役の七瀬博紀から体調不良ではないか、と一報が入っている。
彼は若手ながら大変優秀な仲居だ。目ざとく主を観察し、何かあればすぐに医者の手配をすることだろう。
だが、これは医者の問題ではない。彼と取り巻く環境の問題である。
「空くんが部屋に籠ってしまうのは、私達に遠慮する気持ちが強いからだろう。無理もないが。久仁子さんの容態は回復に向かっているそうだな」
「ええ。今は自宅で療養しているようですよ。入院沙汰にならなくて良かったですね」
未来の親族になるのだから、当然一子は心配を寄せる。
詳細は聞いていないが、是非とも無理だけはして欲しくないと思う。言ったところで豊福夫妻は聞く耳を持たないだろうが。
とはいえ、娘の婚約者が空元気だと預かっている此方としても胸が痛む。やはり彼には自然な笑顔を零してもらいたい。
どうにかしてやれないだろうか。源二に視線を送ると、「それには及ばないだろう」ハーフ交じりの瞳が意味深長に綻ぶ。
夫が座椅子から腰を上げ、障子を半開きした。
指さす方向には静寂を保つ中庭と、それを散らす娘の活きの良い声。そして部屋から引き摺り出したであろう婚約者の姿。
今日も娘は男物の浴衣を、成り行きで彼は女物の浴衣を着ている。双方、似合っているかどうかは置いておき、仲良く庭の池の前でしゃがんでいた。
どうやら鯉に餌をやりに来たようだ。
台所から失敬したのであろう。玲の手には味噌汁などに入れる麩の袋が収まっている。
距離があるため、彼等が何を会話しているのかは分からない。
けれども玲が元気づけるために彼を外に連れ出したことは様子を見ていて分かる。
「わわわっ、なんっすか。この鯉!」
麩を放った瞬間、鯉達が一斉に跳ね、空が驚きの声を上げた。
娘が水しぶきから逃げる彼に大笑いすると、「先に言って下さいよ!」こんなに跳ねるとは聞いていないと大声で主張。それにより娘がもっと声を上げて笑う。
再び空が鯉に餌をやろうと挑戦する。学習した彼は立ったまま餌を放っていた。飛び跳ねる鯉を興味津々に見ている。
と、ここでまた娘が行動に出る。
わざと彼の背を押して、前乗りにさせたのだ。池に落ちると慌てる彼を後ろから抱き止め、冗談だと言わんばかりに笑声を漏らす。
「先輩!」ムキになる彼から逃げるため、悪戯の犯人は池の周りを逃走。被害者は後を追い駆けている。
微笑ましかった。
娘が嫌悪なく男の子と接する姿も、自然と感情を出せている彼の姿も。
「な。私達の出番は不要だと思わないか?」
「ええ。無用な心配でした。きっと空さんは元気になりますね」
「今彼に必要なのは、より二人で時間を過ごすことだ。玲の恋が成就することにも繋がる。それに彼もまんざらじゃなさそうだ」
逃げる娘が蘭子に呼ばれることで、池から離れる。
足を止め、その背中を見ていた彼は不貞腐れていた表情を崩し、人知れず笑っていた。嬉しかったのだろう、ああやって元気づけてくれることが。
そして密かに異性として意識し始めたのだろう。
戻って来た娘が笑顔を向けると、彼は照れたように頬を掻き、顔を赤らめていた。確かに彼は男装を好む娘を女性として意識している。
「貴方様、わたくしの目に狂いはありませんでした。空さんと玲を婚約させて良かったと思います。これからどんどん親密になってくれることを期待しましょう」
「男嫌いもなおってくれるかもしれんしな」
「すべてをなおせなくとも、ああして男性を愛せるようになったことは玲にとって大きなプラスです。いつかは男装をやめ、一女性として振る舞ってくれる日が来てくれるかもしれませんね」
□
母さんが倒れて幾日、俺の気持ちはようやく落ち着き始めていた。
それこそ一週間は地面にめり込むほど落ち込んでいた。
なにせ俺の知らないところで不眠症だの、無茶な労働をしていただの、それが原因で病院送りだの。挙句の果てにはかつてない親子喧嘩をし、口汚く罵って俺自身が自転車と衝突事故を起こしたのだから、人生に悲観も悲観。
母さんに罵声を浴びせてしまった罪悪感もあって、その日は一睡もできず自己嫌悪に陥った。
しかも、この親子喧嘩には続きがある。
怒りの芯が冷え切っていなかった俺は、翌日実家で父さんと対峙したんだ。
それはもっぱら母さんが倒れたことについて。父さんなら知っていた筈なんだ。不眠症気味になっていることも、不眠不休で働いている姿も。
どうして、こうなる前に止めてくれなかったのか。
俺は借金の負担を軽くしてくれ、なんて頼んでいない。二人が気にするなら学校を辞めて働く等々、父さんに向かって怒りの感情をぶつけた。
その内に気付いた。母さんと同じように、疲労の色を見せている父さんも何処かで無茶をしているのだと。俺の見えないところで、何かをしているのだと。
本当は母さんに謝るために実家へ帰ったのだけれど、謝るのも馬鹿馬鹿しくなり、一方的に毒を吐いた。
生まれて初めてだった。親に対して反抗的な態度を取ったのは。
とにかく謝りたくなかった。俺の主張は間違っていない。間違っているのは親だ。二人のせいで不安と恐怖に突き落とされそうなんだ。
そう言わんばかりに怒れ怒れた俺は、しばらくは家に帰らないと言い放ち、顔も見たくないと父さんに背を向けた。
結果、婚約者の家に戻った両親至上主義は膝から崩れるほど落ち込んだという。
世話役の博紀さんが血相を変え、体調不良なのかと救急箱から体温計を取り出すほど、俺の顔色は宜しくなかった。その本人は、わたしは貝になりたい状態だった。放っておいてくれ、が本音だったよ。
だって父さんと母さんに、あ、あんな、罵声をっ、俺はクソ息子か! 不良息子か! ゴミ息子か!
養子に置いてくれた二人のことは本当に大好きなのに、ああもう、わたしは貝になりたい。そればっかり口にして嘆いていた記憶がある。
そんな俺を支えてくれたのは、御堂先輩だった。
彼女は親子喧嘩をしたことのない俺に、家族だからこそ本音を言い合うべきだと助言。自分も両親に本音を漏らし、時に不満を口にして喧嘩をしているのだと教えてくれた。
親子喧嘩は日常の中にある、当たり前の一部なのだと王子。そして、謝ることも日常の一部だと促される。
「豊福は親子喧嘩慣れしていないから、そんなにも落ち込むんだよ。だけど向こうは思っているんじゃないかい。息子が親に対して怒った、それだけ家族に近付いているんだ、と」
不思議なことに御堂先輩の言葉がすんなりと心に浸透していく。
今までは助言として受け止めていただけの言葉に、確かな温かみを感じた。
七日後の夜、俺は両親に電話を掛けた。
変な意地が出て謝罪はできなかったけれど大丈夫、体は平気? 明日は日曜だから帰る、ぎこちなく親子の会話は交わせた。
隣で聞いていた王子がおかしそうに笑っていたおかげで、話す勇気が持てたのかもしれない。
先輩はそうだ。
いつだって俺の傍にいてくれた。
初めて会った財閥交流会の時も、詫びだと家に押しかけてきた時も、俺が鈴理先輩との関係に不安を感じていた時も、大破局した時も。
俺が部屋に引き篭もっていると、強引に腕を引き、外に連れ出してくれる。嫌いじゃない、その強引さ。
難癖あることは知っている。
彼女は男装っ子のボクっ子、男嫌いの王子様で人を姫にしたがる。謂わば王子系攻め女。
けれど彼女の優しさは、決して哀れみじゃない、同情じゃない。あの人の優しさは紛れもない、異性に対する想いだ。
ひとつの問題が終息した途端、ひとつの問題が浮上する。折角落ち着いた気持ちが、また別の意味で騒ぎ始めた。
どうしよう。俺は御堂先輩が気になる。
「空さま。御体の具合が悪いのでしょうか? それとも何かお口に合いませんでしたか?」
御堂家の朝は早い。
六時きっかりに家族で朝食を取るため、五時五分前に叩き起こされ、洗顔と着替えを済ますよう女中達に促される。
それが終われば身支度の確認と本日のスケジュール確認。時間が余れば、散歩や読書、ニュースを観るよう勧められ、朝食まで時間を潰す。
御堂一家は朝から入浴をしているようだけど、勿体無い精神が先立つ俺に恐れ多くてできやしない。
今だって勿体無い精神が働いている。できることなら、こんなことはしたくない。が。
「す、すみません。博紀さん……俺、もう」
ギブアップの意味合いを込めて箸を置く。
途端に世話係の博紀さんが片付けていた皿を台に置き、額に手を当ててきた。
「お熱はないようですね」真剣真顔でこっちを見てくる彼に、体調は万全だと諸手を挙げる。
「ふむ、空くんは少食だな。駄目だぞ、しっかり食べないと」
「そうですよ。せめてお味噌汁だけでも召し上がれないかしら?」
向かい側にいる御堂夫妻にこのような言葉を投げられ、つい愛想笑い。
俺だって食べられるもんなら食べたいのである。完食だってしたい。
だけど、俺には俺の生活リズムがある。
今までの日常生活の中で、朝の五時から叩き起こされ、睡眠時間を削られるようにスケジュール確認等々をさせられ、六時丁度に朝食を食べるような習慣はなかったんだ!
しかも御堂家の朝食はパン一個とか、おにぎり一個、とか、そういう庶民レベルの話じゃない。
栄養バランスをちゃんと考えられた主食、主菜、副食、果実その他もろもろ。丸々一食分が朝からテーブルに用意されている。
豊福家の朝食はパンがあればパンを食べ、握り飯があればそれを食べ、無ければ「ま、いっか」で済ます、そんな簡素な飯だ。
お分かり頂けるだろうか?
何が言いたいかって、朝からご飯に味噌汁に煮物に焼き魚……そんなに食べられるか! それより寝たいわ! もっと寝たいわ!
六時起床が日課だった俺にとって、御堂家の朝は非常につらい。口が裂けても言えないけど。
はぁ、情けねぇ。
最近色んなことがあったせいか、無理に食べていた朝食が喉を通らなくなっている。最初の頃は胸焼けしそうになっても腹に入れていたけど。
「博紀。明日から豊福の朝食はおじやか、スープ中心にしてやってくれ。朝から食べられる量じゃないんだろう」
ドキッ、鼓動が高鳴る。
隣を流し目にすると、あっけらかんと朝食を平らげている王子の姿。無理していることを見透かされていたらしい。
御堂先輩が垂れている長髪を耳に掛ける。いつもはひとつに結っている姿だからこそ、その仕草に見惚れてしまった。
王子って普段はカッコイイけど、髪を下ろしていると美人さんで、どっちかっていうと可愛いよな。
「豊福、どうしたんだい?」
視線に気付いた王子とばっちり目が合い、俺の体が飛び上がった。拍子に膝を台に打ち付け、アデデデデ!
お、おぉお落ち着け。べつにやましいことは思っていないぞ。ただ髪が、結っていない髪が珍しいとか、その可愛いとか、美人さんで王子で見惚れていたとか……見惚れ? 可愛い? うわぁあああ、うわああああああああああああ!
「空さま。お顔が真っ赤ですよ。お熱が出てきましたか?」
博紀さんの心配が余計俺を混乱させる。
顔が真っ赤ってなんじゃらほい?! 熱が出てきた? そら熱が出てきただろうよ! 顔めっちゃ熱いもん!
「ごちそうさまでした!」
落ち着くためにお得意の逃げを発揮する。「空さま!」博紀さんが後から追って来るけれど、こればっかりは一人にさせて欲しい。
また御堂先輩が気になったんだから、もう、死にたい! 俺は朝から何しているんだよ!
「あらあら。朝から微笑ましいことですね」
「見せつけられてしまったな」
なんでも見透かしている王子が、ふふっと笑声を零したことを俺は知らない。
「かなり脈あり。可愛いな、豊福の奴。もう少しで落ちてくれるかな」
「やべぇ。御堂先輩の前でやらかした」
自室に引き篭もり、ふらふらっと畳まれた布団の上にダイブ。時間まで身悶えることにする。
「心臓が死ぬ。爆発する」
未だ早鐘のように打つ鼓動をそのままに、仰向けに寝転んで天井を見つめた。
心に余裕が出来ると、人間は広い視野を持つようだ。
借金問題が解決したわけじゃないし、母さんの体調は万全じゃないし、俺はポンコツ婚約者のまま。
だけど、あの頃よりはずっとマシで。
そしたらどうだ、些細な仕草すら御堂先輩が気になるじゃないか。傍にいてくれる王子のことが。
いつの間にか異性として意識している自分がいた。
「万々歳じゃないか」
俺は彼女の婚約者、晴れて両想いになりハッピーエンド。それでいい。本当に?
彼女とは感情よりも先に関係が成り立った。それは鈴理先輩の時だって一緒。俺は落とされるようにあたし様に恋をした。
だけど家が先立ち、彼女と別れることになった現実がある。
制服の袖を捲る。腕には誘拐事件で追った銃痕が残っていた。鈴理先輩と誘拐されたあの日を思い出し、傷痕をなぞる。
生きるために二人で逃げ回ったっけ。撃たれる恐怖に怯えながら、手を結んで。
鈴理先輩のことは今も好きだ。それは変わらない。あの人は俺の高所恐怖症のすべてを知り、過去の罪を包んでくれた人だった。すべてにおいて強引な人だった。
ただ彼女以上に守りたい人が出来たのも事実。
じゃあ、その人と将来のために婚約者としての義務を果たせるか、どうかといえば……エッチだろ? 王子とエッチ……いやーん。
ばか落ち着け、俺は朝からなんて妄想をしているのだろうか……確かに婚約者としていつかは義務を果たさないといけない。子づくり行為は必然。
問題は内容だ内容。
王子はノーマルな子なのだろうか? 俺に主導権をくれる子か?! いや無理だ。鈴理先輩の好敵手だぞ。普通なわけがない。
既に男らしく振る舞っている点で、普段の主導権は彼女にあるじゃないか! 思い出せ、足が痺れた時の王子の意地の悪い行為を。
「む、無理だ。エッチできる気がしない」
普通のエッチすらもできる気がしない童貞ヘタレが、アブノーマルエッチなんて尚できる筈もない。
あたし様は道具とか用意していたけど、お、王子の嗜好は如何なものだろうか。
ロープ? 薬? それともコスプレ? どれもヤラれたことはないけど(コスプレはかろうじてある、けど)もし、王子がそういうアブノーマル系が好きなら……精神的な攻めがお好きなのは確かだよな。言葉攻め大好きだし。
くっ、自分では紳士に攻めているとか言っているけど、俺から言わせてみればあたし様と変わらないくらい野蛮で獰猛だからね!
笑顔で押し倒してくるところが恐ろしいのなんのって、いつの間にか相手の言うことを聞いているほど精神攻撃がこわい。
「逃げることしか想像できない。俺が先輩を押し倒せるわけないし」
布団を巻き付け、畳の上でごろんごろん、とのたうち回る。
エッチなんて無理だ無理。おれへたれ。成人しないとできない。準備や処理も面倒そうだし、学生の内に子供ができたら、と考えるとハタチまで童貞でいいや、とか思います。クズですか? そう思う俺は男としてクズでしょうか? ええい、もうクズでいいです。どうせクズのへたれなんですから。
「押しに弱いからな俺って。いつも流され流されて……だけどキスとかくらいなら」
くらいなら?
嘘つけ、本当は興味ありありなんだろうが!
言って大後悔。自分で自分が嫌になり、時間までミノムシ布団になって過ごした。
御堂先輩が気になる。
学校にいる間もその気持ちは変わらない。
他校同士だから、お互い学校で生活している姿は知らない。
例えば俺が数Ⅰの授業を受けている間、王子はどんな授業を受けているのかな。どういう友達がいるのかな。昼休みはどう過ごしているんだろう。部活にいる先輩の姿はどんな感じかな?
想いを寄せれば寄せるほど、気持ちがざわつく。
王子は几帳面だから、何かとスマホのLINEでスタンプやメッセージを送ってくれる。
機械音痴の俺だから、返信するのすら四苦八苦してしまうのだけれど、やり取りは嫌じゃない。良い気分転換になる。
「まーた御堂先輩とLINEなの? 妬けるねぇ」
「へっ、ち、ちが……」
「なあにが違うんだよ。顔がにやついちゃってさ」
フライト兄弟に指摘され、茹蛸のように顔を赤らめてしまう。
彼等は成り行きで御堂先輩と俺の関係を知っているものの、詳細は一切知らない。もう少し時間が経ったら話そうと思っている。
それを知ってか知らずか、二人はLINEをしている俺を茶化してきた。
「あたし様の次は王子様か。相変わらず空のオンナ趣味が変わっているよな。ヤラれたい系男子なのは知っていたけどさ」
「誰がヤラれたい系男子だって? べつに女の子にヤラれたい願望を持っているわけじゃ……」
はいはい、適当にあしらうアジくんは俺の主張なんか聞いてもくれない。
スマホに視線を戻すと、「好きなんだねぇ」開いていた文庫を閉じ、エビくんがこんなことを言ってくる。
「好き、俺は御堂先輩が好きなのかな」
つい思ったことを口にすると、はあ? 二つの声が呆れた。
「空くん、君ね。誰がどう見ても、その様子は好きと言っているようなものだよ。じゃなきゃLINEやってにやつくとか、まじキモイでしょ。引くよ」
「うっ、それはそうだけど」
「なに? まだ元カノに未練があるわけ? やめとけやめとけ。空がどう思おうが、向こうには伝わらねぇよ。お前は竹之内先輩と別れたんだ。親に頭下げられて」
分かっているよ、そんなこと。
もう終わった恋だってのも分かっているし、俺には俺の立場がある。鈴理先輩を思ったところで、そんなの独り善がりだろう。御堂財閥にとってマイナスしかない。
それより王子を好きになっていった方がプラスだ。
現に俺は彼女が気になっている。すげぇ気になる。傍にいてくれる優しさも、男の子らしく振る舞う姿も、その中で垣間見える女の子らしい仕草も全部。
なのに王子を気になることに、何処かで後ろめたさがある。なんでだろう。
「ンなの決まってるじゃねかよ。空が竹之内先輩を傷付けたくねぇって臆病になっているからだろう? 親に良い友人でいてくれって頼まれているのもあるんだろうけど」
そんなの、結局は向こうの都合でしかない。アジくんは続ける。
「大体、向こうの親が勝手なんだよ。娘と別れさせておいて、今後も一友人として支えてくれ? 無茶言うなって。空だって手前のことで一杯なんだ。約束を守れなくとも、それはお前が罪悪感を抱くことじゃない。二階堂先輩もこの前、お前に激怒していたけど、勝手言うなって話だよな? どいつもこいつも空に期待し過ぎだ。お前なんてこーんなに小さい人間なのにな」
豆粒サイズだと指で表現するアジくんは、俺自身にも自分を過大評価しないこと、としっかり釘を刺してくる。
誰彼全員を面倒看切れるほど器が大きいわけじゃないだろ? 相手に問われ、小さく首肯した。
人間は我が儘な生き物で、沢山の人の想いに応えられないと分かっている一方で、誰からも嫌われたくない気持ちを抱いてしまう。
俺もその類いだ。我が儘も我が儘なんだけどさ。
「身の程を知れよ。空は自分が思っている以上に小さい人間だ。お前は許容範囲で充分にやった。もういいじゃん。自分の好きにしろよ」
手厳しいことを言った直後、アジくんが微かに頬を崩す。
「お前が御堂先輩を好きになっても、それは裏切りじゃない。不本意な決着であろうと、向こうだって勝手に婚約したんだ。てか、先に婚約したのはあっちじゃんか。裏切りを口にするなら、向こうも一緒だ」
「いつまでも引き摺るより、御堂先輩の良いところを探していった方が時間も得だよ。僕等は応援しているからさ。君の事情や財閥界はよく分からないけど、まあ、力になれることがあれば相談に乗るし」
これだからフライト兄弟は好きなんだ。
悪いところは悪いと言ってくれるし、助言してくれるところはしてくれるんだから。
そうだな。
二人の言う通りだ。もう次の恋に前進してもいいじゃないか。
もう彼女の想いには応えられないし、相手がいる彼女に気持ちは伝えられないけれど、鈴理先輩と付き合えたことにはとても感謝しているんだ。彼女がいたから、今の俺がいると言っても過言じゃない。
そして今の俺がこうして喜怒哀楽を自然と出せているのは、王子のおかげだ。
たくさん王子のことを知っていこう。知れば知るほど、彼女のことを好きになれる。きっと。
スタンプを送り返し、俺はスマホと閉じた。早く放課後にならないかな。無性に王子に会いたい。
御堂先輩が気になる。
それは学校が終わってからも変わらない。
帰宅部の俺と、部活生の彼女は帰宅する時間がまったく異なっていて、王子に習い事や財閥関係の行事がない限り、滅多なことじゃお迎えの車で一緒になることは無い。
婚約者でも居候(で、しかも借金のカタ)なんだから俺にお迎えは寄越さなくてもいいのに、蘭子さんは今日も車を寄越す。
「蘭子さん。御堂先輩は、いつ帰って来ます?」
車に乗り込むと、必ず始まる今日一日の報告会。
女中の長であり王子の教育係でもある蘭子さんにとって、婚約者の一日は把握しておきたいものらしい。下心としては何かしらのことできっかけを作り、関係を進展させて欲しい、と願望を抱いている。口癖は『お嬢様の子を腕に抱く』だしな。
そんな女中さんに先手を打った。よって報告会が始まることはない。
「できれば、具体的な時間が知りたいんですけど」
真ん丸に目を見開く蘭子さんが驚くのも無理はない。
俺から王子の帰宅時間を聞くなんて、初めてなのだから。
「お嬢様は部活がございますので、八時過ぎになるかと。何か御用事でも?」
「用事という用事は……ただ何時に帰るのかと思って」
八時か、早く顔が見たいのに。
ぽろっと気持ちを零し、窓の外を眺める。気になると自覚すればするほど、あの人が恋しくなる。
ぼんやりと流れる景色を見ていた俺だけど、ふっ、と重大な失態に気付く。
ぎこちなく視線を前方に向ければ、ああ、やっぱり。聞かれている。取り巻く空気に花を咲かせている蘭子さんに、目を覆いたくなった。
一度スイッチが入ると蘭子さんは暴走する。
関係が進展しているのだと把握した女中は、家に着くまで今の御堂先輩についてどう思うか。何かして欲しいことはあるか。近々デートをしても良いんじゃないか等々、俺に迫って更なる進展を催促する。
自室に入る頃にはヘロヘロだ。蘭子さんの進展猛撃はマジしんどい。
「お帰りなさい、空さま。お召し物を替えましょう」
帰宅すると、颯爽と現れるのが世話係の博紀さんだ。
これがいまいち慣れない。あれこれ身の回りの世話を焼いてくれるのは嬉しいけれど、なんだか申し訳なさが出てくるんだ。俺が庶民出だからだろうか?
馴染んできた浴衣に着替えるため、制服を脱ぐ。まだひとりで浴衣を着ることはできない。
「おや、これは」
浴衣を広げた博紀さんが顔を顰める。彼が持っていたのは枯れ葉色をした無地の浴衣だった。
「お嬢様の浴衣じゃないか。また、さと子が間違えて……空さまは女物だと言っているのに」
「博紀さん。そろそろ俺に男物を着る権利が与えられても」
「何を仰いますか。空さまの浴衣は、お嬢様がお選びになったものですよ。そこに男物があるなら喜んで着てもらいますが」
あーはいはい分かりましたって。
駄目元で言ってみただけじゃないっすか。分かっていましたよ、博紀さんがお嬢様至上主義なことくらい。
「まったく」世話係は困ったように溜息を零して、箪笥に向かう。引き出しを開けた瞬間、彼の口から驚きの声が上がった。
「さ、さ、さと子……空さまの浴衣をこんなにして」
畳み方が雑、というか多分、不器用だったようだ。
彼の手に持っている浴衣が物の見事に皺くちゃになっている。それが一着二着なら笑い話なんだけど、箪笥から出した浴衣全部がそれになっているのだから、さあ大変。
血相を変えた博紀さんが俺に頭を下げ、新しいものを用意すると部屋を飛び出した。
ンー、俺はジャージでもいいんだけど、向こうが許してくれないんだよな。
「今日もやらかしちゃったかさと子ちゃん。大丈夫かな」
もう一人の世話係であるさと子ちゃんは、相変わらずアガリ症のドジっ子だ。
毎日のように失敗をして、先輩である博紀さんを困らせている。
昨日は俺の入浴中にシャンプーとリンスの補充をしようとして、あらやだぁになっただろう。一昨日は食器を片付けようとしてすってんころりん。源二さんのお酒を盛大に零した。その前は俺のシャツをアイロン掛けしようとして、見事にアイロン痕を付けてくれた。失敗の話を出すと切りがない。
さと子ちゃんは頑張っているんだけどな。どうにも空回りしているみたい。
失敗ばかりしているせいか、他の女中さん仲居さんと仲良くなれていないようだ。敬遠されているっていうの? みんな迷惑を被りたくないから、彼女を避けている。
だからかな、ぽつんと仕事をしている姿を見ることが多い。
俺が声を掛けようとしたら、すっごい緊張してしまうから、そっとしているんだけど……あの姿は見ていて悲しくなる。いつも彼女は寂しそうだ。
「空さま。この後はお勉強ですか?」
紅葉柄の浴衣を持ってきた博紀さんが膝立ちになる。
その予定だと返事すれば、「たまには息抜きをしても宜しいのでは?」優しい助言を頂く。
そうは言っても、勉強以外にやることはない。
家事をしようとすると蘭子さんや博紀さんに全力で止められてしまう。
この前だって廊下を雑巾で拭こうとしたら、「御手が汚れてしまいますから!」と博紀さんに叱られた。
学校では当たり前のように雑巾を持つ機会があるのだけど、その弁解すら女中の方々は聞いてくれない。寧ろ「空さまは婚約者なのですから堂々として下さい」と懇願される始末。大袈裟にも程があるよな。
夕飯の支度を手伝おうとしたら怪我をさせたくないの理由で厨房を追い出されたんだぞ? どんだけお金持ちは過保護なんだよ!
ああ、でも確かに勉強ばかりしても駄目だろう。だって。
「部屋に引き篭もってばかりですと、お嬢様方が心配されますよ」
そう、それなんだ。
部屋に引き篭もって勉強ばかりしていると、こっちの御家族に心配されてしまう。
遠慮せず、家内を歩き回って良いと二度、三度、四度、源二さんに言われてしまった。そりゃそうなんだけど、やっぱり人の家を堂々と歩き回るなんて俺にはできない。
「博紀さん。何か手伝えることはありませんか? 掃除でもなんでもいいんですけど」
「それは我々のお仕事です。お給料を貰っている身分なので。空さまは空さまのすべきことをして下さいませ」
「とはいえ空さまは生真面目ですね」勉強以外にやることがない俺に微苦笑。外出する日を作ろうかと提案してくる。
少しは外の空気を吸うのも手だと博紀さん。
「明日は僕と買い物に行きましょう。外出用のお洋服を買っても罰は当たりません。最近、お嬢様にお熱を上げているようですし」
「え、えっ?」
「相手に好意を寄せているなら、まずは身なりを整えましょう。それも相手に好意を伝える手段の一つですよ」
彼は悪戯気に笑い、しっかりと帯を結ぶ。
博紀さんは俺にとって世話役と同時に、お兄さんみたいな立ち位置だ。向こうが年上だっていうのもあるけど、なにより同じ男だ。蘭子さんより断然親しみやすい。
向こうも俺を弟のように扱うことが多く、御堂家にいる間の彼の存在はとても大きい。なんでも相談できる人だ。
だからだろう。向こうは俺の心境の変化を敏感に察し、こうすれば、ああすれば、と助言をしてくる。
「お嬢様の御心を掴むために、もう少し、可愛らしくならないといけませんね」
「俺が可愛らしく? 博紀さん、本当にそう思っているんっ、あ! 笑ってますね?! 思ってもいないことを口にしないで下さいよ。げっ、なんでそこで爆笑っ……最低っす!」
兄弟がいるって、こんな気持ちなのかな。
博紀さんに勉強を止められた俺は小一時間ほど自室でまったりとテレビを観て寛いだ後、気まぐれに散歩に出掛ける。
歩き回るのは屋敷内に留めておく。下手に外に出て皆を困らせたくない。
俺が用事なく部屋を出るのは、とても珍しいことで、すれ違う年配の女中さんに声を掛けられた。何か困ったことがあるのか、探し物があるのか、小腹が空いたのか、などなど。
全部不正解だったから、俺は中庭を散歩したいのだと返した。
すると気の利いた女中さんが鯉の餌を手渡してくれる。気晴らしをするためだと察したようだ。最近お気に入りの鯉の餌やりをしたら良いとすすめてくれる。
嬉しい気遣いだけど、我儘な俺は御堂先輩と一緒にする餌やりが好きなだけ。鯉に興味はない。
気持ちと一緒に餌を受け取るものの、これの活躍はなさそうだ。
のらりくらりと縁側を歩き、三和土の上に放置しているサンダルを突っ掛ける。
庭園はまさに癒しの空間だ。
屋敷を囲む松の木や金木犀、鯉が跳ねる池、水の重みで音を奏でるししおどし。都会の一角に建つ家とは思えないほど此処は静かだ。不思議と空気も美味しい。
のんびり歩ける敷地があるなんて、金持ちは羨ましい限りだよ。あの地獄のような朝と過密スケジュールがなければ、素直に金持ちの家の子になりたいと思う。
誰も見ていないことをいいことに、水たまりのような石畳の道を跳んで遊ぶ。こうした子供じみた行為は大好きだ。うん、良い気晴らしになる。
「本当に桧森さんは駄目ね。何をやっても、迷惑ばっかりじゃない」
うん、一瞬にして気分が壊された。
折角の軽い気持ちに水を差すような声が聞こえ、俺は跳ねる足を止める。
静かな中庭を脅かす不届き者に耳を澄ませると、文句を吐き出している女性の声が二つ。
触らぬ祟りになんとやらの法則で、極力関わりたくないと思うけれど、気になる人名が聞こえたものだから爪先を声の方向へ。
お目当てはすぐに見つかった。貫禄ある椿の側に女が三人。見覚えのある顔ぶれだ。
ひとりは俺の世話役を担っている新人ちゃん。残り二人は二十代の女中さん。大学生らしく、普段は土日にしか姿を現さない。大学が休みの時はバイトとして小遣い稼ぎしている。
よく俺に話し掛けてくれる人達なんだけど、あんまり性格が合わないから距離を置いている。なんというか馴れ馴れしいんだよな。俺が年下だからってのもあるんだろうけど、根掘り葉掘り人のことを聞いて話のネタにしようとする。
「さと子、聞いているの?」
ひとりが詰問、ひとりがニタニタ、さと子ちゃんは何も言えずにいるあの図。
うへえ、見るだけで分かる。あれは女子特有の集団精神攻撃!
なんで女子ってのは連れションするように、仲の良い奴等とつるんで相手を追い詰めるんだろう。男子の集団肉体攻撃は、目につきやすいいじめに発展するけど、女子のあれは水面下に沈んでいて本当にタチが悪いと思う。
ああ、可哀想に。さと子ちゃんが首を引っ込めて身を小さくしている。
「大体あんたは楽じゃない。がり勉引き篭もりの世話をしているんだから。なのに、すぐ失敗して。皺寄せがくるのよ。なによ、着物もろくに畳めないの?」
なら代わって欲しいくらいだと女中さんが鼻を鳴らす。
俺の眉がぴくりと動く。ほほう、がり勉引き篭もりとはどなたのことで? まさかと思うけど僕のことです? いや、まさしくそうですけど。
「しかも変態だし」「あれは変態よね」なんぞと笑い話にしている、その変態とは?
「豊福くんの着物、あれはないわ。イケメンならまだしもねぇ」
「博紀さんなら似合いそうだけど、なんでお嬢様はあの姿が好きなの?」
辛辣な意見をどうもである。
それは本人が一番分かっているし、女物を着る俺って変態じゃね? とか、片隅で懸念を抱いている。いた。いたけど、そこまでハッキリ言われると正直、傷付く通り越して腹立つわ! 逆切れ? ええ、逆切れですけど!
知りたくもなかった二人の裏の顔に、口元を引き攣らせる。
まさか俺が背後にいると露一つ知らず、お二方はさと子ちゃんを追い詰めるように、あれも駄目。これも駄目。どうしてこれもできないのか。ドジ亀は迷惑なんだけど。失敗話を出しては、さと子ちゃんの突かれたくないことを突いて、ケタケタと笑い話。
さと子ちゃんが年下であること、性格上言い返せないことを知っている二人は、無遠慮にあれやこれや話をほじくり返している。
一方で、あんたは羨ましい。がり勉引き篭もりの世話をすれば給料がもらえる。あんなの誰でもできる。博紀さんと一緒なんだから楽だろう。代われ。炊事片付け掃除を全般的に任されている自分達は不公平エンドレス。
女子ってこえー。本音が腹黒い。
いくら可愛い女の子がいようと、あんな黒い姿を見せられたら幻滅も幻滅だ。
それだったら俺は正面から男ポジションを奪う、裏表ない攻め女が良い。あの人達の方が百倍も可愛い。
一呼吸置き、抜き足差し足で三人に歩み寄る。
俯いて地面を見つめていたさと子ちゃんが、ふっと顔を上げ、俺の姿に気付く。
真ん丸な目を向けてくる彼女に人差し指を立て、楽しそうに黒い談笑をしている女中二人の真後ろに立った。
やっぱりお話は止まらない。そういえば、がり勉引き篭もりの変態が云々。
たらたら、さと子ちゃんが千行の汗を流して見守る中、ふたりの間でもう一度がり勉引き篭もりと単語が出る。
その時を狙って俺は「さと子ちゃん」努めて、優しく、世話役の良い子を手招きした。
びっくりして振り向いてくる女中なんぞ知らん。まったく知らん。顔を真っ青にしているとか、そんなこと知ったことか。
「こんなところにいたんだ。探したよ。ほら、行こう」
「え、え……」
「約束したでしょう。鯉の餌やり。一緒にしよう」
まったく身に覚えがない約束にさと子ちゃんがほえ、とした顔でこっちを見つめてくる。即席で作ったのだから当然の反応だ。
俺は鯉の餌袋をちらつかせつつ、白々しく主人命令拒否権なしだと言って彼女の腕を引く。
「俺って"引き篭もって"ばっかりでしょう。部屋に籠って勉強ばっかりじゃ、所謂"がり勉"だし? 少しは気晴らしをしたくって。あ、この格好でいい? 御堂先輩が見繕ってくれたんだけど。傍から見たら"変態"にしか見えないけど、彼女が選んでくれたものだから」
だけど、間接的に御堂先輩の評価が下がるようならやめてしまった方がいいかもしれない。
どこかの誰かさん達に聞こえるよう、声音を大にして鯉のいる池を目指す。
背後でアルバイト女中さん方の焦る声が飛んできたけど、ガン無視。努めてさと子ちゃんだけを視界に入れて微笑む。
追って来る足音が聞こえると、世話役を連れたままBダッシュ。とんずらした。
行く先はばれているから、すぐには鯉のいる池には行かず、女中達を撒くべく広い中庭を駆けまわる。
毎日のように攻め女に鍛えられている俺だ。ただ逃げるだけじゃ芸がない。
身を隠せるようなところを隈なく探して方向転換。相手をかく乱させるように、松の木を通り過ぎて、庭の手入れ道具が入っている納屋の裏へ。すぐに見つかると判断するや、鬼さんの目を盗んでさと子ちゃんと共に、築何十年も経っている御立派な土蔵の陰まで移動する。
「お?」
走り回る鬼さん達が先輩の女中さんに見つかった。
どうやらおさぼりと見做されたようだ。玄人に叱られる二人は、身を小さくしながら連れて行かれる。
いい気味、いい気味。意地の悪いことを思いつつ、くるっと振り向き、ゼェハァと息をつくさと子ちゃんにブイサインを送った。
「もう大丈夫。さ、鯉のいる池に行こう」
こうして、悠々さと子ちゃんと目的地にたどり着いた俺は宣言通り、彼女と鯉に餌をやり始める。
粒状の餌を放り投げれば、一斉に鯉が飛び跳ねた。この光景がなかなか面白い。つい、また餌袋に手を突っ込んでしまう。
ただし、この鯉は錦鯉らしく、どれもこれもウン十万だって。ひえ、俺のバイト代より遥かに高いんだぜ? たかが魚のくせに!
ぽい、しゃがんで餌を投げる俺とは対照的に、その場で突っ立つさと子ちゃんは隣でぎこちなく餌を撒いている。
会話は無い。
「空さま、申し訳ございません」
空気を裂いてきたのはさと子ちゃんだった。
水飛沫を放ってくる鯉から目を外し、新人ちゃんを見上げる。べそっ、彼女はポニーテールを力なく垂らして涙目になっていた。
「謝られるようなことはされていないよ」
謝罪は受け取らず、寧ろ鯉の餌やりに付き合ってくれることを感謝する。
さと子ちゃんの表情は変わらない。きっと内心で色んなことをぐるぐる考えているんだと思う。
でも器用に感情の整理がつかなくて、何も言えないし、単語が出てこない。接待を苦手としているアガリ症なら尚更だ。
なにより見られたくなかったんだろうな。あの光景は。
「さと子ちゃん。俺って変態だよなぁ」
重々しい空気を一掃すべく、こっちから話題を振る。
「ふぇ」可愛らしい間の抜けた声を発する世話役に、俺は軽く溜息をついて、膝の上で頬杖をついた。
「だって女物の浴衣を着ているんだよ? どう思う? 普通に考えても変態じゃん。形は男物とほとんど変わらない。分かっていても、柄を考えると……俺じゃちっとも似合わないや」
「で、ででででですけど。わ、私は知っています……そ、空さま、望まれて着ているわけじゃないと。お、お嬢様のためだと」
小さく噴き出す。
そうなんだよな、これは御堂先輩のためだ。
だって彼女が着せたがっているから。こんな姿を見て喜ぶから。片隅で拒んだら仕置きをされる恐怖もあるけどね! 仕置きをされるくらいなら、変態野郎に成り下がる。これで外出となるとまた話は別だけど。
水面に向かって口を開閉している鯉に目を向ける。
阿呆面でパクパクしている姿は、まんま餌のおねだりだ。まだ欲しいってか? あんなに餌を放ったのに。
「ああああの空さま」
今度は向こうから話を振ってくる。
「なに?」気兼ねない返事をすると、「浴衣の一件の謝罪をさせて下さい」頭上から弱弱しい詫びが落ちてくる。
ああ、さっき博紀さんが血相を変えていた出来事。それこそ気にも留めていない話だ。俺の浴衣じゃないからな。女物だし。二度言うけど女物だし。
けれど、向こうはそう思っていないようだ。
皺くちゃにした浴衣について繰り返し詫びると、自分はドジばっかりだと涙声になって洟を啜った。迷惑を掛けてばかりで申し訳も立たない、ごめんなさい、ごめんなさい。
ついには泣き出してしまう。懸命に泣かないようにしようと努めているけど、謝る度に涙がぽろぽろ。
どうやら先輩の博紀さんから、あの後こっ酷く叱られたらしい。そして、例の女中二人と共に浴衣の皺直しを命じられ、中庭で見た嫌味を買ってしまったそうだ。
誰からも煙たがられるドジばかり、どうして自分はこんなにもドジなのだろう。手の甲で目を擦り、さと子ちゃんは自己嫌悪を吐く。
いつも優しく指導してくれる博紀さんにすら、今回は呆れられた。見捨てられてしまった。憧れの人にまで。
そう言って、肩を忙しなく上下する。
彼女は限界だったのかもしれない。
いつもは俺の前で遠慮を見せるのに……誰かにあの光景を見られたことにより、何かが決壊したのかもしれない。
なにより、さと子ちゃんは孤独なんだ。いつも寂しそうに仕事をしている彼女を目にしていたけど、根はもっと深い。
すくりと立ち上がり、軽く手を叩いて鯉の餌を払い落す。
念のため、浴衣で綺麗に手を拭くと、泣き虫毛虫になっている新人ちゃんの肩に手を置いた。我に返ったさと子ちゃんが自分の身分を思い出し、また謝ってこようとする。
女中と婚約者の立場を踏まえて気丈に振る舞おうとしているのだろう。
けれど俺は御堂家と違って偉い身分じゃない。普通のリーマン家庭に生まれた庶民の息子だ。
正直、さと子ちゃんと俺の身分は団栗の背比べ、殆ど大差はない。
「俺は財閥の息子じゃない、そこらへんのリーマンの息子。だから慣れないんだ。誰かに仕えられるって。だから、さと子ちゃんは俺を主扱いじゃなくて、同級生として扱って欲しい」
生まれながら財閥令嬢の御堂先輩と、財閥令息になる予定かもな俺とじゃ、過ごしてきた環境が違う。
身分、様付け、敬われる態度、どれも苦手意識を覚える。
贅沢な悩みだけど俺の肌には合わない。せめて誰か俺をタメとして見てくれる、そういう人がひとりいてくれたらと思う。
そして、さと子ちゃんにもそういう人間がいたらいい。少なくとも、俺は建前彼女を女中として扱うけど、本音ではただの女の子として見ている。
「さと子ちゃんがお世話しているのは、ただの引き篭もりがり勉男だよ? 気遣う必要なんて何処にもないよ」
微笑んでやると、さと子ちゃんの泣声が一瞬途切れる。
刹那、ぼたぼたと大粒の涙を流し始めた。言葉が身に沁みたのかもしれない。その場にしゃがみ、膝に顔を埋めて唸るように泣いてしまう。
困ってしまったのは俺である。気遣わなくていいとは言ったけれど、こんなにも泣きじゃくられるとこっちが泣かした気分になる。なんだろう? この罪悪感は。
ご丁寧に、彼女はしっかりと人の浴衣を握り締めてその場から去らないよう道を塞いでくれている。動くことも出来ず、かと言って無理やり立たせるのも気が引けた。
なら、今の俺にできることは彼女の側にいてやることだろう。
言ったからには責任を持たないと。
泣いている彼女の隣にしゃがむと、背中を擦って側にいた。落ち着きを取り戻すまで、ただただ側にいた。
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