07.あたし様片思い話



 □ ■ □




――あの日、あの時、あの瞬間。



 鈴理はいつも空を待っていた。毎日のように彼を待っていた。




 思い出すのは高校一年の秋暮れ。

 通い詰めていた市民図書館での出来事。それまで金を持っている者に対して闘争心と嫌味を垣間見せていた中学生に、嫌悪以外とは別の感情を抱いた瞬間を鈴理は今でもよく憶えている。金持ちには金持ちの悩みがある。自分の時間が持てないなど、家の束縛がある。

 同じようにその中学生にも悩みがあった。金のない悩みだった。塾に通えず、人並み以上の努力を惜しんで図書館に通っていた。


 すべてを彼から聞いたわけではない。

 いや、あの当時は彼と言葉も交わしたことがなかった。それでも成り行きから一部の事情を知ってしまい、鈴理は彼に対して興味を抱くようになる。塾に通えない、中学生を。



 彼が訪れる時間は四時から五時までの間。

 学校を終えてから直で此処に来ているのだろう。鈴理自身も学校があったために、正確な時間は把握することができなかったが、大抵それくらいの時間に中学生は訪れていた。閉館までいると知ったのは彼に興味を抱いてからだ。


 たまたま館長から話を聞いてしまったのだ。

 あの中学生は毎日、閉館まで勉強している、と。



 閉館時間は八時。

 それまで此処に居残って勉強している彼は、難関校に挑むようだった。勉強量からして推測できる。独学で勉強しているのだと知り、鈴理は少しだけ席を近くした。


 読書に勤しむ振りをしてチラチラと相手を盗み見ていた。

 相手は気付かず、「計算が合わない」とか「この単語は」とか、持参しているプリントを見据えて顔を顰めていた。塾に通えない分、此処で勉強している。それを裏付けるプリントの山と、閉館時間まで居残っている事実が鈴理の座る席をもっと近くした。



(今日は調子が悪いのか?)



 微動の変化を察するようになる。

 まったくシャーペンが動いていない彼を見やれば、小さな溜息をついている。

 三十分もしない間に、上半身をテーブルに預けて沈んでしまった。その落ち込んでいる姿に鈴理は何か声を掛けたかったが、何も言葉が見つからず本に視線を落とすしかない。目が滑っているせいか、文字が頭に入らず。


 いや寧ろ自分も感化されたように読む手が止まってしまっていた。



 逆もあった。

 その日も鈴理は例の中学生の近くに腰掛ける。参考書やプリントを出していた彼は最後に答案を取り出して、ニコニコと笑顔を零していた。

 蕩けそうな笑顔だった。本を探しに行く際、彼の背後を通ったのだが、答案の点数が見えた。英語が満点に近かったのである。


 だからだろう。

 シャーペンをいつまでも走らせていた。

 ご機嫌な彼につい鈴理もご機嫌になってしまう。帰宅時間を過ぎてもその場に留まってしまったほどだ。


 冬の訪れと共に、鈴理は毎日のように見守っている中学生に恋しているのだと気付く。

 足が遠のきそうな雪の日でも彼は来ると確信していた。そのため、鈴理も足を運んだ。とっくに読みたい本は読み尽くしているのにも関わらず、鈴理は彼の顔を見るためだけに足を運んでいた。


 恋の病だろう。

 勤勉な年下を見守ることが日課になってしまっていた。

 真冬の寒さに耐え忍んで彼は一心不乱に勉強していく。自分の立たされている環境に屈せず、勉強していく姿。嗚呼、彼に触れてみたいと思った。


 けれども勉強の邪魔をするのは気が引ける。


 だからもう少し、もう少し、もう少しだけ。

 そう言い聞かせて鈴理は彼を見守っていた。飽きもせず、見守っていた。



 閉館時間まで残ったある夜。

 吸い込まれそうな夜空から雪が舞い落ちていた。

 寒空の下、迎えの車に乗り込んでいると例の中学生がてをすり合わせながら舗道を歩いていた。スンスンと鼻を啜っている中学生はマフラーも手袋もせず、それこそ傘も差さず、帰路を歩いている。


 防寒具は持っていないんだろうか? 身を守るものは何もないんだろうか? 

 鈴理は自分の持っていた防寒具と彼を見比べて、暫し思案していたが、そうこうしている間にも彼の背は消えてしまった。


「あたしは乙女か。攻め女だろうが」


 自分のヘタレっぷりに嘆きたくなった。


 

 木枯らしが姿を消し、春一番が拭き始めたある日、中学生は図書館を訪れなくなった。

 最初こそ体調不良なのかと思っていたが、毎日まいにち待っても中学生は来ない。


 ああ、そういえばもう受験シーズンは終わる。


 きっと彼も受験を終えたのだろう。

 合格したのだろうか、それとも不合格だったのだろうか。


 館長も中学生の姿が見えなくなったことに寂しいと言っていたが、それも最初の内だけだった。


 鈴理はいつまでも待っていた。いつものように学校を終え、市民図書館に赴き、彼を待つ。

 来なくても翌日に待ってみる。諦め悪く翌々日も待ってみる。


 待つことしか出来なかった。

 名も知らない彼のことを待つことしか、鈴理にはできなかったのだ。



「今日も来ないか。職を探しているのかもしれんな。落ちたらバイトをすると言っていたし」



 けれどいつか、此処を訪れてくれるんじゃ。


 その思いが勝って鈴理は待っていた。彼と再会するまでずっと、そう、ずっと。



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