06.から回りな君のそばにいて



 □


「待て豊福っ、おい! ……あーくそっ、行っちまいやがった」


 点滴室を飛び出した空を呼び戻そうとするも、廊下にはもう誰もいない。大雅は強めに頭を掻き、「探してくる」と言った。あれを放っておくと、何をしでかすやら。

 けれども。点滴室へ入室する豊福の父から、「少し。ひとりにしておいて下さい」と声を掛けられた。


「空のことを心配してくれて、本当にありがとう。迷惑を掛けたね」


 そんなことを言われてしまえば追うに追えない。

 鈴理と大雅は、患者らに会釈をすると、席を外すため、そっと扉を閉める。

 向こうでは連絡を受けた玲が走り去って行った彼の背を名残惜しむように、廊下を見つめ、小さな吐息を零していた。


 やや切迫した面持ちは心配が表に出ている証拠だ。


「豊福のお母さまの容態は?」


 まずは状況を把握しようと思ったのだろう。

 彼女は廊下に響かないよう小声で質問をし、自分達と肩を並べてくる。


 鈴理は玲に過労で倒れたことを伝えた。

 要は働き過ぎて体が悲鳴をあげてしまったのだ。命に別状はなく、点滴を打って暫く安静にしていればすぐに回復する。端的に説明すると、玲は心底ホッとしたような顔を作り、良かったと感想を述べている。


「それで豊福は」

「動揺した末の激昂だろうな」


 両親至上主義の彼がまたとない親子喧嘩をし、更に母親を罵った。両親を大事にしている空だからこそ、あの姿は驚いた。

 裏を返せば、それだけ一件は彼に多大なショックを与えたのだろう。


「空は、いっぺんにご両親を喪っているからな。過剰にショックを受けるのも無理はない」


「彼はとてもご両親思いだからね。場所を移動しよう。ここでは、ろくに話もできないから」


 同意見である。

 三人は点滴室を離れ、殺伐とした廊下を進む。

 玲の先導の下、患者が密集している受付を通り過ぎ、自動扉を潜る。

 すれ違う患者は比較的に高齢者が多い。通路を塞がないよう注意を払い、三人は建物を支える柱の一角に集う。雨は途切れることなく降っている。


「豊福が世話になったな。感謝するよ」


 雨音を裂くように玲が感謝の言葉を述べてきた。

 一婚約者として、真摯に感謝しているのだろう。見方を変えれば嫌味にも思えるが、今は素直に感謝の気持ちを受け取るべきだ。

 なんてことないと鈴理は返事する。それより今は空のことの方が大事だ。部屋を飛び出した彼は一体何処へ行ったのやら。なにより。


「なあ玲。お前は、いやお前の家は豊福を買ったのか?」


 隣で眉根を顰めていた大雅が、重く口を開いた。


「大雅」


 思わず諌める。鈴理も片隅で思っていたが、場を読んで伏せていたのだ。


「不謹慎だとは思う。けど今聞かずにいつ聞くんだよ。あいつには悪いが、俺は真実が知りたい。それなりの付き合いだ。ぶっちゃけ悪者にはしたくねぇ。ただ何も知らないままだと俺はあいつに理不尽な怒りを持ち続ける。俺は、豊福より鈴理が大事だから。あいつとお前に何が遭った?」


 三人に再び沈黙が訪れる。

 ザァザァと軽い音を奏でる雨は、まるで此方の空気に感化されたかのように重々しいものとなっていく。

 玲が話題を逸らすように外の景色を眺めた。そして呟く。よく雨が降る、と。


「あいつは多分、外に飛び出して行ったんだろう。傘も持たずに。早く探してやらないと」


 どのような経緯で親子喧嘩をしたのかは知らないが、きっと姫は傷付いている。それを癒すのは王子の役目だろう。

 なら何故、急いで姫の後を追わなかったのか。一人になる時間が欲しいと思ったからだ。今の彼のことは本当に手に取るように分かる。王子だから、だろうか。

 そう嫌味を零し、大雅の質問に対しては「さあね」


「なんで隠すんだよ。そこまでして、俺達に隠したいことのなのかよ」


 言葉には苛立ちが宿っている。

 それなりの付き合いだからこそ、話してくれても良いのではないか。恩を売るわけではないが、一件は自分達にも聞く権利があるだろうと彼は唸る。

 親子喧嘩の節々で拾った単語は『借金』『買う』『学校を辞める』『働く』それだけで大方の予想はつく、が、これらは当事者達から直接話を聞きたかった。

 それによって彼等の行動が許せるのだから。

 大雅の主張に玲は鼻を鳴らし、許されなくて結構だと素っ気なく返す。


「許しなんて僕も豊福も望んでいないよ。特にあいつは同情されたくないと思っているからね。話したところで何も得られない。どうしてやることもできないんだ」


「ンなの聞いてみねぇと分からないだろうが」


「だったら大雅。あいつが借金のカタで取り立て屋に身を置いていたと聞いたら、どうしていた? 一千万の代わりに身を引き取られていたと聞いたら、どうしてやれていた? 助けてやれていたかい?」


「それがお前らの……豊福の真実かよ」


 努めて冷静に尋ねる玲に、大雅が言葉を失くす。


「そうだよ。誰も知らなっただろう」


 自分だって知らなかったと舌打ちを鳴らし、祖父の気まぐれがなければ一生知ることのなかった現実だと苦言する。

 豊福家が極最近、負ってしまった理不尽な借金。彼と付き合いがあれば知っている筈だ。彼の家の経済状況を。


「君達のご察しのとおり。僕等の婚約は借金を媒体とした契約だ。僕や彼の本意じゃない」


 買ったとは、そういう意味だと玲。


「肩代わりしたのは僕のジジイだ」


 利益のためなら手段を選ばない財盟主のひとりが、見ず知らずの豊福家の借金を肩代わりしたんだ。語り部は不機嫌に話を続ける。


「当然、上手い話には裏がある。ジジイは肩代わりの代価として豊福家に子息を御堂家に差し出すよう条件をつけたんだ。借金を踏み倒さないための人質として。表向きは婚約と綺麗事を抜かしているけれど」


「人質……空はそんな立ち位置にいるのか?」


「そうだよ鈴理。豊福家の借金は親族の踏み倒しによる謂わば皺寄せ。二度も踏み倒させないために、ジジイは豊福家から子息を取り上げる策に出た。向こうのご両親はさぞつらかっただろうね」


 それでも彼は自分を買ってくれた御堂財閥を心の底から恩人だと思っている。

 気持ちよりも先に関係が成り立った婚約。自分や親の本意ではなく、祖父の意思から成り立つ関係。大嫌いな祖父が企てたことだと思うだけで反吐が出る。


 けれど豊福家は婚約を成立させる以外、幸福になる道はなかったのだ。

 今の生活を続けていくことはできない。かと言って、祖父に軽く一千万を返せる手段などない。それこそ今の彼の母親のように過労で家族共倒れもありうることだ。

 玲は苦虫を噛み潰したような面持ちを作り、「だから今も僕の片思いなんだ」本当の意味で落とせていないと肩を竦める。


「あいつのご両親は豊福に苦労を背負わせたくない一心で、僕達御堂家に子息を預けた。それがあいつの幸せだと思ったから」


 可哀想に、人質の彼は御堂家に逆らえなくなってしまった。己の人生すら祖父に捧げろと命じられ、それに従う他、術をなくしてしまったのだ。

 本当は自分の人生を自由に生きたいだろうに、自分の両親のため、御堂家に恩を返すため、重たい家事情をその背に負ったのだ。


「そうか、だから空は……」


 鈴理は反芻する。

 彼が激昂した際に口にした、"惨め"という意味を。

 空は空だけのためでなく、両親の日常も崩さないよう、必死に守ろうとしていたのだ。なのに母親が倒れたものだから、彼は絶望した。自分さえ努力すれば幸せになれると思っていた道が誤りだと気付いてしまったから。


「しかし、おじいさまは何故そこまで。空は庶民出だぞ?」


「簡単だよ鈴理。世継ぎを得るためだ。僕が極端に男嫌いなのは知っているだろう? そのせいで男を作らず、ジジイはさぞ焦れていたことだろう。そんな時、僕が豊福という男に興味を持った。そしてその男は借金を負っていると知った。ジジイはそれに目を付けて婚約を取り仕切った。さっさと世継ぎを産ませるために。男を産ませるために」


 果たして利益ばかり求めるあのクソジジイが肩代わり“だけ”に手を下したのかどうか、孫として疑問を抱くところだが。


「結局、君達にすべて話してしまった。後で豊福に謝らないと……そろそろ行く。あいつを探しに行かないと。ああ、最後に何か質問は? 付き添ってくれた礼はきっちり返すよ」


 玲の問いに、事情が重過ぎて疑問すら出てこないと大雅がぶっきら棒に返す。

 そんな事情があるなら、どうしてそれを話してくれなかったのか。彼は続け様、不満を漏らした。そういう事情があるならば、理不尽な怒りを向けることもなかっただろうに。


「あいつが同情されたくなかったにしろ、怒れた俺の方が後味わりぃよ。何もしてやることはできねぇでも、話を聞くことはできた筈だ」


 その疑問に玲が答える。


「御堂家を気遣ったんだ、借金を媒体に婚約した、なんて不誠実な理由じゃないか。それに、二人にも気遣ったのだと思う。余計な気を回したくなかったんだろうさ。君達には君達の婚約問題があるのだから。潔く婚約を受け入れているなら話は別だけど、ね」


「それでも言ってくれたら関係は変わっていただろ?」


 端々に嫌味を飛ばしてくる玲に鈴理が反論する。

 眼光を鋭くした玲はどんな風に? と詰問した。


「険悪な仲にならなかった、とでも言いたいのかい? 確かにそうだ。でも、それだけのことだろう」


「それだけ?」


「そうじゃないか。現に君は今まで豊福の苦しみを気付けずにいた。借金を負い、誰にも相談できない苦しみを抱いていた。同じ学院にいた君はそれに気付けていたかい? 気付けなかっただろう? 豊福の支えになることも、救うことも、今の君にはできないんだよ」


 だって君には君の守りたい人間がいる。それは豊福じゃなく、君の傍にいる今の人間さ。



「仮にあいつと君の婚約者が助けて欲しいと、同時に手を伸ばしてきたら、君はどちらを選ぶ? 立場上、君は第一に大雅を優先させるだろう。そして友人に降格している豊福も聞き分けよくそれを受け入れるだろう。あまりに酷な話だ。

 想い合っているからこそ、残酷なんだよ。鈴理。好きなのに応えられない。守りたいのに守れない。守りたいからこそ身を引く。どれにしろ残酷だ」



 今回の一件は特にそう。

 彼の家事情を半端に知り、半端な関係のまま、半端に支えようとする。


 するとどうだ。

 いざという時、彼を救えず、空は大いに傷付くことだろう。

 こんなことなら、最初から頼らなければ良かったと絶望するかもしれない。人の負を背負う、それは生半可な気持ちでは駄目なのだ。


「あいつが傷付くなら、正直、僕は険悪な関係でも良いと思っていた。もう泣き顔は見たくないんだ。あいつの、泣き顔だけは……豊福はさ、平気だとうそぶいて笑うんだよ。内心じゃ泣きまくりなのに、へらへらと笑って嘘をつく。誰かが傍にいないと、本当は今でも崩れそうだ」


 借金、人質、財閥の婿入り。

 すべてが彼のストレスでしかないのに、彼は今まで通りの日常を保つために平然と過ごそうとする。

 日常に婚約という些少の変化がついただけで、いつも通り過ごせると思い込んでいる。


 無理をしていることは一目瞭然。

 逃げ足が取り柄のヘタレは、周りばかりに気に掛けているようで、本当は誰より助けて欲しいと願っているのだ。

 けれど言えないのだ。親にも、友人にも、元カノにも。どうにもならないと分かっているから。言ったところでどうすることもできないと知っているから。


「金で売買されるって、どういう気持ちなんだろうね。あいつはどんな気持ちで日常を過ごしていたんだろう? 君達に嫌われようとした時の気持ちも、婚約者を第一優先する気持ちも今の僕には分かりかねるよ」


 いずれ、その気持ちを聞けるような深い仲になれたらいい。玲は胸の内を明かす。


 自分は王子でいようと思っていた。

 しかし、思うだけじゃもうダメだと思った。思うだけの気持ちでは本当の意味で人を守れない――だから宣言するのだ。自分は彼の王子だ。守れない王子など不要だと思っている。

 自分の傍にいることが彼の自由に繋がるなら、傍に置く。この先、ずっと。


「鈴理。君はどうだい? 心境の変化はあったかい? 友人として置き続ける覚悟、もしくは斬り捨てる覚悟は生まれたかい? 今の豊福に良き後輩でいろ、なんて無謀だろうけどね。彼だってそこまで出来た人間じゃない。自分や家族の人生を背負っていかないといけない身なのだから。

 君はこのまま豊福に物分りの良い後輩でい続けろ。内心では自分を想え、なんて都合の良いことを強いるつもりなのかい?」


 玲の問いに、鈴理は何も言わない。言えないのだ。


「豊福は人形じゃないんだ」


 彼は鈴理とは別個の人間、自分中心の都合に合わせられるほど献身的な生き物じゃない。辛らつに吐き捨て、玲は鼻を鳴らす。


「僕は豊福が好きだ。あいつは僕が守る。いつか、理不尽な借金という枷から解き放ってやるんだ。そしたらあいつはジジイの言いなりにならずに済む」


 借金が消える手段があるのだろうか。

 視線で彼女に尋ねるが、今の玲は何も教えてくれそうにない。彼女は行動を起こせない自分に失望しているのだ。

 その証拠に「今の君じゃ駄目だ。僕の相手にならない」張り合う気にもなれないと突き離してくる。


「口ではなんとでも言える。だが行動が伴わなかったら一緒だ。人は口ではなく、起こした行動の結果で判断するものなんじゃないか?」


「玲お嬢様。大変にございます」


 話を切るように第三者が割り込んだ。

 玲のお付き人である蘭子が駐車場の方角から駆けてくる。傘も差さずに。

 「どうしたんだい」玲の問いに、「空さまが事故に遭われました」蘭子は顔色を変えて旨を伝えてくる。


 雨音が一層強くなった。





 事故現場は病院近くの歩道。

 人二人分ほどしかない狭い道で事故は起こった。

 内容は傘を差して片手運転する自転車と、全力疾走していた人間の衝突事故。

 右折しようとした自転車がタイミング悪く人間を轢いてしまったのだ。彼はバランスを崩した自転車と人間の重みに巻き込まれ転倒。怪我を負ったという。


 しごく軽いように見えて、一歩間違えると重い事故になりかねない内容だ。


「今日は二度も肝を冷やされる。なんで、お母さまの後を追うように君まで怪我を負うんだい。親子喧嘩をして部屋を飛び出すのはいいけれど、先を考えて欲しいよ」


 現場に到着した玲は、歩道の端に座り込んでいる彼を叱りつける。

 ハンカチで鼻下を押さえている姿からして、ぶつかった際、顔面を強打して鼻血を出したのだろう。他に怪我を負っているかもしれないが、パッと見では分からない。

 側らには加害者であり、被害者でもある自転車の所有者が立っていた。若い男の青年は平謝りをしている。


 曰く、空のスマートフォンを使って蘭子に連絡したのは彼だそうだ。

 衝突直後、アスファルトに転がり動かなくなった空を見て、すぐさま救急車を、と思ったらしい。

 気が動転している青年に大丈夫だと言ったものの、鼻血を出している彼を見て、なお救急車を呼ぼうとしたので、蘭子に連絡を取ったという。

 母親の一件があるため大事にはしたくなったのだろう。


 蘭子が青年に事情を聴いている傍で、玲はびしょ濡れになっている姫を傘に入れる。ぼんやりとしている彼は疲労を通り越し、疲弊していた。


 「頭は打ったの?」「いえ肩を」「右?」「はい」「他は?」「鼻を」「見れば分かるよ」


 軽い尋問に、短い返事が飛んでくる。雨と事故によって沸騰していた怒りが冷めたのだろう。言葉に感情は篭っていない。

 そんな彼の額を小突き、玲は帰ろうと目尻を和らげる。


「今日は色んなことがあり過ぎた。一日ゆっくり休んで、明日お母さまに謝ろう。僕もついて行くから」


「……御堂先輩、俺はやっぱり貴方の傍にいない方がいいと思います」


 突拍子もない返答だが、平常を保ったまま何故、と疑問を返す。

 はじめて彼の顔に表情が貼りついた。それは無理やり作った微笑み。


「借金の負の連鎖に、いつか貴方を巻き込むかもしれない。

 今日だって母さんが倒れたのは借金のせいです。知らなかった、母さんが不眠症になっていたなんて。馬鹿な俺は動揺して、つらい思いをしている親に罵声を浴びせて飛び出した。そして鼻血を出す始末……何しているんっすかね。こんなことしている暇があったら働けって話ですよ。お金が無いんだから」


 学校を辞めて働きたい。働けば親は無茶をしなくなる。息子が働けば、無用な配慮もされなくなる。

 ただただ親の気遣いが、息子を想う気持ちが重いと彼。

 本当の子供ではない、けれどそれ以上の子供と見てくる親の気持ちが辛いのだと吐露してくる。


 そんな男の婚約者である玲も、いつか不幸にするかもしれない。空は泣き笑いを零した。


「愛情はお金以上の価値とか言うけれど、それはある程度お金持っている人が前提に言う言葉ですよ。俺みたいにお金が無いから起こる不運だってありうるのに」


 ああ、疲れたな、お金の有無で人生を左右される現状に疲れたな。


 彼は片膝を抱え、それでも笑いを貼りつかせる。


 借金のせいでなにもかもがめちゃくちゃだ。

 婚約した期待に応えなければならないプレッシャー。財閥界に入る不安。無茶して仕事をしようとする両親。

 なにより一々お金を気にする生活が嫌になってしまう。昔からお金に縁がなかったけれど、今回ばかりは憎い。どうしようもなくお金が憎い。母が無茶する原因となったお金が憎い。家庭をめちゃめちゃにしたお金が憎くてしょうがない。

 お金がないと本当の意味で幸せになることさえできない。お金が憎い、憎くてしょうがない。そう思う自分もシンドイ。


 消えそうな微笑を零し続ける彼に、玲は目を細め、持っていた傘を一瞥。それをそっと折り畳む。


「濡れますよ」


 風邪を引くと注意してくる彼に、「そうだね」風邪を引いたら責任取ってもらうと冗談を口にした。


「しょうがないじゃないか。豊福が濡れたそうにしているんだ。それに付き合ってやるのも王子である僕の役目さ」


「先輩?」


「豊福は僕と一緒に帰るんだ。今日も明日も、これからも。そして飽きるほど伝えてやるさ。僕の気持ちは同情じゃない、君への好意だと信じてもらえるまで。うそつきお姫様の本音を聞けるまで」


 一緒に濡れるとはそういうことだ、雨は素顔を隠してくれるから。


「巻き込む? いいよ、それくらいの覚悟がなくて何が王子だ。巻き込んでみせてよ、僕は君が嫌がっても傍に置くから」


 相手の瞳が揺れるのを玲は見逃さなかった。

 瞬きを繰り返し、雨風に頬を晒し、彼はへにゃっと笑う。口元が変に歪んでいるが、見なかったことにする。


「おれ、うそをつきました。本当は、学校を辞めたくなんてないんです。働くよりみんなと勉強をしたい。先輩の傍にいない方がいい、というのもうそです。本当のことだけどうそです」


「知っているよ」


「ひとりになりたくない。置いて行かれるのも嫌だ。普通に暮らしたい」


「うん」


「先輩、もう疲れちゃいましたよ。俺にだって頑張れる限界がありますって。ほんっと現実は辛いことばっか……何か悪いことしたかなぁ。どうすればいいんでしょうか? 何も分からないです。なあんにも」


 血の付いたハンカチが路上に落ち、うそつきの額が玲の肩にのせられる。


「そうだね。疲れたね」


 濡れている頭を引き、頬を寄せる。体を震わせている姫の背を優しく撫で、とんとんと叩いてあやしてやる。

 すると、うそばかり言っていた彼の口から、今日はじめて本音の我儘が零れた。


「御堂先輩。あなたと一緒に帰りたいです。傍にいたい」


 馬鹿だなぁ、と玲は思った。

 たった今、自分が宣言した言の葉を紡ぐなんて、彼は人の話を聞いているのか、聞いていないのか。

 けれども水を差すようなことは言わない。素直に我儘が嬉しく思えたのだから。


「うん、一緒に帰ろう。僕も君の傍にいたい」



 □



「豊福……」


 事故が遭ったと聞くや、病院を飛び出した玲の後を追ってきた大雅は眉を八の字に下げている。その隣で鈴理は元カレになんと声を掛ければ良いか分からなかった。

 あの頃であれば、その身を抱き締めて慰めていただろう。

 しかし、今はそれさえ自分に許されない。玲の言うとおり、安易に手を差し伸べても余計空を傷付けるだけなのだ。自分を未だに想う、彼の気持ちを傷付けるだけなのだ。


(――空)


 なにもできない自分が、ひどくもどかしい。


「豊福。車で休もう。歩けるかい?」


 当たり前のように彼の傍にいる玲。

 彼女は弾力ある柔らかな頬に手を滑らせ、べちゃべちゃな髪を撫ぜている。

 スンと鼻を啜る空は何度か首肯し、もう大丈夫だと虚勢を張った。その際、一緒に濡れてくれたことに対して詫びる。

 玲は気にする素振りもなく、「一応怪我は医者に診せないと」蘭子に頼んで医師を家に呼ぶと唸っている。

 それに対しても大丈夫と彼は言うが、玲は聞く耳を持たず、医者を呼ぶの一点張りだ。


「ほら、立てないじゃないか。ああもう、また鼻血が」


 立ち上がろうとする空がよろめく。

 そんな彼の体を支え、玲は垂れ始めている鼻血を拭ってやるためにハンカチを取り出した。

 あの隣が自分だったら、鈴理は切に思ってならない。


「借金さえなければ、か。てめぇで真実を求めたが、味が悪いな」


「財閥同士。金のある輩が相手を貶めるケースはよく聞くが……反対もあるのだな。大雅」


「金のねぇ不幸も当然あンだろ。俺達には分からない世界……つったら、失礼だがな。豊福には謝らないと。俺はあいつの気持ちも都合もなにひとつ考えてなかった」


「あたしもだ」


「それはそうとお前、これからどうするんだ? 真実を聞いた今、改めて関係を見直さないといけないぜ」


 素っ気無く大雅が助言してくる。

 しかし助言せずとも分かっている。このままではいけないのだ。自分も、元カレも。互いに家庭問題を背負ってしまった。自分は二階堂財閥との将来を、元カレは借金を媒体にした世継ぎ問題を。

 この想いを消し、本当の意味で良き友人になるべきなのかもしれない。


 理屈は分かっている。けれども想いは常に反比例なのだ。



「さっき吐いた玲の皮肉。あれはあいつなりの助言なんだが、お前は分かってるか?」



 大雅の問いは今の鈴理には聞こえない。

 現実を目の当たりにしている、今のあたし様には聞く余力などなかった。


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