05.惨めはどっち
□
翌日。
俺はある程度、覚悟して学校に登校していた。
なにせ昨日のやり取りに決着がついていないままトンズラしちまったんだ。十中八九、一悶着があるだろうと予想していた。
御堂先輩もそのことをすこぶる気にしてくれていて、「僕と同じ学校に通おう。そしたら四六時中、僕は君を守れるよ」と心配してくれた。
まず言いたいことは御堂先輩の通う学校は華の学院。乙女しか集うことのできない女子校である。
よって俺はそこに転校することは不可能だ。不可能!
それがなくとも俺は学校を休む気にはなれなかった。
逃げても一緒だし、いつも御堂先輩に守ってもらうわけにはいかないじゃないか。俺がカッコ悪い。
ほんっとイケウーマン婚約者を持つ彼氏って苦労が絶えないよな。俺の立場がてんでないんだから。
覚悟していたとおり、昼休みに事は起こった。
前触れもなしに大雅先輩が俺のクラスに来たんだ。
険しい面持ちでフライト兄弟と飯を食っている俺の前に立った俺様は、じろっと裏切り平凡くんに視点を置いてくる。何も知らないフライト兄弟はただならぬ雰囲気にキョドり、教室にいたクラスメートは何事だと野次馬魂を燃やす。
ただひとり、平然と弁当を食べている平凡くんは大好きなダシ巻きを咀嚼。ダシの塩梅が美味いな。
「鈴理先輩は置いてきたんっすね」
いつまでもダンマリというわけにもいかないので、俺から話題を振った。
どうやら掛ける言葉を探していたらしく、問いは助け舟になったようだ。
「あいつは無理やり置いてきた」
大袈裟に躊躇いを見せた大雅先輩のその様子からすると、本当に無理やり置いてきたのだろう。
何をしたんだろう。多分、彼女が激怒するようなことなんだろうな。彼の渋った顔を見る限り。
鈴理先輩の怒りを差し置いても、俺とサシで話したかったらしい。
「お前が玲と婚約した理由を、どうしても知りてぇんだよ」
ぶはっ! フライト兄弟が揃って飯を噴き出していた。
寝耳に水だと驚愕している二人に目を瞑り、「新たな恋がしたくなっただけっすよ」弁当箱と箸を置いて、白々しく頬杖をついた。
「このまま過去の恋を引き摺っていても、ただの痛いヘタレ男だったので」
「安心しろ。テメェは今でもイテェヘタレでオンナ男だ」
うわ、酷い言われようだ。
ヘタレは認めるけど、オンナ男は酷くないっすか? そらあ女ポジションには立っていますけれど。
「俺が彼女を選んだ。それじゃ理由になりませんか?」
「もしそれが真実なら、俺はお前を確実に三発は見舞いしてやる」
平坦な声音には微かに怒気が纏っていた。
けれど、昨日のやり取りを見ている手前、あの時ほど突っ掛かってくることもない。向こうも俺達の間柄に何か遭ったことくらいは察したのだろう。
でも俺の口からは絶対に言えなかった。
もし言えば、御堂財閥の印象を悪くしかねないから。俺の背中には俺自身だけじゃなく、両親の人生も乗っかっている。ゆえに軽はずみな発言は避けたかった。
だから俺は何を聞かれても、真実を告げるつもりはない。絶対に。
「恨まれてもいい。罵られてもいい。ご都合主義と言われても構わない。俺は御堂先輩を選びます。あの人の傍にいたい……あの人のためなら、なんでもできる。鈴理先輩を傷付けることさえも」
「お前はもう鈴理のことが好きじゃないのか?」
「俺から彼女を奪った貴方がいいますか? なんて、嫌味を吐いても一緒でしょうね。俺は御堂先輩を選ぶといったでしょう?」
はっきりと物申せば、「そうか。そこまで決意が固いのか。んじゃやっぱテメェ殴るわ」大雅先輩が返事した。
それで終わるなら是非そうして欲しい。詮索されたくはない。
「どうぞ」遠慮は要らないので。俺は笑みを返す。その際、条件を付けた。
「俺はいいっすけど、御堂先輩に暴言は吐かないで下さいね。誰であろうとあの人を傷付けることは、俺が許さないっす。絶対に」
一変してギッと相手を見据える。
やや怯みを見せた聞き手に、また柔和に綻んで立ち上がる。
さてと、痣ができない程度にぶっ飛ばしてくれたらいいな。痣ができたら先輩になんて言い訳すりゃ「大雅ぁあああ!」刹那、ケタタマシイ声音が教室にエコーした。
「やっべ。もう来やがった」
一変して冷汗を流す大雅先輩を余所に、青筋を立ててずかずかと入ってくる鈴理先輩。
「よくもッ、あたしを騙したな、二人で空のところに行こうと言ったではないか。
なのにあんたは教師を利用してあたしを職員室に向かわせた。身に覚えのない体調不良を心配され、あたしの目は点になったぞ馬鹿。どう相手に説明するべきか時間を要したではないか!」
ガルルッ、彼女の唸り声を擬音化するとこんな感じ。
怒気を纏っている鈴理先輩は自分だけでケリをつけて自己完結するつもりだったのだろ? そうだろ? え、このドヘタレ! と、相手の胸を食指で何度も突いた。「いや。そのだな」これには深いわけが。軽く両手を挙げて降参ポーズを取る俺様に、「なあにがわけだ!」鳴かされたいか! 勝手なことをしよって。鈴理先輩のボルテージがまたひとつ上がった。
あれ、俺は放置プレイ? まさかの放置プレイ?
立って何もされないのは非常にムナイんだけど。これでも格好をつけて立ち上がったつもりなんっすけど!
「あんたは昔からそうだ。大事なところでいつもあたしを蚊帳の外に追い出す!」
「だってお前、泣くじゃんかよ」
「あの、大雅先輩。俺のことは」
「はあああ? あたしがいつどこでどうやって、地球が何回まわった日に泣いた! 虚言も大概にしろ!」
「いっつも泣いているじゃんかよ。その度にヤサシー俺様が慰めてやってるだろうが。感謝しろ」
「もしもし、鈴理先輩」
「腹が立った! あんたなんて、ネクタイで拘束して(伏字)や(伏字)をしてやる!」
「可愛くねぇ女だな。俺様の気遣いを一蹴しちまうなんて。(伏字)して仕置きするぞ!」
……まさかの喧嘩。
しかも内容がお下品。周囲の皆様、お食事中なのに。
交互に視線を流し、俺は静かに着席した。
箸を取って食べかけの弁当を手に取る。右から(伏字)の単語、左から(伏字)の単語が飛び交っているけれど、俺にそれを止める力はない。格好をつけて立ったのに……、なんだ、この羞恥心は。
二人とも、俺に用事があったんじゃないんっすか?
頭上でウフンのヤーンな単語が飛び交う中、見かねたフライト兄弟がぼそぼそっと声を掛けてきた。本当に婚約したのか、と。
小さく頷き、黙っててごめんと微苦笑を浮かべた。謝ることないと俺の気持ちを酌んでくれる二人の優しさには、ちょっぴり泣きたくなったよ。
二人の友情に味を噛み締めていると「くらぁ!」「空!」勝手に離脱するなと怒られてしまった。り、理不尽だ。さすがにこの怒りは酷い。放置プレイされたのは俺なのに。
「あのー、すみません」
話の途中でしょうけどちょっといいですか、他者から横槍を入れられた。
声を掛けて来たのは希少も希少、親衛隊隊長の柳先輩だった。珍しい、俺達に声を掛けてくるなんて。携帯を片手に教室に入ってくる彼は、「お電話なんですけど……」と、おずおず自分の携帯を差し出してくる。
彼が差し出した先には大雅先輩が。
「俺? しかもテメェ誰だよ」
柳先輩を一瞥しつつ怪訝に眉根を寄せる彼は携帯を取ってもしもしと相手に呼びかける。
瞬間、
『こんの卑怯者め―――ッ!』
アウチ、携帯の向こうから大絶叫こんにちは。
声の主で誰かは分かるけど、その……何を、
『僕のいないところで婚約者と何をしているんだ!』
何をしている、は、こっちの台詞っすよ。御堂先輩。
こめかみに手を添え、一つ溜息をついた。
貴方様は柳先輩といつから連絡を取り合う関係になったんっすか。俺を心配してくれているのは嬉しいけれど、まさか親衛隊に監視させるなんて。
状況を把握していることにビビッている大雅先輩は「ストーカーかよ」とポツリ。『ああん?』誰がストーカーだ! 相手に聞こえたらしい。御堂先輩の喝破が俺の耳にまで届いた。地獄耳か!
『僕の愛をストーカー呼ばわりするなんていい度胸だ。いいか、僕の愛は誰にも勝る真摯なもので』
「大雅、あたしはまだ話を終えていないぞ!」
「だぁああっ、いっぺんに相手にできるか! 並べ、お前等、並べ! 鈴理、ちっと黙ってろ。玲、お前の愛の戯言に付き合う暇はねぇんだよ」
そして俺はアウト・オブ・眼中なのね。
結局、大雅先輩と鈴理先輩の喧嘩、また親衛隊や御堂先輩の乱入でまともに話すことができずに昼休みが終わってしまった。
覚悟を決めていただけに拍子抜けだ。
しかしこれで終わる筈もなく、リベンジとばかりに彼等は放課後に俺の下にやって来た。
大雅先輩は俺の裏切りの真実を、鈴理先輩は純粋に俺の心意を知りたいようだ。それだけ俺はこの人達と密接していたのだと気付かされる。
けれど誰に真実を明かしたところで生まれるのは同情だけ。
なら、このままでいいと思った。険悪になろうがなんだろうが、このままでいい。淳蔵さんと対面して改めて思ったんだ。自分が借金の肩代わりにいる人間だってことを。
御堂家は俺にとても良くしてくれるけれど、やっぱり俺は借金持ちの息子。確かな身分があることを忘れてはいけないと思った。
その想いが俺の口をかたくした。
靴を履き替えて正門を潜る間も、大雅先輩が積極的に声を掛けてくる。ほぼ喧嘩腰だ。口を閉ざしている俺の態度に大層煮えているらしい。それだけ鈴理先輩を想っているのだろう。恋心はなくとも、幼馴染として想っている。嬉しい限りだ。この人になら安心して彼女を任せられる。
鈴理先輩に声を掛けられたけれど、俺の心は彼女にすら反応を示さない。否、示さないよう蓋をしている。切ない声を出されても、俺は顧みることができないんだ。
「空、何が遭ったのだ。あたしが、あんたの傍にいない間に……何が」
だから、お願いだから俺の心に踏み込まないで欲しい。
「何も」素っ気なく返すと、早足で迎えの車に乗り込む。逃げることは得意だ。攻め女に鍛えられた足の速さは伊達じゃない。
発進する車のサイドミラー越しに、彼女達の立ち尽くす姿が見られたけど、何も見なかったことにする。
「空さま、本日も一日お疲れ様です。玲お嬢様のお帰りは遅いようですよ」
車内にいたお目付けが、まるで意識させるように婚約者の帰宅時間について述べてくる。蘭子さんは俺と鈴理先輩の関係を知っているから、そういう行動を起こす意味も何となく察した。
はあーあ、俺がいつまでも引き摺っているから、周囲にいらない気遣いをさせてしまう。俺の馬鹿たれ。
「そうっすか。なら姫は王子の帰りを健気に待つとします。蘭子さん、"いづ屋"に寄ってくれますか? 彼女の好きなおはぎを土産に買っておきたくって」
「畏まりました。さぞ、お嬢様もお喜びになることでしょう」
忘れるんだ、俺の進む道は過去じゃない。
一週間が経ち、俺様あたし様の真実追究は続いていた。
最初こそ一発殴られるで終わらせようと思っていた俺だけど、かの傍若無人二名さまがタッグを組んで真実を聞こうと行動を起こしてくる。
心変わりした、といった上辺だけの言葉は彼等に通用しない。ああもう、御堂先輩があそこで俺の決死の演技を向こうにしてくれたもんだから! ……あそこで俺を偽悪者にしないようにしてくれたもんだから、こんなことに。
御堂先輩の優しさが辛い。
そして俺を思ってくれる王子の気持ちが染みる。自分だって鈴理先輩達と幼馴染で、それなりの仲だろうに、優先的に俺を想ってくれる。
そんな王子に俺は何もしてやれない。歯がゆい。
「豊福テメェ、さっさと事情とやらを吐きやがれ! 俺は蛇のようにしつこく聞くぞ!」
今日も変わらず大雅先輩が俺に詰問してくる。
はじめに特攻してくるのはいつだって彼だ。悪友であろうと、鈴理先輩を重んじている先輩だから、どうしても真実を知りたいのだろう。
知った先は、どうするんだろう? 同情? 哀れみ? それとも。
俺は雨が降りそうな空を仰ぎ、質問攻めしてくる俺様から逃げた。
小雨が降り出した放課後。
昇降口で鈴理先輩単体と鉢合わせになり、気まずい思いをする。大雅先輩ならまだしも、彼女と二人きりで顔を合わせる。それこそ重い空気に圧死されそうだ。
いくら偽ろうとしても、あたし様は俺の心を踏み荒らす常習犯。糸も容易くメッキを剥がしそうで畏怖の念を抱いてしまう。
とはいえ、ヘタレゆえに突き離す発言もできない。俺にできることは逃げる馬鹿一つ覚えだ。
「空、しつこくてすまないが、あたしは聞きたいんだ。玲とあんたに何が遭ったのか」
上靴から下靴に履き替え、それを突っ掛ける。
背後に立つあたし様が真っ直ぐ視線を向けてくるけれど、振り返ることができない。決心が揺るぎそうだから。
「自分のことで手いっぱいだったが、もしかしてあんたの身に何か降りかかったんじゃ。そうだろう? でなければ、玲があそこまで入れ込む筈がない」
「何か遭ったとしても、それは鈴理先輩には取るに足らないことです。貴方には優先すべき問題があるでしょう?」
精一杯の強がりを吐き、ビニール傘を開いて校舎を出る。
正門に向かって歩くも迎えの車はまだ来ていないようだ。蘭子さんのことだから、そう時間を掛けずに迎えを寄こすだろう。電話してみようか? 俺は歩いて帰っても大丈夫なんだけどさ。
パタパタ、雨粒の音を聞きながら俺はスマホを取り出す。
さてどうしようか。
最近御堂家にスマホを貰ったから連絡してみてもいいけれどやり方がいまいち……と、思ったそばから着信だ。
けれど、それはスマホからでなく鈴理先輩から借りた従来の携帯からだ。
早く返さないと、その思いを片隅に抱きつつディスプレイを確認。数字が羅列されていた。
あれ、この番号は確か母さんのパート先?
「豊福! やっぱり、もう校舎を出ていやがったか。いい加減にしろよテメェ。隙あらば逃げやがってクソが。逃げるくれぇなら、サシで向かって来いっつーんだよ」
「た、大雅。もう少し穏便に聞け。あたしは平気だから」
「いいや。俺は一度こいつに鈴理を任せたんだ。婚約のことは俺達のせいだが、それでも鈴理の気持ちを傷付けるようなことだけは許せね……豊福?」
機具越しに伝えられた内容に足元がぐらつき、ビニール傘を落とす。
追いついたであろう、あたし様と俺様の怪訝な声が後ろから聞こえた。どうでもいい。ただただ目の前がモノクロになり、危うく世界が暗転しそうになる。
どうにか足を踏ん張って体勢を持ち堪えるも、脳みそが混乱に混乱し、呼吸さえ忘れかけた。
「どうしたんだよ」
大雅先輩が肩に手を置いてくる。
その感触に我に返った俺は下唇を切れるまで噛み締めると「母さんも置いて行くのかよ」声音を振り絞り、地面に転がった傘を蹴って走る。
正門を潜るや、左右を確認せず片側二車線の道路を飛び出した。
「馬鹿!」
血相を変えた鈴理先輩が大慌て俺に追いつき、腕を掴んで強引に引き戻してくる。
車道の信号が青だったらしい。その色の識別すらできないほど、俺は動揺していた。
「空!」
轢かれたいのかと怒鳴ってくる元カノに、「母さんがっ」振り返った俺は顔を歪める。視界すら歪んでいる気がした。
「母さんが倒れたんっすよ。放して下さい。病院に、総合病院に行かないと!」
「お母様が……あ、待て空! 少し落ち着け! あたし達の迎えの車がそこに停まっているから! あんたが目指す病院は此処からじゃ距離がある!」
声音を張って冷静になれと命令してくるあたし様は、俺の体を大雅先輩に放って正門へ。
「落ち着けって」
体を受け止めてくれた俺様からぶっきら棒な気遣いを掛けられた。
安心できない。車を出してくれる心遣いすら、今の俺には感じる余裕がなかった。母さんが倒れた、そのショックが俺を奈落の底に貶めた。
引き摺られるように車に乗り込むと、久しく会う田中さんに病院へ送ってもらう。
走行中、俺の思考はすっかりネガティブに染まってしまい、最悪のことを想定してはどうにか大丈夫と振り払うの繰り返しだった。また親を亡くしてしまうのかという念が膨張し、かくかくと体が自然と震える。
伊達に両親至上主義を名乗っていない。家族に何か遭った、それを耳にするだけで気がおかしくなりそうだった。
(母さん、母さん、かあさん―――)
組んだ手を握り締めて神様に祈る。
お願いです、どうか育ての親まで俺から奪わないで下さい。こんなカタチで別れたくないんです。まだ何も恩返しをしていないのだから。
「大雅、玲に連絡しよう。今の空にはあいつが必要だ」
「鈴理……分かった。今は婚約のことを口にしている場合じゃねえしな」
二人の会話も、俺には遠い。
総合病院に到着すると一目散に受付に駆けた。
動揺に動揺している俺の代わりに、鈴理先輩が看護師さんに母さんの名前を告げて居場所を聞いてくれる。A点滴室にいると教えてもらい、すぐさまその部屋へ。
人の迷惑も顧みず廊下を駆け抜け、転がり込むように中に入ると、顔面蒼白で寝台に横たわっている母さんがいた。付き添っているのはパート仲間だろう。
三十代後半とは思えない老けっぷりに目を削いでしまう。土日俺が帰宅する時にはまったく見せなかった、疲弊の顔。
こんなにも大きい目の下の隈は見たことがない。
側らにいた看護師が身内だと気付き、俺に声を掛けてくる。
どうして母さんが倒れたか、症状はどういったものなのか、それをうわの空で聞く。不眠がなんだって? 寝不足がなんだって? 貧血がなに、それ美味しいの? 母さんが不眠不休の末の過労――その意味が分からない。
「空。リンゴジュースだ。これはお母さまの分」
スツールに腰掛け、ぼんやりと寝台に横たわっている母さんを見つめていると、鈴理先輩が小さな気遣いを差し出してくる。
そこで先輩二人がついて来ていることを思い出した俺は、視線を持ち上げ、無理やり頬を崩した。
「すみません。もう、大丈夫です……」
リンゴジュースを受け取り、軽く頭を下げる。
これ以上、二人を巻き込むわけにはいかない。俺はもう一人で大丈夫だと伝える。
まったく信用されていなかったようで、「玲が来るまでは傍にいる」あたし様らしい優しさだ。あんなに冷たくしているのに、彼女は変わらない態度で俺に接してくれる。
「テメェはお人好しかよ。あーあーもうすぐ来るだろうよ」
憎まれ口を叩く大雅先輩も大概でお人好しだ。俺のあたし様にしている数々は、彼の神経を逆撫でしているのに。
作った笑みを脆く剥げ落ち、俺は沈鬱な面で母さんの寝顔に視線を戻す。
母さんに付き添ってくれたパートのおばちゃんは、仕事をしているであろう父さんに連絡を入れ、待合室で待ってくれている。
一方で親子だけにしてくれたのだろう。察しの良い大人だ。それもまた、鈴理先輩達とは違った優しさなんだと思う。
程なくして、青褪めた母さんの瞼が持ちあがる。意識が戻ったようだ。
安心したような、嬉しいような、むしゃくしゃするような気持ちに駆られた。できるだけ感情を抑え、母さんに声を掛けると向こうは驚いたように眼を見開いた。
病院にいる状況を把握したのだろう。ああ、倒れたんですね、なんて他人事のように呟く。
そんな母さんに不眠症とはどういうことだと尋ねた。
看護師さんは言っていた。
母さんが倒れたのはおそらく不眠による、無茶な不休生活だと。パートのおばちゃんに不眠症気味になっていることを相談していたそうな。
なのに俺に内緒でパートの仕事を増やした上に真夜中まで内職に勤しんでいたらしい。
それをおばちゃんは、心配していたようで、俺に事を教えてくれた。
「なんで、そんな無茶をしたんだよ。倒れたら一緒じゃないか」
詰問に母さんは微苦笑を零し、「もう空さんにばれた」体力のない自分がつくづく嫌になると返事する。
「派遣社員にでもなるべきですね。パートじゃ稼げない。ああ、でも所得税の問題がありますし。正社員は……この歳じゃ少し難しいでしょうね。保険関係なら採ってくれそうですけれど」
まったく反省の色が見受けられない。倒れたんだぞ、その意味分かってる?
徐々に理性で抑えきれなくなる感情を、どうにかねじ伏せようとするのだけれど、母さんの、その悪びれた様子もない姿にどうしても我慢がならない。
「何してるんだよ。自分で不眠症っぽくなっているって分かっていたんだろう? なのに仕事を増やして、朝も夜も働いてっ、それで体を壊したら一緒じゃないか!」
「豊福。声を抑えろ。此処は病院だ」
大雅先輩に諌められるも、母さんのなんてことのない顔に怒りがこみ上げてくる。
俺は本当に心配したんだ。母さんが倒れたと聞いて、血の気が全身から引いたんだ。分かっているだろう? 俺が家族を失うことに恐怖を抱いていることくらい。
なのに、どうして。
そこまで思考が回った時、「まさか」俺は母さんの鋭い眼光とかち合い、すべてを察する。
「無理に決まっているじゃないか。母さんがやろうとしていることは無謀だ」
母さんは俺を買い戻そうとしているんだ。
できっこない。庶民の、底辺にいる俺達が桁違いの額を出せるなんて到底。
確かにこれは理不尽な借金の末の婚約。母さんは誰よりも乗り気じゃなかった。それは知っていた。
けれど最後は俺のため家族のためと条件を呑んで送り出してくれた筈、なのに。
「婚約を反対しているわけじゃありませんよ」
母さんは誤解しないで欲しいと俺に視線を留め、力なく笑う。
「ただ親として貴方の負担を減らしたかった。それだけです」
いいえ、本当は足掻きたかった。
理不尽だろうが何だろうが、親族の身に覚えのない金の皺寄せがこっちに来て、弁解も何もなく息子を奪われた。居場所である家族の空間を壊された。それが悔しかった。
眠れなくなった。内心、何度元凶をどうにかしてやろうと思ったか。
語り部は憎々し気に吐露する。はじめて見る、母さんの一面だ。
「空さんに私達の分まで負担を背負わせて、のうのうと過ごせる筈がない。だから負担を少しでも軽くしようと決意しました。貴方には決して知られたくなかったのですが」
「だから不眠不休で働いていたって? 自分を何だと思っているんだよ。俺に知られたくないって何だよ。俺はこんなの望んでない、倒れるまで働けなんて言った覚えは一つもないんだ!」
馬鹿だ。母さんは大馬鹿だ。
借金の代わりに俺を御堂家に預けたんじゃないか。断腸の思いで俺を手放したのも知っている。
それだけでも母さんの苦痛だっただろうに、どうして更なるいばら道に進もうとするんだ。
俺が婿養子になることで返済する借金が相殺される。
どうしてその現状に甘んじてくれないんだよ。体を壊したら元も子もないじゃないか。俺がどれだけ今までの日常を保とうと、努力していると……。
「空さん。私は親としてこれ以上、何もせずに惨めな思いをしたくないんですよ」
「ふざけるな!」
スツールを倒し、俺は腹の底から声を荒げた。
「豊福! 落ち着け。ここは病院だぞ」
今にも母さんに掴みかかりそうな勢いで前乗りになる俺を、大雅先輩が止めた。傍で鈴理先輩も必死に止めようと手を場してくる。
それでも止まらない。怒りも口も止まらないし止まれない。
「惨めってなんだよ。俺の見えないところで限界超えて倒れられる方が、よっぽど惨めだ。馬鹿みたいじゃないか、父さん母さんと過ごせる日常がまだこの手に残っている。それを必死に繋ぎ止めようとしている俺が、とんだ大馬鹿野郎じゃないか!」
「……空さん」
「莫大な借金ができて、一度は家族がバラバラになって、それでも俺を買ってくれる人が出てきてくれて。前と変わらない日常が送れる、その現実が夢みたいで」
たとえ過酷な条件が課せられようと、今までの日常がそこにある。俺が少し我慢すれば、努力すれば、取り戻せる日常を御堂財閥は与えてくれた。
御堂先輩と婚約しなければいけないことについては、彼女の気持ちや将来を思うと心苦しく思う点もあったけれど、淳蔵さんの威圧的な空気に吐いた時もあったけど、それでも本当は何処かで安心していた。望む日常は崩れない、そう信じていた。
それをまさか母さんが崩す日がくるなんて。
「母さんは俺に、二度も不慮の事故で親を亡くす思いを味わわせるつもりなのかよ。それこそ惨めだ。過労させる元凶を作った息子が本当に惨めだっ! 俺の努力はなんだったんだよ――っ!」
昂った感情が目頭を熱くさせた。
はらはらと涙がこぼれ、小さな嗚咽がこぼれる。もうむちゃくちゃだ。なにがただしくて、なにがまちがいなのかも、分からない。
「空……」
遠いや、鈴理先輩の心配も。
「豊福。少し、席を外そう。お前がそんなんじゃお母さまも休めねぇから」
大雅先輩の慰めも。
「たとえこの道がまちがっていても、俺は今までどおりの生活が送りたかっただけなのに。ただ幸せになりたいだけなのに。どうして、こんなつらい目に遭わないといけないんだよ」
ああもう、目の前が真っ暗になりそうだ。俺は一体何をしているんだろう?
「こんなに惨めな思いをするくらいなら俺は学校を辞める。辞めてやる。そして働くさ。母さん達の手を煩わせないように」
それでいいだろう?
言葉を吐き捨て、俺は大雅先輩を突き飛ばすと、注目してくる看護師も付き添ってくれる鈴理先輩も振り払って、A点滴室の扉を感情のまま開く。
目の前に父さんとパートのおばちゃん、そして御堂先輩が立っていた。合流して一緒に来たみたいだけど、頭に血を上っている俺には気遣う余裕すらない。
「空さん」母さんの呼び止めにだけ反応し、「嫌いだ」
「惨めな気持ちにさせる母さんなんて、大嫌いだ」
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