04.たとえばの明日に花束を


 □



 財閥会合は散々だった。


 俺の財閥デビューは大注目のオンパレード。

 あの男嫌いの御堂玲に婚約者ができただの、相手はエレガンス学院の生徒だの、会議室で独占欲を見せ付けただの、騒ぎが立ってしまい落ち着く場もなかった。

 御堂先輩がまさか公の場でキスを仕掛けてくるなんて思いもしなかったよ。彼女とのキスは今回が二度目だけれど、まさか人の目があるところでキスをしてくるなんて。いや鈴理先輩の時も対して変わらなかったけれど、でも、でもさぁ!


 確実にファンには殺されるだろう。

 一人になったところを狙って階段から突き落とされるかもしれない。まじで。

 王子もその可能性を見出していたのか、御堂先輩がその場で、「婚約者を傷付ける輩がいたら」僕が直々に手を下してやる、と公言していた。おかげで熱愛報道が財閥間で流れちまった。どうしてこうなった? もっと穏便に済ますつもりだったのに。


 メインの会合は蘭子さんの言うとおり、日本の経済について。

 各財閥の財政状態と照らし合わせながら今後の行く末を想定する、というものだった。遺憾なことに俺の経済学は非常に乏しい。したがって長中期利益計画とか、バリューチェーンとか、SWOT分析とか専門用語を言われてもチンプンカンプンである。

 終幕に連れて頭から湯気が出そうだった。取り敢えずルーズリーフにメモはしたけど、分からない単語が多すぎて終了同時に机に撃沈。自分の無能さに嘆いた。


 御堂先輩にはこれからだと励まされたけれど、それにしたってこれは酷いと思う。 

 勉強面に関しては非常に負けず嫌いなため、悔しさを隠し切れない。家に帰ったら早速御堂先輩に教えてもらおうと意気込んだ。



 そうそう、鈴理先輩達とは結局話せないままだ。


 話す前に会合の時間が来たんだ。離れて座ったからろくすっぽう顔も合わせていない。

 だからってこれで終わるとも思えない。会合中、チラッとこっちを窺ってきた大雅先輩と目が合い、察してしまったんだ。終わり次第問い詰められるな、と。


 案の定、終わりと共に大雅先輩が腰を上げて俺達の下にやって来た。


 身構える俺に対して、身支度を終えた御堂先輩は「さあ帰るか」見事に彼をスルー。俺に通学鞄を持たせて無理やり立たせてくる。

 ひくりと口元を引き攣らせる俺様は俺を無視するなんていい度胸だと唸った。それさえスルーして、「今晩の飯はなんだろうな?」ありきたりな話題を俺に振ってくる。交互に視線を流して返事に困っていると、「くらぁ!」俺様を無視すんじゃねえ! 何故か俺の耳を引っ張ってきた。


 悲鳴を上げると、ようやく御堂先輩が大雅先輩を相手にした。


「大雅、僕の彼女に何をするんだ!」


 せめて彼氏と言って、先輩!


「お前が無視すっから悪いんだろうが! この俺様をシカトしやがって。いい度胸だな」


 ガンを飛ばしてくる俺様に、君は自分の婚約者とイチャイチャすればいいじゃないかと腕を払う。

 彼女は耳を擦っている俺の腕を掴み、早く帰ろうと大股で歩き出した。大慌てで抱えていた通学鞄を肩に掛け、彼女の後ろをついて行く。前方に宇津木先輩と鈴理先輩の姿が見受けられたけれど、止まることなく脇をすり抜けた。

 「本当に」蚊の鳴くような声が鼓膜を振動し、足を止めてしまう。「本当に婚約したのか?」顧みずとも分かる元カノの表情に俺は微苦笑を浮かべた。



「ええ、貴方が大雅先輩と婚約したように、俺も婚約しました。今は御堂先輩の物です」



 それ以上も以下も無い。

 これは事実であり、揺るぐことのない真実だ。


 御堂先輩と共に廊下に出てエレベータに向かう。

 ズンズンと歩く王子に手を引かれて後ろを歩く俺。「おい待てこら」話は終わってねぇぞ。追い駆けてくるのはいきり立っている大雅先輩。その後ろをオロオロと付いて来るのは宇津木先輩。更にその後ろを鈴理先輩が。彼女は婚約者に落ち着けと促している。


 異様な行列だ。これではエレベータに乗れないだろう。

 そう判断した御堂先輩は非常階段を使って一階を目指す。ちなみに此処は十階。当然ながら一階まで距離がある。

 下りだからまだマシにしても、やっぱりつらいものはつらい。しかも早足で下っている。九階から八階、飛んで四階に下っていくに連れ、令息令嬢に一時的な疲労が見え始めた。車で送り迎えされていることが祟っているんだろうな。

 二階に差し掛かった時、踊り場で足を止めた大雅先輩がいい加減に止まりやがれと喝破してきた。


「玲! 話を聞きやがれっ! マジな話なのか! 豊福は庶民出だろうが!」


 此処が階段で良かった。

 フロアでそれを叫ばれていたら、財閥間で新たに話題がのぼっていただろう。御堂財閥の長女が庶民出の男と婚約した、と。

 いつかはばれるかもしれないけれど、今は誰にも知られたくない。これ以上、注目を浴びるのもごめんだしな。


 段を下りていた御堂先輩が首を捻った。

 俺越しに声の主を見据えて、「僕は嘘など言っていない」彼は僕の婚約者だと目を細める。庶民出だろうと関係ない、書類上ではあるが既に親子共々拇印を押していると相手に説明する。

 本当なのかと真意を確かめてくる俺様に間髪容れず肯定の返事をした。


「俺の親も了解済みです。今は御堂家でお世話になっている次第ですよ」


「……なんでだよ。お前は、お前は鈴理が好きだっただろうがっ。あいつの傷心を知っておいて、こんなにも早く心変わりするような男だったのかよ。お前は」


 理不尽な怒りをぶつけられたけれど、これは大雅先輩の鈴理先輩を思う気持ちがそうさせているのだろう。


 彼は信じていたんだ。せめて鈴理先輩の傷心が癒えるまでは良き友人として振舞ってくれるだろう、と。

 俺達の睦まじい仲を知っていたからこそ、大雅先輩は俺を信じていた。信じていたからこそ、今まで俺と鈴理先輩の関係を応援してくれていた。許婚の自分が不利な立場になろうと、いつも助言して見守ってくれていた。

 自分達の意思で別れたならまだしも、別れた原因がお家騒動だ。鈴理先輩の傷心は根深い。それに俺は塩と唐辛子を塗りたくったんだ。彼が憤るのも無理は無いだろう。


 それでも、だ。



「過去を顧みるつもりはないんっすよ。大雅先輩」


「テメッ」



 「待て大雅!」鈴理先輩の制止は届かない。


 踊り場を蹴った俺様が転がるように段を下って、俺の腕を掴むと壁に放って婚約者と引き離した。

 胸倉を掴んでくる大雅先輩にふざけるなと声音を張られたのはこの直後。


「なんのために、鈴理をお前に任せたと思っているんだよ。こんなカタチで裏切りやがって」


 悪口(あっこう)を突かれる。甘受した。事実だから。

 けれど反論もある。「今は大雅先輩、貴方に任せている筈ですよ」努めて落ち着きを払って相手の睨みを受け止める。


「彼女は貴方の婚約者です。俺は良き友人になろうと心に決め、身を引きました。俺達の関係は既に過去の産物でしかないんっすよ」


「鈴理の気持ちを知って尚、本人の前でそれを言いやがるテメェが気に食わないんだよ。どれだけ鈴理がテメェのことを想っていたと思ってんだ。あいつは現在進行形でお前を想っているッ。同じ学院にいるテメェなら知っているだろうが!」


 知っていますよ。そんなこと、俺様に言われなくても。


 でもどうしょうもないことだってあるじゃないっすか。

 今の俺に鈴理先輩をどうしてやることもできない。同じように鈴理先輩も俺にどうしてやることもできない。

 なにより鈴理先輩にはこんなにも良き理解者がいる。俺に殺気立つほど、彼女を想う理解者が。俺の出る幕なんてひとつもない。


 二人が婚約問題でモダモダしている間に、俺自身の私生活に問題が起きたことを二人は知らないでしょう? どうすればいいか分からず、家族がバラバラになるかもしれない恐怖を噛み締めていた日々を貴方達は知る由も無い。誰も俺の苦悩を知らない。


 けれど御堂先輩だけがその恐怖を、苦悩を、孤独を理解してくれていた。

 自分の意思とは関係なく、婚約をしてくれた。大嫌いなおじいさんの命令だと言うのに、惜しみなく庶民出の俺と婚約してくれたんだ。俺達家族を救ってくれたんだ。


 だから、俺はその気持ちに報いたい。

 例えそれが鈴理先輩を傷付ける結果になったとしても、裏切りだと罵られる行為になったとしても、誰かに恨まれたとしても、俺は御堂先輩を守りたい。守り続けていきたいんだ。

 そのためならなんだってできる。今まで築き上げていた関係を壊すことだって。


「俺は御堂先輩を選びました。それに弁解する気はありません。そろそろ解放されたかったんっすよね。あたし様の束縛から。正直鬱陶しかったので」


「あンだとテメェ!」


 相手の怒りを更に買ったけれど、これでいい。

 忘れて欲しいんだ、俺という男を。最低男だと思ってくれたら、先輩だって後腐れなく次に進んでくれる――そうでしょう? 鈴理先輩。



「大雅は豊福の何を知っているんだ。未だに鈴理を想う豊福の、片思いを抱く僕の隣にいる彼の、何を知っているんだい?」



 睨み合っていた双方、目を見開いてしまう。

 ぎこちなく視線を流すと、御堂先輩が段を上がってくる。


「何も知らないくせに。知ろうともしなかったくせに」


 努めて冷静に、けれど声音に怒の感情を宿し、王子が俺達の間に割り込む。

 「何が同じ学院にいるくせにだ」そっくりそのまま返すと苦言を吐き、彼女は俺の胸倉を掴んでいる大雅先輩の手を静かに下ろさせる。


「豊福がどれだけ傷付きながら、僕と婚約を結んだか知らないだろう。鈴理のために茶番をする彼の気持ちを知らないだろう。今ここで君達に嫌われようとしている、彼の思いの丈や覚悟を何も知らないだろう?」


 だからこそ腹立たしい。普段の生活では常に一緒にいるくせに。御堂先輩は独り言のように呟く。


「知らないから、平気で怒れる。知らないから、素直に嫌える。何も知らないから、ただただ憎める。それでいいのかもしれない。豊福の思惑通りにさせるなら、それがいいのかもしれない。

 だけど、僕は知っているから、どうしても口を出したくなる」


「せんっ、」


「もう平然と傷付こうとする豊福は見たくない。僕は豊福の、ごく自然なことで笑ってくれる素顔が見たいんだ。これは贅沢な我儘かな?」


 だとしたら、自分は贅沢者で良い。もう傷付く姫は見たくない。どうしても見たくないのだと、語り手は語気を強くした。

 庇われた俺は途方に暮れてしまう。そんなことを言ってしまえば、嫌でも事情を話さないといけなくなる。駄目だ、それだけは駄目だ。これは御堂家と豊福家の事情、他人に知られてはいけない。

 なのに、悪びれもせず王子は俺に目を向けて、小さく笑った。


「ごめん豊福、君の下手くそな演技は見ていられなかったよ。僕は君の泣顔を見たくないからね。行こうか」


 軽く大雅先輩を押しのけると、もう話すことは無いと言わんばかりに俺の腕を掴んで階段を下る。

 ついて行くばかりの俺は掛ける言葉が見つからず、ただただ彼女の背を見つめるばかり。どうして、この人はいつも俺を守ってくれるのだろうか。こんな俺を、この人はいつも。そんなの決まっているだろう。好きでいてくれるんだよ、本気で、御堂先輩は。

 「何があったのだ」ようやく口を開いたのは鈴理先輩だ。真実を知ろうとしている。


「さあね。何もないよ。如いて言えば、僕が彼を奪った、ことくらいかな」


 俺越しに振り返り、王子が意地悪く口角をつり上げて舌を出した。

 その際、「庶民と財閥が婚約したなんてそう例はない」ということは、それだけの理由があるということだよ。余計なひと言を添えて。

 「御堂先輩!」血相を変えて首を横に振ると、何を思ったのか、「お似合いだろう?」まさに王子と姫だと言い放つ彼女はヒトの腰に腕を回す。


「婚約を結んだ僕達は、今、ひとつ屋根の下で暮らしている。いやあ、残念だね。豊福の浴衣姿が見れなくて。あんなに艶めかしい姿は、なかなかお目に掛かれないよ」


「なっ……そ、空と同居、だと? 浴衣、だと? 艶めかしくてエロいだと?!!」


 鈴理先輩……今日一番の喰いつき。俺は悲しい。もっと別のところを喰いついて欲しかった。あとエロくはない。断じて。


「可愛いぞ、ひとりでもたもたと帯を結ぶ姿。いつまでも見ていたくなるね」


 エロ親父みたいな発言である。王子なのに!


「そんな何気ない日常の、なんでもない豊福の笑う姿が見たい。それだけで僕はきっと幸せな気持ちになれる。理由があろうと無かろうと僕は豊福を守り続けたい。片思いでもいい。僕は豊福の王子であり続けたい」


 これは挑発だ。御堂先輩は既に俺じゃなく、大雅先輩でもなく、向こうにいるあたし様に視線を流している。


「そこの自称ヒーローは足掻くことすらやめて“ヒーロー”を辞退したのかい?

 あれほどヒーローになると言っていたのに、その意気込みは何処へやら。笑っちゃうね。現実に足掻かない君なんて、僕の好敵手じゃない。何も動かない君なんて、僕の好敵手じゃないよ。鈴理。

 つくづく失望させてくれるね。もっと張り合いがあると期待していただけに」


 吐き捨てるように告げると、ダイナミックに飛躍。平坦な床に着地する。

 つられて飛躍した俺の着地を見届け、


「僕が彼を幸せにする。だから安心して大雅といちゃついておくんだね」


 ひらひらっと王子が手を振った。

 「ウゲッ」「なッ」それはすこぶる嫌だと顔を引き攣らせる俺様、あたし様。いや、あんた達、建前でも婚約しているでしょうに。

 やや呆れを抱いた刹那、


 

「好(よ)き青春だな。こんなところでさえ若人諸君は青春の場にしてしまう。若いとは微笑ましい限りだよ」



 第三者の声音。


 くつくつと喉で笑い、階段をのぼってきた人物に俺以外の財閥組が反応を見せた。

 「あ、貴方は」やや怯えを見せるのは宇津木先輩。あからさまに緊張しているのは大雅先輩と鈴理先輩。舌打ちを鳴らして嫌悪感を丸出しにしたのは御堂先輩だった。


 含み笑いを浮かべて此方に赴いてくる老人を捉えることに成功する。

 ジェントルマンと呼ぶべきオーラを醸し出している老人は杖をつき、秘書らしき女性を引き連れて俺達の前に立った。外貌は70過ぎに見えるけれど足腰がしっかりしたじいさんって感じ。ジェントルマンのオーラの中に、今の現役バリバリですオーラを出している。見た目は好印象なおじいさんだけど……。


「クソジジイッ」


 鈍感な俺はようやく察する。

 この人が御堂先輩のおじいさん。御堂家の長で財閥界の養命酒、じゃない、財盟主と呼ばれているエライ人の一人。なにより俺達の借金を肩代わりした張本人、御堂淳蔵。


 「なんで此処に」露骨に嫌悪感を醸し出している孫を涼しげに見やる淳蔵さんは、「孫に会いに来たんだ」エントランスホールで待てど暮らせど姿を現れないものだから、捜しに来たとか。尤も、財閥の人達に聞けばすぐ場所は把握できたそうな。

 朗らかに笑いかける淳蔵さんだけれど、御堂先輩は鼻を鳴らすばかり。後ろの財閥組は緊張しっぱなし。宇津木先輩はともかく、あたし様や俺様を硬直させるなんて、どんだけ偉い人なんだろう? この人。


 淳蔵さんは俺に視線を流して挨拶を口にしてくる。


「初めまして豊福くん。こうして対面するのは初めてだね。君が財閥会合に出席すると知って、少しばかり挨拶をと思ったんだ」


「初めまして淳蔵さま。豊福空です。この度は、豊福家一同がお世話になりました。心より感謝申し上げます」


 深く頭を下げる俺に、「大したことはしていないさ」と淳蔵さん。

 ただ御堂家に嫁ぐ以上、それなりの功績を上げてもらわないと困ると釘を刺してきた。


 努力は惜しみません、返事する俺に、「君の努力値は高評価している」なんたって独学で好成績をたたき出し、あの名門校の奨学生を努めているのだから。男の実力かな。やはり男はそうでないと、と淳蔵さん。

 柔和な笑顔の裏にはあからさま男尊女卑を秘めていた。

 それでも愛想笑いを浮かべるしかできない。彼の笑顔の威圧が俺を脅しているんだ。立場上、愛想よくすることが好ましいだろうし。


「玲。お前は早く世継ぎを生むことだ。なんのために彼を婚約者にしたか、分かっているだろうな?」 


 ターゲットを御堂先輩に向けた。

 疎ましそうに分かっていますと返事する御堂先輩だけど、その嫌悪感は隠せていない。


「相変わらずだな。男装をしていても性別は変えられないのに」


 皮肉を飛ばす淳蔵さんにこれは自分の趣味だと御堂先輩が素っ気無く返す。


「趣味ではなく劣等感からだろ」


 容赦ない嫌味に、また一つチッと御堂先輩が舌を鳴らした。これだけで祖父と孫の関係の全貌が明らかになる。


「そこにいるのは大雅令息。鈴理令嬢。君達の婚約に祝いの言葉を手向けていなかったね。婚約おめでとう」


 人の良さそうな笑みを向ける淳蔵さんに、二人は恐縮ですと返事していた。

 すっごく偉い人なんだろうな、淳蔵さんって。俺様あたし様な二人の態度を畏まらせてしまうなんてタダモノじゃないよな。


 

「っ……何故ですか」



 ふと御堂先輩が目の前にいる友人達のことも忘れ、それこそ場も忘れ、どうして僕と彼を婚約させようと思ったんですか! と、声音を張る。

 瞠目した鈴理先輩達なんぞ目に入らない王子は、激昂し、実の祖父を捲くし立てる。


 何故、どうして、なんのために自分達を婚約させたのだと詰問。


「貴方が出てくるとロクなことがない」


 奥歯を噛み締める彼女に、「何が不服だ?」彼は既に御堂家の配下においているというのに。動じることもなく、淳蔵さんは冷笑を浮かべる。


 これでも孫思いなのだといけしゃあしゃあに告げ、


「彼は御堂家のものだ。お前もこれを望んでいただろ? 良かったじゃないか」


 そうシニカルに笑った。彼にとっても必然な救済だったのではないかと俺に視線を流す。

 含み笑いを零した意図が俺には察することができなかった。


「私はね。誰でも良かったんだよ。それこそ彼でなくとも。例の件がなくとも彼は貧困に苦しんでいただろう。ワーキングプアと呼ばれる層にいる彼のような人間はこの世の中、腐るほどいる。だが玲、男嫌いなお前が彼を救った。お前が要らないなら解消しても良いが? 彼を戻すか? ワーキングプア層に」


 初めて優しい笑みが醜悪な笑みに変わった。ぞっとするような微笑だ。


「やり方が気に食わないだけです」


 貴方のやり方はっ、必ず誰かを傷付ける。彼女の言葉に綺麗事だと淳蔵さんが冷笑した。

 次いで、俺の名を呼ぶ淳蔵さんは御堂家の名に相応しい男になるよう命令してきた。君のような人間の代替は沢山いるのだから。淳蔵さんの言葉に俺は返事するしかない。ご尤もだから。


「代替? そんなものないですよ、僕が欲しているのは彼のみですから」


 食い下がる御堂先輩に対し、「だったら文句を言うな」ただでさえ女という身に飽き飽きしているのに、淳蔵さんはそこまで言うと人が変わったように人の好い笑顔を作って俺に言った。



「君は御堂家のために生き、そして死になさい」



 やけに厳かな台詞だと、他人事のように思う。


 肩を並べている御堂先輩がふざけたことを言わないで欲しいと喝破してくれる。

 彼の人生は彼のものであり、御堂家のものじゃない。豊福は道具じゃないのだと御堂先輩が主張するものの、「いいね?」淳蔵さんは俺に返事を求める。それは返事というより、絶対服従を求めているようにも思えた。否定は決して許されない。


 「はい」俺は笑みを浮かべて返事する。

 例え、相手があくどかろうとなんだろうと俺達家族はこの人によって救われた。なら、言うことは一つ。


「俺は御堂家のものです。貴方様の望むことをしたい」


「と、豊福っ!」


 頓狂な声を上げる御堂先輩とは対照的に満足げに笑った淳蔵さんは、それでいいのだと褒めてくれた。

 次いで、「青春をするのも良いが」友人とは仲良くするようにと助言してくる。友人関係はいずれ、将来の取引へと繋がる。ビジネスマンらしい台詞を耳にした俺は、ここでようやく鈴理先輩達がいたことを思い出した。

 このやり取りを見られたくはなかったけれど、まるで狙ったかのように淳蔵さんは彼等の目の前でやり取りを繰り広げた。これは意図してのことだろうか?


「豊福くん。ご家族を想うなら、御堂家に逆らわないことだ。君は御堂家の所有物だということを忘れてはいけない」


 もし忘れるようならご両親はどうなるか……口角を持ち上げる淳蔵さんの笑みに俺は血の気を引かせた。



「親不幸にだけはしないように。実親のように、自分の身勝手で殺(あや)めてはいけないよ」



 な ん で ?


 青褪める俺にまたひとつ綻んで、淳蔵さんはそろそろ失礼すると俺達の脇をすり抜けて階段をのぼる。


「久々に階段を上ったが、これはしんどいな」


 良い運動になりそうだと秘書の女性に漏らす権力者は、鈴理先輩達にこれからも孫達と仲良くしてやってくれと建前を言い放って、階段の向こうに姿を消す。 


 相手の背中を睨み飛ばす御堂先輩は、完全に姿を消すまで祖父を睨んで、「クソジジイめ!」地団太を踏んだ。

 一体何を目論んでいるのか、腹の底が読めない。いつもそうだ。祖父の腹黒さは底知れない。二重人格ジジイめっ、御堂先輩は憤りを露にしてたけど、すっかり消沈してしまっている俺に気付き、そっと声を掛けてくる。


 何か優しい言葉を掛けてくている気がしたけど遺憾なことに俺の耳に届かなかった。

 俺の脳内を占めているのは両親のことばかり。まるで俺の過去を知ったような口だったけど、知っているのか? 俺が昔、実親に何をしたのかを? どんな親不孝をしたのかを。


 俺がヘマすれば父さんがっ、母さんがっ、嗚呼それだけは。それだけは。

 財閥界でヘマは許されないのだと思い知らされた俺は追い詰められた気持ちを抱き、がくがくと体を震わせてしまう。自分がどういう立ち位置にいるのか、改めて気付いてしまった。


 俺、とんでもないところにいるんだな……やばい、プレッシャーに押しつぶされそうだ。どうしようもなく怖い。どうしょうもなく。また両親を失ってしまうような。

 親不幸にだけはしないように、淳蔵さんの言葉が俺の脳内に繰り返し流れる。

 同時にフラッシュバックした。目の前で実親がトラックに轢かれた光景が。あれは俺が親不孝をした末路。じゃあ俺のヘマで育ての親も無残な末路を? 俺のせいで、また誰かの人生を変えてしまうんじゃ。


 俺は、また人を殺してしまう。殺して……嗚呼、酷く気分が悪い。



「すみ、ません。先輩。俺、お手洗いに……」



 ようやく我に返ることができた俺は、よたよたと歩みを再開する。


 大慌てで俺の隣に並んできた御堂先輩は、「今日は不慣れなことばかりだったからな」少し休もう、と俺の具合の悪さを見越してくれた。手を引いてくれる御堂先輩が鈴理先輩達に挨拶をしていたけれど、それを耳にする余裕はない。俺自身も挨拶する余裕はなかった。


 重量感ある非常階段の扉を押し開け、近場のトイレに向かう。

 先輩にはラウンジで待ってもらうようお願いした。トイレまでついて来ようとしてくれる先輩の優しさは嬉しかったけれど、情けない姿をこれ以上見られたくなかったから。

 覚束ない足取りで個室に入ると、便器に向かって酸えた胃液を軽く吐き出した。過剰なストレスによるものだと他人事のように思う。


「ははっ……ダッセェ」


 自分と家族の運命を負う厳しさ、借金の枷に苛む辛さ、失態できない恐怖、どれも俺のストレスにしかならない。

 財閥界に入ることがどれだけシビアなのか、淳蔵さんの発言で思い知らされた。俺は御堂家の婚約者、けれど御堂家に借金を作った人間なのだと忘れてはいけない。絶対に、そう、ぜったいに。


 どれほど便器と向かい合っていたのか分からないけれど、自分の気持ちが落ち着いた頃、水を流して個室を出た。

 手洗い場で口を濯ぎ、顔を洗って不安を払拭。うん、少し気分が良くなった気がする。

 そろそろ御堂先輩の下に戻らないと、彼女も待ちぼうけを食らっている頃だろう。


 そう思って早足でトイレを出ると、つくねんと彼女が立っていた。

 ラウンジで待っていて欲しいと言ったのに、彼女は優しいから俺を想い、トイレで待ってくれていたのだろう。



「ごめんなさい。もう大丈夫っす」



 力なく笑うと、王子がつかつか歩んできた。頬を包んで触れるだけのキスをくれる。

 呆ける俺に一笑を零し、彼女はラウンジに行こうと腕を引いた。なおざりに足を動かして、目的地に向かう。


 ラウンジは企業の人の姿は見受けられない。代わりに財閥の人間が疎らに見受けられる。

 設置されている長いすに俺を座らせた御堂先輩は自販機へ。熱々のカフェオレの入ったカップを持ってすぐに戻って来た。


「これを飲んだら気も落ち着くよ」


「ありがとうございます。ごめんなさい、世話を焼かせてしまって」


 厚意に甘え、カップを受け取る。

 気にすることないとハニカミ、隣に腰を掛けてくる婚約者。ズズッとカフェオレを啜って味を楽しんでいる。俺もカフェオレを啜り、それを味わう。不思議と気が落ち着いてきたのは彼女の優しさのおかげかな?


「俺、実親を殺しているんっすよ」


 何か話題は無いか、検索した結果がこれだった。

 同情なんてされたくないのに、この話題を出してしまうのは何故だろう? 相手が御堂先輩だからかもしれない。知っておいて欲しかったのかも、俺の過去を。

 向こうの動きが止まった気がするけれど気にせず、「俺が五つの時でした」我が儘を言ったばかりか、身勝手な行動に出て親が事故死した。交通事故で死んでしまったのだと語る。

 随分、端折った語りだったけれど、相手には十二分に伝わっただろう。


 間を置いて、彼女が口を開く。


「ジジイはあんなことを言ったが君は君のために生きて、死んでくれ。それが僕の願いだ。今のご両親を失いたくない気持ちは分かるけれど、君の人生は君のものなのだから。」


「……先輩」


「君が自分を大切にしてくれる。それこそが僕のためにもなるんだ。いいね、豊福。君は君のために生きるんだ」


 有りの儘の君でいて。有りの儘の豊福でいて。有りの儘の笑顔を見せて。

 とびっきりアマーイ台詞を囁かれ、俺はようやく笑声を漏らせるほどに回復した。


 甘過ぎて胸焼けしそうっす。

 どうして貴方はいつもそうなんっすか。どうして俺にそこまで優しいんっすか。なんでそんなにも俺の事を……守ってくれるんですか? さっきだって悪役ぶっていた俺を貴方が助けてくれた。


 

「豊福、好きだよ」



 照れ笑いで告白してくる王子系プリンセス。 


 何処までも恋愛に対して正当な姿勢を貫いている彼女の直向さが俺は好きだった。正真正銘の王子系プリンセスだと思う。

 身分が縛られていても、彼女が思ってくれいるだけで俺は幸せだった。御堂家のために人生を捧げなければいけない。それは現実として浮上していることであり、俺も両親も承知している。その上で婚約したんだ。

 契約書にサインした時の、父さんの寂しそうな顔はまさにそれを意味していた。


 だけど大丈夫、俺はなんとかやっていける。

 お金のことはどうしようもないけど、勉強への努力なら惜しまない。

 今までやってきたんだ。これからだって努力していける。なんだってやれる。両親のため、御堂家のため、そしてこの人ために。


 いつも側にいて支えてくれている御堂先輩に、俺からできることはなんだろう?


 考えた挙句、出した答えは空いた手で彼女の手を結ぶことだった。

 傍から見ればスンバラシイ宇津木ワールドかもしれないけれど(だって彼女は男装少女!)、俺達はれっきとした男女カップル。ん? 女男カップル? どっちでもいい。今度は俺から彼女を支えられるよう手を結びたい。これは彼女に対する俺の気持ちだ。


 視線を流してくる彼女に、「こうして手を繋ぐ行為は」貴方のためじゃなく俺のためです、一笑を零した。


「淳蔵さまはあんなことを言っていましたけど、俺は貴方が女で良かったっす。男じゃ手を結ぶなんて行為できませんもんね」


 すると王子が珍しく頬を紅潮させた。一本取った気分だ。

 悔しかったのか彼女はカップを持った手で器用に額を弾いてくる。


「僕は何度でも言うぞ。君の身分を縛っても心は縛らない」


 相手の気持ちは自分で落とさないと意味がない。代替も要らない、と。



「君の代替を手にするくらいなら、僕は君を手放さない。生涯を懸けて」



 とんでもない告白だ。

 簡単に目ん玉が飛び出そうな告白をさらっとしてくるものだから、困った王子だこと。


「俺の立場ねぇっす」


 折角一本取ったのに、三本取られた気分だ。不貞腐れてみせると、「少しは元気になったじゃないか」それでこそ豊福だと笑い、距離を詰めてくるカップに口をつけていた形の良い唇が言葉を紡いだ。


「心を縛るつもりはないけれど攻めないつもりもないから。隣にいてくれる機会を僕はのがさない。それだけは覚えておいて、豊福」


 これは、なんと返せばいいのだろう。

 彼女なりの俺に対する宣戦布告と、自らを片思いの立場だと宣言した姿を思い出し、スーッと目を細めた。そっと肩に頭を預ける。額を押し付けると、「珍しい」君から甘えてきてくれるなんて。嬉しそうに御堂先輩が頬を寄せてきた。


「甘えていいよ。もっと甘えてきて。求めてきて。もっと、そう……もっと」


 誰の目も気にさず、俺に真摯な気持ちを伝えてくれる王子。



――この人を守りたいと、ただただ心の底から思った。



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