02.緊張しないわけねぇでしょ義理の両親っておまっ!
こうして来て早々三度も災難が身に降りかかり、俺の疲労はピークに達しそうだった。
それまでお金に縁が無かったからなのか、俺がお金持ちの家に行くと大抵なにかあるようだ。金は天下の回り物というけど、所詮は回り物は金持ちの間だけで順繰りしているんだろうな。
あーあー、ビンボーくんは今、とつても切ない気持ちだよ。以後、金持ちの家に行くのが怖いんだけど。此処で生活していく自信もなくなったんだけど。
吐息を零す俺に、「申し訳ないです」膝立ちして腰に金糸で刺繍された黒帯を巻いてくれている博紀さんが謝罪してくる。
「さと子も頑張ってはいるんですが」
どうも抜けている子で、と苦笑。
さと子ちゃんはアガリ症に足して極度のドジっ子キャラらしく、蘭子さんもほとほと手を焼いているよう。
さっきも大失態を叱るためにさと子ちゃんを引き摺って別室に移動してしまった。
俺は破れた障子に目を向ける。
穴があいてしまった障子への応急処置は手頃な和紙だった。和紙も決して安価じゃないだろうに、博紀さんは少しでも見栄えを良くしようとそれで穴を塞いでくれたんだ。努力はそれなりに報われていると思うけれど、傍目から見たらややアンバランスである。
きゅっと帯を締めた博紀さんから、大目に見てやって欲しいと頭を下げられた。
「いいんっすよ」
気にしていないと微苦笑を零し、自分の身なりを確認する。
騒動のおかげでゆっくり選ぶことのできなかった浴衣の柄は、結局最初に着せられようとしていた芍薬柄で決定。
女の子が着ればさぞ可愛いであろう浴衣を身に纏い、姿見の前に立つ。
柄はともかく、案外普通だな。女物の浴衣だからって物怖じしていたけど、浴衣自体は男女共通だからな。うん、俺が想像するほど変じゃないとは思う。
でも、多少ならず柄は気になるな。俺が着て本当に大丈夫か? 女物の柄だぞ。キモくないか?
「しかも、これを着て御堂夫妻に会うんだろう? ドン引かれるんじゃ……」
女物ってことは、一応プチでも女装をしているというわけで。
御堂先輩はともかく、御両親に会うと思うと気が引ける。着替えたい。切に。
「空さま、とてもお似……お嬢様に喜ばれるお姿で素敵です。可愛らしいですよ」
似合わないんですね。そうなんですね。分かっていますよ。自覚はありますよ。すんませんね、似合わなくて。なにぶんハイスペック男じゃないもんでね!
姿見越しに博紀さんを見るも、彼は目を泳がせて、白々しく咳払い。
「お嬢様は男装を好みますので丁度良いかと」なんぞと慰めを添え、そそくさと床に放置している浴衣の束を箪笥に仕舞う。
「湯殿は後程に致しましょう。火傷に塗った薬が乾くまで時間を要しますでしょうから」
博紀さんが柔和に笑顔を作る。
その笑みは優しさのかたまりだ。女性が見たら瞬殺されそう。嫉妬は置き、俺もこんな風に爽やかな笑顔を作れる男になりたい。
それができたら、もう少し可愛い女の子が振り向いてくれるんじゃ。
ゾクッと背筋が寒くなった。これでじゃあ今まで俺を好きになってくれた女の子が可愛くないと言っているようなもんだ。
勿論、可愛くないわけじゃない。美人だし、黙っていれば本当に可愛い女の子だ。 だけど、基本雄々しい肉食。俺はいつだって押し倒されているへたれ。うるへぇ、ほっとけ。
半べそになって妄想攻め女を思い浮かべていると、博紀さんから軽く人の背中を押される。その手は誘導の意味合いを示していた。
掛け時計を流し目にする彼は、廊下まで背を誘導すると障子を静かに閉める。
「旦那様と奥方様は先程ご帰宅しました。貴方様をお迎えする日とのことで、早めにお仕事を切り上げてきたようです。お召しも済んだことでしょうから、今頃は大間に」
緊張を胸に抱えた。
俺にとって義理の両親になる源二さんと一子さんが帰ってきているんだ。嗚呼、なんて挨拶しよう。ちゃんと挨拶できるかな。
なによりこの格好はどう言い訳すれば……心なしか、すれ違う女中さんや仲居さんからクスリ、と笑われている気がする。被害妄想だ、そうだ、被害妄想。俺は笑われていない!
「玲お嬢様も、七時過ぎにはご帰宅すると思います。どうぞご帰宅されたら、愛してあげて下さいね」
あぁあ愛してあげてって。
婚約者はそういう立ち位置になるんだよな。
そう、だよな。だよな。将来夫婦になる人だもんな。奥さんになる人だもんな(だよな、俺が奥さんという立ち位置……阿呆か!)。
うわぁああ現実逃避したくなってきた! テンパるなぁもう!
ドッドッドと高鳴る胸を押えながら、大間に案内される。
その部屋はいつぞかの料亭で食事をした部屋以上に立派で綺麗だった。中央に置いてある短脚の長テーブルを中心に、掛け軸や生け花、それに庭園を一望できる大きなガラス窓が俺を出迎えてくれた。
食事の用意が整っているテーブルには、既に御堂先輩のご両親が席に着いている。
失礼しますと両膝をついて挨拶する博紀さんに倣って、俺も膝をついて挨拶するんだけど、「空さまはいいんですよ」早々に笑われてしまった。
いやでも居候する身分だし、なんらかの挨拶は必要なんじゃないかと! 所詮は借金の肩代わりで借金持ちの息子だしさ!
狼狽する俺に源二さんが大笑いした。
気兼ねなく入って来なさいと言われ、俺はキョドりながらおずおず指定された席へ。向かい側に座る御堂夫妻に会釈して、「お邪魔しております」と当たり障りのない挨拶をする。
夫妻は本当に良い人で硬くならなくていいと気遣ってくれた。
「きょ、恐縮です。ただどうしても緊張が払拭できなくて」
強張った笑顔で言うと、「大丈夫ですよ」一子さんが優しく微笑んだ。借金の肩代わりで婚約した手前、どう動いていいか分らない俺に、いつもどおりの自分でいればいいと一子さんが言ってくれる。
「そうは言っても戸惑いでいっぱいでしょう。けれど少しずつ緊張をほぐしていけば宜しいと思うのです。不遇なことばかりで心の整理がついていないかもしれませんが、わたくしも夫も貴方様のことを認めて玲と婚約させたのです。決して貴方を虐げるようなことはしませんよ。借金のことを枷にすることもございません。わたくし達は貴方を息子として迎える気持ちなのですから」
ふわっと微笑んでくれる一子さんと肩を並べている源二さんもうん、とひとつ頷いた。
名前に反してハーフらしい顔つきをしている彼は、取り巻く厳かな空気を一掃して柔らかな空気を醸し出してくれる。
「一子の言うとおりだ。空くんは堂々として良い。向こうのご家族から責任を持って君を預かっているんだ。一件について知っている人間も、この家では私達家族と蘭子くらいだ。此処の暮らしを楽しんでくれたら、と思う」
それでも、俺は金で買われた男に違いない。
そして、御堂夫妻と御堂先輩の本望からの婚約じゃない。おじいさんが手ぐすねを引いた婚約だ。
彼女に言えば怒りを買うだろうけれど、現実問題として御両親には言っておきたい。
「あなた方の重荷になったら、すぐ切って下さい。俺は御堂先輩を泣かしたくも、傷つけたくもありません」
「だったら君は早く此処での暮らしに慣れることだよ。あの子は本当に君が来る日を楽しみにしていたんだ。泣かしたくないなら、此処の暮らしを楽しんで欲しい。それがあの子の笑顔に繋がる」
無性に泣きたくなったのは夫妻の優しさが心に沁みたからだろう。
小さく首肯してはにかむ俺に、「やっと笑ってくれましたね」一子さんが安堵したように目尻を下げる。
直後、着物の袖で目元を押さえ始めた。
グスグスと泣き出す一子さんにギョッと驚き、どうしたのかとアタフタ腰を上げる。何か失礼なことでもしてしまったのだろうか? 血相を変えていると、「息子ができましたよ。貴方様」なんて喜ばしいことでしょう。感涙している未来のお義母さんがそこにはいた。
「この日をどれほど心待ちにしていたか。幼稚園の時は女の先生を口説いていましたっけ。小学生の時は二人の女の子を口説いて、玲の取り合いになっていましたね。中学生のバレンタインなんて、大勢の女の子からチョコを貰ってしまって。わたくしはっ、どこで娘の教育を間違えてしまったのかと日々悩んでいましたよ」
「玲に彼女ができた日を踏まえ、二人でシュミレーションもしたな。一子」
「ええ。彼女を我が家に連れてきた日を覚悟して……取り越し苦労でしたね。貴方様」
ご両親の苦労に俺ももらい泣きしそうだよ。家族愛はもっぱら弱いんだ。
くぅ、お二人とも努力していたんっすね。ただ内容が内容だけにツッコミどころ満載だったけど! 御堂先輩の男嫌いは凄まじいもんな。
「浴衣も玲が見たら喜びますね」「ああ、そうだな」「あの子のための浴衣でしたけれど」「箪笥から引っ張り出して空くんのために選んでいたな」「ええ、楽しそうに」「微笑ましかったな」「はい」
ちょっと待て。御堂家にはツッコミをする人間がいないのか? 会話の節々がおかしい。
「女物の浴衣を着ているのですが」
「いいんだ。私達は男装する娘がいるから、そういうことには免疫力があるから」
要らない気遣いです、はい。
「娘が選んだ浴衣を着てくれた空くんの心意気には感謝するよ。あの子もきっと喜ぶ」
「そう、言われると……これ俺に似合います?」
「ふふっ。息子になる空さんですから、なんでも似合いますよ。だって息子ですもの。玲の彼氏さんですもの」
答えになっちゃない! どんだけ息子に飢えていたんだい、御堂家!
「そうだ。お二人のことはなんとお呼びすれば宜しいでしょうか。今までどおりの呼び名では失礼かもしれませんのでお尋ねしておきます。旦那様に奥方様、が宜しいでしょうか?」
俺の問い掛けに思い出に浸っていた二人が笑声を漏らした。
「女中の真似をしましたね」一子さんにずばり指摘されてしまい、俺は顔を紅潮させながら身を萎縮させてしまう。
だってその呼び名が一番しっくりきたんだ。様付けでも良かったけど、此処は旦那様に奥方様がいいかなぁって。
でも婚約者の俺が言うのはおかしかったらしい。
今までどおり、源二さん、一子さんで良いと呼ばれた。
ただしひとりだけ丁寧な呼び名で呼んだ方が良いと夫妻が教えてくれる。それは借金を肩代わりしてくれた張本人、御堂先輩のおじいさんに当たる御堂淳蔵さんだ。夫妻も頭があがらない人なんだそうだ。先輩が言っていたように、おじいさんの権力は絶対のよう。
「私の父は財閥界を仕切っている内のひとりなんだ。財盟主(ざいめいしゅ)と呼ばれる幹部のひとりでね」
「ざい、めいしゅですか?」
養命酒みたいな名前だ。
「難しく考えなくて良いさ。要は財閥界を仕切っているリーダーのひとりだと思ってくれたら。空くんもいずれは財閥界を知ることになるだろうが今は偉い人、だと思っておいてくれ」
いずれ会うであろう淳蔵さんのことを頭でメモしておく。彼の呼び方は丁寧な様付けにすべし、と。
「ふふっ、玲が貴方様がやってくる日を心待ちにしていましたよ。今朝はご機嫌で学校に向かったそうです。毎日のように貴方様の来る日はまだか、と唱えていましたし」
「あの玲が男を待ち遠しく思ってくれるなんてな。本当に嬉しい限りなんだ」
二人に微笑まれ、俺は照れてしまう。なんて返せばいいんだろう?
「貴方様。お部屋は玲と同室にするべきだったのではないでしょうか? 折角婚約されたのですから、ね。親密な情事もございましょうし」
「確かにな。空くん、どうだい?」
……えーっと、それについてもなんて返せばいいんだろう?(親密な情事って何? ねえ、何?!)
「一応お互いに学生の身分ですから」
別室の方が好ましいかと、ぎこちなく笑って返事すると、「硬派なのですね」感心したような口振りで一子さんが綻んだ。どうしてだろう? 褒められたのに、あんま嬉しくないんだけど。
バタバタバタッ――!
会話を打ち切るような喧(かまびす)しい足音が聞こえた。
その音の大きさは廊下を全力疾走しているのだと、容易に想像が出来る。
「あれは」「玲だな」二つの溜息は女の子らしからぬ乱暴な足音だと、文句と一緒に漏れた。
予定では七時過ぎに帰宅だろうに、御堂先輩は学業を終えるや一目散に帰ってきたようだ。障子越し廊下の向こうから蘭子さんの喧(かまびす)しい注意が聞こえるのに、足音は無遠慮に大間の前に到達する。
「豊福は来ていますか!」
これまた音を豪快に立てて障子を開けたのは、勿論夫妻に溜息をつかせた我が王子。着慣れた学ランを身に纏い、満面の笑顔を作って俺を捉えてくる。
「お邪魔しています」軽く頭を下げて挨拶をすると、「似合っているじゃないか」彼女は嬉しそうに笑みを零し、畳を滑るように俺の隣に座った。
鞄も肩に掛けたまま、「やっぱり豊福には花柄だと思ったんだ」
「僕の睨んだ通りだ。うん、いい感じだよ。このアンバランス、最高だね」
「それ似合っていないって言っているようなものなんですけど! なんで、女物を選んでくれたんですか。俺は涙が出そうです」
「嬉しいだろう? 律儀に着ちゃって」
「先輩が律儀にも選んでくれたんでしょう? 着ないわけにはいかないじゃないですか。追々怖いですし」
正しくは博紀さんに押され、押されるがまま着せられた、だけど。
「だけど不満だぞ。なんで僕が帰って来るまで待っていてくれなかったんだい? 僕が浴衣を着せてあげるつもりだったんだ。女物の浴衣を見せて、焦って半べそ掻く豊福を見たかったのに」
「あ、あ、悪趣味。本当に俺が好きなんですか?」
「可愛い子ほど意地悪をしたくなるのが、僕の性分だよ」
悪戯気にぱちんとウィンクする彼女はいつになく饒舌だ。
いつもより早い帰宅だったことについて指摘すれば、「今日くらい部活をサボったってバチは当たらないさ」休んだ分は後日挽回するとニコニコ。
御両親がいるにもかかわらず、俺の身なりを見ては、満足げに頷いている。
その動作で分かる、王子は本当に今日という日を待ってくれていたんだと。気持ちが全身から出ているから、俺も自然と笑ってしまった。
「玲、着替えてきなさい。空くんと話すのはそれからでもいいだろう」
源二さんに注意されると素直に返事し、彼女は駆け足で自室へ。
程なくして、彼女は浴衣姿で戻って来た。見事に男が着そうな藍の無地柄に、つい俺は物申す。
「俺が着るべき浴衣はそれですよね」
「男装を好む僕に婿入りするんだから、女物を着るのは当然豊福じゃないか」
今度こそ隣を陣取った彼女はあっけらかんと笑った。
何を言っても俺に不利なのは分かっていたから、これ以上の言葉は控えておく。
「さすがにブラをしたいと言い始めたら止めるけどね」
阿呆なこと言わないで下さいよ。貴方様のご両親が目の前にいるのに。
ほら、今のやり取りを見てご両親が呆れ……て、いないのはきっと御堂先輩が男嫌いを乗り越えて俺に接しているからだろう。人間の適応能力って素晴らしいな。
夫妻にニコニコ微笑まれても戸惑わなくなった俺がいる。心中で溜息をつく俺はいるけど。
全員揃ったところで御堂家と夕飯を取り始める。
ご飯は凄く美味しかった。お刺身の盛り合わせはとても新鮮だったし、てんぷらはサクサクしていたし、赤味噌が使われた味噌汁もいいダシが出ていて俺の舌を楽しませてくれた。片隅でうちの両親はちゃんと食べているかな、と憂慮を抱いてしまうけれど表には出さなかった。
気さくに話しかけてくれる御堂夫妻や先輩と談笑を交わし、楽しいひと時を過ごす。
ただ目前の夫妻がいる手前、どうしても緊張が払拭できなかった。
だって俺の前にいる夫妻が義理の両親になるんだぞ。
そりゃもうヘマしないか、ドキドキもドキドキで胃が捩れそうだったよ。まさかこの歳で義理の両親を持つとか夢にも思わなかったしさ。うっへー、胃が痛い。
緊張で胸がいっぱいになりそうだった夕飯を終えると、食器を片付けようと空になった茶碗を重ねる。
御堂先輩にそれらはテーブルに置いておいていいんだと言われてしまい、暮らしの価値観に戸惑った。そうか、これは自分で片付けなくていいのか。
一方で王子は俺の腕を取って立ち上がる。何処に行くのだとキョトン顔を作る俺に、「少し家内を歩こう」その方が何が何処にあるのか憶えるだろ? と御堂先輩。
それもそうだ。
無知のままだったら、御堂夫妻の部屋にうっかり侵入してしまいそう。平日は此処で過ごすんだし、部屋は把握しておきたい。
「お願いします」
彼女に笑みを向けると、決まりだと御堂先輩は俺の腕を引いた。
よろめく俺のことなんておかまいなしに、さっさと人の腕を引き摺って両親に一言掛けると大間を退室する。
俺も失礼しますと頭を下げて、彼女の後を追った。背後から笑声が聞こえたけど、それには気付かない振りをする。一々反応していたら俺の身が持たないもんな。
廊下に出た俺は慣れない浴衣に気を配りながら、御堂先輩と肩を並べた。
しっかりと俺の手を握ってくる御堂先輩は広いひろい家内を案内してくれる。最初から何が何処にあるのか全部を憶えることはできなかったけど、御堂先輩と夫妻の部屋、トイレ、風呂場は憶えることができた。必要最低限の部屋は憶えられたと思っている。
基本自室に篭る予定だ。
人様のお家をうろうろなんてできないだろ。ましてや借金を肩代わりしてくれた人達の家だ。下手に動いたらヤらかしそうだし。
先輩の案内の下、家内をぐるっと一回りした俺は彼女と共に茶室に足を運ぶ。茶室って名前が付いているだけに何をするのかおぼろげに分かる。でも念のために此処で何をするのかと聞いた。
すると、「茶を嗜むんだ」折角だから豊福に茶でもてなそうと思ってな、御堂先輩がウィンクしてくる。
もしかしてそれは茶道ってヤツ? うぇええっ、俺、マナーとかちっとも分からないっすよ。小学校の家庭科で体験したっきりなんっすから!
そう言うと御堂先輩は安心しろと俺に告げた。
もしかしてマナーには目を瞑ってくれるのかな? と思いきや、「僕も作法なんて分からないから」生まれてこの方、まともに茶を淹れたことがないと言い切った。言い切ったよ、目前のお嬢様は。
「いつも蘭子にお小言を貰うんだ。『そろそろお茶を淹れられるようになって下さいね』と。茶なんてどう淹れても、すべて同じ味だと思うんだがな。大丈夫、不味い茶は淹れないから」
どうしよう、すっげぇ不安になってきたんだけど。
そういえば蘭子さんが言っていたな。ゆで卵もまともに作れないって。料理関連に関してはてんで駄目って言っていたっけ。……大丈夫だよな、御堂先輩。お茶くらいちゃんと立てられるよな?
「期待して待っています」
不安を抱きながらも、俺は彼女に期待を寄せた。
任せとけとはにかむ御堂先輩は俺を適当な場所に正座させると、「まずはどれを使うんだったかな」棚に入っている茶道具に目を向け腕を組んだ。
この時点で俺の期待値は不安値に変換される。一応道具の名前は知っているようで、棗と呼ばれている薄茶器や茶筅(ちゃせん)、茶杓、柄杓等などといった道具の名前を口にしている。
ドキドキハラハラと様子を見守る中、釜に水を入れた御堂先輩はちゃっちゃかとお茶の用意を進めていく。
なんともまあ、豪快なお茶の淹れ方で一つ一つの動作が大きい。茶筅で茶を立てる時の動作と音の大きさといったら……しかも抹茶の入れる量が多かったような。途中からもう分からんって独自の方法で茶を淹れていくし。
御堂先輩ってわりと大雑把な性格なんだろうな。プリンスなのに。
暫く正座して待っていると、どんっと俺の前に茶碗が置かれる。
おずおず中を覗き込んだ俺は内心で冷汗を流した。うっわー、色が濃い。苦そう。飲めるかな、これ。
更にプリンスは茶碗と一緒に、生菓子の載った皿を出してきた。俺をこの部屋に連れてこようと前もって用意をしていたものだろう。「先に菓子から食ってくれ」そうした方が抹茶も美味しく感じるから、先輩に言われて俺は貸しに手を伸ばした。
本当は先に抹茶を飲みたかったんだけど。
先に苦味から味わって、後から甘味を楽しみたかった。
いやいや抹茶を危惧しているわけじゃないんだけど、さ。
花型の美味しそうな生菓子にかぶりついて咀嚼。
「美味しいっすね」でもちょっと甘過ぎるかも。俺の言葉に、「だろ?」だから抹茶を後で飲むんだと御堂先輩が教えてくれる。後味をさっぱりさせるために抹茶は後から飲むんだって。
なるほど、じゃあ今度はお茶を……あ、茶碗は回して飲むんだっけ? 確か二回まわすんだっけな。うろ覚えだけど、なるべく作法はしっかりしておきたい。茶碗を回して俺は音を立てながら抹茶を飲む。
…………うん、にっがい。すんげぇにっがい。後味をさっぱりするどころか、口の中が苦味でいっぱいだよ。
これはこれで後味を引き摺るかもしれない。
背筋を伸ばしたくなる苦さに舌が悲鳴を上げそうになった。
けれど俺も男なので決めるところは決めたい。
茶碗を口元から離すと、「さっぱりして美味いっす」爽やかな笑顔で返した。ちょっと不安げにこっちを見ていた御堂先輩が、にこっと笑ってくれる。
ズズッと抹茶を啜っていた俺は、窓から見える庭園に気付き、そっちに視線を向ける。
闇夜の向こうに広がる庭園はなんとも幻想的なものだった。月光に反射している池の美しさ。厳かな空気を醸し出している灯篭。微かに聞こえてくるししおどしの音が風流を感じさせてくれる。心落ち着く景色だった。彩られている庭園は日本独自の文化を醸し出している。その中で茶を飲むってのも風情があって良い気がした。
此処に来てはじめて心の底からリラックスができた俺は、茶室に連れて来てくれた婚約者に礼を言う。
今、俺は肩の力が抜け切っている。
さっきまでガッチガチに体が凝り固まっていたんだ。色々頑張らなきゃいけないって思いが強くて。きっとそれを見越して御堂先輩は俺を此処に連れてきてくれたんだろう。彼女の前じゃ虚勢は通用しないからな。
御堂先輩は俺の隣に移動して、
「気鬱は沢山あるだろうけど、遠慮はしなくていいから」
優しく手を取ってくる。
飲み終わった茶碗を置き、俺はその手を静かに握り返した。
今の俺にできる精一杯の気持ちだ。
彼女には本当に感謝している。その優しさに、俺は支えらえれてばかりだ。
けれどまだ俺は彼女の想うような気持ちにまで至っていない。怒涛のように事が流れていくから、俺自身の整理が儘ならないんだ。それはきっと御堂先輩も分かっているんだろう。しっかり手を結んで笑みを零してくる。
「僕は君の心を縛るつもりはないさ。君は君のままでいればいい。僕も有りの儘の君を好きでいたいから」
なにより僕自身が君を落とさないと意味がない。
空いた手で俺の頬を撫で、
「豊福、笑って。もう泣き顔は見たくないよ」
そっと頭を抱いてくれる。手は未だに握り合ったままだ。
成されるがままに身を委ねている俺は目を細め、そっと瞼を閉じて相手の体に頭を押し付ける。
「怖い?」漠然とした問いに、「少し不安です」理想の婚約者になれるかどうか分からない。俺は庶民出だから。赤裸々に胸の内を明かした。
そう、俺は怯えている。身分という隔たりに。身分という壁のせいでまた傷付くのではないかと恐れをなしている。
御堂先輩だからこそ言える、俺の馬鹿げた不安。怯えている場合じゃない。虚勢を張ってでも頑張らないといけないのだから。
けれどこの人の前では偽りが通じない。嘘が通じないんだ。
「怖いと言っていいよ。豊福。僕の前では素直になって。その気持ちは僕のものだから」
彼女の優しさが胸を突く一方で、切なさが込み上げてくる。
俺はこの人の好意に甘んじている馬鹿だ。
未だに彼女のことを引き摺っている阿呆なんだ。早く忘れよう。もう一ヶ月経っているんだぞ? 女々しいにもほどがあるじゃないか。
俺はこの人の物になる。元カノは二階堂家のものなる。これは確立された未来だ。
「貴方には支えてもらってばかりですね。あの時から、ずっと」
どれほど閉じていただろう。
そっと瞼を持ち上げると、視界がやや褪せていた。思った以上に長い時間、目を閉じていたのかもしれない。
「下心からだよ」おどける先輩だけど、それだけじゃないと俺には分かっていた。
「――ジジイが何を目論んで君を借金のカタに取ったか本心は見えないが、僕はジジイの思い通りにはならない、絶対に」
ぐらっと視界が揺れた。
彼女に身を委ねていた俺の体は容易に畳の上に横たわる。
覆いかぶさってくる麗しき俺の王子は、「容赦はしないさ」すべてを忘れさせる勢いで攻めるつもりなのだから、それなりの攻めは覚悟してもらわないと。
「僕はね、そんなに出来た人間じゃない。隙あらば手は出すオオカミさ」
骨張った食指が唇に触れてきた。
「綺麗な唇だね。食べてしまいたいよ」綻んでくる御堂先輩は確かに色欲を瞳に宿している。
……あれ? ものすげぇアダルトチックな雰囲気になってきたような。
持ち前のヘタレ本能が警鐘を鳴らす。
ちょ、タンマっす。確かに婚約者にはなりましたけど、まだ何も心の準備がっ! 俺は俺のままでいいんっすよね?! じゃあ、ちょっと退いて下さいっ、逃げさせて下さい! このままじゃ最後まで流れ込みそうな雰囲気だし!
「せ、先輩。茶室で何をしようとしているんっすか! ど、退いて下さいって!」
「豊福、知っているか? 浴衣はとても肌蹴やすいんだぞ」
「肌蹴やす……? うぎゃぁあああ! ちょ、帯を解かないで! 俺っ、む、結び方知らないんっすから!」
ああっ、解いちまいやがった!
しかも覆ってくる御堂先輩の、このアングルはなかなかにきつい。男のサガなのか、どうしたって彼女の胸に目が流れてしまう。浴衣だから胸が強調されるんだ。いつもだったら学ランだからそこまで気にしないんだけど。
今回はきつい! 頭の中でC、いやDはあるかなって考える自分がおばか過ぎて死にたい!
嗚呼、この状況全部がきつっ……ゲッ、この感触は。
俺はぎこちなく足に視線を落とした。
強張った俺の表情に御堂先輩が不思議そうな顔をしてくる。
「豊福?」声を掛けてくる先輩に、「なんでもないっすよ」さあ退いてください、とやんわり訴えた。俺の様子に首を傾げていた先輩だけど、彼女の体の一部が足に触れた瞬間、大袈裟に体が跳ねた。
ぱちぱち。瞬きを繰り返す王子があくどい笑みを零す。
表情の意味を察したらしい。「素直じゃないな」触って欲しいなら触って欲しいって言えばいいのに。そう笑って無遠慮に人の足首を掴んできた。声を上げてしまう俺は全力でタンマをかける。
「せ、せんぱっ……意地悪っす! 触らないで下さっ、うわっヅ!」
「本当に素直じゃない子だな。豊福は。触って欲しいくせに」
どう見たらそうなるんっすか!
「貴方だって経験あるでしょっ! この辛さは並大抵のものじゃっ、ほんっと、む、無理っ……ギブっす! アダダダッ!」
畳を叩いて呼吸を荒くする俺に、「ほっらぁ」と先輩が太ももを触ってきた。
「ヅッ!」身悶える俺は本当にもう無理だと訴える。どさくさにまぎれて足をもんでくるもんだから、ほんっと無理! 俺は死ぬ! 足が死ぬっ、死んでいる! 正座とか慣れていないんだよっ、殆ど家では胡坐だからっ、アイダダアダ! 足が痺れたー!
「玲お嬢様。空さま。湯殿が用意できたのですが」
障子向こうから、微かに聞こえてくるのはさと子ちゃんの声。
けど俺達はちっとも気付かない。必死に手を放してくれるよう訴える俺を目で笑い、御堂先輩が掴んでいた足首を天井を持ち上げた。そのまま踝に口付けされる。「靴下焼けがあるね」まじまじと人の足首を観察、足の甲にまで唇を落としてきた。
肌蹴ている浴衣が捲れてトランクスが見えそうになる。別段パンツは見られてもいいけれど、相手は攻め女。油断はならない。
「ここは焼けていない。新雪みたいだ」
内腿を熟視してくる王子様は本当に新雪だったりしてね、と期待を込めて見つめてくる。
鈴理先輩に触れられたかどうかを遠まわしに尋ねてくる質問だ。実質、彼女には散々触れられたけれどそれは上半身が主。下半身は皆無だった。幾たびかスラックスを脱がされそうになった危機はあったけれど。
「ないっす、そこ。足はないっすよ」
「本当にここは新雪なのかい?」素で驚く彼女に、「もういいでしょ」足を下ろしてくれるよう頼む。足が痺れている上に体が硬いんだ。この体勢はつらい。
「そうか、ここは誰も触れられたことが無いのか。良いことを聞いた」
言うや否や片方の内腿に唇を寄せて吸引してくる。
痛みはない。代わりにぴりぴりとした感覚が走った。足が痺れているせいだろう。
そっと顔を上げてくる彼女は「痕が付いた」まるで情事後のようだね、と至らん感想をくれる。顔を火照らせ、「勘弁して下さいよ」足を下ろしてくれと何度も頼む。幾分痺れはマシになったけれど、体温は上がる一方だ。
「駄目だよ。まだ片方が残っている。それに、鈴理の触れていない場所に触れたい気分なんだ。豊福、教えて? 僕に全部、ぜんぶ」
スイッチでも入ったのだろうか?
羞恥を煽る意地悪い言の葉ばかりが俺を攻め立てる。ほんっと堪忍して欲しいんだけど。
「ふふっ、恥ずかしさのあまりに逃げ出したいのかい? 僕から逃げられると思わない方がいいよ。タイミングよく帯が落ちているし」
「それは俺の帯っす! ああもう、駄目っすよ御堂先輩! これ以上のお触りは禁止っす! 歯止めが利かなくなるでしょ!」
「穏便に事を済ませたいのだけれど、逃げようとしているのなら仕方が無い。この帯で」
「ギャァアアア! 拘束プレイは勘弁っすよぉおおお!」
「あ、こら! 逃げるな豊福!」
茶室でギャアギャア騒いでいると、「しゅ、しゅみません!」障子が勢いよく開かれた。身をぶるぶるさせて登場したのは、新人お世話係のさと子ちゃん。「ゆ、湯殿の準備がっ」緊張で強張った喉から、絞り出すように言葉を吐いている。
ここで俺達は、さと子ちゃんが何度も障子の外から声を掛けていたことに気付いたわけ、なんだけど。
「ど、どちらが先に入り……ひゃっ?!」
部屋の光景を見たさと子ちゃんの顔が真っ赤っかになる。それこそ頭のてっぺんから湯気が出る勢いだ。
今まさに帯で腕を拘束しようとする御堂先輩と、べろんと肩までずれ落ちた浴衣をそのままに押し倒されている俺。
既に攻め受け男女逆転の光景に免疫がある人間なら、『ああ。またやってるのかこいつ等』で終わるのだけれど。
「君は新人の……駄目だぞ。僕達はワルーイことをしているのだから、返事を待たず入って来ちゃ。無垢で可愛い君に刺激的な光景を見せてしまう」
人差し指を立て、悪戯気に片目を瞑る御堂先輩によって石化が解けたのだろう。
さと子ちゃんは大パニックとなり、目を回しながら、「お、お赤飯のご用意をしてきます!」意味不明なことを叫び、脱兎の如く逃げてしまった。
あ、あの子、俺のお世話係なんだけど! 初日から失態ばっかで気まずい関係になっているのに、もっと気まずくなっちまった!
「せ、先輩……何してくれちゃっ、ひっ!」
「豊福は甘いな」
「首を舐めないで下さい。ああもう、ほんと、こういうことは結婚を済ませてからっすよ――!」
当然、俺の一般論なんぞ攻め女には通用するわけもなかった。
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