Chapter8:めぐる導火線

01.未来のお嫁、じゃない、お婿になります!



 前略、俺を婿養子(仮)として出す決意をしてくれた父さん、母さん。


 あなた方の息子は御堂家の婚約者として第一歩を踏み出そうとしています。

 あの時は流れに任せて、向こうによろしくお願いしますと頭を下げたのですが、基本的に婚約者って何をすればいいのでしょうね?


 取り敢えず学校の勉強は頑張らないといけないのは分かっています。

 今までどおり、補助奨学生としてテストでは学年上位を狙っていこうと思います。


 けれどそれだけじゃ駄目なのも分かっています。

 英会話でも習うべきなのでしょうか? 国際共通語くらいは喋れないと婚約者としてやっていけないと思うのです。

 なにぶんグローバル化が進む世の中ですからね。経済の勉強と並行して英語にも力を入れようかと念頭に置き始めました。


 しかし独学では無理があります。向こうの親御さまに頼めば講師をつけてくれるでしょうか? 以後、御堂先輩に相談してみたいと思います。


 さて話は変わり、息子は家を出ることになりましたね。

 婚約したとはいえ一応、借金の件がありますので、踏み倒される可能性があると懸念されているのか。はたまた信用されていないのか。平日は御堂家にお邪魔することになりました。所謂居候です。

 だけど暮らしに支障は殆どないでしょう。社会勉強の一環としてバイトを続けても良いと許可もして貰いましたし、土日は家に帰宅できる許可も頂戴しました。


 だからその、そのー……。



「母さん、そんなに泣かないでよ。永遠に会えないわけじゃないんだよ。取り立て屋の時とは事情が違うんだから」



 グズグズと涙を流している母さんがティッシュを目頭に押し当てていた。

 こんなことになるなら、もっと我が儘を聞いておけば良かった。贅沢をさせてやれば良かった。欲しい物を買ってやれば良かった。泣き言を漏らしては涙の量を増やす。


 荷造りをしていた俺は、苦笑して土日には帰って来るからと母さんに声を掛けた。


「平日はいないじゃないですか」


 こんなにも早く貰われていくなんて思いもしなかった、母さんがウサギさんおめめで俺を捉え、オイオイシュンシュンと愚図る。


「土日は絶対に帰って来るからさ。土日はバイトだから、いづ屋の差し入れを土産に帰って来るよ」


 慰めの言葉を掛けると、母さんがやっぱり取り消せないだろうかと父さんに視線を流した。


「いくら借金のカタとはいえ財閥の令嬢と婚約だなんて、空さんにプレッシャーを掛けてしまうだけではないでしょうか。親としても情けない。何もせず息子を見送る私達は、空さんに迷惑ばかりですよ」


 深い溜息と共に眉根を下げる父さんは、「話し合って決めただろ」空を幸せにする道はこれしかないんだと母さんの肩を抱く。


「確かに空に重い肩書きを背負わせてしまう。肩身の狭い思いもさせてしまうことだろう。

 けれど、私達の傍に置いておくことの方が苦しい思いをさせてしまう。空のことだ、学校を辞めて働くと言い出すよ。あんなに努力して合格したのに、私達のせいで水の泡にするんだ。それは嫌だろう? この子には普通の暮らしを送らせてやりたい」


 すると母さんが持っていた真新しいティッシュを破り始めた。その目は憎しみに満ちている。


「すべて濱さんのせいです。私は許しませんよ……いつか会ったら、どうしてくれましょう。あの男干物にでもして食べてやりましょうか!」


「く、久仁子。怒りはご尤もだが、そう言ったって」


「裕作さんは悔しくないのですか?! 濱さんのせいで私達は空さんをお婿として送り出さないと……借金の肩代わりに空さんを差し出すことになるなんて。干物の刑だけじゃ気が済みません」


 一変して憤る母さんの目が据わっちゃっている。据わっちゃっているから。

 八つ裂きにされるティッシュの残骸を見やった後、父さんが冷汗を流しながら母さんを宥めた。


「御堂さんは優しい方だったじゃないか。休日は私達の下に帰してくれるのだから、此方を親身に想ってくれている。だから、きっと空を大事にしてくれるよ」


「だけど! 財閥の方ですよ、どんな意地悪が待っているか……」


 母さんは昼ドラを想像したのか、怖くて夜も眠れないと青褪めた。


「き、きっと意地の悪い継母が出てきたりするんです。意地の悪い兄弟とかも出てきたりして、空さんに家事を強いたりするんですよ! それだけでなく、汚い倉庫で寝させたり……そうだわ」


 乱心している母さんはハッと我に返り、素早く立ち上がるといそいそ箪笥の引き出しを開けた。

 俺と父さんが顔を見合わせている中、母さんは箪笥前でがさごそと作業。それを終えると巾着袋を持って来て俺に手渡した。


「これは大切に持っておくんですよ」


 お守りというお守りじゃないけれど、きっと役に立つからと母さんが泣き顔のまま頬を崩した。


 なんだか巾着の中がごろごろしている。

 俺は巾着袋を開けてひっくり返した。中から出てきたのは飴玉数個に、テレフォンカードに、千円札。あ、胃薬や風邪薬も入っている。


「えーっと、これは」


「連絡手段。ストレスを紛らわせる甘味。体調を崩した時のお薬。それからこれはご飯代です。もしご飯を食べさせてもらえなかったら、これを惜しみなく使って下さいな」


 「ケチっては駄目ですよ」母さんが真顔で俺を見つめてくる。

 母さん……明治時代の華族ドラマでも見たんじゃないか? それとも韓流か。どんなあくどい財閥を想像しているんだろう。俺まで苛められるんじゃないか? って不安になってきたじゃないか。


 しかもテレフォンカードって。

 携帯が溢れかえっているこの時代じゃあ使う場所が限られているよ。まず公衆電話を探さないといけないじゃん。


「ありがとう。大事に持っとくよ」


 一応お礼を告げると、お金の不足は帰ってきたら調節するからと母さん。しっかり食べて、寝て、元気に過ごして欲しいと懇願してくる。

 だから休日には帰って来るって。一ヶ月以上顔を合わすことが出来ないわけじゃないんだし。


「空。何か遭ったら相談するんだぞ。父さんや母さんは離れていてもお前の味方だから」


 うんっと頷き、俺ははにかむ。


「悩みが出来たら相談するよ。その時は相談に乗ってな」


 そう言うと、「すまないな」お前には苦労ばかり掛けて、と父さんが詫びてきた。

 すかさず首を横に振る。苦労を負っているのはお互い様じゃないか。二人だって身に覚えのない借金を背負ったり、こうして俺を送り出してくれたり。

 俺が両親至上主義のように、両親も大概で親ばかだから、きっと身を切られるほど辛いんだと思う。顔にそう書いてあった。母さんに至っては「濱さんだけは許しません」末代まで祟ってやると、怒りの矛先を従兄弟さんに向けて感情を滾らせている始末。


 俺って幸せなんだろうな。こんなにも両親に愛されているんだから。

 スポーツバッグに教科書やら着替えやらを詰め込んだ後、自分の机上に置いてある写真立てに手を伸ばした。育ての親と生みの親の写真を見比べ、両方バッグの中に仕舞う。


 これは俺のお守りだ。

 これから先、辛苦が遭ったらこの写真を励ましにしようと思う。

 まあ、休日は帰って来るんだけど、一応家の運命を背負って財閥を嫁ぐ(?)予定になっているわけだから精神面を支える意味でもお守りは持っておきたいところ。


 しっかりしないとな。

 この縁談がおじゃんになってしまったら、俺達は本当の意味で借金生活を送らないといけない。

 今は俺という肩代わりで借金を相殺しているけれど、返していないことに越したことはないんだ。

 俺の存在で返済していくと言っても過言じゃないのだから、努力していかないと。両親も俺も路頭には迷いたくない。


(何が遭っても頑張ろう。泣き言は漏らさないようにしないと)


 人知れず心中で揺るぎない誓いを立てた。




 御堂家に居候する日がやって来た。

 いつものように昼間は学校に行き、一通りの授業を終えて帰宅。スポーツバッグを持って御堂家に向かった。

 迎えを寄越すと言われたけど、なんだか悪い気がしたから自分の足で婚約者の家に向かうことを決めていた。が、俺がアパートを出ると既に迎えが来ていたという。


「豊福空さま。お待ちしておりました」


 さあ参りましょう、満面の笑顔で出向いてくれたのは御堂先輩のお付き人。蘭子さん。


 そりゃあもう、きらっきらとした笑顔で俺を迎えてくれた。なーんでそんなにご機嫌なの? ってくらい笑顔が際立っている。


 戸惑いながら会釈して車に乗り込む。

 車内に御堂先輩の姿は見受けられない。まだ学校かな? 疑問を抱いた俺は後から乗り込む蘭子さんに彼女の行方を尋ねる。

 すると蘭子さんが蕩けそうな笑顔で片頬に手を添えた。


「これです。これなのです。私が望んでいたのは、こうした光景です。はぁああ殿方が婚約者さまなんて。奇跡です、奇跡!」


 ……俺の質問は聞いてくれていないようだ。


「玲お嬢様の婚約者さまが殿方。蘭子はうれしゅうございます」


 人を放っておいて、お付き人さんは涙ぐんで感動に浸っている。

 御堂家って本当に彼女できちゃうんじゃ問題に悩まされていたんだな。

 もしや御堂先輩、過去に彼女を作ったことがあるんじゃないか? 御両親といい、お付き人さんといい、一々性別で感動してくれるんだからもう。


「蘭子さん。空さまのご質問にお答えしないと」


 運転手の佐藤さんが苦笑いを零した。

 はたっと我に返った蘭子さんが失礼しましたと頭を下げてくる。

 次いで、御堂先輩は学校にいると答えた。曰く、部活で帰宅が遅くなるとか。そっか、御堂先輩、演劇部で頑張っているんだな。王女役はこなせているかな? 付属校との合同練習と言っていたし、お相手が男の人だって嘆いていたけど。


「そうだ、空さま」


 蘭子さんに声を掛けられる。

 なんだか様付けが慣れなくて、「空でいいっすよ」と返事した。


「いいえ。できません。貴方様は玲お嬢様の婚約者ですよ」


 呼び捨てなんて滅相もない、蘭子さんがキリッと顔を引き締めた。

 そ、そんなもんなのかなぁ。空さまなんてすっげぇ戸惑う。身分は庶民出のワケ有り婚約者だし。蘭子さんなら双方の家庭の事情を知っていると思うんだけど。

 けれど蘭子さんは俺を呼び捨てにはできないと強く主張した。


「貴方様は玲お嬢様の心を射止めた方なのですよ。ましてや婚約者なのですから、お嬢様と同等の身分。わたくしめはお嬢様のお目付けを買っていますが、本日より空さまのお目付けも買うと誓った次第で」


 これ以上、頼んでも聞き入れてもらえそうにない。

 仕方がなしに様付けのことは諦め、くどくどと熱弁している蘭子さんに話の続きを促す。

 ころっと表情を緩め、手を叩く蘭子さんは満面の笑顔で詰め寄ってきた。


「空さまのことをお聞きしたくて」


「え、俺のことですか?」


 首肯する蘭子さんは、これもお目付けの役目だと微笑む。


「玲お嬢様は空さまのことをある程度存じ上げているようですが、我々使いの者は貴方様のことを殆ど存じ上げません。なので、お話を聞かせ願いたいと思いまして」


 そんなに丁寧な言葉で頼まれても、俺のことで話せるほど大したことはしていないんだけど。


「普段お嬢様が語って下さる空さまのことならば存じているのですが。例えば『自動販売機を通りかかったら必ずおつり口を確かめる』ですとか、『ティッシュ配りの人を見ると二、三回往復する』ですとか、『首筋や腰つきが艶かしい』ですとか」


 ろ、ろくなことを話されていない! 悪印象ばっかじゃんかよ、それ!

 これは不味い。婚約者になったのだから好印象をもって頂きたいぞ。

 

 俺は自分のことについて、蘭子さんに質問してもらうことにしてもらった。

 さっきも言ったように、いきなり俺のことについて聞かれても何を話せばいいか分からない。ここは蘭子さんの知りたい情報を提供することが得策だろう。

 すると彼女はニコニコ笑顔のまま、「女性の好きな格好を教えて下さいまし」

 意味深長な質問に俺は遠目を作ってしまう。それって、あの。


「私としては洋服でも、和服でもお似合いだと思っていますのですが。空さまはどちらがお好みで?」


 御堂先輩の格好を俺好みにチョイスしてくれる魂胆か。

 男装を好む彼女だから、あんまりスカートは好きじゃなさそうだけど、俺としてはもう一度ワンピース姿を目にしたいものである。

 いやいや、王子の着物姿も捨てがたい。クオーターらしいけれど、王子は和風もよく似合うと思うんだ。蘭子さんや一子さんは着物姿だったし。


「そうっすね。着物が」


「左様でございますか。なら、空さま好みの柄をご用意しなければなりませんね。後ほど肩幅等を測らせて頂きます」


「あれ、俺のですか? 御堂先輩の着物姿の話じゃ」


「なにぶん、お嬢様は男装意欲が強い方でして。空さまを彼女と言い張るほど、自分を男として振る舞うことが多く……話を聞く限り、空さまも女性として振る舞われることが多いと耳にしています。ああ、隠さなくても大丈夫です。偏見はございませんよ!」


 受け男はとんでもない誤解をされているようだ。

 女装スキー男と認識されてしまい、俺は違う違うと諸手を振って否定。女性にリードされるだけで、自身は男として生きたいのだと主張する。

 寧ろ、リード権を奪ってやりたいほどなんだけど、攻め女という生き物は攻撃力が非常に強い。奪おうとしても、返り討ちに遭って押し倒してしまうことだろう。


「大体、俺が女装をして誰が喜ぶんっすか。着物くらいなら、着てやらないこともないですけど」


「お嬢様は空さまにゾッコンですので、さぞ喜ばれるかと」


「……蘭子さん。俺の女装姿を見たいんですか? この姿を見て似合うとでも?」


「玲お嬢様とお似合いのカップルでございますよ。まずはお気持ちを深められることが大切ですので、形からでも愛を育んで下さいまし」


 話がちっとも噛みあわない。

 蘭子さんの判断基準は御堂先輩が誰と付き合う、かじゃなく、御堂先輩が男と付き合うことに重点を置いているようだ。

 それだけ御堂先輩が男を拒んでいるんだろうけど、それにしてもこれは酷い。


「他にはありません? もっと普通の質問でお願いします」


「なら、空さまの学院生活をお聞かせ下さいませ。お嬢様も気になっているようで」


「もっぱら勉強しかしていませんよ。ほら俺は奨学生ですから、部活とか生徒会には入っていませんし。

 そうですね。話せそうなものといえば……今日家庭科で調理実習があったので親子丼を作りました。わりと上手にできましたよ」


 面白味もないだろうけれど、ろくでもない印象を持たれるよりかはマシだ。

 彼女に伝えると、「お料理は得意なのですか?」と蘭子さん。うーん得意なのかどうかは分からないけど。


「俺、両親が共働きなんで家事全般は一通り網羅しています。美味しいかは別として食べられない料理ではないと思いますよ」


「素晴らしいですね! 是非ともお嬢様に教えてあげては下さりませんか?」


「え? 御堂先輩に?」


 目をぱちくりする俺に、「お嬢様は昔から家庭科の成績が悪いのですよ」それはもう雄々しいお料理を作ったり、雑な裁縫をしたり、掃除も途中で投げ出したり。

 ゆで卵すら作れなくて小学校の料理実習では湯がく行為がめんどくさかったらしく、電子レンジであたためて大惨事になったとか。


「何度もお教えしたのに、お料理の一品も作れないなんて。蘭子は悲しゅうございます」


 思い出に浸った蘭子さんがずーんと落ち込んでしまった。


「仕舞いには『料理の出来る彼女を作ればいいさ』とか言い出したのです。またしても彼女っ! お嬢様だって女の子なのに!」


「あー……心中お察しします」


「雄々しい性格は昔からなのですが、女性らしく振舞えないところが悩みの種でして。この機に少しは女性の嗜みを覚えてくださったら宜しいのですが。

 いえ、最初は贅沢を申しません。殿方を女性扱いしようとお嬢様が、異性に恋して下さっているこの現状を喜ばないと」


 俺は御堂先輩の言動を想像して身震いする。

 女性の嗜みどころか、ケダモノな御堂先輩を想像してしまった。

 そりゃ婚約者になった手前、そういう行為も許されるんだろうけど……そうだ、そういう行為も緩和されるんだよな。婚約って将来を約束した、謂わば未来夫婦。いつか、そういう行為もやってくるんだろうけど。


(まだ俺の感情が現実と追いついていないや。引き摺っているんだな、きっと)


 今更、何を引き摺っているなんて言わないけど、こんな気持ちで御堂先輩に触れたいとは思わなかった。

 何より俺を想ってくれる彼女に失礼だと思ったから。

 そうだろ? 想いを断ち切れていないのに、他の女子に触れたいなんて相手の女の子に失礼じゃないか。だから、今はまだ。


(ただ、御堂先輩とならもう一度恋をしてみたい。彼女となら、俺は)





 約数十分、車に揺られ揺られた俺は婚約者宅に到着する。

 御堂家はお金持ちだし、きっとでっかい家なんだろうなぁ、と簡単に想像はしていたんだけど、本当にどでかくて固まってしまったのはこの直後。

 鈴理先輩の家もでかかったけど、それに負けないくらい御堂先輩の家もでかかった。


 ででーんと現れた屋敷を見上げた俺は「……」言葉も出ない。

 まるで時代劇に出てきそうなお屋敷だ。立派も立派だ。まずこの出入り口の門がでかいのなんのって、寺の門みたいにがっしりしている。

 左右を見てみると長いながい瓦付き塀がそびえ立っていた。真っ白な塀は雨風によって薄汚れていたけれど、それさえ風流を感じさせてくれるのは、この屋敷が歴史を感じさせてくれるからだろう。


 元々は武家屋敷だったのかな? 此処。

 御堂先輩自身、クオーターだから洋風の屋敷に住んでいると勝手な想像をしていたけど、これはこれで凄いよな。やっぱり御堂先輩はお嬢様だ。

 周囲にマンションやアパートが見えるけど、それらが霞んで見えらぁ。


 敷地に入ると、早速松を手入れしている庭師を見受けた。

 愛想よく挨拶してきてくれたから、俺も会釈して挨拶する。よく目を凝らせば数人の庭師が、それぞれの木々に鋏を入れていた。御堂家専門の庭師達だろうか? 庶民の俺には何で庭師がこんなにいるのか、理由さえ見つけられなかった。


 玄関まで続く石畳の道を歩き、俺は蘭子さんの案内の下、屋敷の中に足を踏み入れる。


「お邪魔します」


 そう挨拶する前に数人の着物を来た女中さんや、仲居さん(此処では男の召使を仲居さんって呼ぶんだって)にお帰りなさいと出迎えてきたため、俺はびびって挨拶を呑んでしまう。


 まるで旅館みたいだな。

 毎度こんな挨拶されているんだろうか? 御堂先輩の家族は。


「只今帰りました」


 蘭子さんは各々女中さん方に挨拶すると、「こちらが空さまです」丁重におもてなしをして下さいね、と言った。

 我に返った俺はお世話になりますと女中さん方にご挨拶。


 容姿も財力も何も誇れるものがないため、挨拶が尻すぼみになってしまうのは俺の自信の表れだろう。

 けれどなんのその。女中さん方は満面の笑顔を向けてくれた。建前だとしても嬉しいしホッとする反応だ。


「男の婚約者だなんて、今夜はお祝いですね」


 口々に性別を反応されたのはこの直後だったりする。

 そろそろ慣れてきたぞ、このリアクションにも。

 引き攣り笑いを浮かべる俺を余所に、「まずは貴方様のお世話役を紹介します」蘭子さんが驚くべき一言をくれた。


「お世話役、ですか?」


「はい。空さまの身の回りのお世話をする者をお付けいたします。私でも宜しいのですが、やんちゃな玲お嬢様がいますので。なにかと戸惑いもございましょうが、その時は彼等をお頼りください。博紀、さと子。前に出て挨拶を」


 蘭子さんに呼ばれると、まずは仲居さんが恭しく頭を下げて俺の前に立つ。

 名前は七瀬ななせ 博紀ひろきさん。今年で五年目のベテラン召使さんらしい。ちなみに俺の五つ上だって。召使にしては若いけれど、しっかりしてそうだ。見るからに好青年なオーラを醸し出している。

 基本的に俺の身の回りの世話は彼がしてくれるそうだ。うん、良かった。男の人の方が気兼ねなく話せそう。


 さて、もう一人の俺の世話役さんは……。



「あれ? 皆さま、集まってどうなさったのですか?」



 可愛らしい声音が聞こえてくる。

 女中さん仲居さんの群れの向こうで、うんっと首を傾げて立っているのはひとりの少女。とても若い女中さんで、見た目は俺と同い年か、年下か。

 ポニーテールにしている髪を右に左に揺らしつつ、手に持っている洗濯籠をかかえ直している。童顔なのか、とても顔つきが可愛らしい。二重の目が愛らしさを際立たせている。


「さ、さと子! 貴方、何やっているの!」


 ひとりの女中さんが頓狂な声を上げるものだから、彼女は乾いた洗濯物を取り込んでいたのだと返事する。

 途端に「馬鹿!」早く挨拶にいきなさい、その女中さん方が背中を押した。


「お嬢様の婚約者さまがご到着したのよ。貴方は世話役を任せられたでしょう」


「へっ、あ、あぁあ明日じゃ……うわぁああん勘違いしちゃいました。ごめんなさいぃいい!」


 ただいま行きますと言うや、洗濯籠を持ってダッシュ。

 慌てたせいか、数歩進んですってんころりん。彼女はその場で盛大に転び、持っていた洗濯籠は大きな放物線を描いて俺の頭にクリティカルヒット! いってぇ! 頭から、人様のパンツはかぶるし!

 誰のパンツ? 真っ白レースパンツ? 女性用? ……一子さんも気まずいけど、御堂先輩も気まずいというかなんというか、俺は無実だ! 何も悪いことはしちゃない!


「さと子!」


 蘭子さんの怒鳴り声に、「ふぇえ。ごめんなさい」若い女中ちゃんは半泣きで俺に謝り倒した。


「わざとじゃないんです。ちょっと、躓いちゃって」


「貴方って子は! 今日がどれだけ大切な日か、朝礼で言った筈でしょう! なのにお出迎えを忘れるどころか、空さまに」


「ら、蘭子さん。俺は気にしていませんよ。忘れることは誰にでもありますから。それより、自己紹介をお願いできますか?」


 この一言により、彼女の怒りが面から引っ込む。

 蘭子さんは御堂家の召使長だそうだから、とんだハプニングが起きても冷静さは欠かさないようだ。

 多分、新人の失態は後で叱り飛ばすことにしたんだと思う。


 それよりも問題なのは新人ちゃんである。

 人の頭に洗濯籠を飛ばしてきた子は、俺の顔を見るや涙目になって身を縮こまらせた。ぼそぼそ声で自己紹介はしてくれるんだけど、全然声が聞こえないという。

 もう一度、自己紹介をしてくれるよう頼むんだけど、張りのない声が悪いのか、聞き取れない俺が悪いのか。

 ついに痺れを切らした蘭子さんが、彼女の代わりに紹介をしてくれる。


「彼女の名前は桧森ひもり さと子にございます。まだ入って間もない子ですが、空さまと同年齢でございます。なにかとお話相手になるかと。是非さと子と呼んで下さいませ」


 なるほどね、彼女が俺の世話役に選ばれた理由が見えたよ。

 憶測、向こうの親御さんが気遣って同年代の子を傍に置いてくれたんだんな。博紀さんも仲居としては随分若いしさ。


「それでは博紀。さと子。空さまにお部屋の御案内を。くれぐれも失礼のないように」


 後者の台詞は誰かさんに向けられていた。

 それを逸早く察したさと子ちゃん(つい相手をちゃん付けをしてしまうのは彼女が童顔で年下に見えるからだろう)が、テンパりながら俺に諸手を差し出してくる。


「おおおぉおに荷物を持ちましゅ」


 噛んだ瞬間、さと子ちゃんが右に左に顔を振って赤面する。

 かなり緊張しているようだけど、大丈夫かな。この子。

 荷物も重いし、ここは遠慮したいところだけど、失態を挽回する機会としてさと子ちゃんは荷物を持つと言っているんだ。便乗してやるのが優しさってもんだ。


「じゃあお願いしようかな。でもこの鞄、凄く重いから気を付けてね。着替えだけじゃなくて、教科書とか参考書も入っているから」


 通学鞄を片手で差し出す。

 首振り人形のように何度も頷くさと子ちゃんの手に鞄が渡るや、彼女の体ががくんと崩れそうになった。

 相当重いようだ。ぷるぷると腕を震わせて、懸命に鞄を腕に抱えようとしている。あぁああ、今にも転びそうなんだけど!


「だ、大丈夫?」


 声を掛ければ、ヘーキだと唸り声が返ってきた。全然大丈夫そうじゃない。

 優しさが仇になった感がすっごいするんだけど。


 右に左に体が傾きそうになるさと子ちゃんを見かね、博紀さんが軽々と鞄を取り上げる。

 途端に彼女の目の色が悲しみの色になるもんだから、どうしたものか。

 今のはしゃーないと思うんだけど、向こうとしては挽回する機会だったわけだし。

 

「さと子、空さまにお部屋の御案内を」


 しかーし、博紀さんという男はただの男じゃなかった!

 憎たらしいことに、爽やかな笑顔を作ってさと子ちゃんにさり気なく挽回の機会を与えたのだ!

 俺の優しさが仇になっただけでなく、男としての格を見せつけられたという……イケた男とは博紀さんを指すんですねぇ。へいへい、へたれな俺じゃ無理だよくそう。


「すみません。部屋へ行く前にお手洗いに」


「かしこまりました。さと子、御案内を。僕は先にお荷物を部屋に運んでおくから」


 パァっと花咲く笑顔を見せたさと子ちゃんは、こっちだと先導。俺は出迎えてくれた女中さん方に頭を下げ、屋敷の奥に進む。


(外見もさながら、中も立派なもんだな)


 廊下を歩きながら俺は屋敷をじっくり観察した。

 木造の廊下はギシギシと軋むけれど、幅がとても広い。その廊下からは庭園が見えるんだけど、これまた凄い。

 庭には庭石や草木を配し、四季折々に鑑賞できるよう景色が造ってある。重量感ある灯篭や、池、ししおどし、向こうに見える離れは茶室のようだ。庭園の規模だけでも我が家のアパート部屋は負けている。それだけ広い。

 あっ気取られながら庭園を眺めていたんだけど、ふと異変に気づく。


「さと子ちゃん。この屋敷は広いみたいだけど、お手洗いはそんなに遠いの?」


 彼女について回っていた俺は、いくら歩いても辿り着かないトイレに疑問を覚えた。


 財閥の住む屋敷だもんな。

 鈴理先輩の住む洋館も、召使さん達の屋敷と母屋で分かれていたもんだから、此処も馬鹿みたいに広いんだろう。


 けれども、足を止めて振り返ってきたさと子ちゃんの顔を見た瞬間、俺は口元を引き攣らせてしまう。

 さっきの笑顔もどこへやら。半べそで、周囲を見回しているのは……あー……。


「ご、ごめんなさ……」


 どうやら迷ったらしく、彼女は大慌てで俺の腕を引くや来た道を戻って玄関口を目指す。が、玄関にも戻れないようで、さと子ちゃんは目をうるうるとさせていた。

 そうなれば、否応なしに慰め役は俺に回ってくるわけで。


「先に部屋に案内してもらおうかな。トイレは博紀さんに聞けばいいしさ」


 「うぅ」さと子ちゃんが首を引っ込め、どんどん小さくなっていく。ドジっ子なのか、それとも方向音痴なのか、とにもかくにも困った反応である。

 ならそこらへんの女中を捕まえて、誰かに部屋へ案内してもらうしか……それを提案するとさと子ちゃんの顔が絶望一色に染まる。

 初日早々失態を犯したから、世話役から解雇されると思ったようで、ぽろっと涙が一粒。嘘だろおい!


「これはさと子ちゃんのせいじゃないからね。ね? でも、ほら……このままだと俺の膀胱にも限界というか、なんというか」


「うぇえ、漏らしちゃったのは私のせいですよね。ご、ごめんなさ」


「まだ粗相は起こしていないから! でもそれをしてしまえば、俺こそ二度と御堂家の敷居を跨ぐことができないよ……婚約も白紙にされかねないし」


「ふぇええ私のせいですっ。私のせいで、折角の男の婚約者さまがっ、御堂家の安泰を蘭子さんが謳っていたのに」


「あーあーあー、今のは物のたとえだからさ! ほら、泣かないでよ。怒っているわけはじゃないんだからさ」


「ごめんなざい、ぞらさま」


「さ、様付けはいいよ。同い年なんだし」


「だって私の御主人さまでずじ」


「ご……御主人さま」


 俺はそういう立ち位置なの?

 さと子ちゃんと俺は主従関係なの?

 庶民には想像もつかない関係柄なんですけども!


「ど、どうかお仕置きを。こんな女中にお仕置きを」


 おいおいシクシクとべそを掻き始めるさと子ちゃんは、すったもんだ! お仕置きを連呼してくる。

 俺にそういう趣味はないんだけど! 悲しきかな、仕置きをされる側に慣れてはいても(主に性的な仕置き)、する側なんて考えたこともなかった!

 なにより、こうしている間にも尿意がこみ上げてくるから仕置きとか、そういう問題は後回しにしてくれないかな! 本当に膀胱炎になるんだけど。俺の方が仕置きされている気分だ。


 その間にもさと子ちゃんはべそべそ。

 もう、どうしろってんだい。俺が泣きたいよ!


「失敗は誰にでもあるからさ。ごめん、お願い。まじで頼みます。トイレに行かせて」


 何故に世話役の子を、俺が慰めお世話しなければいけないのだろうか。しかもトイレの懇願付きで。羞恥プレイにも程がある。


「いつまでも来ないと思ったら、やはり迷っていましたか」


 困り果てているとタイミング良く博紀さんが探しに来てくれた。

 待てど暮らせど部屋に来ない俺達を心配して来てくれたのだろう。

 事情を説明しなくとも何が遭ったのか察してくれたようだ。博紀さんはさと子ちゃんにお茶菓子の用意を言い渡し、俺をトイレにまで連れて行ってくれた。


「申し訳ございません。さと子はアガリ症なもので、接待に慣れていないのです」


 無事に用を足すことができた俺は、深々と頭を下げてくる博紀さんに気にしないことを告げ、今度こそ自室になる部屋へ案内してもらう。


「しかし、まさかお手洗いにすら連れて行けないとは……アガリ症も度が過ぎると困ったものです」


「それだけ屋敷が広いんじゃないですか?」


「確かに広い屋敷ではございますが、あの子は住み込みで働いている身の上。迷うことなど早々できることではないのです」


 へえ、住み込み。

 俺と同い年と言っていたら、てっきり通いで女中さんをしていると思っていたんだけど。

 博紀さん曰く、さと子ちゃんは全日制の高校には通っておらず、通信制の高校に通い、日々女中として頑張っているそうだ。 

 わざわざ御堂家に住み込みで働き、尚且つ通信制高校に通っているのだから、なにか深い訳がありそうだ。彼女と仲良くなれたら、気兼ねなく話も聞けるかもしれない。


 博紀さんの案内の下、自室になる部屋に到着する。

 前触れもなしに彼から謝罪を受け、面喰ってしまったのはこの直後。

 何か謝られるようなことでもしたっけ? 首を傾げる俺に対し、障子の前で足を止めた博紀さんは、この部屋は狭いのだと眉を力なく下げる。


「もう少し良い部屋を用意できれば良かったのですが」


 急だったために用意できなかったのだと、博紀さんは恭しく頭を下げた。

 その態度からとても狭い部屋らしく、御堂先輩も部屋の狭さには大層気にしていたらしい。

 でも俺自身、居候になる身分だから部屋の広さなんて気にしていない。寝るスペースさえあれば、どうにか生活していけるしさ。気にしないで欲しいと博紀さんに言うと、また一つ詫びて彼が障子を開けた。


 満目いっぱいに広がった部屋に早速お邪魔しま……固まってしまう。


 その部屋は畳みで敷き詰められていた。

 向こうの厚意なのか、真新しい机や本棚、敷布団が畳まれて積まれている。更に小さな台とこれまた小さな冷蔵庫。あれあれ、テレビまで設置されているんだけど。机上に見えるのはノートパソコン?


 何この部屋。立派過ぎて怖い。此処に寝るの俺? 部屋を間違えたんじゃ。狭いってなんだっけ?


 だだっ広い部屋に呆けてしまう。

 これが狭い部屋、だと? バカヤロウのベラボウチクショウ、俺のアパート部屋こそ狭いって言うだよ。

 こんな立派な部屋が狭いなんて贅沢にもほどがあるだろ! 早速金持ちとの価値観の違いに悩まされそう!


 余所で博紀さんは狭くて申し訳ないと告げ、どうぞ自分の家のように寛いで欲しいと綻んできた。


「とてもお勉強熱心な方だと聞いておりますので、それなりの準備はさせて頂きました。ご自由にお使い下さい。何か不自由がございましたら、我々に申して下さいね」


「え、あ、はい。あ、ありがとうございます」


 ぺこっと頭を下げる俺に綻んだ博紀さんは簡単に屋敷の説明をした後、お召し物を替えましょうと切り出してくる。

 制服のまま部屋にいても、心から寛げないだろうと彼は配慮を見せた。

 だったら部屋着として使用している中学時代のジャージを持参している。それを着れば「ジャージは言語道断ですよ」え?


 机に置かれた通学鞄からジャージを取り出そうとした俺の両肩に手を置き、博紀さんが意味深長に綻ぶ。


「そのようなお安い衣服に身を包んでは、御堂家時期家長の名が泣きます。空さまは、玲お嬢様の婚約者さまなのです。どうぞご自覚を」


 嘘だろ、部屋着から既に婚約者の自覚とやらが問われるのかよ!

 だけど俺にはジャージしか着るものが……言葉を濁す俺の心情を察した博紀さんが笑みを濃くし、颯爽と箪笥へ向かう。

 整った顔に笑顔を浮かべ、諸手いっぱいに抱えるのは浴衣の束。


「旦那様、奥方様、玲お嬢様。そして我々使いの者。皆、この屋敷にいる間は浴衣を着ています。やはり空さまも同じように、着て頂くのが道理ですよ」


 此処は旅館か! 喉元まで出掛かった言葉を呑み込み、俺は浴衣の束をまじまじと見つめる。

 浴衣なんて、ちびだった頃に着たっきりだ。夏祭り以外に着る機会があるなんて。


「元々浴衣は日本独自の寝巻きなのです。今も旅館なんかで浴衣を着る風習があるでしょう? 今でこそ夏の風物になってしまいましたが、御堂家は今も日本の古き良き風習を受け継いでいるのです」


 仲居さんは鼻高々に説明するや、束を畳の上に置いて一枚いちまい丁寧に並べていく。パッと見、赤や黄を基調とした浴衣が多数を占めていた。絵柄はもみじや花が多い。


「さすがは玲お嬢様ですね」


 相手が膝をついて品を見定めているせいだろう。俺も自然と正座をして、浴衣を見比べる。


「見事に女物ばかりです。華奢な空さまにお似合いだとお思いになったのでしょう。どれも貴方様に似合いそうですよ」


「待って下さい。待って下さい。待って下さい。前半と後半の台詞が噛みあっていませんけど! 柄の大半が女物って?!」


「玲お嬢様が真心を込めてお選びになったものです。自信を持って下さい」


「自信の問題じゃない、俺自身の問題なんっすよ」」


 さっき蘭子さんと着物のことうんぬん女物うんぬんと話したばかりなのに!

 だがしかし、御堂家の人間は誰もが御堂家主義なのか、「お嬢様の御心を踏み躙ってはなりません」お叱りを頂戴してしまう。

 俺が怒られる理由の意味が分からない! 早速ホームシックになってきたよ!


「ご覧下さい空さま。女物とはいえど、空さまに合うような浴衣ばかりですよ。

 例えば、この薄紅の露芝柄。色こそ女物ですが、線弧を三日月形に描き芝草に露の玉がついている柄は男の貴方様でも違和感はございません。此方の柄は梅、下地の白に咲く梅の美しさが目を惹きます。藍の下地に咲く藤の花も捨てがたい。垂れる藤の落ち着いた曲線は女性心を擽ります」


 男性心を持つ俺にとってしてみれば、擽られるどころか、引き攣り笑いしか出ない。

 問題点は女物の浴衣、というところなのに、博紀さんにとってそれは二の次三の次。まるでセールスマンのように、浴衣を手に取ってはそれを広げ、熱を入れて俺に説明してくれる。

 洋服のように露骨な男女観が分かれる衣服ではないにしろ、やっぱり俺にとって女物の浴衣はネックだ。できることなら着たくないし、男が好む柄を着たいもの。

 けれど、博紀さんは断固として俺に御堂先輩が選んでくれたであろう浴衣を着せようとする。

 世話役として、御堂先輩を喜ばせたいんだろう。俺だって、女物でなければ着るよ! 笑顔でさ!


「玲お嬢様は貴方様が御堂家に来る日を心待ちしていました。浴衣を選ぶ時も、本当に笑顔で"豊福の困った顔が浮かぶな"と仰っていましたので、仲居としてあの笑顔を守らねばと」


 確信犯だ。

 御堂先輩、俺が女物の浴衣を見て途方に暮れることを想定して選んでいたんだ。

 い、い、意地が悪い……絶対に楽しんでいるよ。攻め女としての腹の黒さは、元カノよりも上だもんな。王子。


「今宵はお嬢様だけでなく、旦那様や奥方様と顔合わせをするので、それなりの浴衣を…………」


 いかにも女性が好みそうな芍薬の柄を広げ、博紀さんが俺の肩に合せた。

 その瞬間に彼が固まり、まじまじと人を観察。一思案するや、「花柄より線柄でしょうか」難しい顔を作って顎に指を絡める。

 似合わないなら似合わないとハッキリ言って下さいよ! 俺は王子と違って何でも着こなせるようなハイスペック男じゃないんっすよ!


「しかし、お嬢様は花柄を好む…………空さま、お似合いです。それで一度帯を結んでみましょう」


「今の間! その間がすべてを物語っていますよ! 第一取って付けたように言われても」


「空さま、お嬢様の心を踏み躙るおつもりですか。玲お嬢様は花柄の浴衣を着る方を大層好んで」


「わ、わ、分かりました。似合う似合わないは置いて、取り敢えず帯を結んで着てみます着させて頂きます」


 凄むような眼が柔和に綻び、「帯をお持ちします」世話役がすくりと立ち上がる。

 早くも俺は世話役の博紀さんに逆らえない気がしてきた。


「空さま。お召し物が決まり次第、湯殿にお入り下さいね。身を清めて旦那様達にお会いして下さらないと」


 いや、逆らってはいけない。逆らったら、十中八九御堂家主義者に扱かれる。


 箪笥に立つ博紀さんが帯を選んでいる間、俺は改めて部屋を見渡す。

 立派過ぎる部屋がこっちを見つめ返していた。

 タタミ何畳分の広さなんだろう。疑問を抱きながら、真新しい勉強机に向かう。そこに持ってきた教科書類や大事な写真を飾ってみるけど、なーんか落ち着かない。


「パソコンねぇ」


 チラッとノートパソコンを一瞥し、機械音痴の自分に溜息がひとつ。

 でも財閥界じゃパソコンは使えて当たり前なんだろう。

 まだ帯選びに時間が掛かっているみたいだから、俺は部屋をうーろうろ。畳まれた布団を触ってみたり、テレビを点けてみたり、本棚を眺めたり。


「あ。イチゴミルクオレ」


 冷蔵庫を開けた俺は声を上げる。

 わぁ、大好きなメーカーのイチゴミルクオレが冷蔵庫に詰まっている。ついつい喜んでしまった後、ハタッと気付いてしまう。

 なんで俺の好物が此処に入っているんだ。アクエリや緑茶なんかも入っているけど、半分は俺の好物だよこれ。御堂先輩からの情報か? いや彼女にこれを好きだって言ったことはなかったような……そういやストーキングまがいなことしていたな、あの人。


「うん。此処は何も思わず、素直に喜んでおこう。後でお礼を言っておかなきゃ」


 パタンと冷蔵庫を閉めて場所を移動した。


「空さま。此方へ」


 ようやく帯が決まったようだ。

 座っていた場所に戻ると、嫌々ながら浴衣に着替えるためブレザーを脱ぐ。それをそのまま畳に投げると、カッターシャツのボタンも外し、スラックスもポイ。

 下着姿になり、芍薬柄の浴衣を博紀さんから受け取った。柄はともかく、形は男女共通だから浴衣は有り難い。


「芍薬の後は梅を着てみましょう。玲お嬢様は四季折々の花柄がお好きなので、春から冬まで一通りご用意して下さっているのですよ。空さまはお幸せ者ですね」


 無駄に爽やかな笑顔を向けられるも、その瞳の奥には"すべてはお嬢様のため"という使命感が宿っている。

 その内、御堂先輩のためだからと言って本格的に女装でもさせられるんじゃ……。


「ししし失礼します! お茶菓子を持ってきました!」


 着替えていた手を止めて障子向こうを見やる。

 「さと子ちゃんの声」人影がぼんやりと映っている障子向こうに視線を流した次の瞬間、返事も確かめず障子が開いた。


「こ、こらさと子。返事をしてから入らないと」


「ふぇ?」


 テンパった声と共に、さと子ちゃんが部屋に入ってくる。

 博紀さんが返事を待つよう注意するや、彼女がこっちを凝視。上も下も下着姿の俺を見つめ、見つめ、見つめ、烈火の如く顔を赤くする。


「へ、へ、ヘンターイ!」


 何を思ったのか、人を変態と罵り、悲鳴を上げてお盆を俺目掛けて投げてくるもんだからさあ大変!


「ちょ、アブッ、アブナァアアアッチィイイ!」


 俺も悲鳴を上げて、持っていた浴衣を向こうに投げた。

 よってお高そうな浴衣は無事危険を回避。変態と称された男は見事に熱々のお茶を引っ被ったという……。


「そ、空さま! さと子、なんてことをっ!」


 なんてこったい。

 鈴理先輩宅に行った時も来て早々事件が起きたけど、御堂先輩宅でも事件が起きるなんて。父さん、母さん、貴方の息子豊福空はよほど運のない男らしいです。はい。



 


「――申し訳ございません。申し訳ございません。申し訳ございません。大変申し訳ございません。此れは私の指導不足です。すべて責任は私にあります」


「いえ、此れは僕の不注意による失態です。どうか、お咎めは僕に。申し訳ございません」


「ご、ごめんなざ……」


「さと子、ちゃんと頭を下げなさい! お茶菓子を空さまに投げつけるばかりか、来て早々お怪我までさせて。私は指導した筈ですよ、お召し物を替えている場合もあるので返事があるまで部屋の襖は開けるなと! 驚いたからってお茶菓子を投げつける馬鹿が何処にいますか!」


「しかも、お召し替え中の空さまに変態と罵る。さと子、世話役としてあるまじき失態だよ」


「さと子!」


「ごめんなひゃい」


 十六年歩んできた人生の中で、これほど人に謝罪されたことがあっただろうか。

 俺は臨時のジャージに腕を通し、順に召使長の蘭子さん、世話役の博紀さん、新人のさと子ちゃんを見やり、ペコペコと頭を下げる使いの皆さん達に大丈夫だと苦笑を零す。


 肩を軽く火傷しただけで、大事には至っていない。

 変態と叫ばれた傷心は癒えていないけれど、事故だと思って気にしないつもりをする……可愛い子に変態と叫ばれるのは、かなりショックだったけど。


 軽く落ち込んでいる間にも、蘭子さんはさと子ちゃんを叱り飛ばしていた。

 召使長の形相と怒気に身を縮みこませているさと子ちゃんが、とうとう泣き出してしまったのだから、空気が異様に重くなっていく。

 それでもまーだ蘭子さんがさと子ちゃんを叱っているもんだから、なんだか見ていられなくなった。


「あの、俺も悪かったんです。さと子ちゃんが来たことに気付いたくせに、着替え中だってことを言わなかったわけですし」


「だからって前代未聞です。婚約者さまにお盆を投げつけるなんて!」


 確かに、俺も身を持って未曾有の事件を被りましたけど。

 チラッとさと子ちゃんを一瞥すれば、グズグズと鼻水を啜って目をこすっている。あーあ、可愛い顔が台無しだ。


「博紀、今すぐに松美を呼びなさい。さと子では世話役が無理だということがよく分かりました。これ以上、空さまに我々使いの失態を見せるわけにはいきません」


 だばーっ。

 新人ちゃんの顔が絶望に染まり、涙が滝のように流れる。

 これはまずい。仮に世話役を変えてもらったとしても、だ。今後俺はさと子ちゃんと顔を合わせる度に同情やら気まずいやら、色んな苦い感情を噛みしめて過ごすことになる。

 それだけは断固として阻止しなければ。ただでさえ、肩身の狭い身分なのだから!


「さと子にもう一度チャンスを与えてはくれないでしょうか? これは上司である僕の失態でもありますから」


 博紀さんが蘭子さんに向かって深く頭を下げるけれど、彼女は変えるの一点張りだ。長としてのプライドがそうさせているんだろう。

 しかーし、こっちにだって今後の生活がある! 俺はエグエグと涙を流すさと子ちゃんに泣いても一緒だと微苦笑し、これから精一杯お世話してくれたら良いと励ます。


「アガリ症なんだって? 俺も来たばかりで内心凄く緊張している。だから同い年が傍にいてくれると安心するよ」


 スンと鼻を慣らす彼女に、名誉挽回ということで俺のカッターシャツを洗ってもらえるかと提案する。


「さっきの騒動でシャツが汚れたんだ。あれ一着しかないわけだし、学校に着て行くものだから洗ってもらえると助かるんだけど」


 そう言うとさと子ちゃんがちょっと落ち着いたのか、アガリ症を振り払うように「頑張ります!」勢いよく立ち上がる。

 ただでは折れない子みたいだ。うん、良かった良かった、そういう子は好きだよ。


「ということで、蘭子さん。もう少しだけさと子ちゃんをお世話係にとして置いてくれませんか? 俺のためにも」


「空さまがそれで宜しければ……しかし、何をしでかすか分かりませんよ? なにせおっちょこちょいな子で」


「それもご愛嬌としておきますよ。はい、じゃあさと子ちゃん」


 俺は羽織っていたシャツを彼女に手渡す。


「あぁああありがとうございます。私、汚名挽回のために頑張ります」


 蘭子さんと博紀さんが額に手をついて溜息を零す。

 嬉しいことを言ってくれるさと子ちゃんだけど、うーん汚名返上って言いたかったのかな? 国語が弱いのかな?


「あ、あ、あ、あ、あと汚したものはないですか? それも洗いますんで」


 どもりが未だに酷いけれど、彼女なりにアガリ症を乗り越えようとしているようだ。


「え、じゃあ、スラックスもお願いしようかな。お茶がこっちにも飛んじゃって。あ、ブレザーもお願いできる?」


「お任せ下さい。今からすぐに洗ってきます」


 いそいそとハンガーにかかったブレザーを取ると、さと子ちゃんが一礼して廊下に向かう。

 必ず綺麗にしてくると約束してくれるさと子ちゃんに、お願いしますと手を振った直後のこと。彼女は着物を着慣れていないのか、余所見をして俺に会釈しようとしたために足が縺れた。


 「あ、」博紀さんが顔を強張らせ、慌ててダッシュするんだけど時既に遅し。体勢を崩さないよう障子を掴んださと子ちゃんの手が、薄い和紙を突き破った。

 そりゃもうビリッとか可愛い音じゃ無かったよ。バリバリッという音が相応しい。凄い音だった。


 それだけで終わったならまだしも、事態にさと子ちゃんの気が動転。彼女はまた転倒しそうになった。

 間一髪のところで博紀さんが彼女の手首を掴んだものの、俺の持っていた制服が庭園の方に放り出され、ウアァアアア?! お池に落ちちゃったよぉおお! あれ明日も使うんだけど! 俺の制服ー!


 あ……洗ってはくれるだろうけど、それでもショックは計り知れない。


 がーんとショックを受けている俺の隣で、「さと子!」蘭子さんの喝破が響き渡り、「ごめんなさいぃい!」さと子ちゃんの謝罪の嵐が吹き荒れた。博紀さんが大慌てで制服を取りに行ってくれる中、俺はガックシと肩を落とした。


 もうどーにでもして頂戴って気分だよ。ついていない。


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