10.俺達、婚約します



 □



「以上が、俺が此処にいる理由です。すみません、お見合いを壊すような真似をして」


 一室に戻った俺は運ばれた懐石料理に一切手を付けず、短足テーブル向こうにいる御堂先輩の家族に事情のすべてを説明。

 最後にお見合いをぶち壊してしまったことを詫び、深く頭を下げた。

 壊したくて壊したわけじゃないんだけど、結果的に見合いができる状況じゃなくなったんだから、謝るのは当然だろう。


 これからお見合いが来るのであれば、さっさと退散するつもりだ。


 まったく気にする素振りを見せない御堂先輩のお父さん、源二さんはこれも父の計らいだろうと、一つ相槌を打つ。

 元々お見合いは御堂先輩のお祖父さんが企画したものらしく、相手は君に間違いないと断言した。

 ただ意味深な事情があるとは予想だにしていなかったらしく、借金の話に難しい顔を見せている。


 そらそうだ。

 借金を背負った男がお見合い相手なんて、親としては嫌悪しかないだろう。俺だって嫌だよ。


 だから俺は早々にお見合いの話は切ってくれるよう頼む。

 そして、御堂淳蔵に会わせて欲しいと頼んだ。俺を買ったのはその人だ。先輩達は知らされていなかったんだから、この話に関わることはない。

 この一件は忘れて欲しいと苦笑いを浮かべ、話を仕舞いにしようとする。が、それを許さなかったのは御堂先輩本人だ。


「君は僕のお見合い相手なんだ。勝手に消えることは許されないよ」


「御堂先輩。今の話を聞いていましたか? 俺は家の借金を背負って此処に来たんですよ。おじいさんに肩代わりしてもらったからには、その人の下に行かないと」


 何の目的があって俺の家の借金を肩代わりしてくれたのかは分からない。

 ただ、彼にとってメリットがあって肩代わりしてくれたのは確かだ。それを聞くためにも、そして俺が何をすべきか知るためにも、おじいさんの下に行かないと。


「尚更行かせないよ」


 ワンピース姿の王子が忌々しそうに吐き捨て、ジジイの下には行かせないと唸る。


「あの腹黒狸爺が何を企んでいるのかは分からない。だからこそ、君には行って欲しくない。どれだけあれのせいで泣かされたかと」


「玲、口が過ぎますよ。女の子なんだから」


 お母さんの一子さんに注意されても、王子の悪態は尽きない。

 フンのツーンとそっぽを向き、ジジイは嫌いなんだと言って舌を出す。

 男嫌いの元凶を作った人なんだから、そういう態度を取ってもしゃーないよな。話は聞いているし。


「豊福、君は忘れていないかい?」


 「え?」目をぱちくりして、何のことだと尋ねる。彼女は不機嫌なまま鼻を鳴らした。


「僕は君に告白した。"婚約前提で付き合って欲しい"って。君の子供なら生んでも良いと思っているんだ。それを、どこぞの狸爺に奪われて堪るか」


「お、お、おばか! 先輩のおばか! 御両親の前で何を仰っているんっすか!」


「本当のことだ。僕は豊福に一目惚れし、本気で抱きたいと思った。男嫌いな僕なのに、君となら家庭を作っても良いと思ったんだ。君が見合い相手なら大いに結構。ジジイが何を意図しているかは分からないが、向こうが望んでいるのなら僕は喜んで君を引き取るよ」


「ああもう、そういう小っ恥ずかしいことは女の子に言ってくださいよ! ほらみて下さい、御両親も呆れて」



「貴方様。玲が……あの玲が殿方にお熱ですよ。涙が出てきました」


「あの子にも春なんだな。良かった、玲はまぎれもない女の子なんだ。私達の娘なんだ」



「両親がなんだって?」


「…………なんだろう、このデジャヴ。前にもあったような」



 遠目を作る俺の前では、御堂夫妻が涙を堪えて微笑ましく娘の恋心を謳っている。

 どんだけ両親に苦労させているんですか、先輩。


 小さな溜息を零していると、「君ひとりなのかい?」源二さんが俺の両親の行方について質問してきた。

 一拍置いて返事する。親とは離れ離れになってしまった、と。


「条件は息子を引き渡す、でしたから。取り立て屋が有無言わず俺を……親は反対していたのですが、ついて行かないと酷いことをされそうでしたので。電話でやり取りはしているのですが」


 父さんはともかく、電話越しから分析するに母さんは毎日泣いているに違いない。

 理不尽な借金を背負うだけではなく、息子を取られたのだからショックは計り知れない筈だ。

 母さんは子供が作りたくても作れない体だと、父さんから聞いている。

 だからこそ親を失った俺を引き取り、本当の息子のように可愛がっていた。産めない分、引き取った子供に愛情を注いでくれた。

 本人からそういう話は一度も聞いたことないんだけどさ。


「暫く会っていないんだね」


「ええ。五日間は取り立て屋の下にいましたので。今頃何をしているのか。できることなら、無理はして欲しくないものです。彼等は親ばかなので」


 借金を俺に任せて欲しい、というのも変だけど、息子に押し付けて終わって欲しい。

 それが俺にできる、育ての親への精一杯の恩返しなんだから。


「これから、どうするかは決めているのかい?」


 テーブル台に肘をついて、指を組む源二さんの問いに俺は唸った。


「今後の話は、肩代わりして下さった御堂淳蔵さんに御伺いしてみないと何も……ただ働き口は探さなければいけないと思っています」


「学校は辞めるのかい?」


「現実問題、通い続けることは厳しいかと。それも仕方がないことです。高卒の資格もない男に働き口があるかどうか、不安なところではありますが」


「玲のことは?」


「え? 御堂先輩は本当に良い先輩です。辛い時にはいつも俺を支えてもらって。頼れる先輩ですよ」


「好きと言っていることについては?」


「(なに、その唐突過ぎる質問!)えぇっと……嬉しい限り、です、が……俺には勿体ないかと。特別誇れるものもなければ、財力もありませんし。も、もっといい男の人が」


 じろりと正面から睨まれ、俺の体は萎縮してしまう。

 本当のことを言ったまでなのに、どうして怖い顔を向けられないといけないのだろう。


「玲は素敵な女の子だろう?」


 源二さんが自慢の愛娘なのだと言ってくるので、「カッコイイ美人さんですよね」と返すしかない。

 更に「男装趣味があるんだが知っているかい?」と聞かれ、「普段の彼女も存じ上げています」俺は正直に答える。


「いやね、私の娘は女の子ばかり口説く困った子なんだよ。女の子が女の子を口説くとは、親としても心配でね。いつかカノジョを作ってきそうな勢いで、女の子を愛でるのだから、そりゃもう父親として泣きたくなるというか。将来が怖いというか」


「は、はぁ……」


「そんな困った一面もある子だが、気の利く優しい女の子なんだ。是非寛大な心で受け止めてやって欲しい。これでも私達の自慢の娘なんだ」


 あれあれ、なんだか変な方向に話が流れていっているぞ。


 俺はぽかんと口を開けて御堂夫妻を交互にやる。

 意味深長に綻んでいる源二さんに、両手を合わせてニコニコ顔を作っている一子さん。双方の間に挟まれている御堂先輩に至っては「僕のお姫様だもんな」ぱちんと片目を瞑ってくる。

 あの、誰か事細かに俺に説明して。ちっとも状況が分からないんだけど。


「父のことだ。玲にクダラナイ事情を押し付けようとしているんだろう。一応確認はしてみるが、私の予想は当たっている筈だ。まったく、これが見知らぬ男だったら、穏便に話は済まされなかった。相手が君で良かったよ」


「僕は願ったり叶ったりですけどね。ジジイが差し金、というのが気に喰わないのですが」


「玲、これを機に少しは女の子らしくするんですよ。豊福くんのためにも」


 俺のためにぃ? なんじゃらほい?

 混乱も混乱する俺に一子さんは言う。「玲をよろしくお願いしますね」と。

 遠回しな言い方だったけれど、意味をようやく理解。話題に入れたわけだけど、悲鳴にも似た声を上げるしかない。

 この人達は俺と御堂先輩をくっ付けようとしているんだ。それも恋人じゃなく。


「言っただろう。僕は君と婚約を交わしたい、と」


――婚約者として。

 駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ! 何を考えているんだよ、まじで!


「俺は借金を負った庶民です。御堂先輩と婚約だなんて、そんなの許されません。許されることじゃないんです。俺は先輩を借金の負の連鎖に巻き込みたくはない。傍にいても、重荷になるだけです」


「豊福、僕は幾度も見合いを強制させられている。その目的は"孫に婚約者を作る"こと。ジジイの話を憶えているかい? あいつは男の世継ぎを望んでいる。孫が女である以上、あいつはひ孫に期待を寄せているんだ」


 今回の見合いも、世継ぎを見据えたものだろうと御堂先輩。

 祖父が企てる見合いだからこそ、今まで拒んできた。出でた権力、容姿、財力、様々な男と自分は婚約させられそうになり、力の限り拒絶してきた。

 男嫌いに拍車が掛かった契機でもあると王子は、不機嫌に眉根を寄せる。


「ジジイが君の家の借金を肩代わりした理由は、既に見抜いている。僕が君に好意を寄せたからだ。どうやって情報を得たのかは分からないけれど、ジジイは君に可能性を見出したんだよ。だから何が何でも婚約を結ばせようとしている」


「そんなの無理やりじゃないですか。先輩の意志はどうなるんです? 借金の皺寄せが来るかもしれないのに。俺は、本当に先輩を巻き込みたくは「敢えて利用するさ」


 言葉を遮るように、彼女は語尾を強くする。

 祖父の言いなりになりたくはない。それこそ死んでも嫌だと思えるほど。

 けれど、事情が変わったのだと王子は目を細める。


「僕が拒めば君はジジイの下に行く」


 その未来に虫唾が湧くと彼女は吐き捨て、誰にも渡さないと言い放った。


「ジジイには渡さない。鈴理にも返さない。僕は僕の手で君を手に入れる。その君が傍にいなくなることこそ許されないんだ。君には、まだ僕の気持ちを受け止めてもらっていない」


「せんっ、」


「嫌なら婚約を結ばなくたっていい。けれど君をひとりにはしたくない。たとえ君が拒もうと僕は傍にいる――ねえ、ジジイじゃなくて僕の隣を選んでよ。僕は誰にも君を渡したくないんだ」


 可愛いワンピース姿だというのに、ストレートに物申す姿は本当に王子だ。

 男の俺の方が参っちまうほど、雄々しく勇ましい。


 いつだってそうだ。

 この人は俺の王子でいようと、歯が浮くような言葉で口説いて、おばかな逆セクハラして、辛い時には背中を支えてくれて。鈴理先輩の破局直後も、その後も、ずっと傍にいてくれた。

 なにより俺の奥底に潜む本音を見抜く。彼女は気付いてくれているんだ、胸の内に抱く多大な不安を。途方に暮れている孤独を。


 それだけで感情の芯が甘く疼いた。

 今まで何かと破局の理由を付けて、背を向けていた感情が燻っている。

 この人となら、もう一度恋をしても良いと思えた。否、借金さえなければ、恋をしてみたいと思った。好きになってみたいと強く思った。御堂先輩となら。


「ここまで告白させておいて、ジジイを選んだら僕は泣くからな」


 一変しておどけ口調になる王子に、ずるい人だと俺は泣き笑いを零す。


「選択の余地なんてないじゃないですか。おじいさんを選んだら、それこそ俺は酷い男っすよ」


「人の気持ちを落とすなら、まずは周りから固めておかないとね。そういうことは大得意さ。ほら親もいるんだから、早く返事をしてくれないかい。僕は親の前で赤っ恥を掻くことになるんだけど」


 そういえば御両親がいましたね、王子の御両親が!

 失念していた俺は俯くように頭を抱える。御堂夫妻の顔を見る勇気がないんだけど。


「時と場所を考えて下さいよ」


 思わずクレームを出してしまう。

 二人きりならまだしも、御両親の前で堂々と告白するなんて、どんな胆の持ち主っすか。先輩。


「僕だって恥ずかしいさ。けど、伝えたい気持ちはすぐに伝えたくなる性分なんだよ。どれだけ君に好意を寄せているか、分かってくれたかい?」


「消えてしまいたいほど、分かりました。もう何も言わないで下さい。心臓が持たないっす」


「それって僕を意識してくれているということかい? 嬉しいな」


「ああもう! 言葉攻めはほんっと勘弁ですから!」


 これ以上、彼女から熱烈な言葉を聞きたくない。もうお腹いっぱいだ。

 なのに王子は言葉を繰り返す。どうせ借金を背負う未来を進むしかないのなら、選ぶのは祖父ではなく、自分を選んで欲しい、と。

 少しでも近くにいたいと綻ぶ御堂先輩に、もう否定の言葉が思いつかない。

 巻き込みたくないと言っているのにも関わらず、この人はちっとも話を聞いてくれない。自己主張が激しい。攻め女の共通点なのかな。 


「私の父ながら、御堂淳蔵は仕事一筋の冷酷人間だ。君を買った以上、最大限まで利用価値を引きだそうとする。きっと君には拒否権が与えられない」


 父親として娘の告白宣言を微笑ましく見守っていた源二さんが、彼女を悲しませないために現実の一端を教えてくれる。


 彼自身も御堂淳蔵を畏れているらしく、できることなら逆らって欲しくないし、逆らいたくない存在だと苦笑い。

 御堂先輩が俺を拒絶したり、また俺が頑なに彼女の好意を拒むことで向こうは何かしらの行動に出るだろうと嘆息する。


 前者については、これからも見知らぬ男と見合いをさせられるだろう。その内痺れを切らして、勝手に男と婚儀を挙げる準備をするかもしれない。

 後者については、謂わずも借金を盾に不利な条件を突きつけられるに違いない。

 源二さんは親として、どうしても娘の幸せを歩ませたいのだと熱を入れた。それは母の一子さんも一緒のようで、「まずはお付き合いからです」そこから始めれば良いと助言してくれた。


「わたくしと旦那も、お見合いから始まった付き合いです。男嫌いの玲が貴方に興味があり、信頼を寄せているとのことであれば、母として貴方に娘を任せてみたいもの。

 無論、貴方自身をよく知らない以上、此方も見極める目は向けるつもりですが……今のやり取りを見ている分では、大丈夫と思っています」


「上手くいくかどうかは君達次第。駄目なら互いに他の道を探せばいい。それを知るためにも、一度腹を据えてはみないかい?」


 知るための付き合い。

 鈴理先輩の時もそうだったな。

 ただあの時とは明らかに事情が違う。能天気に恋愛できる環境じゃない。

 それでも俺に拒否権がないというのであれば。御堂先輩がこれからも見合いを強制させられるというのであれば。支えてくれた人の力になれるのであれば、俺は――。



 "おぼろ花亭"に一時間半ほど滞在した俺は御堂夫妻の誘導の下、車で実家に向かう。

 もう二度と拝むことがないかもしれないと思っていたのに、まさかまた我が家となっているボロアパートを、しかもこんな短期間で再会できるとは思わなかった。

 取り立て屋に引き取られた俺がそう思うんだから、息子を奪われた両親は予想だにしていなかったに違いない。


 呼び鈴を押せば、恐る恐る扉が開けられ、隙間越しに母さんと目が合う。

 驚愕する育ての親に気まずい気持ちを抱きながら、「ただいま」


 途端に扉が勢いよく開かれ、母さんに縋られるわ、泣きつかれるわ、存在を確かめられるわ。近所迷惑になるほど声を上げるもんだから、息子の俺も困ってしまった。

 帰宅していたであろう父さんも信じられない顔で玄関口にやって来るので、取り敢えず中に入れてくれるよう頼んだ。


「借金の肩代わりをしてくれた人の御家族が一緒なんだ。父さんと母さんに、話があるって」


 すると感動の再会から、一変して豊福家は戦闘モードを醸し出す。

 この借金は理不尽なものであり、連帯保証人は合意の上でサインしたものではないと主張するために。

 けれども部屋に上がった御堂夫妻から話題を切り出され、二人は物の見事に間の抜けた顔を作ってしまった。


「息子と婚約、ですか?」


「ええ。父はそのために、お宅の息子さんを預かりたいと申し出ているのです。御堂一家には世継ぎ問題が発生しておりまして」


 懇切丁寧に説明する源二さんと一子さんに、父さんと母さんは混乱に混乱である。

 そりゃそうだ。息子が帰って来たかと思ったら、いきなり婚約したいと申し出ているのだから。

 財閥の令嬢と恋人になったことはあれど(破局していることは知っている)、息子が結婚前提の婚約者になるなんて。両親は到底受け入れられない現実のようだ。

 借金問題に引き続き、婚約の話が出され、父さんは混乱したまま反論の意を唱える。


「この交渉は不成立ではないでしょうか? 身分があまりにも違いますし、息子と婚約を結んだところでメリットがあるとは思えません。私達夫婦は息子には苦労ばかり掛けている始末です。財力も庶民並の我々と関わりを持って何の得があるでしょうか?」


「実は私の娘は生粋の男嫌いでして。幾多に渡って見合い、許婚を白紙にしてきました。挙句、やや趣向が変わっておりまして。簡単に言えば女の子が好きなのですよ。男になんて見向きもしなかった……いつか、娘が彼女を作ってくるのではないかといつもハラハラしておりまして」



「か、彼女ですか……ですが、息子もケチな一面がありますし」



「大切なのは娘が殿方に興味を持っているということなのです。わたくしは玲の彼女ではなく、彼氏を見たいと望んでいるのです。しかし、此方の願いも虚しく、いつまで経っても玲は女性に目を向けていました。そう、ご子息が現れるまでは。

 彼と会った玲の反応にわたくしも夫も感動したのです。あの玲が嫌悪感なく、寧ろ好意を向けて殿方を意識していたのですから!」



「家内の言う通りです。庶民出身など、実質どうとでもなる問題なのです。彼女問題と比較したら、爪先ほどの問題だと私は思っています。二度言いますが、彼女を作られる問題と比較したら髪の毛先ほどの問題かと」



 二度、三度、彼女を作られるよりずっとマシだと主張する源二さんは己の父の怖さを説く。肩代わりした御堂淳蔵が仕事人間であること。自分達家族にすら冷淡であることを。

 分かっているからこそ、子息を婿養子として此方に預けてくれるよう交渉を持ちかける。


 借金のカタといえば言い方が悪い。

 けれど今の豊福家が家族と共に生きるためには、それこそ身の潔白を証明するためにも、この婚約は必然ではないかと問う。


「勿論、関係が上手くいくかは本人達次第です」


 なので今すぐ正式な婚約式を挙げようとは思わない。しかし、これは双方必要な契約だろうと源二さん。


「息子さんは学校を辞める御覚悟までしていました。今の時代、中卒で条件の良い働き口があるかといえば否。ご苦労を息子さんに背負わせているとお思いなら、少しでも幸せな道を歩ませてやる。それもまた親の務めだと思うのです。豊福さん」


 果たしてこれが俺にとっての幸せかどうかは分からない。

 ただ両親は思うことがあったようだ。たっぷり間を置き、御堂夫妻の意志を再度確認した後、申し出を受け入れた。

 俺に敢えて話を振らないのは、息子に聞いたところで同じだと分かっていたから。



 ここからはとんとん拍子に事が進められる。

 源二さんがあらかじめ呼んでおいた秘書に、薄っぺらいB5サイズの契約書を用意させ、まずそれに双方の父親が万年筆でサイン。生年月日から、住所から、事細かに書かされていた。


 次に俺と御堂先輩の番だ。

 契約書を目に通すよう言われ、言われたままワープロ文字を読む。

 それが終わると署名欄に自分の名前を記入した。万年筆を置くと、父さんから朱肉を受け取って親指にインクをつける。指判子、いわゆる拇印(ぼいん)ってものをすると紙切れを父さんに返した。


 何処か寂しそうに契約書を受け取った父さんは、同じように拇印を押している御堂先輩の行為が終わるのを待ち、頃合を見計らって源二さんの前にそれを差し出す。

 二つの書類を見比べた源二さんは、これですべてが成立しましたと目尻を下げた。


「確かにご子息はお預かりしました。責任を持って、ご子息をお預かりしますのでご安心下さい」


 不思議な感覚だった。

 ただ紙切れにサインと拇印を押すだけで俺と御堂先輩の関係が変わっちまった。紙切れ一枚で。

 鈴理先輩もこんな気持ちだったのかな。物心ついた時から大雅先輩とは許婚で、17になったある日を境に婚約者へと昇華する。

 それがこんなにも呆気なく、味気ないものなのか。


 二人の関係は親の意思一つで変わった。

 同じように今この時を持って、俺と御堂先輩の関係も変わった。自分の人生が紙切れによって大きく変化したんだ。

 ただただ不思議な気持ちに駆られる。



「空とは、息子とは本当の親子ではありません。我々は子供に恵まれませんでした」



 父さんがそっと口を開く。



「この子は兄夫婦の子であり、既に実親を亡くしています。私にとって甥に当たる息子を引き取って早11年経ちましたが、我々にとって空は息子以上の息子であると誇りを持っています」


 もう11年なのか、父さんと母さんの子になって。

 時って本当に早いな。親は俺以上に早いと思っているんだろう。


「お恥ずかしい話、11年愛情を持って育ててきた息子を今の我々では守れる自信はございません。様々な不運が重なり、取り立て屋に引き渡す無様な真似までしてしまった。二度もこの子に辛酸を味わせるわけにはいきません」


 俺が勝手について行っただけなのに、父さんは自責の念を垣間見せる。

 この五日間、どんな気持ちで過ごしていたのか、息子には見当もつかない。


「空はまだ子供で未熟です。あなた方に迷惑を掛けることも多々あるでしょう。

 けれど誰より両親思いの優しい子です。自慢の息子です。愛してやまない子供です。厚かましいでしょうが、私達の息子を。どうぞ、空をよろしくお願いします」


 身を引いて深々と頭を下げる父さん、倣って頭を下げる母さんに胸が詰まりそうになった。本当の意味でこの人達は俺を手放すつもりなんだ。

 まるで嫁に行くような気分。ああそうか、そうだよな。俺は婚約者であり、婿養子って形に一応なったわけだし。

 借金の肩代わりに婚約なんて、なんかとんでもないドラマでも見ているようだけど、これは現実なんだよな。


「未熟ですがどうぞお願いします」


 俺も頭を下げた。

 もう、自分の人生うんぬんかんぬん言っている場合じゃない。

 俺は豊福家の運命を背負って婚約者になった。後には引けない。頭を下げる俺達に、源二さんが熱を込めて返事した。


「あなた方のご子息は、私達が責任を持ってお預かりします。お約束します」



 □



「今夜は三日月だね。弓みたいな形をしている」


 夜風が吹き抜けるアパートの廊下に出た俺と王子は、安作りの階段に腰掛け肩を並べる。

 今頃、部屋では親同士水入らずで話している筈だ。子供達に席を外して欲しいと頼んできたのだから、俺達には聞かれたくないオトナの事情を話しているんだろう。

 夜空を仰いで月を眺める御堂先輩に目尻を下げ、「綺麗ですね」久しく月を見た気分だと吐露する。

 多分、昨日もその前も月は出ていた。それだけ俺に見る余裕がなかったと言える。


「足元がスースーするよ。夜は冷えるね。だからスカートは嫌なんだ」


 二の腕を擦る王子に気付き、ブレザーを脱いで、それを差し出す。

 彼女の着ているワンピースは見るからに薄手だ。夜風に当たれば、もろ風邪を引きそう。

 けれども王子は妙な顔をして俺を見つめてくる。どちらかといえば、嫌がられているような……傷付くんですけど!


「要らないっすか? その格好じゃ寒いでしょう」


「はぁ。僕が学ラン姿なら、上衣を脱いで肩に掛けてあげるのに」


「あ、すみません。こういうのってさり気なく掛けてあげるものですよね」


「豊福がワンピース姿なら良かったのに……なんで僕がされる側なんだ」


 ブレザーを肩に掛けようとしたら、このような意見を述べられ、硬直するしかない。

 御堂先輩の嫌がる意味は、俺がブレザーを掛けてやる行為ではなく、自分がされる行為か。どこまでも男ポジションに立ちたがる王子だこと。


「俺は着ません。キモイだけです」


 投げやりに返事して、ブレザーを肩に掛けてやる。

 ぶうっと脹れ面を作る御堂先輩は、「僕の姫だろ?」自分の我儘を聞いてくれても良いじゃないかと反論してきた。

 顔が強張ってしまう。ヒロイン、カノジョは聞きなれているけれど、姫はちょっと。

 

「だって君は僕を王子だと呼ぶ時があるじゃないか。なら、君は必然的に姫だろう?」


「正論ではありますが、なんというか……この容姿を見て姫だと思えます? 御堂先輩は王子らしいカッコイイ女の子だから王子と呼べるわけで」


 だけど、これからの俺はある意味、御堂先輩の"姫"になるわけ、か。

 姫は当然、カノジョにもなりえるし、ヒロインにもなりえる。俺は彼女のものだ。如いては御堂財閥のものだ。これは変えようのない現実なんだ。

 借金問題に引き続き、婚約交渉が俺の身に襲ってくるなんて、16で婚約交渉されるなんて夢にも思わなかったよ。これは夢か?


「こんな形で君を手に入れるとはね。予想外だったよ」


 隣に座る王子がブレザーを体に巻き付けながら距離を詰めてくる。

 それによって腕と腕が当たり、俺達は密接になった。


「ジジイが豊福を買ったと聞いた時は正直、頭に血がのぼった。ヒトの恋愛事情にまで首を突っ込んでくるなんて、もう嫌悪感でいっぱいだ。そんなに世継ぎを孕ませたいのか」


「御堂先輩、時期が来たら容赦なく切って下さいね。やっぱりこの婚約は貴方のためにはならないっすから」


「それは、僕の気持ちを疑っていると捉えてもいいのかな?」


 そういう意味じゃない。

 御堂先輩の真剣な気持ちは伝わってきている。

 ただ借金を背負った人間を婚約者として持つなんて、王子の負担にしかならないじゃないか。変な気を遣わせたくはないんだ。

 借金を負う側と肩代わりした側には明らかな隔たりがあるのだから。


「本当は逃げたい。泣きたい。つらくて堪らない。こんな現実嫌いだ」


 御堂先輩の言葉に瞳孔を膨張させ、ゆっくりと首を捻る。


 瞬きと共に唇が額に落ちた。

 わしゃわしゃと髪を撫ぜられ、「これが君の本音」だから代弁してあげたと王子は悪戯気に笑い、俺の鼻先を指で弾く。


「僕が今、君の口から聞きたいのは本音なんだ。豊福はうそつきだから、すぐ嘘をつく」


 また、この人は俺の隠そうとする気持ちを見抜く。


「いいよ。君はうそつきで。周りにはうそつけばいい。だけど、僕の前だけでは素直になって」


 借金を知った時も、親に泣かれた時も、取り立て屋に引き取られた時も、そして今も弱音だけは表に出さないようにしていたのに。

 敵わないな、この人には。


「どうして先輩は、そんなに優しいんですか」


 他人に対してそこまで優しくなれるのか、とても不思議だと俺は口を動かした。


「それは当然、下心があってだろ」


 いつもの口調で笑う御堂先輩に、俺もつられて笑う。五日ぶりに心から笑えた。

 色々思うことはあるけれど、もう言うのはやめよう。家の借金とか、婚約のこととか、御堂先輩はそんな話題望んじゃない。

 きっと、べつの。


「あ、」


 柔らかい唇が額から、唇に移動する。

 触れるだけのキスだったけれど、御堂先輩はご満悦の様子で「今はこれで勘弁してあげる」


「婚約したんだから、やりたい放題だな。ふふっ、豊福をどうやって落とそうかな」


 形としては手に入れたけれど、心はまだ手に入れていない。

 だからこそ自分で手に入れるのだと御堂先輩は綻び、俺の手と結んで寄り添ってくる。当の本人は既に許容範囲を超えていた。駄目だ、恥ずかしいんだけど。


「せ、先輩……あの、段階を踏んでからに。ひっ」


「豊福メモ。うなじを触ると声を出す。憶えておくよ」


「さ、サイッテーっす! 何してくれちゃってるんっすか!」


「んー? スキンシップ」


 ニッと満面の笑みを浮かべる御堂先輩は、逃げ腰になる俺の手を握りなおし、空いた手でわきわきと指を動かした。

 い、厭らしい動きをしているような、いないような。


「他に何処を触れば豊福は声を出すのかな? 僕に教えて欲しいな? 遠慮はいらないよなー? だって、僕達、婚約したんだから」


「ちょ、だ、段階を踏んでくだっ……ぎゃっ! バカバカエッチ! シャツに手を突っ込まないで下さい! あばばば、何処触って」


「今は豊福のお腹。おへそ辺りをなぞって」


「言わなくていいです! げげっ、ボタンを外すのはマジ勘弁っ、ちょっと先輩ィイイイイ」


 果たして、本当に御堂先輩と婚約して良かったのだろうか。

 現実問題は置いておき、セクハラ行為をひたすらに死守していた俺は半べそを掻く。


 また本格的な受け男生活が始まるようだ。

 天国にいる父さん、母さん、息子は幸せになれるか、いや、男のままでいられるかどうか、些か心配です。

 

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