09.我が家にお嬢様がやってくる!(その3)


 ヤカンの沸くけたたましい音が室内を満たす。

 早く火を止めろとばかりにヤカンは怒号を上げているので、ようやく俺は腰を上げた。 ガス代が勿体無い、そう現実逃避する俺の足取りは覚束ない。ついでに顔は顔面紅潮だ。


 シュッシュッ。

 蒸気を噴き出しているヤカンに目を向け呆然と佇んでいた俺は次第に思考が回り、ありえないと額に手を当て嘆いた。

 またヤラれた、ヤラれちまった、鳴かされた。もう駄目だ。俺は男としての価値さえ彼女に奪われている気がする。


「まさかディープで翻弄させた後に、腹と耳を重点攻撃してくるなんて。ううっ、手加減してくれなかったし」


 あの言葉攻めは酷いよな。もう家でゆっくり寛げない気がする。

 ガックシ肩を落とす俺の背後で、「しまったな」録音を忘れていた、うっかりしていたと先輩が嘆いている。


「二度目の嬌声は絶対に録音に記録しておくつもりだったのに。空の『ちょーだい』というあの声は堪らなく良かったのだが! 馬鹿すぎるあたし!」


 奥歯を噛み締めて地団太を踏んでいる彼女を一瞥した俺は視線を戻して千行の汗を流す。


 これは不味いぞ豊福空。

 両思いになった彼女とほのぼのカレカノ関係に……なれるとは思わなかったけど(彼女の性格上。な?)、こんなにも性急に関係が変わっていくなんて。


 嗚呼、彼女の行為がどんどん過激になっている。エスカレートしていることは否めない。

 寧ろ真面目に貞操の危機問題を考えないといけなくなってきた。

 何が悲しくて男を鳴かせたいんっすか、先輩。草食系男子の俺にさえ理解しがたい思考っす! ……やっぱ先輩って生粋の肉食系女子だよな。


 どうしよう。

 キスからワンステップ、ステージを上がっちまったんだけど。プラトニックラブを貫けるか分からない。

 腹に決めた信念は貫きたいけど、なにぶん相手は攻撃型お嬢様。逃げれば逃げるほど攻撃力を上げていくという。

 俺も理性が崩れると、彼女を求める傾向にあるから、自分が信用できない。


 うめき声を挙げながら急須にお湯を注ぐ。

 俺の家にはポットなんて大それたものはないから、じかにお湯を注ぐしかない。マナー的に違反かもしれないけど、彼女も大目に見てくれるだろう。

 ヤカンをガスコンロの上に戻し、俺は急須に蓋をして吐息をつく。


 彼女から与えられた羞恥心のせいで未だに心拍数が速い気がする。

 お茶っ葉を蒸らしていると背後から抱きつかれた。

 自然と緊張する俺の体に笑声を漏らす鈴理先輩は、「なあなあ空。もう一度しないか?」とねだってくる。今度こそ三度目の正直として、ちゃーんと録音しておくから! とかほざくおばか彼女。冗談ごめんなさいっすよ。


 かぶりを振って拒絶を示すと、「耳が真っ赤だぞ?」背伸びして息を吹きかけられた。

 「や、やめて下さいよ」背筋を伸ばして声音を荒げるけど、彼女は総無視。


「空は可愛いな」


 からかいがあると笑声を零して、背中にぐりぐりと額を押し付けてくる。


「空だから本気になるんだぞ」


 意味深な台詞にちょい冷静を取り戻した俺は視線を後ろに流す。顔は窺えない。でも回してくる腕の強さは変わらない。


 俺は眉尻を下げて、返事した。先輩相手じゃなかったら頑なに拒んでいる、と。

 うそつけと即答されてしまった。こんこんっと額で俺の背中を小突き、「玲に押し倒されているではないか」不満に染まった声が飛んでくる。


 そりゃあ、向こうの押しが強いからっすよ。

 なしてあんなに押しが強いんだろう? 恐るべし攻め女だよな。


 それに俺と先輩だってそうだったでしょ。

 あの時の先輩、俺が必死こいて逃げているっていうのに、それさえ楽しんで迫ってくるんだから。いやそれは今でもそうだけど。


 特別だと知ってもらいたいから、巻きつかれている腕を引き剥がし、振り返って身を屈める。さっきまで背中にこすり付けていた額に唇を落とすと、面食らった先輩の顔がそこにはあった。

 コンマ単位で表情がしかめっ面(という名の照れ顔)になり、荒々しく頬に手を添えて唇を食まれた。


 果たして本日何度目の口付けだろう。

 戯れている俺達が煎茶を飲む頃には、蒸らしているお茶っ葉が苦味と渋味を大量に放出させ、とても飲みにくい茶になっていた。付け加えてぬるい。熱々だった筈なのに人肌並になっている。

 おもてなしとして大事に取っていたポテトチップスを先輩と一緒に食べながら、音を立てて茶を飲む。


 「渋いな」「っすね」「蒸らし過ぎだな」「っすね」「空は甘いから丁度いいかもしれん」「……キスが甘いんっす」「………」「………」


「空、あんまり欲情させるな! 襲いたくなるだろ!」


「センッパイは少し我慢ってものを覚えましょうね!」


 ダンッ、音を立てて湯飲みを置く先輩に俺はツッコミを入れた。

 我慢は体に良くないとかほざく彼女だけど、少しは忍耐力をつけて欲しいもんだよ。俺の身が持たないって。


 静寂な空間じゃいずれまた甘い雰囲気到来、んでもって俺の貞操大ピンチ。ついでに自尊心も砕かれかねないからテレビのリモコンを取って電源を入れることにした。

 夕方のワイドショーがあっている。この時間帯にテレビを見ることが無いという鈴理先輩は、ワイドショーのキャスターを興味津々に見つめていた。


「あの顔は何処かで見たことあるな」


 独り言に、「民間放送のキャスターだった人っすよ」今は全国放送のキャスターになっている実力派キャスターだと教えた。

 俺、結構テレビっ子だから芸能人の顔とか覚えているんだよな。今流行のアーティストとか政治家も大半は分かるよ。暇な時はテレビをよく観ているし。電気代が無駄だって点があるけど、勉強バッカしても頭が煮えるだけだしな。テレビは気を紛らわすのに丁度いい。


 俺達は談笑を交えながらつらつらと流れていくニュースに目を向けていた。

 遊びに来てくれたのにワイドショーを見ていていいのかってツッコまれたら、まあ、話題づくりにはいいんじゃない? って答える。

 俺の家は先輩の家みたいに物が豊富じゃないんだよ。退屈しのぎになるものがあんましない。

 貰ったケータイ小説の話題を出してもいいんだけど、まだ全部は読んでいない。一週間に三冊が限度だ。


「なんだか庶民の生活に溶け込んでいる気がするな」


 ワクワクするぞ、鈴理先輩がポテチに手を伸ばして綻ぶ。

 微妙な気分になる感想だけど、彼女が嬉しそうだったから俺は目尻を下げて良かったと一笑する。先輩が喜んでくれるなら何よりだ。呼んだ甲斐もある。


「お母様方はいつ頃、帰宅されるんだ?」


「母さんっすか? 今日は早いと思うっすよ。先輩が泊まりに来ることを喜んでいましたし。父さんも夕飯を楽しみにしているから、母さんは6時前。父さんは8時前には帰宅すると思います」


 ズズッと茶を啜り、嚥下して俺は答える。


「空。夕飯の下ごしらえをしておかないか? ある程度、支度をしておけばご両親も楽だろ?」


 先輩の提案に俺はキョトン顔を作る。嬉しい申し出だけど、先輩は客人だ。夕飯の支度をさせるわけにはいかないよな。

 そりゃあ先輩のところに泊まりに行った時、初っ端からこっ酷く働かされた記憶はあるけどあれは不注意から起きたことだったし。うーんっと気持ちだけ受け取っておくと返事した。


 すると先輩が手伝いたいのだとポテチを齧ってにっこり。


「ゆっくり時間が取れると思うと空と何かしたくてな」


 なーんて口説き文句を放ってきた。

 困ったな、そういう言葉に弱いんだけど、俺。

 ポリポリと頬を掻き、「じゃあポテチを食ったら下ごしらえしましょうか」彼女の提案に乗った。


 嬉しそうに頷く鈴理先輩がテレビに視線を戻す。彼女の表情が変わった。


 一言で言えば険しくなったんだ。

 何か善からぬ事件でもあったのかな、俺も視線をテレビに留める。声の通った女キャスターが真顔で茶の間にニュースを伝えていた。内容は大手企業がM&Aしたってものみたいだけど、経済のニュースはイマイチ俺には分からない。


「またM&Aをしたのか。この日本は不況だしな。しかもあの企業が……、あそこは二階堂財閥の提携していた企業では」


「先輩。エムアンドエーってなんっすか?」


「簡単に言えば、企業の合併や買売。企業が他の企業を自分の物にしてしまうんだ。M&Aの目的は色々だが、他の企業を吸収してしまえば新規事業の展開や市場への参入、国内市場競争力強化。なにより国際競争力をつけることが可能になる」


「うーん、イマイチ掴めないっす」


 経済が全然分かんない阿呆ですんません。

 首を傾げる俺に、「もっと分かりやすく説明しよう」鈴理先輩が例え話を出してきた。



「空は和菓子屋を営んでいる会社。あたしは洋菓子屋を営んでいる会社だと前提するぞ。

 空は菓子の幅を広げようと洋菓子に挑みたいのだが、自分で新しい洋菓子を作るには時間と費用を要する。

 そこで元々洋菓子屋を営んでいるあたしの会社と合併して、和菓子と洋菓子両方取り扱っている大きな会社にすることにした。

 そうすると、空の会社は自分で新しい洋菓子を作らなくとも元々洋菓子屋を営んでいたあたしの会社の力が加わったことで、洋菓子市場を得ることができるというわけだ。あたし自身も和菓子市場が得ることができて一挙両得というわけだな。


 新規事業を開拓するにはリスクがいるんだ、空。

 自分達で自分達しかない洋菓子を作る時間も要するし、それだけの人でもいる。洋菓子を作れたとしても顧客に受け入れられるか分からん。


 だからM&Aを採用し、その企業を買ったり、売ったり、合併する。そちらの方が即戦力にもなるしな。

 さっき国内市場競争力強化や国際競争力の強化を述べたが、今の時代は物で溢れかえっている。何かしら力をつけておかないと、他社とすぐ差をつけられてしまうし、海外に物を売り買いするのも当たり前な時代になった。

 日本の国際競争力はやや他国と比べて劣っているからな。加えて世界全体が不況ときている。競争力をつけないとすぐ企業が倒産してしまう時代なんだ。


 まあ、ザックリ言うとこんなところだ。本当にザックリしか語っていないから、興味があるなら後日一緒に勉強してもいいぞ。経済の勉強はしていて損が無いと思う」



「はーっ。先輩詳しいんっすね。大まかなところは理解できましたよ。んじゃあ、ニュースの企業も不況だからM&Aをしたんっすね?」



「M&Aは売り手の企業救済の概念も持つからな。合併したことで赤字を緩和しようとしたんだろう。

今や世界全体の景気が悪い……何処も必死なんだ。景気が爆発的に回復するには戦争でも起きない限り無理だろうな。皮肉だが他国のどこかで戦争が起きれば、物資の支給を求められる。それによって生産性と輸出力が右肩上がりとなる。そういう歴史があるんだ」



 ズズッと茶を啜る先輩のM&A経済講座に俺はなるほど、と相槌を打った。

 本当に詳しいんだな、感心する。どうしてそんなに詳しいのか聞けば、「一応財閥の令嬢だからな」勉強させられるのだと先輩は微苦笑を零した。高校生からもう経済の勉強をさせられるんっすね。令嬢も大変だな。


 俺も冷めてしまった茶を啜り、ポテチを口に入れて咀嚼。

 次いで、「さっき二階堂財閥って口ずさんでいましたけどあれは?」素朴な質問を相手にぶつける。


「二階堂財閥の提携企業とかなんとか……大雅先輩のいる財閥っすよね?」


「ああ。長期に渡っている日本の不景気は財閥界でも戦慄が走っている。財閥の中には破綻して名が消えてしまったところもある。後世まで存続するよう常に財閥界は動いているんだ。二階堂財閥も存続を懸けて今回のM&Aに一役買っているようだ」


 財閥界も大変なんだな。もっと楽だと思っていたけど。

 しかめっ面を作っている鈴理先輩を見つめていた俺はふと気付いてしまう。二階堂財閥のM&Aって、間接的に先輩のいる財閥に関わっているんじゃ。


 大雅先輩と鈴理先輩は公の場では許婚って関係だ。関係ないってことはないだろう。


 その証拠に先輩の表情が若干硬い。

 庶民の俺じゃ知れないところで、先輩は財閥について真剣に考えているのかも。



 パリッ。

 ポテチを噛み砕いていた俺は話題を変えるべきかどうか悩んだ。此処は深く財閥のことについて聞いておくべきかな。

 でも部外者だし、根掘り葉掘り聞くのも如何なものだろう? うんぬん考えていると、ジトーッと先輩が俺を見つめてきた。視線を受信したはいいけどアイコンタクトの意味が分からず、俺もジトーッと見つめ返す。

 数秒見つめあった後、心意が受信できなかった俺はどうしたのかと相手に尋ねた。


 先輩はまじまじと俺を見つめてそっと口を開く。


「そういえば空は着替えていないが、着替えなくて良いのか? 制服のままでは下ごしらえするのに大変じゃないか?」


 あ、そういえば俺、まだ制服だ。

 上はカッターシャツで下はスラックスのまま……って、その期待した眼はなんっすか! アータの前じゃ着替えませんよ! そんな命知らずなことしませんからっ! さっきみたいにちゅーされたり、お触りされたり、挙句の果てにはな、鳴かされ、鳴かされ……なかされ。


 嗚呼、思い出すだけで惨めな気持ちになる。


 消沈する俺を余所に、「着替えないのか?」下心ありありの台詞を俺にぶつけてくる。

 話題を逸らすために俺は茶を飲み干してしまうと、残りわずかなポテチを先輩と半分こにして完食。腰を上げて流し台に逃げた。


「なーあ」


 しつこい肉食お嬢様に、溜息をついて俺は話題を夕飯に持っていった。

 彼女の名を呼んで、俺は冷蔵庫から懸賞で当たった牛肉を先輩に見せてあげることに。話題を逸らされたことにぶーっと脹れながら、先輩は俺の持っている箱を覗き込んでくる。


 ビシッと固まる先輩に気付かず、


「凄いでしょ! お肉めっちゃ詰まっているんですよ!」


 俺は大興奮して熱弁。


「父さん母さんとはしゃいじゃって。懸賞品って豪勢っすよね。先輩が食べている肉よりか見劣っているとは思うんっすけど、精一杯ご馳走します」


「(目分からして肉が……六切れ程度しか入っていないように見えるのだが。しかも肉厚が薄い)これは楽しみだな」


「俺の家のすき焼きって牛肉が殆ど入ってないんっすよ。豆腐がメインで。たまに豚肉がどどーんと真ん中に占めている時もありますけど」


「ぶ……豚肉も美味いじゃないか」


「でも、やっぱりすき焼きといえば牛じゃないですか? だから今日はご馳走なんっす! 勿論、お客さんの先輩には沢山肉を振舞いますから、楽しみにしていて下さいね」


 笑顔を作って肉を冷蔵庫に仕舞う。

 背後では涙ぐむ鈴理先輩がいたのだけれど、それには気付けない(「単純計算すると肉が食べられる数は一人一枚。客人のあたしは三枚食べる計算か?!」)。


「メインのすき焼きは後にして、まずはサラダを作りましょうか」


「サラダか。どんなサラダにするつもりなのだ? 切る手伝いは任せとけ」


「あ、切るものはないので大丈夫です。もやしを湯がいて、ふりかけを掛けるだけなんで」


「……ふりかけ? ご飯に、ではなく?」


「え、サラダにも掛けません? ふりかけ」


 意外とふりかけは万能だ。

 あれでサラダの味を変えられるんだから。お高めのドレッシングを買うより安くつくんだぞ。お味も保証する。まじで美味い。

 「あ、しまった」俺は眉を顰め、もやしの入った袋を冷蔵庫から取り出す。


「ファミリーパックを買ったつもりなのに一人用を買っている……これじゃあ二人分が限度じゃん。しょうがない、俺と父さんは別のもので代用しよう。何かサラダになりそうなもの。プリンがあるから、それに醤油を垂らして食べるかな」


「(出た。ウニの味がするというあれ……)そ、空、あたしの分を御両親に回しても良いのだぞ」


「だめだめ。先輩はお客さんなんですから、ちゃんと御馳走になって下さい。んー、しょうがない。ちょっともやしを買って来ようかな。百円あれば足りるだろう」


 冷蔵庫を閉め、俺は全開になっているボタンを閉めながら買い物に行って来ると先輩に告げる。


「自転車でちゃっちゃかと買ってくるんで、鈴理先輩は寛いでおいて下さい。何もない部屋ですけど、適当にテレビとか観ていて良いんで」


「ならば、あたしなりに台所を触っておいて良いだろうか? 是非とも御両親に腕を振る舞いたいものでな」


 妙に笑顔を作る先輩が、いってらっしゃいと手を振ってくる。

 彼女ならついて来ると言ってきそうだったんだけど……まあいいや。先輩の手料理も食べたいしな。

 机に放置していた通学鞄を手に取り、俺は早足で部屋を出た。


 まさか見送ってくれる彼女が颯爽とスマホを取り出していたなんて、俺は知るよしもない。



「もしもしばあやか。大至急準備をして欲しい。ああ、一刻を争う。それから空に気付かれないよう頼む。空の気持ちを無碍にはできないからな」




 □




「本日はお招き頂き、まことにありがとうございます。夕食は勿論、泊めて頂けるなんて光栄です」



 Q.懇切丁寧に挨拶するのは誰ぞなもし。

 A.俺の彼女です。



 攻め女の欠片も見せず、微笑を浮かべて俺の両親に挨拶している先輩に俺は複雑な念を抱いていた。


 仕事から帰宅してきた両親は礼儀正しい先輩に好感度を上げているようだけど、俺もそれは嬉しいんだけど、普段の先輩を知っているからこの変貌っぷりにはなんとも複雑である。まる。


 ちゃぶ台を囲んで互いに挨拶している両者を見やった俺は、お淑やかに談笑している先輩を見て心中で溜息。

 俺にはそういうお淑やかの「お」も見せてくれませんよね。

 攻め女だからって割愛はしていますけど、たまにはそういう姿も見たいっすよ先輩。彼氏として。



 話は戻り、両親が仕事から帰宅した。

 先に母さん、後から父さんが帰宅したんだけど……後者の方が美人先輩に対してちょっち戸惑っていた。

 泊まりに来ることは知っていたけど、改めて部屋に令嬢がいると異質っていうか。圧迫感があるというか。普段住んでいる部屋に違和感があるというか。なんというか。


 だよなぁ、俺だって未だに戸惑うことがあるよ。

 あれこれ考えている間にも、父さんが何も無い部屋だけどゆっくりして欲しいと先輩に告げていた。


「ありがとうございます」


 笑顔を零す先輩の穏やかな笑みといったら……可愛いじゃないっすか。いつもは雄々しいのに!


「空さんの彼女さんって改めて見ると美人ですね。ね、裕作さん」


「そうだな。お淑やかで礼儀正しいし、なにより女性らしい」


 女性らしい。女性らしいねぇ。

 普段の先輩を見せてやりたいよ。父さん母さん。


 のほほんと会話している両親に、


「そんなことないですよ」


自分は普通だと先輩が一笑した。

 「な?」同意を求められ、俺は誤魔化し笑いを浮かべる。先輩の何処が普通なんでっしゃろう。


 ぞわっ。

 俺の背筋に寒気が走る。ぎこちなく先輩を見やった後、俺は下に視線を落とした。

 そこには太ももをお触りお触りしているおイタな彼女の手があったりなかったり。こ、こんの攻め女はいけしゃあしゃあと何してるんっすか! 両親の死角で何逆セクハラしてるんっすか!


 ツッコミたいのにツッコめないのは目前に両親がいるからだ。


 お願いっすから俺の両親の前で攻めモードにだけは入らないでくださいよ。

 両親には受け身のヘタレ男だって知られたくないんっすから。


 切な懇願も先輩には届かず、先輩は柔和な笑みを浮かべたまま右の手を動かしている。

 どうにか手を止めようと行動を起こすんだけど、その前に「空さん」母さんから名前を呼ばれてぎくり。


 おずおず視線を母さんに向ければ、「お鍋を持ってきましょう」そろそろ温まっている筈だと母さんが腰を上げた。手伝って欲しいと間接的に言われ、俺は慌てて立ち上がった。


「先輩は座ってていいっすから」


 にこやかに伝えてその場から逃げる俺の耳に、チッ、と舌打ちが聞こえたのは気のせいだろうか。


 思わず振り返ってしまう。

 そこには父さんと談笑している変貌した先輩の姿が……先輩、もしや二重人格の持ち主じゃないっすよね?


 疑念を抱きつつ俺は母さんと夕飯の支度をするため、鍋をちゃぶ台に運び、食器を並べ、白飯を茶碗によそった。

 父さんにはビールとコップを手渡し、さあ待ちに待ったすき焼きタイム。鍋を覗き込んだ俺達は声を上げた。が、すぐに俺と両親は首を捻る。


 いや不味そうとかそういうわけじゃない。

 ぐつぐつと煮え立った砂糖入りの醤油の海に牛肉や白ねぎ、しいたけに焼き豆腐、春菊と入っていて美味しそう。美味しそうなんだけど、それにしたって。


「肉の量が多くなっているような気がするんだけど、こんなに多かったっけ?」


 俺はおかしいな、と頭部を掻いた。

 一応は中身を確認したら、一人一枚食べる計算になっていたんだけど、一人三枚以上は食べられる量だぞ。これ。まさしく肉たっぷりだ。


「これは豪勢だな。はて、こんなに立派だったかな、母さん」


「さあ。下ごしらえをしてくださったのは空さんと鈴理さんですから」


 両親がハテナっと頭上にマークを浮かべる。

 俺も同じように疑問尽くし。

 懸賞で当てた肉にしては、立派過ぎる。記憶上、もう少し肉厚が薄かったような。なかったような。


「美味しそうですね。頂いて宜しいですか?」


 両手を叩いてぽわっと笑顔を作る鈴理先輩の化け面が、なんともかんとも。

 傍目から見たら一端の美人高校生がおもてなしに対して、嬉しそうに微笑んでいる光景。

 中身を知っている俺からしてみれば……ああもう、もう少し彼氏にも優しくして下さいな! 泣けてくる。色んな意味で。


 とにもかくにも彼女のためのおもてなしだから、俺達は揃ってイタダキマス。

 気にすることをやめて夕飯を食べることにしたんだけど、まずは一口と熱々の豆腐を食べた俺はびっくり仰天した。あっれー、なんか今日の豆腐、めっちゃ美味くね? 俺の気のせいじゃなかったら、いつもより滑らかな感じが。


 父さんも白ねぎ美味しいって言っているし、母さんもしいたけの厚みが凄いと言っているし、肉は当然柔らかくて美味しい。

 総合して言えば全部美味い! 食材全部が美味いよ!


「今日のご飯はいつになく美味しいな。久々にすき焼きを食べたからかな?」


「それに鈴理さんが来て下さったからですよ。ご飯は皆で食べるのが美味しいと言いますから。ほら、このサラダと玉子焼きは鈴理さんお手製だそうで」


 にこにこっと両親が笑顔を零した。

 俺もそうなのかもって笑みを零すんだけど、なーんか引っ掛かるんだよな。

 だって豆腐も白ねぎも春菊もしいたけも、俺が買ってきたわけなんだけど、格安で仕入れてきたんだぞ。つまり、いつも食べている食材なんだけど、今日は格別に美味しい。


「美味しいな」


 肉を頬張っている先輩が一笑してきた。

 喜んでくれる彼女を見たら疑念も吹き飛ぶ。

 良かったと綻び、俺は空になった彼女の小皿を取って何が食べたいかと尋ねた。


 適当によそって欲しいって言われたから、独断で食材を皿に入れていく。

 「はい」先輩に手渡すと、「ありがとう」笑顔を返された。先輩の元気な姿に俺はすっかりご満悦。やっぱり先輩は笑顔が似合う。


「ふふっ、仲が良いですね」


 俺達の光景に母さんが口を挟んできた。

 今のやり取りは普通じゃないか。別にいちゃいちゃとかラブラブとかなかったと思うんだけど。気恥ずかしくなる俺の隣で、「彼は気配り上手なんですよ」だからあたしの世話を進んでしてくれて、と先輩が返答した。


「それが空の良いところだと思います。ああそれに普段は(食らってしまいたいほど)照れ屋で可愛いんですよ」


 あ、あれ?

 今。内なる先輩の声が聞こえたような。父さん母さん、には、聞こえて、いない?


「まあ、そう言って頂けると親としても鼻が高いですね。裕作さん」


「本当にな。空の倹約(という名のケチ)が普段から出ているんじゃないかって心配していたんだが、彼女に優しくしているようで良かった」


「本当に優しいですよ。空は照れ屋ですぐ(あたしの攻めから)逃げてしまうことがありますが、そこも(押し倒したくなるほど)可愛くて。倹約心が出ることもたまにありますが、話を聞いて楽しいですし。ご両親思いですし。(婿養子にしたい)良い息子さんだと思います」


 うーんっと褒められて嬉しいのに、内なる声が聞こえて来るような気がして喜ぶに喜べない。

 俺の気のせいだって思いたいけど、ちゃーんとしっかり聞こえているわけで。

 いつまでも三点リーダーを醸し出していると母さんが夕飯後はお先にお風呂へ入って下さいな、と彼女に微笑した。


 「ありがとうございます」礼を告げる彼女は俺に視線を流し、一緒に入るかと爆弾発言を投下。


 ぶはっ、米粒を茶碗に飛ばす俺に、冗談だと鈴理先輩が笑声を零す。

 両親も俺の照れっぷりに笑っているんだけど、俺は気付いていた。今のは冗談じゃない、本気だと。だって彼女と目が合った瞬間、すべてを察してしまったんだ。


 べつにいいんだぞ、一緒に入っていいんだぞ、あたしは本気だぞって……彼女の目がそう俺に訴えていた。


(両親がいるから手出ししてこないと思ったのに……逆手に取られた。俺の方が変に反論できないや)


 恐るべし、攻め女!


 

 夕飯後、鈴理先輩は早々とお風呂に向かった。

 先輩は何も言わなかったけど、多分浴室狭いとか思ったんじゃないだろうか。特に浴槽は狭いからそこは我慢してもらいたい。庶民の風呂なんて所詮そんなものだ。母さんが彼女にシャワーの出し方を教えていたから、俺の出番はなし。


 平和に居間で父さんと談笑していた。

 先輩が上がると俺が風呂に入り、上がったら一緒にお菓子を間食して談笑。両親交えて談笑したから、本当に平和だった。夕方の出来事が嘘みたいに思える。


 なにより先輩が楽しそうだったから良かったと思えた。

 このまま何事もなく終わるんだろう。どーせ先輩も両親の前じゃ下手に動けないだろうし。


 なーんて悠長なことを思っていた俺だったけど恐怖が訪れるのはこの後のことだった。


 時刻は深夜。

 明日も仕事だからと父さん母さんのために、寝床を敷いた俺達は12時前に就寝した。居間側に両親が、寝室側に俺と先輩が寝るという形になったものの、各々布団があるからそこにおやすみなさい。明日のために眠りに就いた。

 ある意味雑魚寝っぽいから、先輩眠れるかなって心配していたんだけど、客人用布団でしっかり眠っているようだから安心して俺も瞼を下ろす。



 こうしてスヤスヤと眠りに就いた二時間後。

 午前二時過ぎに俺は目が覚めた。

 何故かというと、布団に違和感があったからだ。圧迫感っていうのかな? 妙に布団が狭い気がして俺は瞼を持ち上げる。


 するとどうだい。

 俺の視界に綺麗な茶髪が飛び込んできたわけだ。

 ギョッと驚く俺はぎこちなく視線を落とす。そこには客人用の布団で寝ている筈の鈴理先輩の姿が!


 な、な、なんで俺の布団に先輩が潜り込んでっ……声を上げそうになったの口を右手で押さえ、先輩が人差し指を立ててきた。


 真っ暗な視界だけど夜目が利いているから、なんとなく表情が分かる。

 今の先輩はまさに攻めモードだった。どうにか悲鳴を嚥下した俺は、すっかり覚めた思考を回転させ、「(何してるんっすか)」自分の布団に戻って下さいよ、と声を窄める。にやっと笑う先輩はヤダとのたまり、俺の胴に腕を巻きつけてきた。


 「ちょっ」声を出そうとすれば、「(ご両親が起きるぞ)」騒いでは駄目だと注意されてしまう。


 そう思うなら自分の布団に戻って下さいって! 健全な男子の布団に潜り込んでなあにしてらっしゃるんっすか!

 そこには俺の両親がいるんですよ。こ、こんなところ両親に見られたら、俺、発狂しかねませんって!

 小声で主張するも、「(あたしは夜這いしに来たんだ)」頓狂なことを彼女は言いやがりました。言いやがりましたよ。


 夜這いって、先輩は健全な女子高生でしょーよ! 先輩の脳内はショッキングピンクな不健全思考でもっ、俺はまだ先輩が純粋な女子高生だって信じてますからね!


「(ば、馬鹿なことはやめて下さいって。早く布団に戻っ…、ちょ、何処触って)」


「(空の脇腹)」


「(皆まで言わなくても分かってるっす! へっ、変に撫でないで下さいって)」


 くすぐったいでしょ。

 俺の訴えも知らん振りで先輩が擦り寄ってくる。目と鼻の先に先輩の顔があるもんだから、眠るどころじゃない! ほんっと勘弁してくださいよ。此処、相部屋になっちゃってるんっすよ。

 すぐ隣には両親がイ゛ッ……俺は必死に声を押し殺した。


 アッブネェ。

 今、先輩に鎖骨を噛まれたもんだから声が出そうになった。い、痛かった。


「(せ、先輩)」


 彼女を睨むも愉快に笑う攻め女。

 ザ・あたし様は、「(気付かれたくなかったら声は抑えることだぞ)」横暴なことをほざきやがりました。


 な、な、なんてあたし様だ! この人は我が家に泊まってまであたし様だったよ! 分かっていたけど!


 戻れと言っても言うことを聞いてくれないお嬢様に、俺は溜息をついて逆セクハラは駄目ですからねと釘を刺した。

 どーせ何を言っても無駄だろう。先輩が眠ってしまってから行動を起こすしかない。朝までにはこの状況を打破しないと。父さん母さんに見られるわけにはいかないんだって。って、思っている傍からまた腹を触るんだから。この人は。


「(先輩っ……怒りますよ)」


「(ぬっ、キレデレになるのか!)」


「(ケータイ小説に思考を持っていかないで下さいっす! 俺はキレにデレなんて入れませんから!)」


「(あたしに向かってキレるとな? それはいい度胸だ。今すぐ襲ってやる!)」


「(だぁああからぁあ! 両親が隣で寝ているんっすからっ、おとなしくしていて下さい! じゃないと力ずくで布団に戻します)」


 先輩に忠告すると、「(空が?)」先輩が訝しげな面持ちを作った。

 首肯した後、俺は間を置いてやっぱり無理かもしれないと考え直した。相手は合気道を習っている令嬢だぞ。細身でありながら手腕はそれなりにある。


 一方の俺は何も習っていない。どちらに軍配があがるのかは一目瞭然じゃないか!


 失言だと口を曲げていると、「(なあ)」声のトーンを落として先輩が話題を切り出してくる。

 どうしたのかと視線を流せば、躊躇いがちに先輩が今日は楽しかったと一笑した。

 建前のお礼だと分かってしまう。本音はもっと別のものだと分かってしまい、俺も戸惑った。瞬きをして相手を見つめていると、先輩が今度こそ本音をぶつけてきた。


「(空は大雅のこと、どう思っている?)」


 まさか此処で大雅先輩の話題が出るなんて思いもしなかった。

 どう思っているって勿論、あの人は傲慢で俺様でここぞって時にヘタれるアスパラベーコン巻系男子だと思う。

 悪い人じゃないとは思うよ。寧ろ、友達として仲良くしていきたい人だ。メンドクサイ先輩だけどさ。


 有りの儘に告げると、「(じゃあ。あたしと大雅の関係は?)」更なる質問が重ねられた。


 面を食らってしまう。

 鈴理先輩と大雅先輩の関係って許婚のことを指しているんだよな。どう思っているかって聞かれても、彼氏の立ち位置にいる俺にはなんとも言いづらいものがある。なんっつーか許婚って庶民の俺からしてみれば、漫画みたいな関係だから。


 でも二人は確かに許婚だ。それは変えられない事実。


「(お二人を見ていると嫉妬する関係だと思います。だって彼氏ですから)」


 目で笑ってやると、先輩が曖昧に笑声を漏らした。

 もっと別の答えを待っていたみたいだけど、今の俺には彼女がなんと言って欲しいのかイマイチ分からない。


 だから嫉妬する関係としか言いようがなかった。

 例えばこんな風に言ってあげれば良かったんだろうか? いずれお二人は将来を誓い合う関係ですよね、とか。財閥を背負い、支え合う関係ですよね、とか。必然的に結ばれる関係ですね、とか。


 これでも彼女のことが好きだから、それはあまり言いたくないけれど、先輩が望んで言って欲しいなら言葉にするよ。あくまで先輩が望んだらの話だけど。


 俺達の間に言葉がなくなる。


 静寂というよりも沈黙。

 その空気を作っているのは先輩だ。

 彼女の名を呼ぼうと口を開く、その前に頭を抱かれた。瞠目する間もなく、「(放してやらない)」先輩が独占欲を見せてくる。俺だって放す気はないですよ、と言いたかったけど今は成されるがままになった。


 鈴理先輩は俺の言葉より、俺の体温を求めている気がしたから。


 さっきまでおイタしていた手が俺の背中に回ってきた。

 彼女と目が合い、俺は頬を崩して相手に擦り寄る。髪を梳いてくる先輩は、ちょっと身を起こすと額と耳に唇を落としておやすみと挨拶をかけてきた。挨拶を返して俺は瞼を下ろす。


 交わした会話のおかげさまで妙な不安を抱いたけど、大丈夫だよな。俺の杞憂だよな。

 先輩の様子がちょっちおかしいのも、すぐに元通りに回復してくるだろう。そう願いながら俺は眠りに就くことにした。


 ちなみにこれは近未来、翌日の話になるんだけど、鈴理先輩って超策士で俺が起床した時には自分の布団に戻っていたという。

 けろっとして両親や俺に挨拶していた姿を見た時の脱力感を朝っぱらから味わうなんて、この時の俺は知る由もなかった。


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