09.御堂家の吉報




【御堂家の茶室にて】



 仄かに香る畳部屋はいつ来ても気が落ち着くものだ。

 こうして畳の上に腰を下ろすだけでも、心地良い香りが己にリラックスを与え、穏やかな気持ちのあり方を諭してくれるよう。

 日々時間に追われ過ごしている現代人に時間の本来の過ごし方を教えてくれるこの部屋は、まさしく憩いの間。


 御堂 玲の父・御堂源二みどうげんじは持ち前のちょび髭を触りながら、静まり返っている茶室で気を休めていた。傍では彼の妻・御堂一子みどうかずこ茶筅ちゃせんで軽く音を奏でている。

 シャッシャッシャ、茶を掻き立てる着物姿の妻を黙然と眺めるのも、また良いものだと源二は思う。


 互いに会話はなくとも妻と茶室で二人きり、こうして水入らずの時間を過ごせる。

 愛すべき人と過ごす時間はなによりかけがえのないもの。妻の横顔、ひとつに結われた緑の黒髪、美白のうなじ、どれを取っても見惚れてしまう。

 年月を重ねるごとに、その美は深まりを増している。


 源二は限りない惚気を胸に抱いた。

 茶筅を立て、茶碗を持って源二の下にやって来る一子。

 「どうぞ」そっと正面に茶碗を置き、一礼して柔和に綻んでくる。目尻を下げる源二も一礼を返し、「お点前いただきます」と挨拶。茶碗を右手でとり、左手にのせ、右手を添えると、茶碗の正面を避けるために、ふところ回しに二度まわして、向きを変える。そして茶碗を傾け、薄茶をいただく。


 身内だけのお茶会のため、作法も程々に源二は茶碗を下ろして、「さすがは一子だ」ようやく口を開き、静寂を裂いた。


「誰よりもお前の薄茶が美味い。ホッとする」


「ふふっ、貴方様はいつでもお口がお上手ですね」


 これはお世辞ではない。本当のことを言ったまでだ。妻に勝る薄茶があったものだろうか。夫婦で嗜む茶会は本当に良いものだ。

 源二は微笑を浮かべ茶碗を回して残っている薄茶を眺めていたが、心に一点に曇りが現れ、重々しく溜息をついた。

 夫婦で嗜む茶会は良いもの、そう最愛の我が子にも教えている筈なのだが、我が子ときたら今年で17の娘にもなるというのに恋愛どころか男を毛嫌いしてしまって。身内の男は嫌悪しないが、他人の男ともなるとそうもいかず。横暴な態度をとって許婚を白紙にしてしまうほど、男を嫌っている。

 そろそろ男に興味を持っても良いと思うのだが、娘は男装趣味に走り、自分が男のように振舞う始末。まったくもって誰の教育でそうなってしまったのやら。


 嗚呼、御堂財閥はこれで良いのだろうか。 

 苦虫を噛み潰したような顔を作る源二に便乗し、一子も着物の袖口で目元を拭う。


「玲はいつか、彼氏ではなく“彼女”を作ってきそうで作ってきそうで。嗚呼、貴方様、その時はどうしましょう。わたくしっ、暗転してしまいそうです」


「泣くな一子。男装趣味があろうと、あの子も心は女だ。きっといつか、男に目覚めてくれる日が来てくれる」


「ですけれど、玲はもう17。わたくしは16で貴方様と結婚したというのに……恋愛に興味を持たない玲のことが不安で不安で仕方がありません」


 おろおろと娘のことで青褪める一子、気持ちは十二分に分かる。

 自分だって娘の男嫌いと恋愛の無関心さに涙が出そうになるほどなのだから。


 揃って溜息をつく。

 安らぎの静寂が未来を見通す重々しい沈黙に移り変わってしまった。本当に子育てとは大変だ。特に思春期を迎えた娘の子育ては頭を悩ませる。無理やり見合いをさせ、許婚を取り付けてもまた白紙にするだけだろう。

 どうすれば恋愛に興味を、いやこの際恋愛は置いておいて、男嫌いを直してくれるのだろうか。



 バタバタバタ。


 障子の向こうから騒がしい足音。

 憩いの時間を邪魔するとは不届き千万だと思う一方、もしや一大事でもあったのではないだろうか。でなければ、夫婦の茶会を邪魔する女中などいない筈。

 顔を上げる夫妻の下、「失礼します」障子がやや強めに開けられる。


 現れたのは娘のお目付け・蘭子。

 茶会中、無礼をお許し下さいと頭を下げてくる彼女に、どうしたのだと一子が物申す。

 顔を上げた蘭子は、昨夜の財閥交流会で騒動があったのだと微苦笑。それが思った以上に財閥界で噂立ってしまい、ご報告するために参ったのだと告げた。


 途端に二人は顔を強張らせる。娘が騒動を、しかも噂を作った。

 嗚呼、なんという……これまでも幾度となく男関連で騒動を起こしてきた娘。大半が男嫌いだという理由で、暴言暴力騒動を起こしてきたのだが、またしてもなのだろうか。


 「なんてことでしょう」眩暈を起こしそうになる一子、隣で源二が詳細を教えてくれるよう頼む。

 予想に反して蘭子は穏やかな表情で、それこそ微笑ましそうにこうのたまった。


「少々言い方が荒くなるのですが、玲お嬢様が男の方を襲ったのです」


 嗚呼、やはり暴力沙汰を起こしたのだ。一子は嘆いた。

 源二はこめかみを擦り、これは娘と話し合わなければならないと苦言を漏らす。


「襲う意味が違いますよ」


 蘭子はすぐさま、二人の解釈を否定し、別の意味で男を襲ってしまったのだと微笑。

 三秒ほど間が空いた後、二人は目を剥いた。それはもしやもしかすると、あれ、あれだろうか。いや、あれしかない。ということは、え、まさか、娘が、あの男嫌いの娘が……男を襲うとした。天変地異でも起こるのではないだろうか!


 絶句する御堂夫婦に、蘭子はクスクスと笑声を漏らしながら続きを話してくれる。


「私はその場にいなかったので、現場を見ることができなかったのですが……それはそれは大騒動になったそうです。前触れはなかったものの玲お嬢様も、ついに男の方に興味を持ち始めたのでしょう。今、自分のお気持ちが信じられなくて大変動揺してらっしゃいますが、それもまた微笑ましゅうございます」


「まあ、素敵! では、玲もついに。貴方様」


 闇に一光が射すとはこのことである。

 パァッと目を輝かせ、両手を合わせて喜びを露にする一子に、源二も肩の荷が下りたような気持ちに駆られた。

 ようやく男に興味を、嗚呼、どれほどこの機を待ち望んでいたことか。


「調べはついているのか?」


 娘が興味を抱いた男について問う。

 勿論だと仕事の早い蘭子は、懐からメモ紙を取り出した。


「先に申し上げますと、実は財閥の方ではないのです。一般の方でして」


「よいよい」


 源二はこの際、身分はとやかく言わないと強く言い放った。

 娘が“彼女”を連れて来るよりも随分マシではないか! 彼女を連れて来られた日のイメトレをこっそりしていたため(嗚呼。なんてムナシイ)、興味を持った相手が男であるという事実に歓喜の涙が出そうである。


「私立エレガンス学院に通われている一般の方で、お名前は豊福空さま。ややご家庭に苦労を背負われた方でして、特別補助制度を受けている特待生だそうです。ご家庭のために特待生になられているとは凄いですね……まあ、実親を亡くされているそうで、今は叔父叔母に引き取られているそうですよ」


「そうなのですか、それはさぞご苦労があったのでしょう」


 同情する一子に相槌を打つ蘭子は、「それから」少しばかり顔を顰める。

 曇る顔に何か問題のある男なのかと夫婦は口を揃えた。首を横に振るものの、蘭子は吐息をついて肩を落とす。


「この方。彼女持ちなのです」


 なんだ、と夫婦は微笑を零した。

 それは娘の努力次第でどうにかなりそうではないか……え、彼女持ち。

 折角男嫌いの娘が男に興味を持ち始めたお相手には既に“彼女”がいる?


「しかも……鈴理令嬢の彼氏でして」


 うちの娘同様、変わり者と称されている竹之内財閥三女の彼氏、だと?


 これは困った事態である。

 幼い頃から何かと好敵手として対峙していた二人が、嗚呼、まさか恋愛に関してまで対峙することになるとは。


 いやある意味、これは運命なのかもしれない。

 何故ならば二人は好敵手、なにかと趣味が合う二人であるからして……だからって、うちの娘は何故よりにもよって竹之内財閥三女の彼氏に目を付けてしまったのだろうか。


「困りましたね」


 一子は夫に視線を流す。

 男に興味を持っても、持ったその時点で失恋してしまっては、今以上に男嫌いになりうる可能性もある。

 それだけは断固として阻止したいところだ。失恋を契機に、本当に彼女を作ってしまいそうである。


 唸り声を上げる源二は、「三女には許婚がいただろう?」問い返す。

 なのに彼氏を作っているのか。それは竹之内家、二階堂家にしてみれば不味いことでは……首を捻る源二に、蘭子はそうですね、と相槌を打つ。


「向こうの親御さまは、ただのお遊びだと考えられているようです。けれど此方としては、折角の機会でございます。どうにかして、玲お嬢様には殿方と親密になって頂きたい。なにより、私はお嬢様のお子様をお目に掛かりたいのです」


 あのままじゃ彼女を作ってしまいそうでしまいそうで。


「昨夜のパーティーに向かう途中でも、養子を作れば良いなどと申し上げたのですよ。涙が出そうになりましたとも」


 お目付けの嘆きに、夫妻もついつい嘆きたくなった。

 娘はどうして、そう安易に物事を考えるのだろうか。親心をまったく分かっていない。


 そんな娘は今、どうしているのだ。

 夫妻の疑問に、蘭子は一変して微笑。

 お話するよりも、自分の目で見た方が宜しいですよ、と手招きして腰を上げる。異存のない夫妻も当然腰を上げたのだった。


 


――蘭子の導きの下、夫妻が目の当たりにした光景は微笑ましい限りのものであった。



 男勝りの我が娘は自室前の縁側に腰掛け、膝の上で頬杖をついて呆然。

 庭に舞っている小さな蝶を眺め、ししおどしの音に耳を澄ませ、宙を見つめて、重々しく溜息。唸り声を上げ、「なんで僕はっ」と時折昨晩のことを思い出しては頭を抱えている。

 耳が赤いことから随分と意識している様子。それとも羞恥からだろうか?


「豊福は男、分かってはいる。いるんだ。だが信じがたい、僕は男を口説いた挙句っ、誘うッ……な、なんてことだ! そういう意味で誘ってはないにしろ、財閥界で噂になってしまった。

 嗚呼、やっぱりあいつは女なんだっ、そう思いたい、じゃないと僕自身が納得いかない!」


 親が見守っていることなんぞ知らない玲は髪を振り乱し、ぐわああっと頭を抱えに抱える。

 「男なんて」いつもの口癖を零した後、軽く目を伏せ、溜息をついた。


(豊福の女に対する気持ちを初対面ながら知ってしまったから、嫌悪はしなかった。それは認める。あいつと話していると、男ということも忘れてしまう。それも認める。だから少し興味を持ってしまったのかもしれないが……なにより興味を抱いてしまったのはあの時だ)


 ごろんと縁側に寝転がり、頭の後ろで腕を組んで玲は記憶を引きずり出す。


 本当に興味を持ったのはあの瞬間だ。

 そう、空が会場を抜け出しロビーで時間を潰していたあの時、なんとなく後をついて行った自分の目に飛び込んできた、あの物寂しい表情を目の当たりにした瞬間から、本当の意味で興味が出てきた。


 なんであんな表情をしていたのだろう。

 スーパーでは満面の笑みを浮かべて、意気揚々とタイムセールについて語っていたくせに。


――もしや分かっているのだろうか、自分の立場を。


 幾ら財閥に気に入られた彼氏とはいえ、相手に許婚がいる以上、いずれは別れなければならないその運命を。

 彼は覚悟しているのだろうか。必ず別れなければならない、その日を。


 でなければ、公の場でもあのように身分は隠さないだろう。

 変わり者の鈴理が自分にさえ彼氏のことを隠していたのだから、彼女が彼をデリケートに扱っているのは分かっているが、それにしても、である。


 意味深に吐息をつく玲は雨樋あまといを恍惚に見つめ、やんわりと瞬く。


 あのような表情は彼に似合わないと思った。


 同時に思い出すのは、何故だろうか、独占欲の凄まじさを物語っているキスマークだからの首筋。

 鈴理も溺愛しているな。男に溺れるなんて情けない。


 そりゃあ吸ってみたくなるような肌ではあったが。自分も痕を付けてみた……い……ちょっと待て。



「僕がなんでそのようなことを思わなければならないんだ。そりゃあ腰を触りたいだのっ、お、おおぉお思ってしまったが……普通はされたいと思うのが女であって。いや僕は男にされるなんてジョーダンじゃない。寧ろヤりたい側ああぁああ?! な、なにを口走って、僕もあれか、鈴理のいう攻め女だったのか。だがあいつは男だぞ男、可憐も何もないっ! 男なんて滅べばいいんだ!」



 じゃあ豊福が滅ぶということで?

 ……それは嫌だ、とてつもなく嫌だ。そして迷走している自分の気持ちがなによりも嫌だ。ガッデム。


 身悶えている玲は、うんうん唸って寝転がりながら近くの柱を蹴りつけていた。

 傍から見ればまさしく恋を煩っているおなごである。やや荒々しい光景ではあるが、それも微笑ましい限り。



 お目付けと夫妻はほろっと涙を滲ませて、感動に浸る。


 娘が男に恋をした。

 嗚呼、なんて素晴らしい光景。



「成就させなければいけませんね、貴方様」


「ああ。そうだな、一子」


「微笑ましゅうございます。玲お嬢様」



 お目付けと両親に見守られているなんぞ一抹も知る由のない、某王子は今しばらく悶えていたのだった。 


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