26.それでも僕等は家族だから




 数分後。


 ぐったりとベッドに沈んでいる俺は、「ありえないっす」羞恥のあまり唸り声を上げて、身を隠すように毛布を被っていた。

 笑声交じり、ご機嫌ルンルンの先輩は「まだ蜜柑いるか? 剥いてやるぞ?」意地の悪い質問を飛ばしてくる。


「いらないっす!」


 突っ返して俺は毛布の中でうんぬん唸り続けた。

 こんなのないっすよ、なんっつー仕置きっすか。普通に蜜柑食いたかった。え? 普通じゃない蜜柑の食い方をしたのか?

 結論から言えば、先輩から剥いてもらった蜜柑は全て平らげましたとも。美味しかったですとも。


 ただ俺の名誉のために、どんな風に食べたかはそっとしておいて欲しい切な問題だ。

 これから先、蜜柑を食う度に赤面しちまうような食い方をしたってことは補足としておこう。


「空、ヤラシイ食べ方だったな。なんというか必死で可愛らしかったぞ。途中から涙目になって蜜柑を飲み込むのも一苦労していたところは、一番の大興奮したポイントだ」


「悪趣味、先輩の悪趣味! チョー蜜柑嫌いになりそうっす!」


 うわあああああ蜜柑大好きなのに、大好きなのに、チクショォオオ! 先輩のバッキャロォオオ!


「何を言う。ヤラシイ空が悪い。もっと触っていけば、空はちょっとしたことでも敏感になってくれそうだ。な?」


 壮絶に悶えている俺に笑うや、布団を捲って耳の後ろをべろんと舐めてくる。

 ひっ、身を硬直させる獲物にまた一笑。首を動かせば、肉食はひとの唇を食み、そのまま自分のものと重ねる。

 軽い口づけを交わした後は、その唇が滑り悪戯気に首筋に当たった。


「ここに付けていた痕が消えている。空、何か言うことがあるんじゃないか?」


 何か言うこと、と言われても……う、ぎらついた目で俺を見ないで下さい。察してしまうじゃないですか。


「空はあたしの、なあに?」


「……か、彼女かなぁ。ポジション的に」


 生物学上はれっきしとた男だ。これだけは変えられない。今後変わるかもしれないけれど。


「確かにあたしのヒロインで彼女。けれど、あんたは誰でもないあたしの所有物だ。つまり、あたしのものだということだ。空も承知であたしの傍にいる筈。いや、望んで、だな」


 正しくは貴方様に落とされたんですよ。俺は。

 強引な戦法で攻めに攻められて、気付いたら先輩を好きになっていた。この責任は彼女にある。

 「空」含み笑いを零す先輩に唸り、「ちょうだい」俺は白旗を振るかわりにおねだりを口にした。


「所有物の証をちょうだい」


 言って大後悔である。

 容赦の欠片もないあたし様は、無遠慮に痕をつけまくり、ようやくご満悦。

 手鏡で確認した俺はどうやってこれを隠せばいいのかと悩む羽目になる。一日、二日じゃ消えないであろう痕は、己の存在を主張している。

 本当に彼女の所有物になった気分だ。否、俺は彼女の所有物なんだ。


「先輩……もう少し、手加減して下さいよ。虫刺され、じゃあ誤魔化せないですよ。これ」


「馬鹿を言え。好きな相手にはいつだって全力で向かう。それがあたしの、空に対する気持ちだ」


 好きな男を攻めることが生き甲斐だと言い切る彼女に、嬉しさ半分、複雑半分。

 こんなことを続けていたら、近々まじで食われそう。高校生でエッチは断固反対なんだけど……流されそうな俺がいそうで怖い。


 扉がノックされる。

 返事をすると、「私ですよ」朗らかな声と共に母さんが病室に入ってくる。

 不味い。俺は急いで首筋を隠すように、手の甲で何度もそこを擦る。

 それに気付かない母さんは鈴理先輩の姿に目尻を下げて、「いつもありがとうございます」会釈をひとつ。会釈を返す先輩は「彼女ですから」嬉しそうに口角を緩めた。


「愛されていますね」


 母さんに揶揄されて俺は真っ赤っか。


「照れている」


 先輩に指摘され、無言で亀布団に成り下がる。先輩も母さんも畜生だ。

 湧き立つ笑声も程々に先輩は腕時計を見て時間を確かめると、そろそろお暇すると言葉を掛けてきた。


 もうそんな時間か。

 布団を跳ね退けて上体を起こした俺は、「じゃあまた」身支度をする先輩に微笑する。


 退院しても明日、あさっては学校に行けそうにない。


 学校で会える日は早くても三日後だと思う。

 その旨を伝えると、明日は退院祝いの電話をすると先輩。俺に軽く手を振り、母さんに頭を下げ、病室を出て行く。

 見送りが出来ない俺の代わりに、母さんが廊下まで先輩を見送ってくれた。


 数分も経たず戻って来た母さんは先輩が座っていたスツールに腰掛け、持参してきた手提げ袋からクリーム色のカーディガンを取り出す。


「今日は冷えるそうですよ空さん。あったかくして夜を過ごさないと」


 カーディガンを広げて俺の肩にそっと掛けた。

 母さんは俺が入院してからずっと、病院で寝泊りを繰り返している。意識がない時も、目を覚ましてからも、ずっとずっと傍にいてくれる。

 それこそ仕事を休んでまで傍にいてくれる。一日だって欠かしたことがない。


 家で休んでもいいと言うのに、母さんは大丈夫ですよの一笑で流してしまう。

 心配を掛けた手前、母さんに家に帰って休んでよとか、無理するなよとか、強くは言えない。


 だって俺が目を覚ました時、誰よりも先に息子に縋って泣き崩れたのは母さんだったから。

 鉛のように重たい瞼を持ち上げた先で、母さんは無事と心配と不安、すべてを一斉に爆ぜさせて目が覚めたばかりの息子を掻き抱いてくれた。まだ状況把握もできていない息子をただひたすらに。


 幼少の記憶と被った。

 あの日あの時あの瞬間も、目覚めたばかりの意識不明の重体だった子供を母さんは掻き抱いてくれた。

 びっくりするくらい、やつれ、老け込んでいた母さんの姿を目の当たりにしたからこそ、強くは言えない。父さんも負けず劣らずやつれ、老け込んでたけどさ。母さんの方がやつれ具合が上回っていた気がする。


 今はそんな面影、一欠けらも見せないけれど。


「あら、鈴理さんがまた本をくださったの?」


「うん。ただ(アクの強い)恋愛物だから、読むペースが遅くって。だけど折角先輩がくれたから読もうと思って」


 なにより感想報告しないと俺の身が危ない。

 「そう」母さんは良かったですね、微笑ましそうに綻んでくれる。なんとなく居心地が悪くなるけど、俺は微笑を返すことに成功した。

 情けない。誘拐された時は母さんや父さんと、もっかい向かい合うって決めていたのに、現実はこれ。


 ずっとこれなんだ。

 今日こそ話を切り出そう、思い出したことを言おう言おう。そう思っても契機が掴めなくて。


 嗚呼、怖いのかもしれない。言ってどう反応されるか、それがとても。

 前進の一歩が踏み出せない。先輩に偉そうなことを言っておいて、なあにしているんだか。母さんはこんなにも近くにいてくれるのに。

 

 結局何も切り出せず、俺は読書、母さんは備え付けられているテレビを見ながら雑誌を開いていた。

 途中四苦八苦する夕飯時間を挟み、昨日、一昨日と変わらない時間を過ごす。

 内心じゃ情けないこと極まりなかったけど、どうしても勇気が出なかった。自分に苛々するくらい。


 雑誌を読み終えた母さんは、「りんごでも食べましょう」読書に耽っていた俺に提案してくる。

 文庫本にしおりを挟んみ、うんと一つ頷いた。


 早速母さんは見舞い品の果物カゴからりんご、そしてサイドテーブルに置いていた包丁と皿を手に取って作業に取り掛かる。

 シャリシャリと音を鳴らし、回しながらりんごを剥き始める母さんだけど、「あら失敗ね」なんて声音を上げて微苦笑。ウサギりんごにしようと思っていたのに、と独り言をポツリと呟いた。


 そういや母さんは昔からりんごをウサギにしてくれる癖があったよな。いつもりんごを剥いてくれる時はウサギだった。

 俺の指摘に、「空さんは」母さんは静かな声で返した。


「ウサギさんにするといつも喜んでくれたから、すっかり癖になっちゃったんですよ」


 作業を見つめていた俺は、思わず母さんを凝視。

 ふふっと笑声を漏らす母さんは、シャリシャリと音を奏でてりんごを剥いていく。


「最初に喜んでくれたのも。ウサギりんごさんでしたね」


 澄んだ声で思い出を噛み締める母さんは本当に嬉しそうな顔で語り部に立つ。



「あの頃の空さんは、毎日寂しそうで……どうしたら笑ってくれるのかと、頭を捻っていました。笑わない子供を見守る、それは新米の親とて、とても、とても寂しいものでしたから。

 両親を失った貴方の心とどう向き合えばいいのか、毎日裕作さんと話し合いました。カウンセラーの先生にも相談しました。

 随分長い間悩み続けた結果、ふっと気付きました。焦っては駄目だと。大人の私達が焦っては、きっと子供も焦ってしまう。時間を掛けて歩んでいくしかない。それしかない。急かすだけ悪い結果しか生まない。


 誰が傷付いているのか、それは勿論両親を失った空さんに決まっています。

 その子を引き取るといったのは我々夫婦。生半可な気持ちでいては、きっとお互い不幸になるだけ。覚悟を決め、親として認めてもらうためにも長い時間を掛けて歩んでいきましょう。

 裕作さんと何度も話あって決めたことです。


 長い時間のおかげで空さんは、いつしか私達を両親と認めてくれ、素直で純粋に、だけど金銭面でちょっとケチな、親孝行者に成長していきました。

 ほんと、イチにも両親、二にも両親な子供になってしまって、嬉しい反面、もう少し我が儘を言えばいいのに、と苦笑したことも多々ですよ。


 だから、空さんが誘拐されたと聞いた瞬間、目の前が真っ暗になってしまいました。


 悲しい? とんでもありません。

 私は息子が誘拐されたと聞いて、命が危ぶまれていると知って、電話越しから聞こえた銃声を聞いて、ああもしかして死んでしまったかもしれないと思った瞬間、ただただ死にたくなりました。

 悲しみなどなく、辛いと呼ぶにはあまりにやさしく、絶望というにはあまりにも生ぬるい。そう、不謹慎ではありますがこの表現がピッタリでした。

 こんなことになるなら、もっと息子の我が儘、無理やりでも聞いて沢山叶えてあげるべきだったと後悔の波に苛みました」



 タン、タン、皿の上で母さんはりんごを切り分けていく。 

 「ねえ空さん」綺麗に切り分けられたりんごは、「もっと私達を困らせても」均等に並べられ、「いいのですよ」そして俺の前に差し出される。


 もっと我が儘を言っていい、困らせていい、母さんは綻んでくるけど、俺は笑えなかった。ちっとも笑えなかった。



 顔を皺くちゃにして、ギュッとベッドシーツを握り締める。


 なんでそんなこと言うんだよ。

 沢山困らせてきたじゃんか。沢山世話になって、沢山愛してもらって、沢山傷付けたりもして。実の息子じゃない、孤児の子を沢山助けてくれたじゃんか。

 なのになんで。我が儘とか、俺のことバッカ、おれのことばっか……。


 病室に仕事帰りの父さんが入って来たことも気付かず、「俺のせいじゃんか」積もりに積もっていた気持ちを吐露する。


「今、父さん母さんが俺を引き取る羽目になったのも、両親が死んだことも、全部。あの時、俺がひとりで公園に行かなきゃ、誰も傷付かずに済んだ。二人が死ぬこともなかったし、父さん母さんが苦労することもなかったんだ。困らせるどころか、俺は……俺は……」


 滴る感情の雫と交じる嗚咽。

 やっと吐き出せたこの気持ち、たどたどしい自責の念を吐いて俺は膝を抱えた。

 本当はこんな姿を親には見せたくはなかった。向こうを困らせるだろうし、自責する息子なんて見たくないだろうから。


 ああもうグチャグチャだ。

 こんなことなら自分から切り出して、もっと落ち着いて両親と向き合えば良かった。

 母さんが俺の名前を呼んでも、俺は癇癪起こした子供のように自分のせいだと言い張って、優しさを拒絶する。


 高所恐怖症になったのは親を失ってしまった恐怖心と、自分の罪を認めたくない畏怖の念から。現在進行形で高所が怖い俺は本当に馬鹿で畜生だ。



「空さん、そらさん――空」



 何度も根気強く名前を呼ばれて、ようやく顔を上げる。

 こっちを見つめてくる母さんは「やっと教えてくれましたね」泣き笑いして、なんでもっと困らせないのかと息子の額を叩いた。

 ボロボロと泣きながら、鈍感な俺は気付く。母さんはとっくに俺の記憶が戻っていることに気付いていたのだと。


 そういや先輩、言っていたな。

 自分でさえ分かったんだ。両親は尚更、俺の変化に気付いているんじゃないか、と。

 母さんは知っていて……でも黙って見守ってくれたんだ。俺の気持ちに整理が付くまで、ずっとずっとそれこそ避け始めた理由を知っていても。


 それなのに、俺はこの人を避けた。

 怖くて逃げたんだ。十何年、親でいてくれた人から。


「空さん、貴方のせいだなんて誰も思っていませんよ。私達も、貴方の実親も……寧ろ、子不幸にさせたのは大人の私達かもしれませんね。実親は貴方を置いて逝き、私達は貴方に苦労ばかり掛けた」


「おれそんなこと、ぜんぜん」


「その気持ちは私達も同じですよ。空さん。子供の貴方が親に気を遣ってどうするんです? もっと我が儘になりなさい」


 嗚呼、敵わない。母さんには敵わない。

 そして言葉がもうこれしか浮かばない、一つしかもう出てこない。

 世界中何処を探してもいない実親と、ずっと傍に居てくれた両親に向かって、「ごめんなさい」

 

 黙って公園に行ってごめん、黙って避けてごめん、心配掛けてごめん、こんな息子でごめん、嗚呼ごめん節のオンパレード。

 りんごの載った皿を落としちまうけど、俺はごめんを繰り返して母さんに詫びた。一つひとつに相槌を打つ律儀な母さんは、「もういいんですよ」息子を抱き締めて背中をよしよし擦ってくれる。


 嗚咽が嗚咽にすらならなくなる。 

 母さんの服を握って、俺は此処が病院にも拘らず大声で泣きじゃくった。

 目の前で死んだ両親の恐怖から、後悔から、何から何まで吐き出して崩れるように泣き続けた。


 きっと俺はこうして親に甘えたかったに違いない。

 誰でもない親にこの気持ちを聞いてもらって、ぬくもりを与えてもらいたかったに違いない。


 だって俺はずっとこの人達の息子だったんだ。

 どんなに似てなくても、血縁が薄くても、生活が苦しくても、この人達が俺を引き取ってくれた。息子でいさせてくれた。

 そんな親に、俺はずっと甘えたかったに違いない。



 その夜、俺は久しぶりに心の底から眠りに就くことができた。

 記憶が蘇って以来、ちゃんと眠れたためしがなかったんだ。

 母さんと、いつの間にかいた父さんの前でたっぷり子供らしく癇癪起こして、泣いて、嘆いて、喚いたから安心しちまったんだと思う。俺も単純な生き物なんだ。


 寝る前に母さん達と約束した。

 記憶が戻った今、あの事件は誰も責めていないからもう自責しない……ちょっと無理だから、辛くなったら取り敢えず親の前で癇癪を起こせ、という変な約束を交わした。

 親曰く「避けられるより断然マシ」だそうな。ごめんって父さん母さん。反省している。


 もうひとつ、約束した。

 近々三人で実親の墓参りに行く大事な約束を交わした。

 そこで俺は両親にちゃんと報告しなさい、と促された。鈴理先輩のこととか、学校生活のこととか、記憶が蘇ったこととか。

 近状を報告する、それが実親への親孝行だって教えてくれた。


 んじゃ、父さん母さんへの親孝行は? 聞けば二人はこう返してくれた。

 まず怪我を治して元気よく学校に行くこと。でもって、もう少し親を頼ること。これが二人への親孝行だそうな。

 謙虚な要望だと思ったけど、ああそうか、後で一人で納得した。


 もう少し親子らしくしたいんだ、二人は。

 俺はそのつもりでいたんだけど、まだまだ俺等も家族として未熟な部分がある。

 先輩には超偉そうなこと言ったけど、俺も知らず知らず両親との間に壁や溝を作っていたに違いない。俺、馬鹿だから気付かなかったよ。

 そんな馬鹿息子だけど、父さん、母さん、これからもこんな息子を宜しく。俺は二人の息子で本当に良かった。良かったよ。

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