13.サバイバル本番(お湯パニック、だと?)




 □ ■ □



 前略、今日も不況に抗っていたであろう父さん、母さん。

 あなた方の息子、空は今、現実の厳しさを痛感しております。男を見せるというのはとてもとても難しい、と。

 特に相手が男前、じゃない、女前だと、仮にカッコを付けてもその後、自分が男のポジションに立ちたいだのなんだのヤンヤン騒いで、結局息子は男を見せられず……だったのです。


 まさか水辺に落ちるなんて、どんなお笑い話でしょうかね?


 それはさておいて、俺は今、先輩の家で見事に迷子になっています。


 何故か? 理由は簡単です。

 濡れた体が冷えるといけないからという理由で、お風呂を借りようと思い、先輩の自室から荷物を持って歩いているのですが、非常に不味いことに、迷ってしまいました。

 嗚呼、お風呂場や、嗚呼お風呂場や、一体貴方は何処にいるの?


「……此処は、何処だ?」


 歩いても歩いても辿り着かない回廊に足を止めて、俺は参ったと額に手を当てた。


 あれほど先輩に道を教えてもらったというのに、迷ってしまうとは迂闊だったなぁ。先輩に頼んでお風呂場まで案内してもらえば良かったかもしれないけど、お風呂場までついて来られちゃその先がやや不安で不安で。

 自力で行くと申し出たものの、地図でも書いてもらうんだった。迷っちまったよ。


 風呂場は一体何処だよ。

 トイレはなんとなくマークが付いてるから分かるけど、風呂にはマークが付いてないみたい。


 くそう、温泉マークくらい付けてくれたっていいじゃんか。客人に優しくない洋館だな。


 ポリポリと頬を掻いて、取り敢えず俺は来た道を戻ろうとするんだけど、嗚呼、どっかどう行けば先輩のお部屋なんだろうか。

 確か先輩の自室の前にはラベンダー畑の絵画あったよな。

 でも、それを目印に探そうとしても、それまでの道のりがなぁ。どーしよう。湿った服、早く脱ぎたいんだけど。


「あ、そうだ。俺、鞄ごと移動しているんだから、確か携帯が中に」


「あら? そこにいらっしゃるのは空さま?」


 声を掛けられて、俺は動きを止める。

 向こう側から歩んでくるのは、次女の真衣さん持ち前の緑の黒髪がとても綺麗だった。日本人ならではの髪だよな。艶やかな長髪を揺らして、俺の前に立ってくる。


 「鈴理さんはご一緒じゃないの?」問い掛けに、「えーっと俺はお風呂を借りようと」でも道に迷っちゃって、と事情を説明。

 クスリと笑声を漏らす真衣さんは、案内してあげるとスカートを翻して歩き始めた。


 「ありがとうございます」助かりました、と俺は有り難く彼女の後について行く。


「先ほどはごめんなさいね」


 突然切り出された話題に俺は、「え?」と首を傾げる。

 数秒後、詫びの内容がご両親の発言だということに行き着いて俺は微苦笑を零した。若干気にしているけど(嘘。わりかし気にしているけど)、真衣さんや先輩が悪いわけじゃないんだしな。


 一応、鈴理先輩には許婚さんもいるしな。

 お遊びに見られてもしょうがないんだろうけど、でも先輩は一生懸命俺のことを話していたみたいでもあるし。うーん。複雑だな。


「鈴理さんね、貴方のことを一生懸命話していたのよ」


 真衣さんは俺に向かって悪戯っぽく笑う。


「私達姉妹が驚くほど、饒舌に話すものだから……よっぽど好意を寄せているのでしょうね。と、微笑ましく思っていたの。鈴理さん、自分から話すことなんて滅多にないものだから」


「正直俺が恋人で、不快に思いませんでした? あ、変な意味で聞いているんじゃないっすよ。ただ先輩には許婚さんがいるんで、客観的に見てどうなのかと」


 ちょっとだけ瞠目する真衣さんだったけど、正直に答えてくれた。「いいえ」と。

 率直に物申してくれる真衣さんは、驚きはしたけれど不快には思わなかったし、心配にも思わなかったと話してくれた。


 何故なら、俺の話をする先輩がとても必死で楽しそうだったから。

 両親がどう思ったかは分からないけれど、自分達姉妹は凄く微笑ましい気分で静聴していたと言う。


「それに許婚の話なら、四姉妹各々に一応取り付けられているから、仮に別の恋人を作っても何も思う点はないの。咲子お姉さまも同じように恋人を作っていたし。それに大雅さまと鈴理さんの関係を見ていると、あの二人じゃ絶対に上手くいかないとも分かっているから。対して貴方様には本当に心を開いているのね。鈴理さん、よく笑っているわ」


「先輩、ご家族とも仲良くしたいと思いますよ。ただ、そのー」


「分かっているわ。家族評価を気にしているのよね、鈴理さん。だから全然、私達に歩み寄ろうとしなくなって。特に私には」


 真衣さんは哀しげに笑みを零した。

 そういえば真衣さんは、竹之内財閥の期待の星だったな。姉妹の中で一番期待されている。


 だから先輩は……そうか、先輩、彼女に歩み寄ると自分の疎外感を痛烈に感じるんだ。

 仲良くしたいけど、彼女に近付けば間接的に傷付くって分かっているから。


「昔はね、あの子と一番仲が良かったのよ」


 真衣さんは憂い帯びたまま語り部に立つ。



「嗜好も行動も正反対だったあの子と、本当に仲が良かったの。反対だったからこそ、お互いに補う点が多かったのかも。毎日一緒に遊んでいたのに、月日は残酷ね。いつの間にか私達の間に隔たりが生まれてしまっていたわ。あの子から姉妹の私達と距離を置くようになって、咲子お姉さまに何度相談したことか。昔に戻りたいわ」



 こんなことなら期待されない方が良かったかもしれない。


 小さな呟きは独白に近かった。聞いてはいけない独白だったかもしれないけど、俺の耳にはしっかり届いてしまう。人の家庭だから安易な事は言えないけど、これだけは言える。


「先輩は臆病になっているだけで、きっと真衣さんと同じ気持ちだと思います。昔みたいに、無邪気に仲良く出来る時代に戻りたいと思っている筈ですよ。でも、昔には戻れない。残念な事に……だから、これからもう一回作ればいいんだと思います。仲良くできる時代を」


「作る?」


「俺も経験あるんっすよ。家族のことで、そういう経験が。今は仲が良いっすけど、当初は俺がとても我が儘で」

 

 あの頃、俺がまだ実親を亡くしてそう月日が経っていない頃。

 俺は俺を引き取ってくれた今の父さん、母さんを両親として受け入れるまで相当時間を要した。


 だって信じられなかったんだ。実親が死んでしまったなんて。

 毎日、玄関前で実親が迎えに来てくれるのを待った。時に近所まで赴いて、一生懸命実親の姿を探した。


 いつかは来てくれると信じていたんだ。大好きな父さん、母さんが迎えに来てくれることを。


 晴れの日、曇りの日、雨の日、毎日のように実親を待っていた。

 遊びにも行かず、大半を玄関先で過ごしていた俺を見かねた父さん、母さんが声を掛けてくることもあったけど、聴く耳を持たず俺は座り込んで待っていた。


 その内、暇さえあれば母さんが隣に座ってくれたっけ。父さんが隣に座ってくれていた時もあった。

 俺の気の済むまで、両親は俺に付き合ってくれたんだ。話し相手にもなってくれた。


 本当は分かっていたんだ。

 幼い俺でも父さん、母さんはもういないんだって。向こうの訴えてくる目が何度も何度も強く教えてくれたから。


 けど、受け入れられずに時間だけ過ぎていった。 


 じゃあ受け入れられた契機はなんだったのか。注がれた愛情が積み重なって、結果的に雪崩れを起こしたから、だったと思う。

 

 明確な理由は無いんだけど、いつものように実親を待っていたある日のこと、一緒に待ってくれていた母さんが「おやつでも食べましょうか」と誘ってきてくれて。

 いつもいつも動きたくないと愚図る俺だから、此処に持ってくるから待っててねと言って一旦移動。


 ちょっと時間が経った後、お皿を持って戻って来た。

 俺を喜ばせようとウサギりんごにしてくれた、そのりんごを見て、なんだかもう、今まで張っていた糸が切れてしまったんだ。


 きっと俺自身、限界だったんだと思う。待つことに。


 ワンワン泣きじゃっくて母さんの胸に飛び込んだ。 

 お父さんお母さんはもういないんだよね、迎えに来ないんだよね、死んじゃったんだよね。


 確かめるように聞いて、それまで拒んでいた母さんの優しさに甘えて甘えてあまえて、俺は今の両親を受け入れた。


 受け入れる、そりゃもう、相当の勇気だったよ。

 自分の親を失ったって事実を受け入れなきゃいけないんだ。あの頃の俺にはすっげぇ勇気のいることだった。


 あの頃の俺と、先輩達ってある意味、似ているし、共通点がある。


「真衣さんや先輩の気持ちすっごく分かります。だって俺も昔の面影に縋っていた時代があったっすから。似たような経験しているんで、応援したくなる。大丈夫、遅くはないと思いますよ。時間は掛かると思うっすけど、でも、できないことじゃないっす。要はハートっすから」


 経験者が意気揚々と語れば、呆気に取られていた真衣さんがクスクスと笑って下さった。

 そんなに俺が言うと似合わなかったか? 今の台詞。いやでも経験者が言うんだから間違いない……マジだぞ? ほんとだぞ?


 ちょい困惑していると、真衣さんが「ごめんなさい」柔和に綻んだ。


「鈴理さんが貴方様を好きになる理由、よく分かったわ」


「……へ?」


 真衣さんは目元を和らげた。


「ふふっ、貴方様みたいな人、鈴理さんは大好きなのよ。なんていうのかしら。空さんは、環境にも屈しない強さを持っているわ。羨ましいくらいに」


「いや俺は」


「さてさて、そんな貴方様は今日、どんな肉食なお姿を鈴理さんに見せるのかしら。後日談が楽しみね」


「……え゛」


 顔を引き攣らせる俺に、「ロールキャベツなんでしょ?」ポッと真衣さんが頬を赤らめる。

 見た目は優男、中身は肉食ってあれっすよね、ロールキャベツ。夕飯もロールキャベツでしたね、美味かったっす。ごちそーさまっす。


 でも、俺は断じて先輩をごちそーさまする気はないっすよ。

 さらさらないっすよ。寧ろごちそーさまされそうで怖いんだけど。


 「あのー」別にそういうつもりは、言葉を濁す俺に、「お風呂ってそういう意味でしょう?」と聞かれてしまい、嗚呼、眩暈。

 なんでそう思われちまうんだよ。お風呂イコール準備ってか? そんなばーなな。俺と先輩はまだ学生。安易なセックスなんて許しませんよ、俺。


 本気と言われても、困るんだけどさ。


「きっと空さまのことだから、『鈴理先輩。お待たせしました。今夜は長いですよ。寝かせてやりません』とか言って、強引に押し倒しっ、キャー! そんな、キャー!」


 ケッタイ妄想をされて俺がキャー! そんな、キャー! ……真衣さん! なんて妄想するんっすか!

 残念な事に俺は根っからの草食系男子っす。性欲がないこともないっすけど、えっちぃより、一緒に仲良くおやすみなさいしたい健全な男子っす。プラトニックラブ推奨している男っす。


 そう訴えているのにも拘らず、真衣さんは両頬を包んで妄想を始める。


「まあ、そんな。空さまったら大胆。ああっ、どうしましょう」


 ポッポと頬を赤らめて、わたわたと妄想に浸る真衣さんの暴走に俺は手が付けられなくなった。


 もう、好きにして下さい。

 どーせ俺、宇津木先輩と川島先輩で好き放題妄想されているんっすから、慣れています。慣れていますよ、妄想されることには。


(嗚呼、ほんっとこの人はまごうことなき、先輩のお姉さんだ。キャラが濃い)


 ガックシ肩を落とす俺、豊福空だった。




 ちょいとしたハプニングはあったものの、俺はようやく風呂場に到着した。

 案内してくれた真衣さんにお礼を言って、まず脱衣所にお邪魔してみる。


 「うわぁ」感嘆の声を上げてしまった。

 すっげぇ、脱衣所すっごい広い。まるで銭湯の脱衣所みたいだ。いくつもの脱衣スペースがある。

 もしかしたら召使さん達も此処を……いやいや、此処は母屋だから、きっと召使さん達専用のお風呂場がある筈。


 家族専用だとしてもこりゃ広いよな。


 てか、ん? 大丈夫だよな?

 まだ誰も入ってないようだけど……御姉妹が入ってくるなんてとんだ青春ハプニングが……あるわけないか。一応、この風呂場、男女で仕切られているし。


 きっと思春期に入る娘さんを気遣ったお父さんの配慮だろうな。お父さんも苦労するよな、子供が全員女の子だと。


 俺は四隅の脱衣スペースを陣取って、早速湿ったシャツを脱ぐ。


「うへー」


 シャツ、ぐっしょりだ。

 替えのシャツ持って来て良かった。

 下着のシャツもぐっしょりだし、これも早く脱いで……ズボンとパンツも、あ、一応タオルは巻いておこう。先輩のお父さんが途中参戦してきたら困るしな。裸を見られてもいいけど、ま、一応。


 曇りガラス戸をスライドさせて、俺はお風呂場に足を踏み入れる。

 こりゃまた凄いのなんのって石畳風呂だ。軽く十人は入れそうなでっかい浴槽がある。


 お金持ちはすごいよな。

 一回の風呂で、すっげぇ水道代が掛かっているんじゃねえの? 呆気取られていた俺だったけど、取り敢えず体を洗うために移動。

 

 お客様用としていつも並べられているのか、石けんとスポンジが用意されている。真新しいシャンプーやリンスもある。

 使っても良さそうだから、これ等を借りて体の汚れを落とした。髪を洗ってさっぱりしたところ、最後は湯船につかって極楽極楽。


 あー気持ち良い。

 浴槽で足が伸ばせるとかいいよな。

 俺の家の風呂は、足が絶対に伸ばせないもん。


「風呂から上がったらどうしようかな。先輩と何しよう。このまま能天気にしていると先輩の攻めスイッチが入りそうだし」


 勉強するの手はもう使えないぞ。あらかた勉強終わっちまったもん。

 後は「ガラッ―」、んー、そうだな……談笑するしかないだろうけど。話題がな。


 ぼーっと湯につかっていると、「良い湯か?」隣から声を掛けられる。

 「あ、はい」俺はお邪魔していますと慌てて返事をする。


 やっべ、お父さんが入ってきたみたいだ。


「良い湯ですよ」


 笑みを刹那、俺は目を点にした。



「まったく、空があまりにも遅いから捜しに行ったではないか。何処行っていたんだ?」

 


 ふーっと湯船に使っているのはバスタオルに包まった先輩。

 おや、おかしい。俺は女湯を選んでしまったのだろうか。


 いや違う。

 俺はちゃんと男湯と描かれたのれんを目にして此処に入った。


 ということは先輩が此処にいることがおかしい。そうおかしいのである。


 カチンと固まる俺に、「迷子にでもなっていたのか?」先輩が早く来いと物申してお小言。


 冷静な俺なら「すんませんっす」と返すところだけど、遺憾な事に今の俺は冷静じゃなかった。

 彼女を凝視、次いでついつい男なら見てしまう胸を流し目にした後、「うわぁああああせんぱぁああいなにしてわああぁああ!」大絶叫を上げた。


 慌てて浴槽の隅っこに避難する俺は、彼女に背を向けてバックバクと高鳴る心臓を必死に押さえ込む。


「な、なにしているんっすか! こ、此処は男湯っすよ!」


 ああああっ、くそっ、ガン見しちゃったじゃないかっ、先輩のむ、む、む……俺なんて灰になればいいんだコノヤロウ。


 畜生、俺のお馬鹿。

 ちょっとときめいた俺、もっとお馬鹿。谷間がすげぇとか思った俺、爆死しちまえ。

 

「安心しろ。此処を使うのは父のみ。あたしが入っても驚くのは父だけだ」


「お、おぉお俺も十分おどっ、おどろっ…………風呂場襲撃まで予測していなかったっす」


「油断大敵だな。空」


 ええまったくもってそうっすね! 

 攻め女の行動範囲を熟知してなかった俺が悪かったっす!


 で、でもこれはあんまりっすっ!

 お互いに、は、裸を見たトラブルが発生した場合、十中八九男に非がくるんっすよ、先輩! 


 水音が聞こえ、ゲッ、こっちっ、来てますね、先輩こっちに来ていますね!


「先輩っ、こっち来ないで下さい! ま、マジ勘弁っすからっ!」


「まったく。空は初心(ウブ)過ぎるぞ。お互いタオルで隠しているのだから安心しろ。混浴じゃ普通だろ?」


 此処は男女湯で分かれていたじゃアーリマセンカ!


「絶対駄目っす! 来たら怒ります!」


 喚く俺に、「ったくもう。照れ過ぎだぞ」先輩は呆れ返ってくれた。清々しく呆れ返ってくれた。


 先輩には分からないんだ。この男心。

 どんなに草食系男子でも女性の裸に興味がないと思ったらなっ、思ったらな……この場から消えたい。


 浴槽の縁でガンガンと頭を打ちつけて身悶えている俺に何を思ったのか、先輩の一笑する声。

 ざぶざぶざぶと水しぶきを上げたと思ったら、俺の気持ちなんてお構いナシに背中を指でなぞってきた。


「うわぁあっ!」


 悲鳴を上げる俺は、猛スピードで逃げようとするんだけど、ガッチリ腕を掴まれて逃げ場を失う。


 イジメだ、これは一種のイジメだっ!

 女経験もない男をイジメても何もでないっすよ! マジっすよ! 畜生っすよ! どうせ俺は貧乏学生っすっ、顔立ちだって普通っす! 

 いたいけな純情少年をイジメて楽しいっすか?! だったらドドドドドSっす!


 大パニックになる俺に、落ち着けと先輩はクスクス笑ってくる。


「大丈夫だ。タオルを巻いているのだから。そうだな、これは水泳の一種とでも考えようか。そうすれば、お互い気兼ねなく話せる。タオルは水着だ。あたし達はまだ裸じゃないぞ」


「そ、そりゃそうっすけど」


「どっちにしろ冬には温泉に行くんだ。慣れないと駄目だぞ。変に意識するとあたしも恥ずかしくなる。ほらこっち向け。普通に話をしよう」


 だったらっ、部屋でもお話できるじゃないっすか。

 心中で涙を呑む俺だけど、先輩が一向に腕を解放してくれないから、観念しておずおず先輩と肩を並べることにした。まだ目が別の方向を見てしまうのはしゃーないよな!


 静かになる俺に、「可愛いな」余裕綽々な先輩は頬を突っついてくる。

 「やめて下さい」ぎこちなく返事をする俺は変に緊張していた。

 

「な、なんで……よりにもよって一緒に入ろうと思ったんっすか。お、俺、男っすよ? 発情して、お、襲っちまうかも……いや、逆に襲われそうっすけど」


「ふふっ、空の生肌を見たくてな」


 うぐっ、またそういうことをっ!

 呻く俺に、「それに言ってくれたじゃないか。あたしの心に触れたい」


「だから一緒に入ろうと思ったのだ。風呂の方が何かと語れるだろう?」


 そう言う彼女は、「ナニから話そうか」と軽く目を伏せる。


「そうだな。あたしが心の底から空を欲している話でもしようか。なあ、空、知っているか? 男女で性行為の考え方が違うということを」


「な、艶かしい話はっ、此処ではちょっと」


 慣れてないんっすけど、言葉が濁っちまうのは先輩がぺらぺら言葉を重ねたせい。

  


「男は相手にとって初めての男になりたがる。一方で、女は相手にとって最後の女になりたがる。分かるか? この意味。男は女に勲章として一刻みしたいんだ。対して女は男の最後となりたい。つまり、自分を最愛に置いて欲しいということだ。まあ、男の考え方に反感の念を抱く女は多いが、男にとっては結構これが当たり前だったりするらしい。あんたはそうか? 空」


「わ、わかんないっすよ。そんなこと」



 経験が無いし、性欲だってそんなに持ったこと無いんだから。

 ぎこちなく返せば先輩はそうかと相槌を打って、自分はどちらにも賛同できると答えた。


 男の考えにも賛同できるし、女の考え方にも賛同できる、どちらかといえば、さてどちらだろう。自問自答する先輩は、形の良い唇で孤を描いた。

 

「両方賛同できるからこそ、空に対しては両方使えるというわけだ」


「どういう……っ、」


 骨張った人差し指が俺の唇に押し当てられた。


「つまり空にとってあたしが最初の相手であり、最後の相手であることを望んでいるということだ」


 ピチャンと聞こえてくる水音。

 天井に付着した水蒸気が飽和状態を通り越して、水滴と化し、湯船に落ちたらしい。


「空、分かるか?」


 顔を覗き込まれて、俺は軽く視線を逸らす。

 これはもしかして今夜のお誘いだろうか。

 いや絶対そうだろ。空気を読めない俺じゃないから、今の空気をズバリ説明する事ができる。


 この空気は艶かしい! 間接的に今夜楽しみにしてます宣言だっ! 


 じょ、冗談じゃないぞ。

 こんなところで流されたら、今まで何のために逃げてきたのか。流されるなよ、俺、流されちゃ、おしまいだぞ。


「そうやって恥らっているあんたもそそる」


 駄目だ駄目だ駄目だっ、流されたらおしまっ……ザッバァーン!


 水飛沫が浴槽に上がった。なんでか?


 答え、先輩のせい。


 葛藤している俺に追い討ちを掛けるように、飛びついて俺もろとも浴槽に沈んできたんだ。


 すぐに浮上した俺達、先輩は体を洗うと湯船から上がり、俺は盛大に咽ていた。

 ゼェゼェゲホゲホ咽ながら俺はアリエナイと先輩にそっぽ向きながら悪態を付く。先輩はケラケラ笑うけど、マジでありえないんですけど。


 ほんっと……ありえねぇ……。

 お湯の中でキスされるとか、あーっ、くそっ……頭がくらくらしてきた。焦り過ぎ、興奮し過ぎ、騒ぎ過ぎだろ俺。

 そしてこれは、あれだ、風呂でよくある……のぼせたってヤツだ。


 あーっ……ちょ、やっべ。

 きてる。結構きてる。頭が……ぼーっと……まだレベル的に自力で湯船に上がれるけど、これはマジで……マジでやばい。


 ということで、俺は肉食獣に伝えたのだった。




「先輩、俺、先に上がるっす。シニソーっす。え? 駄目? いやそんな殺生な。だって俺、完全にのぼせました……あーあ、つらっ」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る