10.サバイバル中盤(初めての欲情)



 □ ■ □


 ゴッホン。

 突然の自己紹介を失敬いたしまする。 

 ワシの名前は渡邉わたなべ竹光たけみつ

 一般に使われる“渡辺”ではのうて、やや難しゅう“渡邉”という字を書く。時たまにこの苗字を見ることもあるんじゃが、大抵の方はワシの苗字を口にすると十中八九“渡辺”の字を思い浮かべてくれる。

 世間に浸透しているのは“渡辺”じゃからして、皆が間違うのも仕方が無いのう。

 竹光のことワシは、竹之内家の執事として、かれこれ数十余年勤めてまいった。三十年は軽く越しているのう。


 じゃからして竹之内家のことならなんでも知っている。

 住まい、別荘、勤め先に取引先、なんでも脳に詰まっておる。つまりはベテランもベテランじゃ。一応長年の実績で執事長を任されておる。ありがたやありがたや。重役を任されているからには頼られることも当然。

 毅然と下の者達に竹之内家のことや立ち振る舞いを指導しておる。


 それ故、一部の者から鬼じゃと呼ばれることもあるが……これも竹之内家ため。使いの一端者として、恥にならぬよう愛の鞭を振るわないと雇い主の旦那様方にご迷惑が掛かるじゃろう?


 じゃが……熱意が空回りすることも多々。

 ワシ自身にちと問題があって、すぐトラブルを起こしてしまうのじゃ。


 自覚しているんじゃぞ、せっかちで早とちりな面があるということは!


 先程も、申し訳ないことに三女・鈴理お嬢様の彼氏様にお名前・用件も聞かずビシバシ指導してしまって。

 客人を働かせてしまうとはなんったる無礼! 空さまは寛大な方で、笑って許して下さったがワシ自身が許せぬ失態じゃ。


 日々精進じゃな。もっと精進して、手本となるような執事にならねば!



「はてさて、そろそろお食事の時間じゃが。空さまは普段、いつ頃取られるのかのう? お嬢様、竹光です。入りますよ」



 夕食のことを聞くべく、ワシは鈴理お嬢様の部屋の前に立ってノックをしていた。

 召使達によるとお嬢様は空さまとお部屋にいるそうじゃが……うーむ、何度ノックをしても応答がない。耳を澄ましてみると、声は聞こえるのじゃが。


 もしかしたら談笑に耽っているのかもしれんのう。

 鈴理お嬢様は普段、家内にいる時はとてもクールで、口数が少なく、誰とでも一線引いてしまう方なんじゃが、空さまの前じゃ饒舌のようじゃ。よく喋られておる。


 空さまの行方不明事件の一件でも惜しみなく感情を曝け出したからのう。

 空さまのことを本当に想われておるのじゃろう。


 許婚の大雅さまのことが気掛かりじゃが、とにもかくにも鈴理お嬢様が楽しそうで竹光も嬉しゅうございます。

 何度ノックしても応答が無いため、「失礼します」ワシはドアノブを回して中に失礼する。



「だっ、だから無理っすっ! 許して下さいっ、勘弁っすよぉおお!」


「おとなしくしろ。なあに怖いことは何もしないぞ、そーら」



 絶句とは、今のワシのためにあるものだと思いましたぞ。鈴理お嬢様。

 扉を開けた先に待っていた光景は、フローリングに座り込んでいる空さまを無理やり押さえ付けている鈴理お嬢様の姿。付近に空さまの私物であろう、チェック柄のシャツが転がっていた。

 よって上半身のお姿は白の下着シャツになっておる。が、それもお嬢様が無理やり脱がせようとしているのか、首口が伸びておった。右肩が剥き出しじゃ。


「せ、先輩っ。俺じゃキモイっすよ! ほんとっ、吐き気がするだけっすから!」


「寧ろ興奮してしまいそうなあたしが」


「先輩ィイイイ! 俺を好きと仰ってくれるなら、どうかご慈悲をっ、うわぁああ竹光さんっ!」

 

 頓狂な声音を出す半泣きの空さまは、ワシの姿に気付いて、「ち、違うんっすよ!」赤面する。

 何が違うのか、説明する余裕もないのか空さまは違うを連呼しておった。一方、鈴理お嬢様は不機嫌に此方を見て、「馬鹿者」ノックくらいせんか、と注意を促してくる。


 竹光は何度もノックをしました、お嬢様。


「竹光、いつまで突っ立っている。空は着替え中だぞ。出んか」


「あっ、はい。失礼しました!」


「ちょっ、竹光さんっ!」


 慌てて頭を下げたワシは急いで部屋を出ると、自分の失態にやれやれと肩を落とす。

 今日は失態ばかりじゃのう。空さまを新人と間違えるわ、ビシバシ指導してしまうわ、着替え中にお邪魔してしまうわ。精進が足りんのう。そう精進…………ワシは冷静に状況を判断した後、一呼吸。


 再び扉を開けた。

 失礼じゃが今度はノックをしなかった。する余裕もなかったのじゃ。


 何せ、お嬢様がしていることは、



「鈴理お嬢様ぁアアア! そういう淫らな行為は竹光、断固反対ですじゃああああ!」






「――だから何度も言っているだろう、竹光。あたしは空を着替えさせようとしていただけであって、べつに行為に走るつもりなどまったくなかった。まあ、片隅に目論みはあったが」


「あのような状況で着替えなど誰が信じられますかのう! しかもお嬢様、空さまにこれを着させるおつもりだったのですか!」


「可愛いだろう? メイド達に新しいものを用意させたんだ。やはり空はロングだと思ってな。丈も空に合うよう、あらかじめ大きめに作らせておいたんだ」

  

 意気揚々に語る先輩に、「お嬢様というお方は」竹光さんがこめかみに手を添えて溜息をついた。


「昔からおてんばなところがありましたが、まさか恋愛に関してこんなにも傍若無人で雄々しい方だったとは」


苦虫を噛み潰したような面持ちを作りつつ、竹光さんは服をイソイソと着直している俺に同情を込めて視線を送ってくる。

 

 同情するなら、もっと早く助けて欲しかった。竹光さん。

 心中で溜息をつく俺は、ソファーに投げられた服に目を向ける。そこには藍色のワンピースとフリルの付いた白いエプロンを組み合わせたエプロンドレスが放置されていた。世間ではこの服をこう呼ぶだろう。“メイド服”と。

 

 事の始まりは数分前。

 すっかり良いムードを作り恋人オーラを醸し出していた俺達は、その空気のまま勉強を再開。和気藹々裡に会話を飛び交わせ、勉強に勤しんでいた。

 おかげ様で苦手な化学が少しずつ掴めてきた俺は、何とか来たる中間テストを乗り越えられそうだと安堵。俺の様子に先輩も、「大丈夫だ」あんたが思っているほど理解していないわけじゃないぞ、と励ましてくれた。

 

 だけど根詰めてやっても脳に定着するわけじゃない。少し休憩しよう。

 彼女の気遣いに俺は微笑して、その案を受け入れた。苦手な理科系は特に毎日集中して勉強をしていけば、きっと良い点数が取れる筈。努力を怠らず、毎日頑張ろう。

 

 決意を心に刻んでいると、「気分転換でもするか」先輩が手を叩いて立ち上がった。

 散歩でもするのかと思ったんだけど、鈴理先輩はクローゼットの方に歩んだ。


 気分転換で、クローゼット?


 もしかしてクローゼットの中にパーティーゲームとかでも入ってるのかなぁ、とか安易なことを思っていた俺は先輩が手にしたモノにギョッと驚く。

 だって先輩が手にしていたモノは召使の晶子さんが着ていたものと同じ、メイド服。


 いや、なんとなく此処のメイドさん方が着ている服よりも可愛らしくなっているような気が……ま、さ、か。


「空の執事姿を見ることができたんだ。是非ともメイド姿も見たい。以前携帯で見せたアリス服は、まだネットで注文中でな。こちらの手に届いていないんだ」

 

 だから空、今日はこれで我慢してくれ。

 と、まるで俺がいかにも女装をしたいかの如く言ってくれる先輩は、そのケッタイな服を片手に踵返して戻って来る。


 はてさて危機が迫った俺はというと、にこやかに涼やかに、開いていたノートを閉じると腰を上げて、先輩とは反対の方角。つまりは出入り口に向かって早足で逃げた。

 嗚呼、全国の男子諸君に問いたい、この状況が仮に自分の身の上に降りかかったらどう対処する? と。

 十人の男子に問うたら、きっと九人は確実に俺と同じ行動を取るに違いない。


 しかし残念なことに、ガシッと背後から肩を掴まれ、逃げ道を軽く封鎖された俺は千行の汗を流すことになった。意を決して首を捻り、俺は取り敢えず自分の気持ちを率直に吐く。


「俺、そういう服は着たくないっす。美形でも可愛い系でもない、平凡面の野郎が女装だなんて、そんなそんな」


「何を言う。空が着ればきっと可愛いと思うぞ。それに約束したではないか。あんたが大雅と昼飯を食った日、あたしではなく大雅を選択したあんたに仕置きとして女装をさせると」


 それは約束じゃなくて一方的な脅しっす。

 ブンブンと首を横に振る俺は一歩また一歩後退して、どうにかこの状況を打破しようと思考を目一杯稼働。その間にも先輩は俺に詰め寄ってくる。


「これは仕置きだぞ?」


 黙って着ろ、さあ着ろ、命令だ。

 いかんなくあたし様を発揮してくる先輩に、何度も首を振って抵抗を試みる。


「お、俺は先輩のメイド服姿が見たいです! そっちの方が目の保養になるっすよ!」


 想像して、ちょっとトキメキを覚える残念な俺がいる。

 いやいたく真面目な話、絶対に可愛いと思う。先輩のメイド服姿。先輩は女子が羨むダイナマイトボディだし、着ればさぞかし全国の男子諸君を喜ばせるような萌えが発生することだろう。

 俺だって彼女に萌えた……ゴッホン、彼女の可愛い姿に見惚れたい。癒されたい。目の保養が欲しい。


 俺の意見に、先輩は笑顔で即答。


「却下だ。ナニが悲しくてあたしがメイド服を着なければならん。つまらないだろ? 目にも毒だ」


「ええぇええっ! 全力で否定するします! 先輩が着た方がメイド服だって嬉しいだろうし、俺も嬉しいですし、先輩のファンだって黄色い悲鳴を上げますよ!」


 休憩を取るというのならば、これは是非先輩のメイド姿を見て癒されたい。

 やや変態くさい発言をする俺だけど、俺がメイドになるか、それとも先輩がメイドになるか、選べと言われたら俺は確実に後者を取る。

 良い意味で目に毒な先輩のメイド姿を見る方が絶対に良いだろ?!


「俺。先輩のメイド姿見たいな。癒されたいなぁ」おずおずと甘えたな声で掛け合ってみる。


 そしたら先輩、満面の笑顔で仕方が無いな、と綻んだ。


「あたしは執事服を着てやる。これで良いだろ? まったく仕置きにならん、フェアなやり方だな」


 いや違う。

 俺は別に先輩に対して男装をしろと言うつもりは毛頭ない。

 そりゃ条件的に言えばフェアではあるだろうさ。フェアでは。

 男装をしてもそりゃあ先輩だったら似合うだろうさ。カッケーとか思うだろうさ。美人執事に萌えだと口走る輩も少なからずいるだろう。


 だが、しかーし!

 ナニを着ても似合う先輩と違って、俺が女装なんてしたらブーイングの嵐。帰れコールが発生するだろう。ああ自信を持って言える、帰れコールが必ず発生する。俺が第三者の良識ある市民だったら惜しみなく帰れコールをさせてもらう。


 結論から言えば、俺は絶対にメイド服を着たく……ぬわぁ?!

 尻込みする俺の膝裏を容赦なく蹴っ飛ばした先輩のせいで、盛大に尻餅をつく。何するんっすか、という非難の声を上げることができなかったのは先輩が俺の頭を押さえつけて、そのままシャツに手を掛けたからだ。糸も容易くシャツを脱がしやがった先輩は、それをポイっと向こうに捨てる。


 引き攣り顔を作る俺にニヤ顔で笑って、「やはり仕置きは仕置きだしな」先輩は下着のシャツを掴んだ。


「これは仕置きなんだから、フェアも何もないな。あたしがあんたにどうこうするのはおかしい。ということで空、あんたはあたしにごめんなさいの意味を込めて着替えるべきだ」


「ご、ごめんなさいって……俺は悪いことなんてこれっぽっちもっ!」


「所有者を選ばなかっただろ? まだ抵抗するつもりか? あたしの言うことを聞かん悪い奴は、着替えだけでは済まされんようだ。まあいい、取り敢えず、脱げ、空!」


「脱がないっす! ギャァアアア! 先輩っ、本気っすかぁああ?! イタタタッ! ち、力強っ先輩ぃいい!」



 嗚呼――。


 こうして俺のこと豊福空は、危うく先輩に吐き気を煽るであろう姿にさせられそうになったのだった。まる。

 竹光さんが部屋に入ってこなかったら、俺は、俺はっ、おれはっ……おぇ……想像するだけで吐き気が込み上げてくる。


 先輩は俺に女装をさせて何が楽しいのだろう? まったくもって理解不可能、分析不可能、萌え不可能だ。


 やんやんとお小言を垂れている竹光さんは、悪びれた様子もない先輩に何を言っても無駄だと気付いたのか、呆れ返って溜息。

  腕を組んでふてぶてしく脹れ面を作っている先輩を流し目にし、「お松は何をしているのかのう」教育係のお松さんに文句垂れていたけど、これ以上言っても時間が経っていくだけだと話題を切り替えた。


「お嬢様。夕食のお時間が迫っていますが、如何なさいますかのう?」


「空と共に取りたいからな。空、腹は減っているか? あんたに合わせるが」


「あ、そうっすね。じゃあ頂こうかな」


 体が栄養摂取を欲している気がする。

 そりゃあ、来て早々新米執事として働かせられるは、先輩と濃厚なキスするは、あれやらこれやら、色んな時間を過ごしてきたんだ。空腹にだってなるよな。


「かしこまりました」


 会釈する竹光さんはすぐにダイニングルームに向かうよう指示してきた。

 すぐに食事を用意するから、目尻を下げて執事は退室する。


「さてとあたし達も行くか。メイド服は、取り敢えずクローゼットに仕舞っとくが、空、後で着ろよ?」


 う゛……諦めていなかったのね。先輩。


 食後のことをなるべく考えないようにして、俺は先輩と部屋を出てダイニングルームと呼ばれた一室に向かう。


 ちょいと先を歩く先輩の後ろについて、長い長い回廊をひたすら歩む。

 まったくもってメシを食うだけで大移動だなんて……改めておっきな家に住んでいるんだな、先輩の家。


 俺の家なんてメシを食うスペースと寝室が一緒だぞ。

 自分の部屋があるなんて俺の家には論外だね。部屋があるって羨ましい。


――だけど。


(俺にはちょっと広過ぎるな。この家)


 洋館って広々しているわりに、どこか肌寒い気がする。人のぬくもりが行き交いしてないっていうのかな。

 静けさに抱かれている無機質な壁や天井、床が、妙に冷たいんだ。空気もそうだし、この長い回廊だってそうだ。俺達の足音以外に何も消えない。


 時折聞こえてくれる音といえば、等間隔に並べられている窓辺の向こうの外界音くらいか。回廊空間は無音に近い。狭い家で生きてきたせいかな、そう感じるのは。


 窓ガラスに映る自分の姿に足を止めて、俺は暮夜の空を仰ぐ。

 真っ暗な空には小さな点々。星なんだろうけど、室内の明かりのせいか、星明りがこれぽっちもこっちまで届いていない。綺麗とは程遠く、弱り切った蛍の光を見てる気分だ。


「空、どうした?」


 歩みを止めた先輩が踵返した。

 「あ、いえ」俺は生返事を零し、早足で彼女の下に歩んだ。何をしていたのだと訝しげな顔を作る先輩に、「星が見えて」その場凌ぎの話題を切り出す。


「星座とか見えないかなって思ったんっすけど、やっぱり見えないですよね。俺、わりと星座には詳しいんですよ」


「ふふっ、空、理科系は苦手じゃなかったか? 天体は科学分野だぞ」


「星座は別なんっすよ。よく夏休みの自由研究で取り扱ってましたし。まあ、肉眼の天体観測なんですけどね。父さんと付近の空き地でよく星を見ていました。夏の大三角形とか探していましたね」 


「では、空に聞こう。夏の大三角形は何と何と何の星で出来ているかを」


 のたまう先輩に、俺は目尻を下げた。


「愚問っすよ、それ。夏の大三角形はこと座のベガ、わし座のアルタイル、はくちょう座のデネブの三つから成り立っていますっす」


 ちなみにベガとアルタイルは七夕伝説の織姫、彦星。

 でも七月の日本じゃ夏の大三角形はよく見えない。日本は温暖湿潤気候に当たっているから、梅雨の影響もあって雨の日も多い。


 かの有名な七月七日に見えるであろう織姫さんと彦星さんも、雨天、曇天のせいで見えないことが多々。恒例となっていることだろう。

 月遅れに当たる旧七夕、つまり八月上旬の方がよく見える。天の川も八月の方がよく見える筈だ。



「これは余談になるんっすけど、天の川って一年中見ることができるんっす。でも夏の天の川は日本では見え易いのに対し、冬の天の川はよく見えないんです。理由は夏の天の川は発光が強く、冬の天の川は発光が淡い。日本の地上はネオンだらけっすからね。人工の光が勝ってよく見えないんっす。ちょっと寂しいですね。人間の作っちまった光が勝って、本来見えるべき星明りが見えないなんて」



 静聴していた先輩は相槌を打って、「本当にな」弱く笑った。


「そういった意味では人間は愚者だ。自然と上手く調和できず齟齬(そご)をきたす。それだけではない。地位を手に入れた人間は、酷く貪欲なり、本来見るべき姿を忘却してしまう。地位の固持するなんて疲労を覚えるだろうに」


 あたしも疲れを覚えるよ。

 ぼやく先輩だったけど、ふっと我に返って「空は本当に星に詳しいんだな」柔和に綻んだ。

 まるで自分の胸の内を触れて欲しくないように、明るく話題を切り替える先輩に便乗して俺は得意気な顔を作った。理科系は苦手でも星は得意なんだ、と。


 だけど内心は引っ掛かっていた。先輩の異様な切り替えに。



 仮説。

 大雅先輩の言う先輩の孤独とやらに、俺は触れているのかもしれない。弱さと脆さに触れているのかもしれない。勘でしかないけれど。


「そうだ先輩、冬になったら一緒に天の川を見ません? 都会じゃ見えなくても田舎なら見えますよ、冬の天の川。俺、一度冬の天の川を見てみたくって。夏の天の川はたっぷり見ましたし」


 提案に彼女は目を削いだ。


「空。それは冬になってもあたしの傍……」


 微かに聞こえた台詞は当人の手によって揉み消された。

 満面の笑顔になって約束だぞ、やや声音を張って俺の鼻先を指で弾く。鼻先を擦る俺に絶対だからな、先輩は念を押してきた。


「あたしを誘ったんだ。責任を持って約束を果たせ。この冬はあたしと共に天の川観測だ。んー、折角なら泊まりで行きたいな。山地に赴き温泉に入るのも良い。天の川を見た後、風呂に入るんだ。素敵ではないか?」


「そうっすね。あ、そしたら本格的にバイトを探さないと旅費が」


「安心しろ。あたしの家は幾つも別荘を持っているから」


 旅費の心配は要らない、だから約束は守れよ。

 先輩の念の押しように苦笑しながら、俺は頷いた。


「約束です。一緒に天の川を見ましょう、先輩も守って下さいよ」


 俺の返答に満足気の彼女は、ホックホク顔で俺の腕を引き、「さあメシだ!」大股で歩みを再開する。

 ご機嫌に回廊を歩く背の小さな彼女を見下ろして、俺は目を細めた。


(先輩……、もしかして今の関係に不安だったりするのかな。押せ押せ攻め攻めだけど、俺がはっきり好意を示さないから、だから―……)


 いやそれだけじゃない。

 先輩は明らかにおセンチになっていた。俺のことというよりも、自分の取り巻く環境に憂いを抱いてるような、そんな、果敢ない姿を垣間見せていた気がする。


 大雅先輩は言っていた。



『鈴理が執拗にお前に触れたがるのは、お前がそんだけ好きってことだ。触れて触れてふれて、もっとお前を知りたいんだろうぜ?』



――先輩は俺じゃないと駄目だと言っていた。惚れ込んでくれている。



『お前に触れて触れてふれて、その孤独を拭おうとしてるのかもしれない。よく言うだろ? 人間は独りになると、愛情を求めちまうって。大好きなお前にガオーッすることで、孤独を霧散しようとしてるのかもしれない。同時にお前の心が欲しいんだろうな』



――彼女は体に触れたいと物申している。触れることで心も欲してくれる彼女と同じように、俺も触れたい気がした。



『片隅で孤独を拭おうとしている。少なくとも俺にはそう思える』




――体じゃなく、心そのものに。



「温泉は当然混浴だぞ。お互い浴衣で、あらやだぁな展開。んー帯で縛りプレイもいいよな」


 ケッタイな計画を立てていく先輩に愛想笑いを零しながら、俺は彼女をただひたすら想う。


 先輩に落ちかけている、俺の、初めての欲情な気がした。

 先輩にとっては大変遺憾な事に肉欲じゃない、精神的な我が儘を抱いたんだ。

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