09.サバイバル中盤(ちょいイイムード)
キャシーの猛烈な構って攻撃から、どうにか脱した俺は犬達と暫し戯れて退室。
手洗い場で洗面させてもらった後、中庭をグルッと散歩して先輩の部屋に戻った。そこですることがなくなったから、取り敢えず変な展開に持っていかれないよう、俺は勉強道具を取り出して先輩に勉強を教えてもらう戦法を取った。
「俺……特待生なんで」
もしも成績が落ちたら、特待生の名前が剥奪されてしまうのだと説明。
剥奪されてしまえば学校に通えなくなってしまうと、尤もらしい言葉を羅列して先輩に勉強を教えてくれるよう頼み込む。快く引き受けてくれた先輩は、テーブルに俺を誘導して「何処が分からないんだ?」早速質問してきた。
椅子に腰掛ける俺は、「化学なんっす」ガックリと肩を落とす。
「昔から駄目なんっすよ。理科系。数学はそうでもないんっすけど……、あー……化学記号とか、見てるだけで頭が痛くなってきた」
「あたしは理系だからな。そこら辺はなんとかなりそうだ」
「ありがとうございます。ほんと剥奪だけは洒落にならないんで……中学と高校じゃ勉強の内容、格段に違いますよね」
ついていけるかどうか不安だと吐露する俺に、「大丈夫だ」継続して勉強すればなんとなかると先輩は励ましてくれる。
もしも分からなかったら自分に聞けばいい、肩に手を置いてくる彼女に目尻を下げて俺は頷いた。そうだな、まだ入学して半年も経っていないんだし、弱気になってもしょうがない。
ノートを開く俺は教科書を見つつ、先輩に分からないところを質問する。
丁寧に答えを返してくれる先輩は、答えだけじゃなくてノートの取り方や纏め方も教えてくれた。乱雑にメモするんじゃなくて、メモするスペースと板書するスペースを分ければいい。
助言に俺はなるほどと手を叩いて、早速ノートの書き方を最後の見開きページにメモしておく。後で有効活用するために。
「空は本当に勉強に対して熱心だな。特待生になるのも頷けるノートだぞ。ただ……字が小さいが。極小だぞ、これ」
「だって字が小さい方がよりノートスペースが取れるじゃないっすか。節約っす! 大丈夫、ギリ読めますし」
先輩は複雑そうな顔で俺のノートを見下ろした。豆粒米粒みたいな字だと彼女は苦笑い。
確かにそうだけど、本人が読めれば問題は無いと思うんだ。
おかげで友達にノートは貸せないけど、貸しても読めないけど、まあいいんだ、何事も節約だ節約。教科書の文面をノートに書き写しながら、俺はさっきの勉強に対しての熱意にして答を返す。
「勉強に対しては半分意地なんっすよね」
「意地?」
「はい。意地っす。俺、中学の時は塾に通えなくて……中学に入りたての頃は塾に通う奴なんてほんの一握り。
なのに学年が上がるにつれて塾に通い出すクラスメートが増えて。中2の頃はクラスの半分。中3は俺と家庭教師を付けている奴以外除いて、大半が通っていました。
ぶっちゃけ焦りましたよ。
皆の成績は上がっていく一方だし、俺は俺で教科書とか参考書とか、そういったものでしか勉強できないし。俺なりに努力はしてたんっすけどね、成績が思うように上がらなくてあがらなくて。
だけど塾に行ってない周囲からしてみれば……ちょい遊び人に見られてたんで『空はいいよな。塾がなくて』とか言われてました」
「遊び人……」
「表向きではへらへらしてましたけど、内心じゃ『ああくそっ、違うんだよ、お金がないから行けないだけなんだ!』いつも苛ついてました。
できれば反論したかった。でもそんなこと、言えなかった。父さん、母さんが苦労していることを知っていたし、それを盾にして弁解するのもカッコ悪かったっすから。そんな俺が私立エレガンス学院を受験するって周囲が知った時、もう少しレベルを落とした方がいいんじゃないかとか、無理だとか、散々な事を言われました。
だけどそこの奨学生を狙うしかない。都立も私立も金が高い。親に負担は掛けられない。
毎日まいにち、先生たちのところに通い詰めました。放課後もできる限り、先生達に教えてもらって、分からないところは参考書を借りて。塾に通っている皆に対して俺は」
「図書館で勉強していた」
「そうっす。あれ、言ったことありましたっけ? 仰るとおり、俺は図書館で勉強していました。
途中目標がいつの間にか、受験合格じゃなくて、打倒塾生になるほど意地になって勉強していました。
そのせいでちょい、友達と喧嘩したこともあったっす。最終的には目標を見直して合格したけど、その友達とは喧嘩別れしちゃったなぁ。今どうしてることやら」
そういう苦い経験もしたから、勉強で負けたくない。
塾に通っている通っていない、それだけで俺の人生って左右される。
そんなの絶対に嫌だし、努力もしないで道なんて拓ける筈もない。
じゃあ死ぬほど努力して、それでも駄目だったら、進学を諦めて働けばいいじゃないか。挫けそうな時は、いつもそう自分に言い聞かせていた。
塾に通っていないだけで疎外感を感じる俺も嫌だった。
けれど、内心で塾に通えている皆に羨望を抱く俺もいた。皆と同じように塾に通いたい、なんて思う俺もいた。
矛盾する俺がいつもいた。
「育ててくれた両親に失礼だって分かっていたのに、塾に通えている皆のことを羨ましがってました。昔から自分達の生活でいっぱいいっぱい、それでも身寄りの無くなった俺を引き取ってくれた優しい人達に申し訳ない気持ちを抱いていました。申し訳ないと分かっていたから、勉強のことに片意地張っちゃって」
「……空」
「両親には別にエレガンス学院じゃなくてもいいって言われてましたけど、そこに行ってどうしても親孝行したかったんっす。あの人達は、」
嗚呼、思い出す。
「子供が恵まれなった分、」
幼い俺がジャングルジムで大怪我を負って入院した時、目覚めて最初に名前を呼んでくれたのはあの人達だった。
まだあの人達が俺の中にとって叔父さん、叔母さんだったあの日、あの時、あの瞬間。
「本当の子供じゃない俺を、我が子のように愛してくれて」
もう実親は事故で死んでいて、俺はその時からもうひとりで、嗚呼、それでも俺はひとりじゃなかった。
実親を目で探す俺を母さんが抱き締めてくれて、父さんが俺を子供だと言ってくれた。違うと否定しても、今日から子供なのだと何度も繰り返してくれた。泣きながら、自分達の子供なのだと言ってくれた。
「あの人達がいたから俺は今こうして心裕福に生きている」
あの時俺は傷付く言葉を言ったかもしれない。否定したかもしれない。なんで実親がいないのだと嘆いた気もする。
それでもあの人達は優しく抱き締めくれていた。いつまで、そう、いつまでも。
「父さん母さんが事故で死んだ。幼い俺にはそんな事実、受け入れ難くて……なんで俺はひとりで此処にいるんだろう。そう思った日もあった。後悔した日もありました。なんで俺はあの時、ひとりで……あれ?」
なんで後悔していたんだっけ、俺。
あの時って何の話だ。
今、俺は何を思い出そうと「空」、ふっと優しく頭を抱き締められて我に返る。
視界が潤んでいることに気付いた。滴り落ちる雫に気付いて俺自身が驚く。なんで、俺、泣いて。
おかしい、どうして泣く必要があるんだ。実親のことで感極まったのかもしれない。
だけどこれはおかしい、どうしても涙が止まらない。止まれない。
なんで、だ。
なんで、俺はこんなにも涙が溢れるんだろう。
これは懐かしむ涙じゃない。
確かに自責する涙。俺は後悔している。何かに後悔している。でもナニに後悔しているのか。
「俺、忘れている。でもナニを」
何処からか聞こえる、俺のせいだという後悔。
俺のせい、ナニが、俺のせいなんだろう。
どうして思い出せないんだ。俺のことなのに。俺自身のことなのに。混乱と動揺が入り混じる。
そういえば俺、父さんと母さんが死んだ日、何処にいたんだろう。気付いたらもう入院してたっけ。気付いたら、今の父さん母さんが俺の傍に、入れ違いに前の父さん母さんがいなくなって。
なあ、父さん母さん、俺を産んでくれた父さん母さん、貴方達が事故に遭った日、俺は何処にいましたか?
「空、大丈夫。だいじょーぶ」
混乱に混乱している俺の背中を擦って、先輩が頬を寄せてくた。
柔らかなソプラノがジンワリと心中に浸透して、優しさと平穏が静かに産声を上げる。
ダイジョーブ、なんてことないヒトコトなのに、それが何よりも慰めになった。
スンッと洟を啜って、俺はノートに落ちた自分の水滴を服の袖で拭う。
「すんませんっす。なんか、シケ込んじゃって。こんなつもりは毛頭なかったんです。楽しい勉強会にしたかったんっすけど」
「あんたは本当にご両親が好きなんだな。どちらのご両親も大切にして、親孝行息子だな」
「ふふっ、重度のファザコンマザコンって自覚はあります。冗談でも馬鹿にされたら本気でキレますからね、俺」
ようやく、おどけ口調を叩けるまでに回復する。
目で笑う先輩は気にしていないという素振りで、俺の目尻に親指を這わして綺麗に涙を拭ってくれた。ぺろっと涙を舐めてしょっぱいと感想をくれる彼女は、窓の向こう、日が沈み始めた空を見つめてポツリと言う。
「いつか、もし辛くて押し潰されそうな日が来たら、真っ先に頼って欲しい。真っ先に、あたしに頼って来い。空」
「先輩……?」
「あたしはな、空。これでも惚れた男には徹底的に尽くしたいタイプなのだぞ。特に入学する前からあんたに惚れ込んでいたあたしだ。それくらいの見返りは求めたっていいだろう?
空、あたしはあんたが入学する前からあんたのことを知っているんだ。両親思いだということも知っていた。知っていたさ。
あの日、学食堂で出会う前からずっとあたしは、あんたを見ていたんだ」
リフレインする先輩の台詞に俺は、軽く目を見開いた。
「嘘っすよ」「本当だ。あたしは知っていたさ、入学する前から、あんたのことを」
あどけなく笑う先輩は、俺の出身中学と三年の時の組をズバリ言い当てた。
単に調べ上げたんじゃ、疑念は抱いたけど真っ直ぐに見つめてくる先輩の瞳には一点の曇りもない。
思わず腰を上げそうになった俺だけど、どうにか思い止まって先輩を熟視する。
俺はこんな美人さん、一度見たらそうは忘れられないけどな。会ったことはない筈なんだけど。
「いつ、どこで?」俺の問いに、「それは秘密だ」まだ教えてやらないのだと先輩は悪戯っぽく笑った。
「まあ、あたしにとってあんたが運命のヒロインだということだけは確かだな。あたしは当然ヒーローだ。これは決まっていた運命だ。あんたはあたしの姫様になるんだ」
「姫、俺がっすか?」
苦笑する俺に、先輩は姫は固定だぞ、と意気揚々と答えてくれる。
こうして先輩はいつもどおり接して、遠回し遠回し俺を励ましてくれている。俺には分かる。分かるんっすよ、先輩。
ありがとう、先輩。
いつも先輩は俺を助けてくれる。
攻め攻め押せ押せで性交だのなんだの言ってくれる困ったさんだけど、だけど。
「空?」
隣に座る先輩に凭れて、俺は目を閉じた。
「意地でも勉強に勝ちます」
そして成績を維持する。お金の有無で成績を下げてたまるか。
だって奨学生を剥奪されたら、もう先輩といられないから。俺の宣誓に先輩は微笑を零すと、頭を撫でてきた。
「あんたみたいに、環境さえ跳ね飛ばす力、あたしも欲しいよ。あんたみたいに強くなりたいものだ」
「俺はそんなに強くないっすよ。強くなんかない。結構内面では卑屈になってばっかだ」
「人間とはそんなものだ。あたしだって……卑屈になってばかりだ。普通の家庭に生まれたかった、とかな」
そっか、先輩もそういう風に思う事があるんだ。
令嬢の本音にちょっとだけ安堵した。誰にだってそういう面がある、卑屈な面がある、共鳴できるって安心できるじゃんか。な?
俺は先輩の肩口に顔を埋めて、ただ彼女のぬくもりを感じることにした。
混乱した分、人肌が恋しいのかもしれない。彼女なら許してくれるだろうって高を括って、大胆な行動に出たけど、案の定、優しい彼女は俺の甘えを受け入れてくれる。
「先輩はあったかいっすね。それに、優しい匂いがする」
「誘っているのか?」
「空気を読んで下さいよ。今、めっちゃイイムードっすよ」
「わざとだわざと。あたしだって今は、そんな気になれないさ。こんなにも空があたしと近いのだから――空もあったかいな」
ゆっくりと這い伝ってくる先輩の左の手が、やがて俺の右の手を捕まえてしっかりと結んでくる。
結び返した俺は、瞼を下ろしたまま彼女のぬくもり、優しい匂い、窓辺から差し込んでくる夕陽の暖に風のさざめきを一心に感じていた。
不思議と鼓動は速まっていくし、体温も上昇している。
それでも手を解く気にはなれない。あったかい先輩の手もまた、俺と同じように体温が上昇していると、気付いてしまったのだから。
嗚呼、いっぱいだ。
「空、夕陽が綺麗だぞ」
瞼の裏に感じる夕陽の眩しさもいっぱいなら、胸を占めている彼女もまた俺の中でいっぱいだ。
ようやく瞼を持ち上げた俺の視界はオレンジでいっぱい。そして流し目にして見つめる先にいる、彼女の横顔も、彼女の柔和な綻びも、彼女自身も、俺の中でいっぱいだ。
「本当に赤く染まって綺麗だな。なあ、空」
俺の中で先輩がいて当たり前の世界になっている。
先輩のいる世界できっと、色付き始めているんだ。
「本当に綺麗っす、綺麗っすね」
その色付き始めている世界が何よりも、俺の中で綺麗だと感じ始めている。
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