07.サバイバル序盤(キスであれれのれ)



「――申し訳ございませぬ。この竹光、早とちりで新人と彼氏様をお間違えしてしまうとはっ! 本当に申し訳ございませぬ! いやはや、その誠実そうなナリから、ついついうっかりと間違えてしまい」



 それってつまり、あれだろ。

 誠実という褒め言葉は一応口にはしてくれているけど、裏を返せば「え。お嬢様の彼氏にはちょい見えなくね? 寧ろ働きに来たんだろ?」と言いたいんだろう? そう見えるんだろう?


 すんませんね、そういうオーラムンムンで。

 気持ちはスンゲェ分かりますよ。俺も多少はそういうオーラを醸し出している自覚はあるんで、気持ちはすこぶる分かります。


 でも、最初に名前と用件くらいは聞こうよ、竹光さん。ちっとも人の話を聞こうとしなかったでしょう。


 心中で溜息。面では苦笑いを零す俺は、「大丈夫っす」もう気にしていないから、そう言って謝罪会見をお開きにさせようとする。が、しかし、その前にベッドに腰掛けている俺の右横で俺の淹れた茶を飲んでいる鈴理先輩が「この大馬鹿者め!」と、悪態を付いて一気飲み。

 荒々しくカップをトレイに置いて捲くし立て始めた。


「客人を使いの新人と間違えた挙句、投げ飛ばす馬鹿が何処にいる! しかもあろうことか、あたしの前で! あんたは柔道の免許皆伝を持っているのだぞ。もしも空に大怪我などさせたらご両親になんと詫びればよいのだ! 幸い、打ち身のみで済んだが……もしものことがあったと思うと」


「せ、先輩。大袈裟っすよ。俺もすぐに用件を言わなかったのが悪かったんですし」


「竹光のことだ。聞く耳も持たず急かしたのだろう」


 あ、図星。

 竹光さんのフォローのしようがなくなった。


 とにもかくにも先輩の機嫌を回復させようと躍起になる。

 折角、遊びに来たんだ。心配を掛けたことはごめんなさいだけど、楽しいことは今からだよ今から。時間だって、俺が此処に来てからそうは経ってないんだし、これも楽しい思い出の一つになったって事でいいと思うんだ。

 ぶすくれている鈴理先輩に綻んだ後、「俺も勉強になりました」竹光さんに愛のある指導をどうもっと頭を下げる。


「言葉遣いも、もう少し……丁寧にしようと思うっす。じゃね、思います」



「いえいえいえいえいえ! それは召使に対しての御指導でしてっ、使いでも何でもない空さまは直さなくても宜しゅうございます! 竹光は恥ずかしい限りですじゃ。初対面の空さまに名も用件も聞かず、花壇の花植えをさせたり、荷物運びをさせたり、食器を洗わせたり。働かせた分の時給はこちらで支給するのでご安心を」



「大したことはしていません。二日間お世話になるんっす……ゴッホン、なるのですから、あれくらい当然かと。あ、そうだ。これ、両親からなんですけど……お煎餅、宜しければ食べて下さい」



 俺は晶子さんが持って来てくれた自分の荷物の中から、缶に入った煎餅を竹光さん、それから言葉自身を先輩に贈る。流石に召使さん達ひっくるめた全員分は無いけど、鈴理先輩のご家族分くらいはあると思う。口に合うかどうかは置いといて……要は気持ちだろ。な?

 「気遣わなくとも良かったのに」先輩には苦笑されて、竹光さんには「お優しい方にわしはなんてことをっ!」なんだか知らないけどもっと罪悪感を煽ってしまったらしい。再三再四頭を下げられた。本当にもう気にしていないんだけど。



 こうして長々と謝罪会見を開いていてもしょうがない。 

 俺は話題を変えるために、「すみませんけど飲み物を頂けますか?」と、有り触れた話を切り出す。本当に喉が渇いていたりするんだ。あんなドタバタ騒動があった後だ。水分補給だってしたくなる。

 すぐに用意するとベテラン執事になる竹光さんは、ご丁寧に俺と先輩に会釈をし、傍にいた晶子さんと一緒に先輩の部屋から出て行った。

 お茶と共にお菓子も用意してくれるとか。


 そこまで気遣ってくれなくてもいいんだけど、相手の厚意だ。有り難く頂戴しよう。



 二人がいなくなったことで部屋が静まり返る。

 晶子さんは置いといて、竹光さんがどれだけ濃いキャラだったかを窺わせる静寂っぷり。静か過ぎてちょい不気味かも。


 俺は窓辺から吹き込んでくる微風を頬で受け止めつつ、改めて部屋を見渡す。

 さっきはドタバタしていたから見る間も感じる間もなかったけど、此処は先輩の部屋なんだよな。


 だだっ広い部屋だな。高そうな椅子や丸テーブル、ベージュのソファーがでーんっと部屋に置いてあるくらいだから、この部屋は相当広い。俺には広過ぎるくらいだ。微風に踊らされている若葉色のカーテンがゆらゆらと体に揺すっている。

 高級感溢れるラックや生活感をカンジさせる勉強机、本棚なんかもあるけど先輩の大好きな恋愛小説バッカなのかな?


 こんなこと言ったら変態くさいかもしれないけど、この部屋は先輩の匂いがする。優しい匂いだ。安心する香りが仄かにしてくる。先輩が部屋を使っているのだと改めて実感する。彼女の匂いがして当たり前なのかもしれないけど、鼻孔を擽られるほどこの部屋は先輩の香りでいっぱいだ。



 突然、世界が反転した。



 「お」間の抜けた声を出す俺は自分の身の上に降りかかった状況が呑めず、取り敢えず視線を下げる。飛びついてきた先輩が胸の顔を埋めていた。押し倒されたわけじゃないけど、それに近い状況だよなこれ。

 けど先輩の、「良かった」安堵の声音にいたらん考えが吹っ飛んでしまう。軽い行方不明事件は先輩にとって相当心配を掛けてしまったらしい。


 「先輩」名前を紡げば、「人攫いにあったのかと思った」彼女は小さく身を震わせた。


 大袈裟だと思ったけど、彼女はそうでもないらしい。曰く、財閥の娘はそういう面で危険に曝されることがあるとか。

 だから敏感なんだ。こういう事件に関して。こんなに心配させるんだったら、もっと早く押しの強い竹光さんに正体を明かして先輩の下に行くんだったな。


「すみません」


 謝罪してぎこちなく頭を撫でる。顔を上げる彼女は瞳を軽く揺らしていたけど、俺の頬に手を伸ばして、そっと触れた瞬間、柔和に綻んでみせた。恍惚に瞳を見つめ返す俺の鼓動が高鳴るのは、やっぱ俺が彼女を意識しているから、かな。


「空、似合っているな。その格好」


 指摘をされて気付く。

 そういや俺、まだ執事服のままだったな。早く着替えないと、まーた新人召使さんと間違えられちまう。

 先輩は俺の恰好に笑みを浮かべると、手早い手付きでネクタイを外してそのまま俺の両手首を一纏めにして押さえつけると……はい? ちょ、なにが起ころうとしているんだよっ!


「へ?!」


 マヌケな悲鳴を上げる俺は、一括りにされた両手首に青褪める。

 お綺麗に固結びしてくれちゃって超感動……とか、死んでも思わない。なにこれ、解けっ、解けっ、ないんっすけど!


 落ち着け、豊福空、落ち着け。

 状況を冷静に収集・分析・整理してみようか。


 先輩はネクタイを外していきなり俺の両手首を縛りやがりました。体勢的には押し倒されているような状況を否めない。部屋には二人っきり、しかも先輩の部屋。


 なるほど、大ピンチってことか、俺。とか、マジ、冷静に思っている場合じゃないっ! ヤーんな展開っ、危ない展開っ、俺の危機!


「せ、先輩ったらぁ、冗談が好きなんっすからー。ほら、これ、解いて下さい」


「空。今のあたし達は主従関係という設定でいこう。折角のコスプレだしな」


 コスプレ……正式名称はコスチューム・プレイ。

 確か漫画やアニメ、コンピューターゲームなどの登場人物の衣装・ヘアスタイルなどなどをそっくりそのまま真似て、変身しちゃうことだよな。


 てことは今の俺は執事コスプレ?

 いえいえいえ、これは実際、あなたの家の召使さん(♂)が着用しているお洋服ですよね。手違いで俺、着ちゃっていますけど……まさかコスチューム・プレイをするとか、そんなことをほざき始めるんじゃ。

 その輝いた目で俺を見下ろさないで下さい! 嫌でも状況が分かっちまいますから!


「実は先日、ケータイ小説で執事系の話を読んだばかりでな。確か枕元に置いて、そうそうこれだ」


 でた、先輩の大好きなケータイ小説。俺にとって悪意すら感じるケータイ小説。

 ルンルンでページを開く鈴理先輩は、お気に入りの場所を見つけたのかそこを開いて俺に見せ付けてきた。しょーがないから俺は目で追って黙読。


 タイトルは『イケメン執事とお嬢様のあらやだぁな物語』


 題名が俺的にあらやだぁだよ。えーっとナニナニ、内容は。



【第二章 執事の正体】


-実は執事はドSだったのだ!-



 紳士で丁寧な敬語、立ち振る舞い。

 何事にも動ずることなく気品に溢れた執事、優しい執事。それが私の執事だったのにっ……どうしてこの人は皆の前と私の前とじゃ顔が違うのよ。



「どうかなされました? お嬢様」


「ど、どうもこうもっ、なんでアンタが私の上に覆ってくるのよ! 退きなさいよ! 無礼じゃない!」


「それは失敬。ですが、これもお嬢様のためです。貴方が将来、有望な令嬢となるためにわたくしめが手取り足取り腰取り指導差し上げたい。…そう」


シュルッと自分のネクタイを解いた彼は、私の手首を頭の上で一括りにしてきた。絶句する私に、執事の彼はこう言うのだ


「泣(鳴)こうと喚こうと、わたくしめが一人前の女性に仕立てあげますよ。お嬢様」



(そして主人公はとんでも展開に突入する運命になるのだった。まる)



 執事、お前それでも人間か! 心ある人間がする行為じゃないぞ!

 心中で執事のバカヤロウを罵る俺は、「へ。へえ凄いっすね」取り敢えず妥当な感想を述べる。善し悪し関係なく、内容的にはそりゃ凄いと思うよ。凄いとは。

 ただな、それを俺に読ませるってことは、あー、経験上つまり……そういうシチュエーションを自分も味わいたいってことだよな。ん? ちょっと待てよ。 今読んだ話ってお嬢様が執事にヤられる話だよな。てことは、だ。


「先輩がヤられる……んっすか? その話の流れと状況的に」


「馬鹿め。あたしがヤられたいなんぞ思うわけないだろ。シチュエーションを空に味わって欲しいだけだ。これは執事が令嬢をヤってしまう話だが、逆でもまったく問題ないだろ?」


 どっちにしても先輩が攻める立場なのね。分かってはいたけど、いたけどさ!

 あと問題ないだろって……この状況自体に問題有りっす。お昼ですよ、まだ太陽が出ていますよ。じゃあ沈んだらヤってもいいかって聞かれたら、それはノーっすけど。


「ちょ、先輩!」


「馬鹿。お嬢様だろ?」


 ご主人様でもいいぞ、なーんてノリノリで言ってくる肉食動物に俺は冷汗を流した。

 これはかなりヤバイ状況だぞ。先輩の部屋だから、まず逃げ場がない。手首を拘束されているから思うように逃げられないし。夜のピンチが此処で訪れるとは、くっ、油断した。


 よし、よーし、取り敢えず落ち着け。落ち着いて状況を乗り越えてみようか。


「じゃ、じゃあ先輩。俺、頑張って執事って役をこなしてみせますから! 先輩のお邪魔しているのは俺っすからね。執事になって欲しいなら、竹光さんところでご指導を受けて立派な執事になってきますよ」


「なあに直接あたしが指導してやる。手取り足取り腰取り、な」


 是非ともご遠慮願いたい。

 引き攣り笑いをする俺に、悪魔は妖しく綻んできた。

 こりゃあ落ち着いて状況を乗り越えられるような光景じゃないぞ。アタフタしながら抵抗しながら焦りながら、回避しないと俺が危ない!


「先輩っ!」


 上体を起こそうとするけど、手首がベッドシーツに縫い付けられている。失敗は確定である。

 くそう、女性相手だから本気で抵抗とか絶対無理だし、だからってヤられたら最後、俺は男の責任を取らなきゃなんだし。

 ええいっ、こうなったら雰囲気だけでも先輩に満足してもらおう。最大の譲歩案だと思わないか?!


「シチュエーションは努力しましょう、努力は! だからセックスはなし方向でお願いします。真っ昼間から無理っすから! あ、夜も無理っすからね!」


「それでは面白くないぞ」


「面白いとか面白くないとかの問題じゃないっす! 行為は面白有無でヤるもんじゃないですよ……あーキスまでなんて、どうでしょう?」


「いつもどおりではないか、それ。パターン化しているぞ」 


 むっと眉根を寄せている鈴理先輩は「マンネリ化してしまうではないか」不服不満を漏らす。

 た、確かに、いつも濃厚キスで終わってはいますが、俺は一杯いっぱいです。攻め女の先輩は満足していないでしょうけど、受け身男には許容範囲を超えちまっています……じゃあパターン化しつつあるシチュエーションとは、ちょい違う形を取ればいいんっすね!


 俺だって男だ。は、腹括ればいいんだろ! へたれの受け身男だってな、ヤる時はヤるんだぞ。攻め女を喜ばせることをすりゃあいいんだろ! 先輩を心配させたんだ。これくらい、これくらいは。


 それに、俺だって、おれだって、(俺だって先輩に満足してもらいたい)第三者の俺が艶かしく囁いた気がした。



「いいじゃないっすか。パターン化しても。俺は先輩とキスするのはヤじゃないっすよ。先輩はヤですか?」


 

 言わない、普段の俺ならこんな台詞を吐きもしない。

 

 けど本心でもあるんだ。

 キスするのヤじゃない。ヤられている感は満載だけど、ヤってわけじゃ……ああくそう、俺ってやっぱドヘタレの男オンナなんだ。ここぞというところで決められない。いや決める。決めてみせるさ。男だろ俺。


 軽く向こうが驚いた隙に、俺は押さえ付けられていた手を振り解いて腹筋力を入れた。どうにか上体を起こすと、乗っかっている先輩に微笑む。


「シます? キス」


 目と鼻の先まで彼女と距離が縮まった。


「……煽っているのか?」


 迫ってくる先輩の顔がやけに真面目だ。美人さんが真面目な顔をすると迫力があるな。

 「だとしたら、貴方はどうします?」ヒーローはヒロインにどう手を出すのか、自分には見当もつかない展開だとうそぶく可愛くないヒロイン(♂)。


「俺は先輩と交わすキスならいくらでも、シたいと思っているんですよ。こんなことを言う日が来るなんて、もう俺は先輩に落ちそうなのかもしれませんね」


 やや優勢に立ったのも束の間、獰猛なヒーロー(♀)が首をやんわりと食む。尖った歯先が体の肉を食んで、やや痛い。

 抱き込むように人の頭を抱いてくる彼女と、真っ白なシーツの海に沈んだ。小さな背中に腕を回すにも、手首を縛られているために何もできず、なすが儘。流されるが儘。一つ感想を言わせてもらうなら、む、胸。その柔らかさと弾力が癖になりそっゲッホ! 

 先輩、俺、圧死する。幸せな圧死をします。



 「鈴理先輩」名を呼ぶと、「馬鹿みたいに好きだと叫びたくなる」蚊の鳴くような声が返ってくる。


 ありゃ、先輩。耳が真っ赤。照れているのかな?

 顔を動かして彼女の長髪に隠れた右耳を見つめる。頬が崩れてしまった。可愛いところもあるじゃないっすか。言ったら機嫌を損ねそうだから、絶対に言わないけど。


「空のくせに生意気だぞ。あたしを攻めてくるとは」


 ずりずりと体をずらし、両肘を俺の顔の真横に置いた。完全に包囲されたようだ。

 本調子を取り戻したあたし様はシニカルに笑い、桜色の唇をさっき食んだ箇所まで持っていく。肌を吸引された。ちろちろと舐めては首筋に、シャツの上二つボタンを外し、舌を滑らせては鎖骨に。所有物の証を付けられる。心配させた一件もあるため、ある程度は好きにさせる。


 けど、一つ条件を出したい。


「見えるところはやめて下さいね。体育の時に困りますから」


 天井に視線を流す。

 目が泳がないよう、LED照明を見つめた。まだ昼間だからか、照明は点けられていない。


「イッ」


 強めに吸引され、思わず声が出る。まるで仕置きだと言わんばかりの強さだ。


「見せればいいじゃないか。あんたが誰の所有物か、一目で分かる」


 後頭部に手が滑り挟まれ、強引に顔を引き寄せられる。さすがにこれは、傍目から見たら毒な光景なのでは……ふ、ふふふ、いいんだけどね。慣れてきたからね! 泣きたいほど慣れてきたからね! 


「空。おねだりして」


 やけに大人びた面持ちを作る先輩の綺麗な瞳が俺を捉えた。視線が、今告げた俺の気持ちの真偽を見極めようとしている。俺がいつも受け身で逃げるような態度を、拒むような態度を取るから、そういう眼を向けてくるんだろう。

 キスをしたい気持ち、そして貴方に落ちそうな気持ち。これに嘘は無いよ。先輩。


 肯定するために、俺はありたっけの勇気を振り絞って言うんだ。その強い光を宿す瞳を見つめ返して。



「キスしてください。先輩」



 俺からキスを仕掛けられる度胸は無いから……その、まあ、態度ではなく残念な事に口で頼み込む形になるんだけどさ。これでも成長はしたと思うよ。恋愛下手の童貞くんは本当に頑張っている!

 黙然と俺を見つめてくる先輩だったけど、ふっと頬を崩して誘われるがまま人の鼻先にキスをし、「可愛いおねだりがいい」とハードルを上げてきた。


 か、可愛い。俺に可愛さを求められても困るんですけど。ヒロインポジションにはなれても、容姿性格うんぬんがヒロインになれるかといったら、全力でごめんなさいだからね!


 困っていると彼女が助け舟を出してくれた。



「ちょうだい。その方が可愛い。空が言えば、絶対に可愛い」



 俺に可愛さを求められても困るんだども。

 心中で微苦笑を零し、「先輩。ちょうだい」教えられた台詞を復唱する。満足げに綻ぶ彼女が満目一杯に映った。


「早く落ちればいいさ。あたしのところまで、な。そしたらあたしも」


 あたしも、の後に続く言葉は俺の口内に消えた。


 先輩は何を言おうとしてくれたんだろう?


 後頭部に回している手のしなやかさ。ゆっくりとベッドシーツ縫い付けられる体。窓から聞こえてくる木々のさざめき。すべてがキスというスキンシップ行為を彩るための装飾品のよう。

 束縛された腕を持ち上げて、器用に首にそれを通すと両手で彼女の後頭部に手を回す。


 目を閉じて音無く唇を重ねてくる彼女に対し、俺はぼんやりと瞼を持ち上げたまま、密着してくる彼女の体を引き寄せる。

 うっわっ彼女の胸が体に当たる、とか男なら誰でも思うような雑念を抱きつつ、俺は先輩にリードの手綱を手渡した。俺みたいな受け身男がリードできたらそりゃあ苦労しないしさ、先輩は攻めたいと願望を持った女性だから、丁度いいだろ。

まったく逆ポジションな俺等だけど、異質かもしれないけど、傍から見たら「えー」な光景かもしれけど、でも、本人達が納得しているならそれでいい。


 最近そう思えてきたよ。男を捨てるつもりは毛頭無いけどさ。


 「空」「先輩」呼び合う声が合図となる。キスが深くなった。


 いつの前にか閉じていた瞼を持ち上げれば、彼女と視線が合う。愛おしそうに目で笑ってくる彼女は、解放どころかキスを深くしてくるばかり。先輩に満足してもらいたいと思ったとはいえ、この執拗なキスはちょい辛いかも。

 俺も健全な男だから、所謂息子さんが反応しないわけじゃない。


 嗚呼、でも満足してもらいたいと言ったのは、ねだったのは、誰でもない俺だ。解放は遠い。



「空。舌を出せ」



 息継ぎの合間にあたし様が命じてくる行為。奥に引っ込んでいた舌をおずおず出すと、やんわり、やんわりと食まれた。ビクビクと体が跳ねる。これは感じている、ということになるんだろうか?

 

 思わず舌を引っ込めてしまう。

 すると逃げたお仕置きとばかりに、ねっとりした舌が俺の口内を荒らし回った。合間に熱い吐息が漏れる。お互いの吐息が交わって一つのキスとなる。溶け合う、とは今この瞬間を指すのかもしれない。


 酸素が少なくなる。回していた手を彼女の首筋に移動させ、相手にしがみ付いた。そっと唇を舐めて離れていく彼女との距離は数センチ。

 肩を上下に動かして荒呼吸をする俺に、「泣き顔になっている」可愛い。揶揄を飛ばしてくる。生理的に涙目になっている面を言っているんだと思う。自覚があるからこそ羞恥心が込み上げる。


 直後、右耳の裏にキスをおくってきた。驚いてひゅっ、と喉を鳴らす俺に、「今度は嬌声を聞きたい」彼女が無茶振りを要求してくる。


 さすがに声を上げるのは自身のプライドを砕いてしまいそうだ。


 話題を逸らすために、「もっと」おねだりでカバー。自分の首を絞めたのは百も承知。

 けれど健全(だよな、キスは)に済ませたいから俺は相手を捉えて、そっと綻ぶ。


「鈴理お嬢様。もっと」


 オーケー、オーケー。

 シチュエーションとコスプレはクリアだろこれ。パターン化とマンネリ化も霧散しただろこれ。むちゃくちゃ頑張っている方だぞ、俺。 


 情熱的なキスを貪るように繰り返し、繰り返し、くりかえし。

 唇が腫れるんじゃないかと懸念するほど交し合い、疚しい手はいつの間にか肌着の下に忍び込み、彼女は俺に触れ、俺は彼女に翻弄され、ようやく本当の意味で解放してもらえる。


 ベッドにくたっと沈んでしまう。


 濡れた唇を舐め、そっと視線を持ち上げる。先輩がちろっと赤い舌を垣間見せた。愛しむように見つめてくる。艶めかしい姿だ。

そんな彼女に俺は尋ねた。


「満足しましたか? お嬢様」


 誰か俺を褒めて。ここまでサービスした俺を褒めてやって!


 一笑する鈴理先輩は、「ちっとも」欲求不満は継続中だと愉快犯のように口角をつり上げてくる。彼女が身じろぐことにより、ギシッとベッドスプリングが軋んだ。

 じかに触れてくる手は未だに俺の肌を這っている。


「空が煽ったから、もっと欲しくなった。このあたしを煽るなんて、空も罪だな」


「先輩、貪欲っすよ。キスで止まって下さい。この先はNGっすよ」



「ふふっ、そうだな。あんたが誘ってくるなんてお初だからな。今は此処で止めといてやるさ。今は、な。なにぶん、今日は長いんだ。お楽しみは後だな」



 天使の笑みとは裏腹に悪魔なことを仰るんだからこの人……あっれー、もしかして俺、今夜逃げるどころか、準備段階の手伝いをしているんじゃ。


 気付くのが遅いと言われたら、いや、この状況を乗り越えるにはこれしかなかったと言うしかないんだけどあぁああああどうしようかなぁあああっ、今更ながら大後悔という三文字が俺に襲い掛かってきているんだけどあばばば!


 肉食ヤル気モードに入っている先輩に空笑いをしつつ、俺は目を泳がせて「そうだ!」この両手首の拘束を取って欲しいと頼み込む。

先輩は「どうしようかなー」白々しく考える素振りを見せてきた。


「せーっかく空が腕を回してくれているのだし。このままでも、あたしは全然構わないんだが」


「俺が構います! これ、ぶっちゃけ恥ずかしいっすから! そしてその手はいつまで服に突っ込んでいるつもりっすか!」


「これを世間では羞恥プレイ。もしくは束縛プレイと呼ぶんだな。また一つ学習したな」


 いや、それは学習しなくていいよ!

 

「先輩っ!」


 早く取って下さいと懇願する俺は、先輩の首から腕を引いて、相手の手を服から引っこ抜くと拘束されている手首を見せ付ける。

 素早く俺の手首を握った彼女はそれを解いてくれるのかと思いきや、しっかりと手首を握って体を引いてきた。


 おかげで俺、ベッドから上体が離れる羽目に。

 ああもう、細身のくせに力持ちなんだから! 焦る間もなく唇を重ねられた。触れるだけのキスだったから、「何するんっすか!」容易に非難できたけど、彼女は形の良い唇で言うんだ。


「キスなら幾らしても良いのだろう?」


 ……言った俺の負けですよね。分かります。否定もしません。潔く肯定しますよ、すりゃあいいんでしょう。


 「誤魔化さないで」早くこれ解いて下さい、おずおずと物申す俺に目で笑って先輩はまたキスを仕掛けてこようとする。

 あ、あ、あ、味をしめたなっ! ちょ、先輩、ほんとこれ以上は!


「ほら、空おねだり。ちょうだいは?」


「い、言いませんよもう! 俺は満足しまっ、さ、鎖骨を舐めっ、舐めるのはやめっ、やめて下さい」


「空がおねだりをしたらやめてやる」


「い、意地が悪いっす。ゲッ、また痕をつけっ、わ、分かりました。言います、言いますから」




 コンコン―。




「失礼します。空さまのお飲み物を持ってまいりました。わしからお詫びとして、巷で有名なわっるふぉおおっ?! 鈴理、お、お嬢様! 空さまに何しているのですかぁああ!」



 ギャー!


 悲鳴を上げてその場にトレイを落としたのは……早とちりせっかち執事の竹光さん。

 チッと舌打ちを鳴らす先輩は「これもパターン化している」

 むっと腕を組んでその場にどっかりと腰を下ろした。どうでもいいっすけど、俺の上で座り込むのは……。


 竹光さんは先輩に歩み寄るや否や、「なりませんぞっ、そのような行為はなりませんぞぉおおお!」捲くし立てて注意、注意、注意。


「ばあやは何も言わん。だからあんたも何も言うな」


 つーんとそっぽを向く先輩は我が儘を言って、お得意のあたし様を発動。

 「なりませーん!」薄い髪を掻き毟る竹光さんはヤンヤンギャンギャンノンノン吠え始めた。


「お嬢様! そういう淫らな行為はお互い同意の上でするべきものでありますぞ!」


「無論同意した上だ」


 あくまでキス範囲っすからね、先輩、忘れないで下さいよ。


「では空さまのこれは何ですかのう! このように拘束してしまって。お、襲ったりしたのでは!」


 ポンピンっす。襲われかけていました。


「襲う? 馬鹿を言え。これは……これは空の趣味だ!」


「あ、阿呆なこと言わないで下さい! あたしの彼氏Mなんですみたいな言い方はノンセンキューっす! 解いて下さいって先から言っているじゃないっすか先輩ぃいい!」


「鈴理お嬢様! このような真似はなりませんぞ! 御子息にもしものことがあったら、豊福家の御家族にどうお詫びするつもりですか!」


「責任を取って空を婿として迎える。此方の婿養子になってもらうさ」


「また破天荒なことを仰られてお嬢様ぁああ!」



「ええい煩い! ナニが不服だ!」



 三女の傍若無人っぷりに嘆く竹光さんと、あたし様をいかんなく発動する鈴理お嬢様。


 どうでもいいけど、早く俺の拘束を解いてくれないかな。

 いつまでもいつまでも質の良いネクタイで縛られている可哀想な両手首を見つめて、俺は小さく溜息をついた。



 今夜本当に食われるんじゃないだろうか。不安は尽きない。


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