06.忘却された記憶の水面上




 □



 それは空がしんどいと言って気を失ってしまい、いそいそと介抱に勤しんでいた頃のこと。

 介抱という名のいかがわしいスキンシップを終えた鈴理の元に、空の母親、豊福とよふく久仁子くにこが現れた。仕事を抜け出して空の様子を見に来たらしく、帰宅した彼女がまず鈴理に見せた表情は驚愕。まさか訪問者がいるとは思わなかったのだろう。

 しかもサングラスを掛けた男達が部屋の隅で待機している。


 久仁子は不審者でも現れたのではないかと、さぞ肝を冷やしたことだろう。


 だが久仁子は鈴理の姿をまじまじ見やり、介抱などの形跡を見て、「空さんの彼女さんね」一変して表情を崩してきた。


 柔らかな表情とその優しい声に鈴理も笑みを零し、和気藹々と挨拶を交わした。


 久仁子と空はまったく似ておらず、また彼女自身が非常に若い。歳を聞けば、今年で34だという(彼は五つの時に両親を亡くしている。なら、彼女は23で彼を引き取ったのか) 、二人の血縁関係の薄さを物語っている。


 しかし何処となくだが雰囲気は似ているような気がした。久仁子は息子からよく話を聞いている、と頭を下げて、お茶でも淹れるからと台所に立つ。勝手に押し掛けたのはこっちだからと言ったのだが、久仁子はお構い無しに人数分の茶を淹れ、皆に配ると自分も一息いれるために、鈴理の隣に腰を下ろした。


「空さんに、こんな美人な彼女さんができるなんて夢のよう。空さん、鈴理さんに良くしてくれているでしょうか? この子は気が利くようで利かないところがあるので」


 自分の攻めアタックに逃げられます。早く息子さんを食べたい心情なのですが。

 なんて口が裂けても言えず、鈴理は良くしてもらっていると答えた。お世辞ではなく、それもまた正直な気持ちだったりするのだ。昨日のようにデートに誘おうと気持ちを一杯いっぱいにしながら、一緒に帰ろうとテンパって……本当に空は可愛らしい。

 そこがまた食べたい、なんて思ったり思わなかったり。

 「そうですか」久仁子は鈴理の返答を、まるで自分のことのように喜んだ。母親そのものの姿だった。


 と、久仁子は恐る恐る尋ねてくる。息子は学校生活を楽しんでいるか、と。

 何故、そんな質問を? 鈴理が目をキョトンとしていると久仁子は苦笑いを漏らした。


「空さんの通っている学校は元お金持ち学校なので、空さんに窮屈な思いをさせているのではないかと、いつも夫と話しているんですよ。金銭面では文句も何も言わない息子ですから……お弁当も悲惨なものになってしまいがちですし。空さんには苦労掛けてばかりです。鈴理さんにもご苦労を掛けていませんか?」


 確かに、初めて空と食事をした時、彼のお弁当はもやし炒めのみだった。悲惨中の悲惨、だったかもしれない。

 だけど、空は一度だって自分の取り巻く生活を卑下にしたことは無い。それを知っているから鈴理は言うのだ。「空は楽しんで毎日を過ごしていますよ」と。


「それに金銭面も、空はなんとも思っていないんだと思います。文句を言わないのではなく、なんともないと空は思っている。だから何も言わないんだと思います。あたしも身分は財閥の令嬢ですが、空の家庭事情でどうこうと思うつもりも、言うつもりもないんです。彼が好きだから傍にいるんです」


 嘘偽り無い鈴理の言葉に、久仁子は心底安堵したようだった。


「なら良かった。空さん、学校生活を楽しんでいるんですね。こんなにも彼女さんに愛されて……母親として嬉しい限りです」


 久仁子の表情に鈴理も微笑ましい気持ちを抱いて、繰り返し学校生活を楽しんでいると相槌を打った。

 そうやって和気藹々と会話していた鈴理だったが、ふと抱いていた疑念を思い出し、久仁子に尋ねた。


「空は二階に住んでいますが、大丈夫なのですか? 彼は確か極度の高所恐怖症だと」


「それは空さんから?」


 やや久仁子は驚いた様子。

 鈴理は深々と頷いて彼から聞いたと告白した。


「一階以上は駄目だと言っていたので、二階に住んでも大丈夫なのかと。建物内に階段があるから、どうにか上り下りは乗り越えられていると思うのですが」


 窓などには近付けられないのでは?

 鈴理の疑問に久仁子は肯定の答を返し、眠っている息子の顔を一瞥。哀しそうに微笑を零した。


「私達も何度も引越しを考えたのですが、そんなのお金が勿体無いと空さんから反対にあって。自分で高所恐怖症を治すと言い張るものですから。でもそう簡単には治せないと思うんです。一生、治せないかもしれません」


 それは何故?

 鈴理の疑問に、久仁子は間を置いた。小さく吐息をついて視線を投げ掛けてくる。


「鈴理さん、空さんから私たちの関係のことは?」


「彼から聞いています。お母さまは育ての親だとお伺いしております」


「そうですか。それも空さんから……鈴理さん。貴方は空さんから本当に信頼されているんですね。空さんは私達両親のことは勿論、他者に高所恐怖症のことを公言しない子なんです。誰にも言わないのは自分の過去や弱さに同情されたくないからでしょう。お友達にも簡単には公言しません」


 それに自分がこの若さ。

 夫共々若いがゆえに、どこかしら両親のことを隠したがる子供なのだと久仁子。


 「鈴理さん、貴方に話しているということは……空さんは貴方のことを大きく信頼、そして好意を寄せている証拠なんですよ」


久仁子は鈴理に微笑み、そっと口を開く。


「空さんの高所恐怖症は、多分、目の前で親を失ってしまった恐怖からきているんだと思います」


 鈴理は瞠目した。

 目の前で両親を? 絶句する鈴理を余所に久仁子は語り部となる。



「空さんは五歳だったでしょうか。その日は日曜、空さんは両親と公園で遊ぶ予定でした。丁度、私達夫婦も食事の約束をしていたので両親の元に遊びに来ていました。

 空さんの気が済むまで遊んだ後、五人で食事をしようと話を纏めていると、「まーだ?」焦れた空さんが駄々を捏ねてしまって。両親と遊べることが楽しみで楽しみで仕方が無かったのでしょう。

 早く行こうよと駄々を捏ねて、仕舞いにはこっそりと先に公園へ行ってしまいました。

 目と鼻の先に公園はあったのですが、子供一人を外に出すのは今の世の中物騒。子供がいないことに気付いた私達は、急いで空さんの後を追ったんです。

私達の心配も余所に、空さんは横断歩道向こうの公園のジャングルジムで能天気に遊んでいました。


 ひとりでキャイキャイ楽しみながら、ジャングルジムのてっぺんに上って、組み合った棒から棒に移っていました。

 両親は文句を垂れていましたが、どことなく微笑ましそうに様子を見ていました。私達も微笑ましく見ていました。


 だからまさかあの時、一変して地獄を目の当たりにするなんて思いもしませんでした。

 

 信号が変わり、私達は歩道を渡り始めました。

 空さんも両親と私達の姿に気付き、満面の笑顔を見せていました。


 しかし瞬間、曲がり角を曲がってきたエンジン音に私達は瞠目。

 私は咄嗟に夫に抱えられ、逃げるように庇うように後ろに倒されたため、事を得ませんでしたが、前方を歩いていた両親はトラックに轢かれその場に倒れていました。現場は大惨事となりました。

  

 人盛りができ、誰かは救急車を、誰かは怪我人の意識確認を、誰かは私達に声を掛けてくれました。

 何が何だか分からず、騒然とする中、公園向こうで子供が頭から血を流しているという声が聞こえました。


 空さんです。

 空さんがジャングルジムから落ちてしまったのです。


 不幸は続くものです。両親は轢かれそのまま病院で息を引き取り、空さんも打ち所が悪かったのか、意識不明の重体に。ようやく空さんが目を覚ました頃には…、もう両親は他界していました。以来私達が空さんを引き取り、育てているというわけです。私達は子供に恵まれませんでしたから」



「そんなことが」



「空さんはその時の記憶を忘れてしまっているのか、両親がいないことに首を傾げて毎日のように探していました。その内、両親はいないんだと理解し、私達を親だと見てくれるようになり、今の空さんがいるわけなのですが……すっかり空さんは高所恐怖症になってしまいました。あの時のことを高さから落ちた恐怖で偽っているのかもしれません」


 高所恐怖症が治る、それは空さんが両親を亡くした日のことを思い出すということかもしれません。



「もしかしたら治っても思い出すことは無いかもしれません。空さんにとって思い出してもどうしようもない、悲しき思い出なのですから――」

 

 



――高所恐怖症は生涯、治せない呪縛なのかもしれない。



 同時に自分を守るための防波堤なのかもしれない。


 鈴理は思う。彼氏の過去を聞いてこんなにも胸が痛くなるのは決して同情からではなく、相手のことが好きだから。共に痛みを分かち合いたいと思っているからなのだと。


 ケータイ小説ではよく、過去がどうのこうで男が女を守る話があるが(逆も時たま見つけるが)、まさに自分もその気持ち。守ってやりたい、と思った。

 純粋に守りたいと思うのだ。どうしようもない好意が自分をそうさせている。


 守りたいのだ、好きな男を守ってやりたいのだ。支えたいのだ。女だって男を守りたいと思うのだ。男のヒーローになりたいと思うのだ。理屈でない。ただただ好きな男を守りたいと思うのだ。


 

――守り方にだって色んな方法がある。




「先輩、ごちそうさまでしたっす」




 パンッと手を合わせてごちそうさまと挨拶する彼氏を見やる。

 自分が空に惚れたのは、空が入学する前からのこと。


 空は知らないだろうが、自分は入学する前から彼を知っていた。最初はそんな気は無かったのに、気付けば彼を見つめていたのだ。

 小癪なこと自分ともあろう人間を、この男は落としてしまったのだ。


 この落とし前、責任は取ってもらわなければ気が済まない。


 その代わり……。


「空」


「あ、何っす……え゛? ちょちょちょちょーっ、先輩っ! 俺っ、風邪っす。キスは駄目ですから。あ、いや、散々されたかもしんないっすけど、これ以上は駄目っす!」


「黙ってあたしに流されろ。あんたに拒否権なし」


「あ、あたし様出たー?! ちょ、本気で駄目っす! 感染るっ!!!」


 感染せばいいさ。

 心中で呟き、鈴理はかの恋人の両頬を包んで唇を奪う。

 零れんばかりに瞳を丸くして瞠目する恋人の後頭部に手を回し、深い口付けをしながら鈴理は思うのだ。自分を不覚にも落とした草食動物受け男を、精一杯守ってやりたい、と。


 いいじゃないか、男を守るヒーロー的な女がいても。

 自分は攻め女なのだ。受け身男を精一杯守ってやりたい。守られるのではなく、全力で守ってやりたいのだ。そういう人間になりたい。



 守り方にだって色んな方法がある。

 文字通り前面に出て守る。それは勿論だが傍にいる、支えになる、思い遣る、これもまた立派な守り方。


 そういう人間でありたいし、空に必要とされる人間でありたい。

 もしも、高所恐怖症のことで、また過去のことで、何か彼が傷付くような事があれば、その時は全力で守ってやりたい。ヒーローとして。


(ま、それにはまず相手を完全に落とし返さなければな)


 自分を落とした相手を、今度は自分が落としてやるのだ。


 あたし様の物になってくれなければ、本当の意味で彼のヒーローにはなれないではないか。

 それどころか美味しく頂けない。早く美味しく頂きたい肉食心なのだが……嗚呼、まったく、忍耐だけが付きそうだ。


 ペロッと赤面する相手の唇を舐め、鈴理はニヤッと口角をつり上げる。



「好きだ、空。早く元気になれよ」



 そして早く、本当に自分に落ちてくれよ。

 肉食お嬢様は相手の様子をご機嫌に窺っていたのだった。片隅で草食の幼少に胸を痛めながら。


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