05.忘却された記憶の水面下
――夢を見た。
それはまだ俺が小さい頃の夢。
どういう夢だったのかは具体的に憶えていないのだけれど、夢の中の俺は殺風景な公園の遊具・ジャングルジムで遊んでいた。
平然と高いところによじ登る夢の中の俺には、まだ高所が恐怖だという気持ちが芽生えていない。ジャングルジムの上に乗って、ぎこちない手付きで組み合った鉄の棒を渡り、ひとりで楽しく遊んでいた。
ひとり?
いや、その夢の俺は誰かを待っている様子だった。
早く来ないかな、なんて口にしながらジャングルジムを渡っている。夢の中の俺は誰を待っていたんだろう。
ふと夢の中の幼い俺が公園向こうの道路に目を向ける。あ、来た来たとばかりに喜びが胸を占めた、刹那、道路向こうから甲高いブレーキ音と悲鳴と物音と沢山の音と同時に俺はジャングルジムから足を滑らせて地面に真っ逆さま。
場面はテレビの砂嵐みたいにプッツリと途絶えた。
ザァ、ザァ、ザァ……暫く砂嵐が続いた後、場面が晴れて“今”の父さん母さんが俺の前に現れる。
夢の中の俺は“前”の父さん母さんを探すんだけど、まったく見当たらなくて。
寂しくて不安で恐くて、どうしようどうしようと焦っていたら、今の父さんが俺にこう言った。涙ぐみながらこう言った。
『空くん、よく聞くんだ。今日から空くんはうちの子だ。今日から私達が君のお父さん、お母さんだよ』
――そう、この時にはもう、父さん母さんは交通事故で死んでいた。
父さん母さんが交通事故で亡くなったって理解するには、よく分からなかった夢の中の俺は「ん?」と首を傾げていた。だって俺にはもう父さん母さんがいるよ、そう思っていたんだけど、口にも出したんだけど、“今”の父さん母さんは何度も言った。
今日から空は自分達の息子だって。
何が何だかよく分からなかった夢の中の俺は不安も恐怖も忘れて、ただただ呆然と戸惑いを覚えていた。ほろり、ほろり、小さな涙粒が溢れたことも、夢の中の俺は気付かなかった。
一貫性のない夢を見たな。
なんでジャングルジムの夢から、俺が今の父さん母さんの息子になる夢を見たんだろう。
瞼を持ち上げた俺は朦朧とする意識の中、熱に浮かされた頭で夢のことを思い出していた。軽く目尻に雫が流れているのに気付いて、俺はそっと寝巻きの袖口で涙を拭う。いかんいかん、熱に浮かされると涙腺が緩みやすいみたいだ。ただの夢なのに何を泣いているんだか。
喉が渇いた、俺は視線を動かす。
「空、起きたか」
おはようと微笑んでくるのは鈴理先輩。読んでいた文庫を閉じて、「具合はどうだ?」俺の顔を覗き込んでくる。
そういえば先輩、見舞い(と、言っていいのか分からないけど)に来てくれていたんだっけ?
あ、思い出してきたぞ。
俺、熱があるくせに暴れたものだから気分が悪くなったんだっけ。記憶が先輩に汗を拭かれているところで止ま……無事だな、俺。気を失っちまったみたいだけど、なあんにもされてないよな。まさか寝ている時にあ~れ~なことされたわけじゃ、うん、無さそうだな。
流石に先輩もそこは心得てくれているんだな。良かったよかった、胸を撫で下ろす俺に対し、先輩は不満そうに唇を尖らせて頬を膨らます。
「まったく。あそこでオアズケなど酷いではないか。手を出したくて堪らなかったあたしに対する嫌味かと思ったぞ」
「ははは。あー……すみません」
でも俺が悪いのだろうか?
「熱だから仕方が無いと割り切ったが、二度は無いからな! 次は絶対に食らう」
グッと握り拳を作る鈴理先輩に、俺、引き攣り笑い。
嗚呼、俺、よく無事だったな。食べられなかった俺の無事と、先輩の理性に乾杯だ!
「おかげで空に出来たことといえば、証を付けることくらいだ。あー、こんなの欲の足しにもならん」
証? 付ける? それって俺の体に?
ガバッと起き上がった俺は急いでタンスの上に置いてある手鏡を探り出す。
ゴクリと生唾を飲み、恐る恐る鏡面を覗き込む。間を置いて絶叫。
お、俺の首筋から鎖骨辺りが悲惨な事になっている! 赤い点々がいっぱいなんだけど! 俗にいうキスマークがいっぱい。
制服で隠し切れないところまでバッチシ付いている。
これでまた一つ、先輩の所有物の証が俺の体に……なんて呑気に思っている場合か!
どーするんだよ、これ。数日は消えないじゃないか。い、イカガワシイ疑いを掛けられてしまいそうで恐いんだけど! 学校に顔出せないんだけど! こんなの鈴理先輩の追っかけにでも見られたら……想像するのもオッソロシイ。
「せ、先輩! これは!」
ぎこちなく先輩に目を向けて説明を求める。にこやかに彼女は笑った。
「嬌声を聞いた上に、上半裸の空に寄り掛かられたんだぞ? 何もしないわけないではないか。なあ?」
「きょ、嬌声なんて漏らした覚えないっすよ!」
「何を言う。嬌声を漏らしながら『先輩、気持ちいい。もっと』と言ったではないか」
それは汗を拭うタオルの冷たさが気持ち良かったと言いますか、嬌声っていうのはタオルの冷たさで声が漏れただけと言いますか。
とにもかくにもイカガワシイ表現しないで下さいよ! 先輩にヤられてる感があるじゃないっすか。
押し倒されてイヤンされている光景を想像する……自分で想像して酷くおぞましいものに思った。
俺のツッコミに鈴理先輩は涼しげな顔をして更に説明を重ねる。
「それこそ最初は寝巻きに着替えさせて抱擁だけにしようと思ったんだが、それだけでは気が済まなくてな。キスを少々。深いキスも少々。最後にキスマークを付けようと思い立ち、気付けば沢山の証が付いたというわけだ。うむ、なかなかな肌をしているな、空。すべすべしていた上に、むっちりとした肌の弾力がまた欲情をそそる」
「や、やめて下さい。先輩、美貌が台無しになるような台詞っすそれ」
つまりセクハラ(んでもって変態)発言だ。気付いてくれ、先輩!
あと、キスもしたんですね。してくれちゃったんですね。ディープもしてくれちゃったんですね。寝込みを襲わないで下さいよ、俺、先輩の傍じゃ気が抜けないじゃないっすか。
それにしてもこれ、どーしよう。
見事に制服じゃ隠し切れない場所に付けてくれちゃって……ほんと情事後みたいだな。ヤッたことないけどさ。
うんぬん鏡を見てどうしようかと考えていると、「ほらほら病人は寝ておく」先輩が歩み寄って来て軽々と俺の体を持ち上げる。拍子に持っていた手鏡が畳みの上に転がった。
悪夢再び、またお姫様抱っこ。
男の俺が女の人にお姫様抱っことか、身長の低い先輩にお姫様抱っことか。
なにより、なんで俺を持てるんだろうか。俺だって女の子の体重を抱える、だなんて至難の業なのに。
だけど目と鼻の先に先輩の顔があってドキッとした。
「早く治ってもらわないと、下手に手も出せないだろ? 何より辛い顔をしている空を見ていたくは無い」
な? 鈴理先輩の優しさ含む台詞に俺は赤面。
くそうっ、なんだよ、先輩カッコイイじゃんかよ。たじたじだ。おかげで俺、ちっとも男らしくない……カッコイイな、先輩。俺が女なら普通に惚れていると思う。その女気ある姿。
やっぱモロッコで性転換してこようかなぁ。女になった俺を先輩が好きでいてくれるか分からないけどさ。
さてさて、先輩はわざわざ俺をお姫様抱っこで布団まで運んだ後、「腹が減っただろ?」少し腹に入れておかなければな、と俺の顔を覗き込んできた。
それもそうだ。薬飲まなきゃいけないし……先輩、三ツ星シェフに野菜スープ作ってきてくれるよう頼んでくれたんだよな。ゼリーも一緒に付けてくれると言っていた筈。
「頂くっす」
俺は先輩に食べる意思を告げて上体を起こした。うんと頷く鈴理先輩はパチンと指を鳴らす。
すると部屋の隅で待機していたグラサン男達が動き出した。どうでもいいけど、あんた達、まだ部屋にいたんだ。てことはお姫様抱っこも見られ……ハズッ!
まさか襲われているところは見られていないよ、な?
そうこう思っている間にも、グラサン男達が居間に置いていたテーブルをこっちに持ってきて、周辺を片付け始めた。
あれ? ただ飯を食うだけなのに、なんで部屋を片付ける必要があるんだろう? テーブルだって、わざわざこっちに持ってこなくても、俺がそっちに行くのに。
首を傾げる俺が絶句したのはその直後。
だって玄関から次々にメイドさんが入って来ては鍋をテーブルに置いていくんだけど、ちょ、鍋が一つ、二つ、三つ……飛んで七つ? ありえねぇ。野菜スープを作ってきてくれたにしては数が多くないか?
俺はテーブル横に置かれた小さな冷蔵庫に「……」だった。
中を見せてもらえば、色とりどりのゼリーがずらり。もはや何処からツッコめばいいか分からない。
まず言えることは、病人じゃなくてもこんな量は食えません……だよな。
「さてと準備は揃ったな。空、どれがいい? 和風からイタリアンまで野菜スープは取り揃えてある。好きなのを選べ」
「えら……えーっともしかして、お鍋の中身は全部違うんっすか?」
「野菜スープとはいえ、味にも好みがあるからな。空、どういう味付けが好みだ? ゼリーも27種類の味を揃えているからな。遠慮せずに言え」
俺は忘れていた。
鈴理先輩は生粋のお嬢さまだったってことを。金の掛け方がここからして違う。マジで。
呆気に取られている俺は取り敢えず、スープの中身を拝見させてもらう。
うん、トマトスープが美味そうだからそれを選ばせて貰った。ゼリーは……、も、先輩におススメを選んでもらった。27種類もあるんだぜ? そりゃもう、迷うどころじゃないだろ。できることなら全部食してみたいよ。
てなわけで、トマトスープとざくろゼリーを頂くことに。
メイドさんに上等そうな器にスープを注いでもらい、それを俺は受け…取れず、先輩が受け取って匙を手にする。
想像は付くけど、先輩まさか……。
「病人の看護には欠かせないイベントだな。ほら、空、口を開けろ」
ほっらキッター! あーんイベント! ときめき場面発動!
お、落ち着け。これは攻めも受けもないぞ。普通に恋人さん同士ならあるイベントだ。
「あの、自分で」
取り敢えずお約束の言葉を言ってみるけど、「あたしに食べられたいならいいぞ」ニコッと脅されて、俺は喜んで食べさせてもらうことにした。
ははっ、貞操を守るためなら何だってするだろ、フツー。俺は先輩の差し出される匙をおずおず口に入れる。嗚呼、なんだこの羞恥プレイ。結構なまでにハズイぞ。
と、鈴理先輩が笑顔を輝かせてきた。それはまさに攻め顔だった。
「あまり恥らいながら食べるな。あたしが我慢できなくなる。見境無く襲って欲しいなら、是非とも恥らってもらいたいが」
「………」
「まさか、空、最初からそれを狙って「極力恥らわぬよう努力するっす!」
アッブネー。
俺、もう少しで先輩の攻めスイッチを押すところだったよ。貞操の危機ってのはいつ訪れるか分かったもんじゃないよな。
それにしても美味しい。
三ツ星シェフってどんくらい料理が上手いのか知らないけど、とにもかくにも美味い。
トマトの味が深くてコクがあって、でもしつこくない。こんなスープは初めてだ。
「美味しいっす」
目を輝かせて俺は感動に浸る。
「一生分の食事の運を使った気がします。こんなにもご馳走を食って、罰当りそう」
「喜んでもらえて何よりだ。そうだ空、さっきお母さまが御帰宅なさったぞ」
「え、母さんが?」
そういえば昼頃、俺の様子を見に帰って来ると母さんが言っていたような。心配性なんだから。
先輩曰く、俺が寝ている間に母さんが帰宅したそうな。自分が家にいることにすこぶる驚いたらしい。
母さんのことだから得体の知れないグラサン男達やら美人さんやらが家に居ることに驚いたんだと思うけど。
父さんと母さんに彼女が出来たことは報告しているから、すぐに母さんは鈴理先輩が俺の彼女だと気付いたようだ。
鈴理先輩と軽く挨拶を交わして仕事場に戻ったらしい。
母さんと鈴理先輩が何を話したか、ちょっと気掛かりではあるけど、「優しいお母さまだな」と言われて俺は凄く気分が良くなった。
親のことを褒められると凄く嬉しいんだ。
だってあの二人は、一生懸命俺のことを育ててくれた大切な人達だから。
「凄く優しいんっすよ。自慢の両親です」
「そうか、それは御両親もそう言ってもらえて嬉しい限りだろう」
目尻を下げてくる鈴理先輩に笑みを返した、直後、俺はさっき見た夢のことを思い出した。
そういえば、俺はどうして公園の夢を見たんだろう。そしてどうして、今の親の子供になる夢を見たんだろう。
「どうした空?」
ぼんやりとする俺に声を掛けてきた鈴理先輩に、「いえ」俺は曖昧に笑ってみせた。
「ちょっとさっき見た夢を思い出して。なんだか変な夢なんです。公園で遊んでいるんっすけどジャングルジムから落ちて、そして場面が変わって今の両親の子供になる。一貫性の無い夢でした。なんであんな夢を見たのか」
腕を組んで首を傾げる俺は気付かなかった。
鈴理先輩がやや哀しそうに、微苦笑交じりに俺を見つめていることを。
「ほら、冷めるぞ。まだゼリーも残っているんだ。しっかり食べて寝る。そしてあたしに食われる。いいか?」
「よくないです」
「何が不服だ?」
「全部っす!」
俺は知らなかったんだ。
鈴理先輩が母さんから、俺さえ知らない事実を聞かされていたことを……俺はまったく知る由もなかったんだ。
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