07.トラウマと気持ちと、保健室deエッチ?


 □



「俺、トラウマがあるんっす。記憶にはあんま無いんすけど」


 保健室に入った俺達は、保健室にいるべき教諭が会議でいないことをいいことに空っぽのベッドに腰を掛けていた。


 薬品くさい保健室は無人で凛と静まり返っている。そのせいで語り部に立つ俺の声がやけに響き、発したそれは大きなものと感じた。ベッドをぐるっと囲っている桃色のカーテンに視線を留め、俺の横顔を見つめてくる聞き手の視線を受け流す。

 高所恐怖症という己の弱点を人に曝す、それは俺にとって勇気がいることだった。


「いつのことだったか憶えていません。ただうんっと小さい頃に、俺はジャングルジムから落ちたんっす」


 断片的にしか思い出せない記憶のかけらを収取してみる。


 当時、俺は“どこか”の公園にひとりで向かい、ジャングルジムにのぼって遊んでいた。周りに大人はいなかった。ジャングルジムは大好きだった遊具、お気に入りの場所として真っ先に足を向けていた。


 けれど、落ちる寸前のあの時、俺は“何か”を見た。

 その拍子に足を滑らせて地面に真っ逆さま。頭ぶつけて大怪我を負った。俺が思い出せる記憶はここまで。あとは抽象的な感情や、落ちた時に感じた頭部の激痛しか憶えていない。

 

 十五針を縫う大怪我の末、俺は高い所が極端に駄目になった。


 今も外の景色が見えるエレベータはてんで駄目だし(エレベータ自体が苦手)、窓の外から景色を眺めることも窓側に座ることも駄目だ。そこが一階だったら問題は無い。窓側に座れるし、窓の外も余裕で眺められる。反面、一階より上は駄目だ。恐くて怖くて仕方が無い。建物に上れるけど、景色は絶対に眺められない。


 情けない話、これに関して克服する術を知らない。

 鈴理先輩に俺のトラウマのことを話すと、「そうか」同情するわけでも、哀れむことも無く、ただ相槌を打ってくれた。心遣いが嬉しかった。同情されたりしたら、自分自身が情けなく思っちまうから。


「馬鹿だな。そんなトラウマがあるのに、どうして無理をしてくれたんだ?」


 気を落ち着かせるために始終握ってくれた右の手が、俺の手の甲を悪戯気にさする。


「親衛隊がいたからか?」


 期待を込めた瞳とかち合う。目尻を和らげてくる先輩にかぶりを振り、「親衛隊のためじゃないっすよ」今の気持ちを素直に白状する。

 これは親衛隊うんぬんに勝負を挑まれたからじゃない。もしも親衛隊だけの理由でどうのこうのだったら俺は木に登る時点で心が折れていた。正直、トラウマの恐怖から木に登ってもすぐに下りていただろう。


 じゃあ何で無理をしたか。そんなの決まっているじゃないか。此処で逃げたら先輩に対しての気持ちや、気になりつつある先輩への自分の気持ちを否定すると思ったから。


「……俺は親衛隊に認められたくて無理したんじゃないんっすよ」


「では何故? 返答次第では自惚れてしまうぞ」


 鈴理先輩の照れた声に俺は馬鹿みたいに心臓が高鳴った。顔が熱くなる。


 なんでってそんなの決まっている、決まっているんだ。


「あれは、先輩が貸してくれた大事な携帯だから疵付けたくなかったんです。それに先輩が傍にいたのに、逃げるなんてカッコ悪いこともできなかった。逃げたら俺は今の自分の気持ちにも逃げるような気がして。なにより誰彼に言われて先輩と別れるなんて嫌だったんっすよ……言ったでしょう。逃げてばかりの俺だけど、誰にも貴方を取られたくない、と」


 すると先輩の頬が薄っすら赤く染まった。初めて見る先輩のちゃんとした照れ顔に俺は小さく目を見開く。対照的に先輩はぶっきら棒に、頬を掻きながら視線を外した。


「なあ、空。これ以上あたしを惚れさせてどうするんだ?」


 先輩もこんな風に照れるんだ。なんか可愛いな。容姿が可愛いじゃない。先輩が可愛い。女の子らしいっていうか、なんていうか。先輩を見ていると心が熱くなる。

 あたたかな沈黙が流れた。先輩が赤面しているように、俺も負けじと赤面しているんだと思う。風呂上がりのゆでだこ顔のようになっているのだろう。

それでも言葉を撤回するつもりはなかった。この気持ちは本当なのだから。


 甘い沈黙を裂くように、彼女が距離を詰めてくる。ウェーブがかかった髪を靡かせ、強い感情を宿した瞳は俺を捉えてばかり。形の良い唇はこの空気に終止符を打たせるための言葉を紡いだ。


「心配させた仕置きをさせろ」


 急速に空気が凍っていく。

 甘さを含んだ雰囲気は、おどろおどろしいものに変わり、俺の心臓をドキドキさせる。当然、このドキドキは胸キュンの方向性ではなく、いつもの意地の悪い台詞に恐れおののいたドキドキバクバク、付け足しにハラハラ。


 え、仕置きって何デスカ? まさかのまさか、させろなんてとんでもないことを言い出すんじゃ。タラタラと冷汗を流す俺の反応を楽しみながら、先輩は目を細めて口角をつり上げる。


「此処は保健室だしな。ベッドも丁度ある。まさに『ご自由にシて下さい』と言わんばかりの場所だ。なあ?」


 保健室に置いてあるベッドの用途が違う!


「俺には『怪我人・病人の方は大人しく寝ておいて下さい』と言わんばかりの場所に見えるっす! ……仕置き、やめません?」 


「駄目だ。あんたが落ちた時、肝が冷えるかと思った。あれほど、あたしが止めたのに聞かなかった。そんな聞かん坊には仕置きが必要だ」


 倉庫から落ちて泣くほどの恐怖した、それで十分仕置きにならないでしょうか!


 引き攣り笑いを浮かべている俺の体を引き寄せて、先輩は耳元で囁く。「あんたからキスして」と。それが彼女の下した仕置き。想像していたよりかは酷くないけど、俺にとっては効果的な仕置きだ。あわあわと慌てふためきながら、俺は素っ頓狂な声を出した。



「お、おおおぉお俺からっすか!」


「二つ選択肢を与える。此処でスるか、あんたからあたしにキスするか」



 究極っすよぉおお! 此処でシたくはないっす! だけど俺からキスなんて……キスなんて……。


 唸り声を上げる俺にニンマリ笑い、鈴理先輩がイソイソと人のベルトに手を掛けてきた。


 ちょ、待った! それは待った! 全力で待ったの待った! 俺は急いで先輩の手を掴んでブンブン首を横に振った。


「先輩ぃいい! 何考えているんっすか!」


「いやシたそうだったからな」


「此処は保健室っすよ! 常識的にオカシイ!」


「何を言う。ホラ、これ。『肉食系俺様男子と天然少女のわぁおな物語』の百十頁を読んでみろ」


 何処からか取り出した例のケータイ小説を俺に押し付けてきた。

 だからケータイ小説は非現実的な話ばっかりなのに……俺はパラパラとページを捲って言われたページを開き、ざっと目を通す。



【第三章 野獣降臨】


―先輩のバカ!②―


先輩は私を強引に保健室のベッドに押し込んだ。体調なんて悪くないのに、先輩ったら何をする気なんだろ。ドキドキする私がいる。


「せ、先輩……私」


心臓が馬鹿みたいに鳴っている私がいる!


「期待しているんだろ? わーってる。すぐやっちまうから」


「そ、そんなこと思ってないのに! 此処は保健室だよ!」


「保健室だからこそ燃えるんじゃねーの?」


「うぅ……先輩の肉食……」


「相変わらず生意気な口だな。体は素直なくせに。どうする? 酷くして欲しい?」


「や、優しくが良い……。痛くしないで」


「ああ。俺様のテクニックを舐めるなよ」


(それからきゃあきゃあと流される主人公だった。まる)



 ………。


 だ、だからなんでこんなところでヤッちまうんだよ、この主人公達。

 保健室に人はいないのかよ、廊下にも人はいないのかよ、ひ・と・は!


 現実的に考えちゃいけないことくらい分かっているけど、やっぱ考えるだろ! 見つからない方がおかしいだろ!


 いいか、世の中、欲望という名の本能だけじゃないんだぞ。清く正しく美しく生きることもまた人生だと、俺ァ思うんだ。うん。



「先輩……恋愛向けケータイ小説って、官能場面が大半なんっすか?」


 ついつい相手を白眼視してしまうのは、俺の性格が悪いせいだろうか。


「なッ! 空、ケータイ小説を舐めるでない。恋愛からホラーからファンタジーから、ジャンルが多岐にわたって存在している。官能ばかりなど言語道断。ケータイ小説だからと言って軽く見ていると痛い目に遭うぞ! まったく近頃の奴はケータイ小説を馬鹿にする傾向にある。まあ確かに普通の小説と比べると文字数も表現も劣っているかもしれない。内容も薄いかもしれん。しかし、ケータイ小説にはケータイ小説の良きところがある。それを認めた先に、新たな文学の道が切り開けるとあたしは思うのだが」


 アッツーくケータイ小説を語っている先輩に俺は遠目で微笑。


「……いや軽くは見てないっすよ? ただ先輩の読ませてくれるところは官能場面ばかりなので必然とそう思わざる得ないという」


「それはあたしがシたいからだ」


 なんてとんでもない気持ちを素直にさらっと吐き出してくれるんだ。それ、お嬢様が間違ったって言って良い台詞じゃないぞ。

グッと握り拳を作って先輩は熱を入れて語り出す。


「実を言うとな、空。あんたの体を受け止めて泣き顔を見た時、とてもムラムラきたのだよ」


「……は?」


 え、なんてこと言ってくれるの。この人。


「空の泣き顔があそこまでそそるとは思わなかったのだよ。果敢にも堪えたあたしを褒めて欲しい。かなり葛藤したのだぞ。『据え膳食わぬは男の恥』という言葉があるだろ? まあ、あたしの場合は『据え膳食わぬは女の恥』だが……とにかく空のあの顔はやばい。これはあたしに食って下さい、と無意識に空から誘っていた」


「ご、ご都合な解釈も程ほどにして下さいっす! 人が恐怖して泣いている間に、そんなことを考えていたんっすか!」


「仕方がないではないか。あんたの泣き顔があたしを誘うのだから」


 誘ってねぇよ先輩。あの時の俺は、先輩との甘い雰囲気を味わっていたんだぞ。恐怖心に煽られながらも、先輩のヒーローな部分とヒロインな部分にときめいて、もっと彼女を知りたいと思っていたというのに。先輩は俺の泣き顔を見てケッタイなことを思っていたんっすね。


 頭上に雨雲を作り、ズーンと落ち込んでしまう。

 お構いなしに鈴理先輩がトントンと肩を突っついてきた。意地の悪さを含んだニッコリ笑顔と、己の唇を指して今か今かとキスを待つ肉食獣。草食は追い詰められた!

どうする、先輩にこの場で食われちまうか。それとも俺から先輩にキスするか……そんなの、頭を悩ます問題でもない。どちらを選ぶかなんて分かっている。分かり切っているよ。

 だけどさ、羞恥が先に来るんだよ。分かるだろ、俺の気持ち。ええい男になれ、お・れ!


「じゃ、じゃあ目を瞑って下さい」


 人にちゅーなどしたことない俺は相手に慈悲を求めた。それくらいのハンデはあったっていいだろう? 俺は恋愛初心者なんだ。先輩みたいな肉食系でもないし、さ。


「却下。空の苦悩している顔を見ていたい」


 無慈悲の返答。

 「エッ」片言に聞き返す俺に「だから、目は瞑ってやらないと言っている」ニヤリ。先輩は口角をキュッとつり上げた。こ、このドS! 先輩のドS! チックショウ、ああもう、心音が耳に纏わり付いてきた。うっるせぇぞ、俺の心臓。

 あーとかうーとか唸り声を上げていた俺はチラッと鈴理先輩を盗み見る。そこには今か今かと俺の行動を待っている先輩の姿。どちらを選ぶかは見越されている。

不敵な顔を作る先輩の笑顔に悔しさを覚えつつ、俺は意を決し、顔を近付けた。軽くだけど先輩の唇に触れる。キョトンとしている鈴理先輩は直後、「可愛いな」くすくす笑ってきた。


 ……悔しいけど今の俺はソフトキスしかできないんだよ! 今の俺にはこれが精一杯だ。


 言い訳だけどキスなんて、ほんっとキスなんて自分からキスするなんて初めてなものだから緊張してしまうんだ。

 羞恥がジワリジワリと出てくる。俺から女の子に触れるなんて思考……の、片隅で妄想はしたことあるけど実行に移したこと無い。移す日が来るなんて思ったことも無かった。


「だけど空、今のじゃ満足できない」


「え? うぇえ?!」


 体を抱え込まれるように押し倒されたかと思ったら、がっちり口を塞がれた。俺が仕掛けたソフトキスなんて目じゃない大人のキスを仕掛けてくる。「んー!」驚いて声を上げる俺に目で笑った先輩は、いつものように俺の口腔に舌を侵入させた。もうこの後どうなっているのかは、ご想像にお任せ。


 ただ言えることは、最近このキスをされると俺、必要以上に体の力が抜けちまう。先輩が俺の息が切れるまで、まるで溺死させんばかりにキスを深くするから、体の力が抜けちまって。思考もボンヤリしちまって。


「はぁ……」


 乱れた息を整える俺をまた目で笑った鈴理先輩は、悪戯っぽく口角をつり上げてきた。

 一度は起こした上体をまた折って俺の首筋に顔を埋めてくる。長い髪がチクチクしてくすぐったい、かと思えば、小さな痛みが首筋に走った。皮膚を思いっ切り吸われたのは分かるけど、先輩はナニを……ちょっと待てよ。今吸ったよな。俺の肌。ってことは、まさかっ、先輩!


「せ、先輩。まさか! ッイタ!」


 また吸われた。


 さっき吸われた場所とは別の場所をチュッと、リップ音を立てながら。これはもしかしてもしかしなくともキスマークの痕を付けられている。しかも制服じゃ隠し切れない場所に!

 幾つも痕を付けてくるものだから俺は焦った。


「先輩、止めて下さい」


 俺は必死で身を捩るけど、暴れる俺の手を掴んで先輩はニヤリ。


「これも仕置き」


「これも仕置きって! 俺、頑張ってキスしたじゃないっすか! それで仕置きはおしまいなんじゃ」


「おしまいとは言っていない。ま、キスはキス。これはこれ。じゃ、イタダキマス」


「イタダカナイで下さい! ッ、イタッ! また付けたっすね!」


 数日は消えないじゃないか! どうしてくれるんっすか……ん? もしかして俺、テイソウのキキ?

 えええっ?! じゃ、今の頑張ったキスってナニ? 選択肢の意味無いんだけどっ!


「無理っす!」


 俺は先輩を押し返そうと躍起になる。


 だけど……クソッ、さっきの濃厚過ぎるディープキスのせいであんま力が入らない。早く抵抗しないと食われる。俺、食われちまうって。こんな誰でも来そうな保健室でヤれるわけないだろ。

 じゃあ別の場所でできるかって聞かれたら、そりゃNOなんだけどさ。俺的にはまだまだ清い関係を保ち続けたい。男の子の方が性欲どうたらこうたら~言われるけど、皆が皆そうじゃないと思うぞ!

 力なくジタバタ暴れている俺を捻じ伏せながら(まだ体に力が入らない)、鈴理先輩はベッドの上に放り出されている例のケータイ小説本を手に取って音読し始める。


「『期待しているんだろ? わーってる。すぐやっちまうから』」


「何言い出すんっすか」


 度肝を抜く俺に鈴理先輩は可愛らしくウィンクした。その可愛らしさが今は小憎たらしい。


「雰囲気作りだ。やはり雰囲気は大切だと思うぞ。ほら、次は空の番だ。『そ、そんなこと思ってないのに! 此処は保健室だよ!』はい、繰り返す」


「えーっと、『そ、そんなこと思ってないのに! 此処は保健室だよ!』って、乗せられないっすよぉおお!」


 今のはノリだから、絶対にノリだって断言できる。

 あくまでケータイ小説本の台詞を完読させるつもりなのか、先輩はページを捲ってまだ俺に台詞を突きつける。

 こうなったらケータイ小説のような流れに持っていかないよう努力するまでの話。


「『保健室だからこそ燃えるんじゃねーの?』」


「燃えませんっす! 先輩は獰猛っすよ!」


「『相変わらず生意気な口だな。体は素直なくせに。どうする? 酷くして欲しい?』」


「酷いも何もないっす! どんな酷いことをされるのか俺には想像もつかないっす!」


「なら夢を見せてやる。あたし様のテクニックを舐・め・る・な・よ・?」


 なんだかんだで完読させちまったぜセニョリータ。

 最後の台詞だけ完全に先輩自身の気持ちが篭っているだろ。

鈴理先輩は嫌味ったらしく本を閉じて俺の頭の上にそれを投げる。目で動作を見ていたその隙に先輩が首筋に唇を寄せてきた。軽く甘噛みされ、そしてまた唇を塞いでくる。

 艶かしい動作に俺はカチンコチンに固まっていた。


 決してヘタレではないぞ。どうすればいいか分からないだけなんだ。所謂パニックに陥っているだけなんだ。


 頭に回る酸素が少なくなってきた。「ふっ」自然と声が漏れる。音に羞恥が込み上げてきた。上あごや歯列を舌で舐め取られるとゾクゾクする。やばい、本当にやばい。相手の体を押し返そうとすると、余計圧し掛かってくる彼女。俺の顔の両横に腕を突き、更に俺の手首をベッドシーツに縫い付けてきた。

 積極的に絡めてくる舌のせいで、もうどっちの唾液なのか分からない。飲み込めなくて口端から零れていく。一旦舌が彼女の口内に戻っていくけど、銀糸を引くその卑猥さと言ったら。いったら。


「せ、ん、ぱ」


 ぺろっと人の口端を舐め、名残惜しそうに唇が離れて行く先輩は「可愛いぞ」頬を包んできた。嬉しくない。可愛いは嬉しくない。

 呼吸を整えながら反論するけど、相手は気に素振りすら見せてくれない。


「イケナイことをしようか、空」


 覗き込んでくる瞳が色欲帯びている。

 それ以上に俺の思考回路が酸欠によって停止状態だ。なんかもう、抵抗しても抵抗しても無駄な気が……どうしようもないし、何か流されちまえ、な、気分になってきた。

 諦めてはイケナイと思いつつ、川島先輩の言葉が脳裏に過ぎる。


『潔く諦めて食われることが豊福の幸せだと思うぞー。情事ってのは最初だけ時間を取るだけで、あとは意外とパパパァーっと流れてあっという間に終わっちまうって』


 最初だけ時間を取るだけで後は……本当にそうならちょっとだけ流されてもいいような。本当にちょっとだけそう思ってきたぞ。本当にちょっとだけ、さ。


「鳴いて、可愛い声で。あたしだけのために」


 「そして体に」先輩の食指が、「あたしを」鎖骨から、「憶えるんだ」胸まで滑り落ちてくる。

 抵抗の“て”も忘れてしまった俺の耳元で、「だって空はあたしのものだから」熱い吐息と共に耳元で囁かれた。


 もう俺に逃げる術はない。後はただ流されていくだけ。



「ぎゃぁあああアイドル早まらないで下さいぃいい!」


「それは不純な生き物! 貴方が穢れっ、こら、押すな諸君!」



 ……ファッ?!


 勢いよくカーテンが開かれたかと思ったら、なだれ込むように親衛隊が倒れ込んできた。

 光景に俺達はカチンと固まった。正しくは俺がカチンと固まる。どこからデガバメしていたのか、我に返った親衛隊達も土俵に飛び入り参加してしまった現状にまずいと石化。ぎこちなく口角を持ち上げ誤魔化し笑い。


 唯一鈴理先輩だけが上体を起こし、腕を組んで口元を痙攣させていた。


「またしても親衛隊……情事を公開するつもりはないのだが」


 どすのきいた声は怒気を含んでいた。



「折角っ、空がその気になっていたというのに。何故、ケータイ小説のように上手くいかないのか。空をその気にさせるのは、それは、それは苦労をするのだぞ。それをあんた達っ……覚悟はいいか?」



 指の関節を鳴らす鈴理先輩の満面の笑顔に親衛隊達が悲鳴にならない悲鳴を上げる。体を癒すための保健室が地獄と化した瞬間だった。

 いそいそとベッドから下り、地獄をかいくぐって廊下に出た俺は近くの壁際に背を預けて座り込む。

 程なくして俺の荷物を届けてきてくれたフライト兄弟が声を掛けてきた。彼等は俺が廊下にいることに疑問を抱いたようだけれど、保健室から聞こえてくる悲鳴によってある程度の察しはついたようだ。


 親衛隊のことを触れないかわりに、アジくんが俺の首を指さして揶揄してくる。


「それは何だよ。え、豊福くん?」


 付けたての紅痕に顔を顰めつつ、二人の笑声を一蹴に返事した。


「自分の私物には名前を付けるじゃん。あれと一緒だよ……しょうがないだろ。俺はカノジョの所有物なんだから」


 いや、カレシの所有物だと訂正するべきだろうか。ポジション的に。

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