06.親衛隊vs草食



 □ ■ □


 

 エビくんから親衛隊の話を聞いてから俺は何かと周りに気を配った。


 例えば俺と先輩が一緒にいる時、ガンを飛ばしている輩はいないか。物を投げてくる輩はいないか。突撃してくる輩はいないか。人にどうこう言われて鈴理先輩と別れるつもりは無いけど、やっぱ警戒心は抱いちゃうわけだ。


 俺だって人から恨まれたり、嫉妬心を買ったりするのは気分が良いものじゃない。


 だけど親衛隊の動きどころか、俺と先輩の仲に茶々を入れる人はいても(例えばフライト兄弟とか鈴理先輩のお友達とか)、野次を飛ばす人はいない。


 心配し過ぎなのかな。杞憂なのかな。次第に俺は親衛隊への警戒心が薄れていった。

 その分、俺を押し倒してこようとする鈴理先輩への警戒心を高めないといけなかったんだ。このまま何も起こらず平々凡々と時が過ぎる。

 

 そう思っていた矢先、ちょっとした事件が俺の身に降り注いだ――。



「あ……あれ?」


 放課後。

 いつものように身支度をして帰ろうとしていた俺は通学鞄の中にあるべき物が入ってないことに気付いた。鞄の中身をひっくり返してもやっぱり無い。


「何処に行ったんだ」


 心なしか焦っちまう俺の様子に気付いたエビくんが、「どうしたの?」と声を掛けてくる。


 俺は早口で説明した。鈴理先輩から借りている携帯がないんだって。携帯を学校に持ってくるのは校則違反なんだけど、どうしても携帯の使い方が分からないから昼休みに先輩から扱い方を教えてもらおうと毎日持ってきていたんだ。


 今日も昼休みに携帯の扱い方を教えてもらって、ちゃんと通学鞄に仕舞ったのに。壊しちゃ悪いからって巾着袋に入れていた筈なのに。巾着袋ごと無くなっている!

 教科書の間や通学鞄の裏ポケットを覗き込んでみるけどやっぱりない。

 嘘だろ、まさか……失くしちゃったってヤツ?


「どーしよう。鈴理先輩から借りたヤツなのに。携帯って高いんだろうな。弁償なんて今の俺の家じゃ到底できっこないだろうし」


 溜息をつく俺にエビくんは落ち着いて、と声を掛けてきた。


「ちゃんと仕舞ったんだろ?」


 優しく問い掛けてくるエビくんに向かって俺は力なく頷いた。

 ちゃんと仕舞ったんだ。しかも取られないよう裏ポケットに。持ち出す時は失くしたら大変だって、意識してしっかり手に持っているし。

 なのになんで無いんだ? 項垂れる俺の肩を叩いてエビくんがもう一度探してみようと、教科書やノートを綺麗に整理し始める。


「大丈夫だって空くん。僕も君が仕舞っているところを見ていたし。君は几帳面だから、壊したら不味いって思って別の場所に仕舞ったのかもしれない」


「だといいんだけど。……でもちゃんと通学鞄の裏ポケットに仕舞ったんだ」


「どうしたんだ? 空。笹野」


 俺達の様子に身支度をしていたアジくんが気付いたのか、こっちにやって来た。


「携帯が無くなっているらしいんだ」


 エビくんが携帯のことを説明してくれる。


「空が失くすことはないだろ」


 アジくんはちゃんと探したのかと眉根を潜めた。


「空がめっちゃ大事にしてたの俺も見ていた。教室戻ってきてから直ぐに茶色い巾着袋に仕舞っていただろ?」


「うん。そうなんだけど……無いんだ。ほんっと何処にいったのかな。鈴理先輩の連絡先が入っているのに」


 俺は空っぽになった通学鞄をひっくり返し、上下に大きく振る。

 これで出てくるとは思えないけど、なんとなく気持ち的に出てこないかって期待を持った。でも出てきたのは紙切れのみ。多分プリントだと思う。何も出てこないことにガックリ肩を落とした。

 やっぱり無い。どうしよう、先輩から借りた大事な携帯なのに!


「ん? これ」


 エビくんが出てきた紙切れを拾い上げて目に通す。


「……空くん、携帯、預かられたっぽいよ」


「え?」


 素っ頓狂な声を上げて俺はアジくんと一緒に紙切れを覗き込む。紙切れはプリントじゃなかった。ノートを破って綴られた俺宛の手紙。


『親愛なる豊福空さま。貴方の携帯は貴方の恋人の鈴理が預かりました。返して欲しかったら、体育館裏に来て下さい。じゃないとお・仕・置・き・よ! 来ないと別れちゃうんだからね! 貴方の竹之内鈴理より』


 なんだこれ、阿呆な文この上ない分かることは鈴理先輩からの手紙じゃないよな。絶対に。


 貴方の携帯って、俺の携帯は鈴理先輩から借りたものだしさ。こんな阿呆な文章を書く先輩じゃないぞ。手紙の字はえらい汚いしさ。

 取り敢えず体育館裏に行けば携帯は返してもらえるのかな。俺は急いで教科書や筆記用具を鞄に詰め込んだ。あれは先輩から携帯だしな、返してもらわないとほんっと困る。チャックを閉めて鞄の蓋を閉めた俺は肩から鞄を掛けた。よし行こう、体育館裏へ!

 だけどフライト兄弟に止められた。


「ちょっと待てって空。これ、絶対におかしいだろ。明らかにお前を誘い出すための阿呆な手紙っていうかさ。一人で行くには危険だって」


「そうだよ。もしかしたら噂の親衛隊の仕業かもしれないよ」


 体育館裏への呼び出しなんてまさしくそれっぽいじゃないか。エビくんの意見に俺は確かに、一つ頷いた。


 だけどさ、携帯は大切なものなんだ。行かないわけにはいかない。壊されたらとんでもないことになる。申し訳も立たないって!

 携帯なんて高価なものを弁償するお金もないし、あれは先輩が俺と連絡を取りたいから貸してくれた大事な物なんだ。心配してくれる二人に大丈夫だと綻んで俺は急いで教室を飛び出す。


 だがしかし二人にガッチリ通学鞄やら腕やら掴まれた。


 「ちょ、放せって!」焦る俺に、「真っ向から行くのは危険だから!」とエビくん。「まずは策を立てろって!」とアジくん。


 そんなこと言われたって行かないことには話も始まらないじゃないか。

 放せと喚く俺に二人は落ち着けって喚く。廊下を通行している生徒達には大注目。何をしているんだこいつ等、という目で見られている。

 ほら、そこの男子生徒とか、仲良く駄弁っている女子生徒とか、笑顔で仁王立ちしている鈴理先輩とか……仁王立ちしている鈴理先輩?


「ほぉー。空。モテモテだな。いや何、あたしは寛大だからな。男にしがみ付かれてどうこう言う心の狭い女ではない。まあ、少々ながらも仕置きをしなければいけないようだが。あんたが誰の所有物かってのをねぇ」


 それとも仕置きされたいがためにワザと、か?


 ニッタァと意地の悪い笑みを浮かべて何処からとも無くロープを取り出す先輩に俺はギョッと目を削いだ。これはちょ、不味い展開な気がするんだけど。しかもそのロープはナニをする時に縛るためのロープだったような。

 次の瞬間、疾風の如く先輩は俺の体をフライト兄弟から引っ張り出すと、足払いして俺に尻餅をつかせる。んでもってロープで縛った。


「よし」


 ギュッと固くロープを結ぶ先輩は晴れ晴れとした顔を作っている。対照的に俺は冷汗ダラダラ。


 い、一瞬の間に縛られッ、しかも解けないときた! どんなに身を捩っても解けないッ……ピーンチ、俺、大ピーンチ!


「先輩っ、これにはワケがあるんです。別に俺はモテていないです! フライト兄弟は俺を止めようとしてたんっす!」


「話はじっくり体で聞いてやる。今日という今日は勘弁しないからな」


 鼻歌交じりにロープを引っ張って俺を引き摺り始める先輩に、「行くところがあるんっす!」俺は必死で弁解。

 鈴理先輩は聞く耳を持っちゃくれない。フンフンフ~ンと鼻歌を歌いながら俺を何処かに連れて行こうとしている。多分人気の無い空き教室だとは思うんだけどさ。

 嗚呼、俺、今日で必死に守っていた貞操が……とか思っている場合じゃない。


「先輩ぃい!」


 懇願に近い声で呼んでも先輩は無視。ああもう! 俺はフライト兄弟に助けを求めた。呆気に取られているフライト兄弟だったけど、さすがに不憫だと思ってくれたのか、エビくんが鈴理先輩を呼び止めた。


 足を止めて振り返る鈴理先輩にエビくんは持っていた例の手紙を彼女に差し出す。


「空くんは体育館裏に行こうとしたんです。携帯を預かられたっぽくて」


「携帯を? 誰に?」


「えーっと……この手紙ではよく分からないのですが」


 エビくんが説明する前に鈴理先輩がその手紙を受け取って目を通す。瞬く間にグシャリとそれが握り潰された。


「な・ん・だ・こ・れ・は!」


 くっきりと青筋を立てている鈴理先輩、恐い。普通に怖い。


「あぁああああたしは、こんなに乙女らしい文は書かん! 『来ないと別れちゃうんだからね!』なんてまさに乙女ッ……攻め女の名が廃る! 誰が別れるなんぞ思うか! 誰だ、こんな手紙を寄越したヤツはっ。しかもあたしの名で語るとは不届き千万もいいところだ! 空、まさかあんた、これをあたしが書いたなんて思ったんじゃ」


「お、思っていないっす! 先輩、こんな阿呆な文章は書かないでしょっ、うひゃあ!」


 み、耳にかぶりつかれたっ! おかげでっ……変な声出しちまったよ、キショイよ、俺。今の声を出したことに多大な羞恥が。うん、羞恥で今なら軽く天国にいけそう。地獄かもしんねぇけど。

 赤面している俺に対し、「嘘はついてないようだな」と先輩は一つ頷いている。今のって真偽を確かめるための噛み付きだったんっすか。どういう嘘発見器法っすか、それ。

 先輩は俺を縛っているロープを解いてくれた。そして体育館裏に行こうと誘ってくる。


 俺は瞠目した。だって先輩が行く必要ないんだぜ? 行くのは俺だけで十分。俺が油断していたから貸してもらっている大事な携帯を盗まれることになっちまったんだし。


 なのに、彼女は素知らぬ顔で俺の腕を引いて歩き始める。


 「あの先輩」声を掛けると、「手紙の主を突き止めなければな」先輩は唸り声を上げた……よほど、オトメチックな文面が腹立たしかったんだろうな。


 俺は引き摺られるように鈴理先輩と一緒に体育館裏へと向かった。

 あれほど俺を止めていたフライト兄弟も鈴理先輩と一緒なら大丈夫だって判断したのか、頑張れの意味を籠めて手を振ってきた。小さく手を振り返す。何事もないことを願いながら。




「――うわぁああ、何だ。あれ」


 鈴理先輩と共に体育館裏に足を運んだ俺は思わず声を漏らしちまった。

 なんでか? そりゃ目の前にドーンと男子生徒の集団が立っていたから。


 もしかして彼等が例の『鈴理さまお守り隊』と呼ばれている親衛隊なのかな。全員男ってのがまたなんとも……妙に暑苦しいし。


 俺の姿を捉えた親衛隊らしき人達はまず俺にガンを飛ばしてきた。絶対に嫉妬の目だろ、あれ。恐いな。次に俺の隣に立っている鈴理先輩にウォオオオ! 黄色い悲鳴。いや咆哮? 男の歓喜の悲鳴ってキショイな。女の子ならキャアア~とか叫んでも可愛いのに。


 男だとなんか……同じ男だからこそ男の黄色い悲鳴に引くわけで。


 鈴理先輩はキョトンとした顔で集団を見つめていた。そして俺に目を向けて向こうを指差す。


「あれは空の友達か?」


「いえ、どー見ても先輩のファンだと思うっす」


「なんだ。皆、攻め女になりたいのか? いや、全員男だから攻め男か。肉食男子にでもなりたいのか? 攻め講義ならいつでも喜んでするぞ。私的には女中心の講義をしたいのだが、男も無論大歓迎だ。男女共通に攻めポイントというものが存在するからな」


 そういう意味のファンじゃないんだけど。

 苦笑いを浮かべていると集団の中から二人の男子生徒が俺と鈴理先輩の前に現れた。揃って『I Love Suzuri !!』という鉢巻を巻いている。ついつい俺も先輩もドン引き。愛を向けられている先輩本人までドン引きしちゃ救いようが無いと思う。やっぱ親衛隊なんだろうな、この人達。


 目前に立っている二人は揃って上級生みたいだ。ネームプレートのカラーで分かる。一人は先輩と同じ二年生。一人は三年生っぽい。


 二人はそれぞれやなぎ 信幸のぶゆき高間たかま 裕次郎ゆうじろうと名乗ってきた。


 例の『鈴理さまお守り隊』と呼ばれている親衛隊で三年の柳先輩が親衛隊隊長、二年の高間先輩が親衛隊副隊長らしい。

 二人はうっとり鈴理先輩に熱い視線を送って会釈。


 俺にギッとガンを飛ばしてきた。


 予想はしていたけどさ……こ……恐っ、男の嫉妬って醜い。


 で、でも頑張れ俺! アジくんに言われただろ。俺は悪いことしてない。俺と先輩で決めて恋人同士になったんだ。他人にどうこう言われても堂々としてれば良いんだ。


 ううっ……だけど二人プラス、他の親衛隊隊員の皆様方の眼が恐い。痛い。重い。

 さすがに一対十数人じゃ堂々としてられないよなぁ。こっわー。


 ええい勇気を出せ、預かられた携帯を返してもらわないと!


 ……俺、ある意味盗難の被害に遭ったんじゃ? なんで被害者がビクビクしているんだ。

 携帯を返して下さい。その台詞が口から出る前に、柳先輩からビシッと指差された。


「一年C組豊福空! なんて君は卑怯者なんだ! 私は君を心から失望したぞ!」


「……はい?」


 ううん? なんで卑怯者呼ばわりされるんだ。盗難被害に遭ったのは俺なのに。首を傾げる俺に対し、柳先輩の台詞に便乗して高間先輩も卑怯だと繰り返した。


「こちらは君ひとりを呼び出した! なのにまさか、まさか、鈴理さままで連れて来るとは! 卑怯で根性なし! それとも此方にイッチャ~なところを見せ付けて嫌がらせでもぶつけているつもりか!」


「ええぇー……そう言われても」


 俺はポケットに折り畳んでいた手紙を取り出し、急いで広げた。


「この手紙、どこにも俺一人で来いなんて書いてないっすよ? それに鈴理先輩の名前が使われていますし」


「またそんな嘘を!」


「空が嘘をつくものか。あたしも読んだぞ。あたしはこんな乙女チックなこと書かん」


「す、鈴理さままでっ……嗚呼、隊長。泣きたいですぅうう! 愛しの鈴理さまがあいつの肩を持ちましたぁああ!」


「気持ちは痛いほど分かるぞ! 私の胸で泣け、高間!」


 涙ぐむ隊長と号泣する副隊長の熱い抱擁。

 それだけでも俺と鈴理先輩はドン引きのドン引きなのに、「現実は残酷ですぅう!」と副隊長。「強くなれ、高間!」と隊長。二人の交わす慰め合いの言葉に肌が粟立った。なんってむさ苦しいんだ。暑苦しいんだ。向こうに立っている親衛隊隊員もオイオイシクシク泣いている……帰りたいな、切に。


 途方に暮れていた俺は、取り敢えず抱擁している二人にそっと手紙を差し出した。嘘は言っちゃないんだ。自分達の目で真実を見てもらわないと。


 ズビーッ、グッズン。

 洟を啜って涙を拭いている高間先輩にバシッと手紙を取り上げられた。なんて態度だよ。ほんともう、こっちは被害者なのに。ヤーな態度、ヤーな奴。


 手紙に目を通した高間先輩はつり上がっている片眉を更につり上げる、かと思えば、一変。思いっ切り血相を変えた。


「これは訂正前の手紙じゃないか!」


 ブンブンと手紙を他の親衛隊隊員に見せ付けて怒鳴り散らしている。

 すると一年らしき隊員が数人、すみませんでした! 高間先輩に頭を下げていた。どうやらあの手紙は書き直す前のヤツで、ちょっとした手違いで中身が摩り替わったらしい。

 よくよく1年の隊員を見ると、俺のクラスの奴が2、3人交じっていた。ってことはあいつ等が俺の鞄から携帯を盗ったってことだよな。


 だけど向こうは謝る気なんてサラサラ無いようだ。盛大な咳払いをして各々涙を拭いている。


「失礼しました」


 何故か俺じゃなく、隊長と副隊長は鈴理先輩に頭を下げた。ま、いいんだけどさ。


「改めて私は三年B組柳 信幸だ。『鈴理さまお守り隊』の親衛隊隊長をしている。豊福空、君を呼び出したのは他でもない。鈴理さんに相応しい男か見極めるためだ!」


 ビシッと俺を指差してくる柳先輩に俺はゲンナリした。なんか面倒なことになりそうだな、おい。

 柳先輩はゲンナリしている俺に構わず、熱を入れて語りを始める。



「我々『鈴理さまお守り隊』は去年の夏に出来上がった親衛隊だ。鈴理さんという可憐な女神に我々一同は骨の髄から惚れ込んだ。いや惚れ込むなんて品の無い言葉だな。心を奪われた。うん、これが良い。とにもかくにも我々一同は竹之内鈴理さんという心を奪われた! 彼女は女神でありアイドルであり天使だ! ビューティフルスターだ! 崇拝するしかないと思った! できることなら鈴理さんに踏まれたいと思った! だろ? 皆の衆!」



 隊長の煽りに便乗する隊員達は声を揃えた。



「鈴理さまになじられたいと思いました!」


「鈴理さまに貶されたいと思いました!」


「鈴理さまに見下されたいと思いました!」



 ………『鈴理さまお守り隊』はみんなMなんだろうか?


 はぁはぁしながら隊員は鈴理先輩に熱い眼差しを送っている。

 鈴理先輩が気持ち悪そうに「キショイ」悪態を一言口にした瞬間、腰が砕けたようにその場に全員膝ついて生きていて良かったと呟いた。


 同性の俺からしてもすんげぇキショイ。


「鈴理先輩……一応お聞きするっすけどMの対処分かります?」


 このキショイ集団をどうにしかして欲しい一心で先輩に質問を投げ掛ける。先輩は腕を組んで眉根を寄せた。


「あたしは攻め女であり、時にドSにもなるがMは専門外だ。さも苛めて下さいって奴を苛めて何が楽しい? やはり空のような、さもあたしに食われて下さいオーラを放っているビクついた草食系でないとな。はっきり言ってあいつ等は眼中に無い上に気色が悪い! あいつ等は変態的Mだろ!」


 途端に『鈴理さまお守り隊』の息遣いがはぁはぁはぁ。もっとなじってくれとばかりに先輩を見つめている。


 果たして、俺はこんな奴等から携帯を取り返すなんてできるんだろうか。自信が無くなってきた。


 はぁっ、熱い吐息をついた柳先輩はゆっくりと上体を起こして、再び俺と鈴理先輩に視線を向けた。


 そして語りを再開する。


「こうして同じ気持ちを集い、我々は『鈴理さまお守り隊』という親衛隊を作り上げた。出来ることならば鈴理さんにお相手をしてもらいたいが、それは叶わない夢。

ならばこうして遠巻きに彼女を見守り、お守りしようと思ったのだ。

 しかし! 今年の五月に鈴理さんは変わってしまわれた。何故ならば豊福空という見た目はどう見ても平凡で取り得のなさそう、男としての魅力は我々と同レベル。何か飛び抜けて良い所があるとも思えない1年に恋をしてしまった! いや、毒されてしまった!


 二人のキスを目の当たりにした我々の気持ちは絶望だ。真っ白な灰になりそうだった、ああ、燃え尽きた灰になりそうだったとも! 羨ましいとも思ったとも!


 我々だって鈴理さんにキスしてもらいたいし、追い駆けてもらいたいし、押し倒されてもらいたい!


 何度悔しい思いを噛み締めながら指を銜えていたか。挙句の果てに鈴理さんと恋人になってしまうというダブルショッキング! 三日三晩は泣いたさ。七日七晩はヘコんださ。十日十晩は廃人になったとも。


 だが『鈴理さまお守り隊』は納得がいかない。一年も鈴理さんを崇拝してきたのだ。そう簡単に新入生の豊福空を彼女の恋人と認めれば、こっちも名が廃れてしまう! だから豊福空を試したい。君が本当に鈴理さんに相応しい男かどうかを! 我々と同じMのようだが、同じMとして君を試させてもらう!」


「それは心外っす! 俺はあんた達みたいなMじゃないっすよ!」


 聞き捨てなら無い! 先輩を毒した男とか、平凡で取り得がないとか、そんな罵声よりも何よりも同じMに思われたことが一番傷付いた!

 俺はMじゃない。断じてMなんかじゃないんだ。先輩になじられたい(ハァハァ)とか、踏まれたい(グヘヘ)とか、見下されたい(キュン)とか、そんなこと一切思っていない。


 反論に高間先輩が嘘つけ、と俺を指差してきた。


「お前は鈴理さまに押し倒されてばかりではないか! 攻められてばかりではないか! こちらはお前をちゃんと調べているんだぞ。豊福空、お前は今週で四回鈴理さまに押し倒され、今週で十七回鈴理さまにキスされている! それはつまり、ヤられたいんだろ!」


「もっ、どっからツッコめばいいか分からない。なんで数えているんっすか。何処から見ていたんっすか。恐ろしいっす。ヤられたい? 冗談じゃない! 俺は健全的な恋愛を望んでいます。SかMか問われれば、俺はNっす! ノーマルっす!」


「Mじゃない? だったら尚更認められるかぁああ! お前と鈴理さまの関係!」


 高間先輩は地団太を踏んでキィキィ喚き始めた。

 「よしよし」癇癪を起こしている高間先輩を柳先輩が優しく宥めている。で、その余所で鈴理先輩は俺の腰を引き寄せてニッコリ。

 攻めモードになっているその笑顔が恐ろしいのなんのって。


「空、先ほどの発言は健全的なセックスから始めるって意味の発言だよな? まさかあたしとシたくないわけじゃ」


「おぉおお俺は言ったじゃないっすか! まずは健全的、あー……プラトニックラブから始めましょうって! スるシないの前にお互いの気持ちを尊重ッ、腰撫でてもらうの止めてもらっていっすか?」


 やらしいっす。撫でてくる手がやらしいっす、尾てい骨辺りがぞわぞわっするっす。


 しかも親衛隊から殺意の籠められた眼差しが飛んでくるので、ほんと勘弁して欲しいっす。俺はどうにか先輩の手から逃れて(先輩から盛大な舌打ちを鳴らされた)、携帯を返してくれるよう頼んだ。


 相応しいかどうか俺を試すとか、相応しくない男だとか言われる前に盗まれた携帯は是非とも返して欲しい。


 あれは先輩から貸してもらった大切な携帯。壊すわけにも、疵付けるわけにもいかないんだ。


 そしたら俺を射殺しそうに睨んでいた親衛隊隊長の柳先輩がゴッホンと咳払いをして言う。「簡単に返すわけにはいかない」


「あれは君を試すための道具として使わせてもらう」


「そ、そんな困るっす! あれは大事な物っす! 俺のじゃないんっすよ!」


 大焦りの俺に対し、柳先輩は涼しげな顔を作るばかりだった。


「それも知っている。あれは鈴理さんから借りた物だろ? だからこそ君を試す道具として使わせてもらうのだ」


 ドヤ顔で言う柳先輩だけど「ほお?」誰の許可を得てだ? 黙っちゃいないあたし様が眉をつり上げた。


「あれはあたしが空に貸したものであって、あんた達に貸した覚えはない。いいか、あんた達。空のものはあたしのものであるが、あたしのものは勿論あたしのものだ。それを弁えての行為か? だというのならば、これは無礼講にあたると思うが」


「え、いや、その」


「あたしは許可をした憶えはない。空に貸した携帯を返してもらおうか」


 あ、押されている。親衛隊が押されている。


「第一あたしが選んだ男を何故、あんた達は見極めなければならん。あたしにケチをつける気か?」


 空の何が不服だと腕を組む鈴理先輩。

 不機嫌に携帯を返せと命じるあたし様に、柳先輩は何度も頭を下げて使用許可を求めた。

 「自分達は貴方を崇拝しているのです」気持ちを落ち着かせるためにも、携帯を使用させて欲しい。悪用はしないと懇願。目をうるうるとさせて鈴理先輩の心に訴えると、彼女の良心が疼いたのだろう。仕方がないと許可を下ろした。「ただし。空を傷付けることは許さん」それをした時点でアウトだと彼女は唸った。



 それによって歓喜の表情を浮かべる親衛隊隊長は俺をチラ見。舌を出してザマァと中指を立ててきた。な、なんて嫌な先輩でっしゃろう。



「移動するからついて来てくれ」



 善は急げとばかりに、柳先輩が早足で俺達を誘導する。言われるがままに彼の背を追うと、その後を親衛隊がぞろぞろと追う。まるで光景は蟻の行列だ。傍から見たら妙な光景極まりないだろう。


 さて、体調に連れて来られたのは体育館裏からさほど離れていない倉庫。正確には体育館裏の古びた倉庫。その倉庫は俺が先輩と付き合うって決めた日に入ったあの倉庫だ。危うくアブノーマルなセックスをされそうになった場所でもある。はは、イイオモイデネ。


「豊福空。君は木登りをできるかい?」


 足を止めて顧みた柳先輩が質問を投げてくる。


「え? い……一応できるっすけど」


 あんまりしたくはないんだけどさ。顔を渋る俺を盗み見た柳先輩は細く笑い、嫌味ったらしく説明を始めた。


「だったら簡単な試練かもしれないな。ほら、あそこに木が見えるだろ?」


 柳先輩は倉庫の隣に生えている一本の太い木を指差した。


「あそこに木があるな? あそこの木から倉庫の屋根に飛び移って反対側の木にぶら下げている携帯の入った巾着袋を、私達の前で取って来て欲しい。幸い倉庫の屋根は狭いながらも平らだから足元を滑らせて落ちるということもないだろう」


「なんだ。試すというから凄いことをするかと思えば……なんてことないこと試練だな。要は木に登って倉庫の屋根に飛び移り、反対側の木に下がっている巾着袋を取れば良いのだろ?」


 これならあたしでも簡単にできそうな試練だ、と鈴理先輩はやや落胆気味。もっと凄いことで試すとでも思ったんだろう。


「ケータイ小説じゃもっと凄い試練が待ち受けているっていうのに」


 なんて間の抜けた試練だと先輩は愚痴っている。

 確かにやり甲斐の無い試練かもしれない。けれど、俺は息が詰まりそうだった。木に登って屋根に飛び移る。そんなこと俺ができるわけないじゃないか。だって、だって俺……木に登るってだけでも……。

 誰にも気付かれないよう身を震わせていると、極上に意地の悪い笑みを浮かべて高間先輩が俺の顔を覗き込んできた。



「さあて豊福空。どうする? 僕等の試練を受けてみるか? ただ木に登って屋根に飛び移り、物を取るだけの簡単な試練だぞ? それができたら僕等親衛隊は君と鈴理さまの関係に、癪だけど一切口を出さない。約束する。『お守り隊』を改名して『見守り隊』にしよう。

 逆を言えば、これさえもできなかったら僕等は君なんて一切認めない。鈴理さまがどうこう言おうと、僕等は君と鈴理さまの仲を引き裂くからな!」



 そう脅してくる高間先輩を鈴理先輩がギロッと睨む。瞬間、高間先輩がポッと顔を赤らめた。睨まれても嬉しいって……ほんとド変態じゃないか。

 俺は苦笑いを浮かべながらも嫌な汗を掻きっ放しだった。


 どうする。どうするよ。もしもここで逃げたりしたら俺、腰抜けの臆病者じゃないか。先輩にだって失望されるかもしれない。それは嫌だ。俺だって男を見せたい。


 でも俺、俺、おれ、木に登ることも、屋根に飛び移るその行為も、親衛隊が用意した試練すべてが恐くて怖くて。先輩や他の皆からしたらなんて事の無い試練。遣り甲斐のない試練。



 だけど俺には……俺には……。



 親衛隊は、知っていて俺にこの試練を用意したんだろうな。

 チクショウ、何なんだよ。ニヤついてくる親衛隊が腹立たしい、すぐに動けない俺も情けない。悔しい。


「空、どうした?」


「え、いえ! なんでもないっすよ!」


 ダンマリになっている俺を不思議に思った鈴理先輩が優しく声を掛けてきてくれる。虚勢を張って、なんでもないと笑って見せた。駄目だ、先輩の前じゃ恐いなんて言えない。言えるわけがない。カッコ悪いところは見せられない!


「とにかく携帯を取ってくればいいっすよね。行ってきます」


 ビシッと先輩に敬礼すると俺は親衛隊の嫌味ったらしい眼差しを振り払って木によじ登り始める。大丈夫、下を見なければいいんだ。下を見なければちょちょいのちょいで試練をクリアできる。運動神経は良いんだ。木に登ることは苦じゃない。


 ……嗚呼、駄目だぞ。俺。下を見たら絶対に駄目だぞ。此処は地上だ。大丈夫なんだ。


 俺は俺自身に言い聞かせながら、どうにかこうにか木によじ登り終えると倉庫の屋根に飛び移った。


 それだけでもう汗がダッラダラ。心臓バックバク。だ、だ、大丈夫、倉庫の屋根は平坦だ。地面だと思えば大丈夫。大丈夫。だいじょ……俺の視界に俺を見上げる鈴理先輩や親衛隊が飛び込んできた途端、恐怖心が襲ってきた。


 泣きたいやらパニックになるやら、俺は平常心を失いつつあった。

 ただただ占める気持ちは先輩にカッコ悪い姿は見せたくない。だから必死に高いところラブ高いところラブ高いところラブ、と念仏のように唱える。


 もうこうでもしないとヤッてらんねぇ! 俺は高いところ好きなんだコノヤロウ! 足がガクガクなんだよ、チクショウ! 息が上手くできないよ、情けねぇ! 仕舞には倉庫の屋根の上に突っ立ったまま動く事ができなくなった。

 


 □ 



 さて一方、恋人を見上げていた鈴理は彼の様子がおかしいことに気付いた。彼は先ほどから屋根の上に突っ立ったまま動こうとしないのである。目に見えるほど体を震わせているものだから、少しならず心配の念を抱く。


 一体全体どうしたんだ。屋根の向こうに生えている木に歩み寄って携帯の入った巾着袋を取るだけだろ。まさか親衛隊をアッと言わせるような演出でもしようというのか?


 しきりに首を傾げていると、


「そーらー!」


「空くーん!」


 背後から彼の名を呼ぶ声。鈴理が振り返るとそこには彼の友達、確かフライト兄弟と呼ばれていた男子生徒二人がこちらに駆け寄って来た。

 多分、彼のことを心配してやって来たのだろう。フライト兄弟のアジと呼ばれている生徒が状況を見るなり、素っ頓狂な声を上げた。


「空がなんで屋根にッ、あいつ、高いところ駄目なのに!」


「何? それは本当か?」


 初めて知った彼の事実にアジは頷く。本人が語ったわけではないが、傍から見ても彼は高いところが大の苦手。つまり高所恐怖症なのだ。エビと一緒に彼を観察していたのだが、空は席替えの際、窓側の席に当たってしまい自分達に席を替えてくれるよう必死に頼み込んできた。廊下を歩く時も極力は窓側を歩かないよう注意を払っている。

 窓の向こうに見える景色を指差した時も、空は遠巻きに見るだけ。窓に歩み寄ろうとはしなかった。

 そして極め付けにこの状況。倉庫の上に突っ立って動けないのは高いところに怖じ切ってしまっているからなのだ。極度の高所恐怖症なのだろう。


「空くん! しっかり!」


 固まってしまっている空にエビが声を掛けると、


「高いところは大好きなんだ。俺は空も飛べるはずだ」


 奇怪な返答が返ってきた。彼の中の恐怖度が平常心を崩しているようだ。

 鈴理は舌打ちを鳴らした。どうしてそれを早く言わないのだろう! 誰にだって得意不得意があると言うのにっ、もしかしてこれを知って親衛隊は彼に試練とやらを試したのか? だったら卑怯極まりない!

 



 さてさて更に一方。


 親衛隊の隊長のこと柳と副隊長のこと高間は、作戦成功だとばかりに心中で勝利の握り拳を作っていた。涙を呑みながら豊福空の学校生活を見張っていただけあった。彼が愛しのアイドルとキスしたり、押したされたり、あれやこれやそれやをされているのを陰からこっそり見ていたあの時の地獄と言ったらもう。廃人になり掛けるは、毎日が号泣だわ、やきもきするは、コンチクショウだわ。


 とにもかくにも、キリキリ痛む胃を薬で宥めながら彼を見張っていた甲斐があった!

 豊福空が学校生活で高所恐怖症だと知った自分達親衛隊は作戦を立てた。二人の仲を裂くような作戦を立てた。


 その名もズバリ『彼女の前で情けない姿を曝け出しちゃいましょう作戦』彼女である我等が愛しのアイドルの前で豊福空が高所恐怖症という情けない姿を見せる。


 アイドルは呆れる、また失望する。もしくは豊福空が居た堪れなくて彼女の傍にいられなくなる。二人の恋人生命は自然と終止符を打たれる方向へ流れる。完璧パーフェクトな作戦だ。


「隊長……我々……頑張って見張った甲斐がありましたね」


「ああ。見ろ、高間。豊福空は高さに参っているようだ」


 一歩も動けていない空の姿に二人はまた感涙。


 徹底的に彼を調べ上げて良かった。二人のイチャイチャを泣きながら指を銜えて見守って良かった。この努力、必ず報われると思っていた。


 親衛隊隊長と副隊長は暑苦しく歓喜の涙を流し続けていた。



 □



「そーらー!」



 下から俺の名前を呼ぶ声が聞こえてくる。

 嗚呼、下からってのがまた俺の恐怖心を煽る。

 頭がくらくらしてきた。此処は誰? 俺はどこ? いや違った。此処はどこ? 俺は誰? 此処は体育館裏にある倉庫の上。俺は豊福空だ。


 うん、大丈夫、まだ正常だ。


 だけど、もう下りていいっすか……此処に突っ立っているだけで超恐いんっすけど。親衛隊とか、そんなのもうどうでもいいくらい恐いんっすけど。


「空! 今助けに行く! 無理をするな! 今そっちに行ってやるから!」


 その声に俺は我に返った。恐る恐る下に視線を落とせば(あぁああ。地面が遠いよぉお!) 、安心しろと声を掛けてくれている鈴理先輩。彼女は木によじ登ろうとしていた。それを見たフライト兄弟が慌てて自分達が行くからと、親衛隊が怪我をするかと必死に止めている。

 なんでフライト兄弟があそこにいるんだ? そんな疑問はさて置いて、もしかして俺は先輩に助けられようとしている?


 そんなのカッコ悪い。皆がいる前で先輩に助けられるなんて絶対に駄目だ。

 それにさっきはどうでもいいと思ったけど、これくらい一人で乗り越えないと自分が情けない。


 確かに俺は高所恐怖症だよ。高いところにトラウマがあるから、すんげぇ高いところが嫌いさ。窓側の席に座れないくらい高いところは嫌いなんだ。


 でも、だからって此処で逃げてどうするよ。いっつも鈴理先輩のアタックに逃げているし、押し倒されているし、食われそうにはなる……自分男? と疑問に思うこともあるけど。今此処で逃げれば、一生後悔することになる。


「リタイアしても良いぞ。豊福空」


 柳先輩の声に俺の中の志気が高まった。

 べつにこれはな。親衛隊に認められたいわけでも、リタイアしたことで他人にどう見られるのか恐いってわけでも、恋人のことでどうのこうので言われるのが嫌だからってわけでもない。


 此処で逃げたら、先輩に対しての気持ちを否定してしまう。

 気になりつつある先輩への自分の気持ちを否定してしまう。そんな気がするんだ。


 逃げるのは簡単だ。今の恐怖に目を逸らすのも簡単だ。


 だけどその後に噛み締める後悔の念を消すことはとても難しい。


 俺自身、そんな苦い気持ちを味わうなんてごめんだ! ちったぁ男らしいところ見せろ、豊福空!


 俺は自分の頬を叩いて気持ちを入れ替えると、ゆっくりと一歩を踏み出した。


 なるべく下を見ないように一歩っまた一歩……嗚呼、恐いってもう! 足が震えてらぁ! こえぇええよ!


「馬鹿、空! 無理をするな!」


「鈴理先輩、今話し掛けないで下さいっす! 話し掛けられたら俺、此処が倉庫の上だって改めて思い知らされっ……倉庫の上……高い……うわぁあああ何も考えない、考えないィイイイ!」


 半狂乱になりながら俺は向こうの木に目を向けた。

 そこには細い枝にぶら下がっている茶色い巾着袋。ぶら下がっている巾着袋が重いのか、細い枝は大きくしなっている。


 今にも落ちそうだな。

 なんでわざわざ細い枝にぶら下げたんだよ、コノヤロウ。早く取りに行かないと……先輩の携帯を疵付けるわけにはいかないんだって。

けれど情けないことに俺の一歩の幅が小さい。

 し、仕方が無いんだよ! 恐いんだから!

 どんなに意気込んでも恐いもんは恐いんだよ。勇気は振り絞っている方だよ、褒めて欲しいくらい勇気出しているよ!



 ブワッ―。



 突然、突風が吹いた。


「うわっ!」


 俺は思わず立ち止まる。風で吹き飛ばされることは無いけど、落ちてしまうような錯覚に襲われる。

 やっぱ恐い。すんげぇ恐い。高いところは恐い。此処から落ちちまうんじゃないのか、そう思っちまうくらい高いところは恐い。今すぐ此処から逃げたい。……よし逃げよう、とっとと携帯を取ってから直ぐにこんなところ逃げ、あっ!


 俺は思わず駆け出した。此処が何処かってのも忘れて。何故ならさっきの突風で巾着袋がズルズルと枝から落ちそうに。


 ちょ、ストップストップ!


 携帯が地面に叩きつけられちまったら俺、「そ……空、止まれ!」弁償できないって! 「空くん危ないって!」それにあれは先輩が、「馬鹿! 空、止まれ! それ以上進むとっ……ちっ、退け。あんた達!」貸してくれた大事な携帯ッ!



 ついに枝から巾着袋が滑り落ちる。

 俺は間一髪のところでそれを片手でキャッチ。



「良かぁあああァアアア⁈」



 安堵の息をつく、間もなく俺の体は下に落っこちた。うん、あれほど嫌だと思っていたのにあっさり落っこちまった。恐怖を感じる暇も無かった。


 なのに人間って不思議。


 落ちる一瞬がスローモーションに見えるのだから。傾く体と重力を感じるその瞬き、脳裏でフラッシュバックが起こる。“あの時”も俺は落ちた。“何”かを目にして“落”ち、頭を地面にぶつけて――。



 体に衝撃が走る。地面とぶつかった衝撃にしては、覚悟していたものよりも弱弱しい。もっと強い衝撃を俺は知っている。



「この馬鹿」


 いつの間にか閉じていた瞼を持ち上げれば、あたし様の強い眼光が俺を射抜いていた。


 何が起こったか分からず目を白黒させていると、彼女がその場に尻餅をついて呻いている姿が。


 彼女の腕の中にいるのだと、鈍感男はようやく気付く。

 先輩が危機一髪で受け止めてくれたのか(というより下敷きになってくれた)、まるで王道少女漫画のような展開だ。


 遺憾なことに落ちる男を助けたのが女の先輩だったけれど(図体の男が女性に助けられるって……)、更にヒーローはヒロインの図体を受け止められなかったけれど(雄々しくても彼女は女の子だ。怪我はしていないだろうか?)、これも立派な王道場面のひとつだろう。


「胆を冷やしたぞ。まったく、高所が駄目なら駄目と言え……もう大丈夫だから、泣くな」


 指摘されて自分が涙しているのだと理解する。目元に指先を当てる。その指が小刻みに震えていた。俺は安堵の息を漏らす。そして情けない程に体が震えた。


 血の気がなくなるほど握り締めている巾着袋を一瞥し、「無事でよかった」誤魔化すように携帯の安否を口にして洟を啜る。喉の奥が焼けるような、引き攣るような、そんな感情が込み上げてきた。


 あたし様から前髪をかき上げられた。


 ふっくらとした桜色の唇が瞼に押し付けられ、俺は思わず泣き笑い。

 自分から手を伸ばして彼女の背に手を回した。珍しい俺の甘えに鈴理先輩が一笑を零し、「ありがとうな」あたしのために見栄を張ったのだろう? 馬鹿で可愛いカノジョだと称してくる。生物学上、彼氏なのだけれど……今は修正するのもめんどくさい。


「先輩はヒーローっすね。こんな風に助けてくれるなんて」


 相手が破顔した。


「それは極上の褒め言葉だ。あたしはあんたのヒーローになれているのだな」


「ええ。悔しいことに」目じりを下げると、あたし様が再び頬に口づけをくれた。今は素直に受け止めておこう。気持ちが錯乱していると理由づけて、彼女の口づけを受け止めておこう。


 鈴理先輩が俺に立てるかどうかを確認してきた。彼女の上にのっているとことを思い出し、俺は笑っている膝に叱咤して立ち上がる。よろめくとあたし様が背中を支えてくれた。うへい、本当に情けないな。俺。

 膝が笑うほど、高所に恐怖していたんだろうな。


「保健室に行こう。そこならば、気持ちも落ち着けられるだろう」


「すみません」


「謝るくらいならば、さっさとあたしの命令を聞け。止まれと言ったのに」


 手を引いてくれる彼女の仕方がなさそうな笑み。女性らしい可愛い笑みに、俺は固唾を呑んで見惚れてしまった。




「た、隊長。我々の存在……ガン無視なんですけど」


「作戦は失敗、だな。失望させるどころか、親密度を上げてしまった!」


 廃人と化している親衛隊や、「空の奴。荷物忘れらぁ」「仕方がないから後で届けてあげよう」フライト兄弟の笑声がその場に満たしていたことに俺は気付けずにいた。

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