エスプレッソと春の風
「今日からお世話になります、鷹之宮桜です。よろしくお願いします」
「お世話になります、星川那瑠です。どうぞよろしく」
私と那瑠は今日から新しくゼミ生となった。経済に関する全般を扱うゼミで、私は幅広い知識を得る為にそこに入ったのだった。那瑠はどこでも良いと言っていたので私が誘ったのである。
私たちは三年生になり、各ゼミに配属された。三条教授は顎髭を蓄えたおじいちゃん教授だ。私と那瑠も講義でお世話になった事もある教授なので、分かりやすいゼミになるだろうと予想している。同期も数名いて、楽しそうな雰囲気である。
「じゃあ今日は歓迎会かな」
教授がそんな事を言ったので、四年生は意気込んであの店が良いとか、いやこっちの店の方がとか言っている。私たち三年生はそれに気圧されていた。それに臆さず那瑠がウチの店も良いっすよとか言ってるので、結局場所はあ・ら・かるとになったのだった。
「じゃあ私予約しときます」
那瑠がそう言うので、いや俺たちがやっとくよと四年生の男性陣が言う。那瑠はそうすか?じゃあお願いします、とにっこりとした。
ゼミは自己紹介から始まり、このゼミのガイダンスで一時間取り、解散となった。この後は講義が入る時間ではないので、フリーになる。大学にいてもする事は無いが、何となく私と那瑠は帰るのも手間で、ぶらぶらと大学内を歩いていた。
「桜、このゼミ楽しそうだな」
「ええ、そうですね。思っていたよりも活気があって良いです」
「三条教授ってのがまた良いんだよなあ」
「それもありますね」
経済学部の部室、と私たちは呼んでいるが、部室をたまたま通ったのでレジュメが配布されているボックスをチェックし、会報を手に取った。
「あーもう三年生かー」
「春ですからね、まだ二年生の気分なのは否めません」
「何か早いな」
「そうですね」
私たちは校内散策をそこで止めて、一足先にあ・ら・かるとに向かう事にする。聖北大学からそう遠くない智弘さんの店は、もう混んでいて、どうやら一年生が新しい喫茶店を見付けて集まっているようだった。
「いらっしゃい、那瑠ちゃん桜ちゃん。カウンターしかまだ空いてないからそこ座っててー」
「はーい」
カウンター内でバタバタとコーヒーを淹れている智弘さんにそう言われて、私たちはカウンター席に座る。エスプレッソを抽出している最中で、声を掛けるのも憚られた。
「智弘さん、手伝いましょうか?」
「え、いや、桜ちゃん一人にしておくのも悪いし、これからバイトの子来るから大丈夫!ありがとう!」
那瑠と智弘さんはそんな会話をした。那瑠はそれもそうか、と言って私に悪いな、と言った。
「いえ、手伝いが必要なのは目に見えて明らかですから」
「そうなんだよなあ」
「那瑠、気になったのですが、エスプレッソを楽しむには何がおすすめですか?」
「エスプレッソは砂糖をちょっと多めに入れて飲むのがおすすめ、苦みが緩和されていい感じになる。後は飲み終えた後にカップの底に溜まった砂糖をスプーンで食べるのも醍醐味だな」
「なるほど、ではそれをいただきましょうかね」
「じゃあ、私もそうしよう」
智弘さんの手が空いた隙に注文を済ませて、エスプレッソを抽出している所を眺める。智弘さんが持って来てくれたカップに砂糖を入れて混ぜていると、智弘さんがこちらで口を開いた。
「珍しいね、エスプレッソなんて」
「良い香りがしていましたから。智弘さんがおすすめするエスプレッソの楽しみ方はなんですか?」
智弘さんはうーんと少し考える。
「私のおすすめはアフォガートかな、エスプレッソをアイスに掛けてそのまま食べるの」
「では今度そちらも試してみます」
「そうして~」
智弘さんはにこにこと私たちを見ていた。私はクイっとデミタスのカップを傾ける。
「あら、思ったよりもなめらかですね」
「だろう?」
「でしょ、美味しいんだよね~エスプレッソ」
「智弘さん苦いの好きだからそのまま行きますよね」
那瑠がそう言うので、今度それも試してみようと思うのだった。
段々とコーヒー目的のお客さんが少なくなってきて、飲み目的のお客さんが増えてきた頃、教授がみんなに囲まれてやってきた。
「桜君に那瑠君、早いね」
「お先に飲んでまーす」
「コーヒーですよ?」
教授はははっと笑う。智弘さんがやってきて、奥の大きな個室に案内された。
「さて、飲み物を頼んで乾杯しようか」
私たちは好きな飲み物を頼んで、暫く待つ。お酒が楽しみだ。
「お待たせしました」
バイトの子がお酒を持って来て、みんなに行き渡る。それでは、と教授が音頭を取った。
「乾杯!」
私はカルアミルク、隣に座る那瑠はジンライムを頼んでいた。私たちはまた詳しい自己紹介をして、私の番になった。
「先ほども自己紹介させていただきましたが、鷹之宮桜です。みなさん忌憚なく気軽に話しかけてくれたらなと思っています。出身は聖北高校です。好きな事は株価の動き、どうぞよろしくお願いします」
パチパチと拍手を貰って次は那瑠の番。
「こんばんは、聖北高校出身の星川那瑠です。三度の飯よりコーヒーが好きで、此処で働いているのもコーヒーが好きだからです。もちろん酒も好きです。好きな事は音楽制作、軽音サークルに所属しています。楽しいゼミ生活になる事を願っています、よろしくお願いします」
拍手されて那瑠はどうもどうもとお辞儀をした。私はサークルに所属していなかったので、那瑠のような自己紹介が出来なくて残念だ。那瑠と目が合った。那瑠はどうした?と問いかけてきて、私は何でもないですよと微笑みと共に返す。
「ねえ、桜ちゃんって、もしかして鷹之宮財閥の?」
那瑠と反対隣にいた四年生の柏木優実さんが語り掛けてきた。
「ええ、そうですよ」
「そうなんだ!やっぱり教育ママだったりしたの?」
「いえ……母は幼い頃に亡くなっていまして、父が育ててくれました。教育には熱心だったと思いますよ」
「あ、何かごめんね」
「いえいえ、もう昔の事ですから」
私は何でもないと言う顔をして、にっこりと笑って見せた。
「ありがとう」
柏木さんは何度もペコペコとありがとうと言うので、そんなにお礼を言われても、と思いながら聞き流していた。柏木さんはお酒に弱いらしく、もう既に酔っているようだった。
「あー桜ちゃん、優実がうざかったら俺と席替わろう」
四年生の大手さんがそう言ってくれたが、残念ながら私は那瑠の隣に居たいので丁寧にお断りをした。
「那瑠、何だか楽しいゼミですねえ」
「ん?ああ、そうだな。あちこちで金融リテラシーの話やら理論経済学の話が聞こえる」
「そうなんですよ、気になって仕方ありません」
「じゃあ私とミクロ経済学の話でもしようか?」
「お、良いですね」
「それならまず、桜に身近な生産者行動理論でも語らおうか」
私たちは色んな事を話して、お酒も進んだ。経済学部にしておいて良かったなとふと思う。那瑠とほぼ同じ講義を取っていたこともあるが、こんなに楽しく経済について話せるとは思っていなかった。段々話はスライドして行って、経済から政治の話になった。経済の話と政治の話は切っても切れない。
「今の政治から言うと、もっと生産者と言うか企業側にお金が回っても良さそうですけどねえ」
「そうだなあ、最近横領の話も聞くし、みんな切羽詰まった状態なんだろうな」
「困った世の中ですね」
「ホントにな」
私たちは一旦そこで話を区切って、お酒をグイっと飲み干した。
「私お酒追加で頼んできますが、みなさん何か飲みます?」
那瑠がそう言ったので何人かお酒を那瑠に伝える。
「行ってくるよ」
「ええ」
私は那瑠の背中を見送って肴に手を伸ばす。智弘さんの料理はいつ食べても美味しいなと思っていると、那瑠の席に大手さんが来てしまった。
「那瑠の席ですよ」
「ちょっとだけ」
私は困ってしまったが強い事も言えずに、だらだらとつまらない話をされて、最後にこの後抜け出さない?と言われてしまった。しかし、そこで那瑠がお酒を持って帰ってきた。
「大手さん、そこ私の席ですよ」
「ごめんごめん、桜ちゃん考えといて」
「何を考えさせるんです?」
「い、いや、何でもない」
大手さんは退散していって、私は那瑠に感謝の言葉を述べた。
「璃音がいるって言えばいいじゃないか」
那瑠はクスリと笑う。
「押しが強くて、そんな暇もありませんでした……」
「そうか、まあ、そんな事もあるわな」
この話は此処で終わりになり、私たちはまた経済と政治の話を絡ませて語り合ったのだった。
一次会が終わって、私たちは智弘さんにお礼を言って店を出る。二次会のお誘いもあったのだが、私と那瑠は、今日は帰ります、と言って二人で歩き出した。
「ウチで飲み直す?みんなも呼んでさ」
「良いですね」
那瑠はそうと決まれば、とLINEを開きメッセージを送る。
「今からウチで飲まないか?」
那瑠が一旦スマホを仕舞う前にピコンとメッセージが届いた。
「行く!」
葵だ。私は那瑠のスマホを覗き込んで笑った。早すぎる。
「俺も行くー!」
逹も早い。璃音や蓮は来るだろうか。
「俺今大学いるからすぐ行ける。飲んでて良いよ」
蓮は忙しそうだが来てくれるようだ。蓮はこの夏に留学が決まっている、アメリカの大学だ。色んな事を学んで帰ってきてくれればなと思った。
「僕はちょっと体調が悪くて行けそうにない、みんなで楽しんでくれ」
私はびっくりして焦りながらメッセージを送る。
「どこが悪いのです?大丈夫ですか?」
「璃音が体調悪いなんて珍しいな」
那瑠も一緒になってメッセージを送った。
「少し風邪気味なんだ。大したことはない、安心してくれ」
「ゆっくり休んでくれ」
「ありがとう、みんなに移さないように気を付けたいからな」
「安静にしてくださいね」
璃音からの連絡はそれきりになった。
「じゃあ、ウチ行こうか」
「はい」
私はちょっと残念な気持ちになりながら歩く。それが那瑠にも伝わったのか、那瑠は励ましの言葉を私に送ってくれた。
「璃音今日は昼も来なかったしな、そんなに気を落とすなよ。ちゃんと元気になるさ」
「そうですよね」
ちょっと気を持ち直した私は、今日は何を食べさせてくれるか気になってきた。
「那瑠、今日は何を作ってくださるんです?」
「今日はそうだな、カルパッチョと、あとは生ハムとチーズかな」
「良いですね」
私たちは直ぐに那瑠の部屋について、早速那瑠はキッチンに立った。私も対面式キッチンに寄り掛かって、那瑠の作業を眺める。那瑠は手際よくサーモンをスライスして予め仕込みを済ませてある玉ねぎと一緒に調味料と混ぜ合わせた。その後、生ハムにチーズを包んでオリーブオイルをかける。
「あと何か一品欲しいな」
「そうですか?」
「五人だからな」
「確かに」
那瑠は何かないかな~と冷蔵庫を覗き込んだ。
「豚肉とキムチがある、豚キムチにしよう」
「あら、良いですね」
那瑠はそうと決まれば、と豚肉を切ってフライパンに放り込み、キムチと共に炒め始める。良い香りが漂ってくる。一応歓迎会でもそこそこ食べたが、主食を食べていなかったので、まだお腹に余裕はあった。
ピンポーンと呼び鈴が鳴った。私は逹と葵が来たと思って、那瑠に私が出ます、と言って玄関に向かう。
「今開けます」
「はーい」
扉の向こうで逹の声がしてホッとした。逹は葵と来たらしく、後ろに葵も立っていた。
「上がってください、まあ私の部屋ではありませんが」
私は苦笑しながらそう言って二人を招き入れる。
「わあ、良い匂い」
「美味しそうな匂いだね」
那瑠は豚キムチだぞと言った後に、好きな酒持ってけーと戸棚を指さす。
「那瑠、割材なにある?」
逹がそう言ったので、那瑠は冷蔵庫を開けて牛乳とトニックとコーラを出した。
「一通り揃ってる」
「もう酒場じゃん」
「まあね」
「じゃあ俺コークハイにしよっと」
「じゃあ私カルアミルクにしようかな」
那瑠の戸棚から好きなお酒を持って行った二人は、那瑠が良いよと言うまでお酒に手を付けない。料理を机に並べて、ジンライムを作ってきてから、じゃあ乾杯しようか、と那瑠が言った。蓮はまだ来ない。
「じゃ、乾杯」
「乾杯」
私は相変わらずミルク系のお酒にして、一口飲んで、料理に手を付けた。チーズの生ハム巻きは手頃な肴なのに美味しくて、びっくりした。
「生ハムにチーズって合うんですね」
「だろう?」
「ええ、美味しいです」
「そりゃ何よりだ」
那瑠はニカっと笑ってくれる。私たちのお酒が二杯目になる頃、呼び鈴が鳴った。
「一応俺が出るよ」
逹がそう言って玄関に行く。
「ありがたいですね」
「まあ、私が出ても良いんだが、男としてどうなのって感じになっちゃうもんな」
「逹の意外な一面」
私たちはそう言って笑った。逹が蓮を伴って戻ってきた。変質者じゃなくて良かった。
「よーす。お疲れー」
「お疲れさん」
「お疲れ様です」
口々にお疲れと声を掛け合って、蓮は那瑠にウォッカを要求する。那瑠は嫌な顔せずウォッカとグラスを持って来て、蓮の前に注いで置いた。
「サンキュ」
「はいよ」
「腹減ってたんだよね」
そう言うと蓮は料理を食べ始める。
「こんな時間まで大学で何をなさっていたんです?」
「ん?研究室の奴らと飲んでた」
「何だ、飲んでたのか」
那瑠の呆れ顔に私は苦笑して、忙しいとばかり、と蓮に言った。
「今日三年生の歓迎会でさ、研究室で飲むって言うから」
「研究室でですか?」
「そう、冷蔵庫に酒めっちゃ入ってんの、俺びっくりしたよ」
ケラケラと笑いながら蓮はそう言う。理系はどこか違うな、と思ったのであった。
それからも私たちは飲んで語らい、逹がソファにひっくり返り、葵が那瑠のベッドで横になった頃。
「いやあ、璃音来られなくて残念だな」
「そうですね、早く治ると良いのですが」
蓮と私はそう言ってお酒のお代わりを那瑠に頼む。那瑠は快諾して次のお酒を持って来てくれた。
「いやあ、去年みんなの誕生日が来てから飲む日が増えたな」
那瑠はそう言って笑う。確かに、そうかもしれない。お酒はあまり好きじゃないだろうなと自分では思っていたので、驚きだ。
「これからも飲む日は来るでしょうね」
「だろうな」
「勉強会のついでにとかかな?」
「勉強会もしましたね、これからもするでしょうが」
「いやあ、二年間早かった」
那瑠が天を仰ぐ。私もつられて天井を見た。
「折り返しですね」
「俺煙草吸ってくる」
「いてらー」
「私もちょっと風に当たりたいです」
「良いよ、じゃあ私も行こうか」
そう言って二人で立ち上がって、蓮がいるベランダへと向かう。
「お、何、煙草吸うの?」
「いや、風に当たりに来ただけ」
「そうかい」
小高い丘の上に建っている那瑠のアパートからは夜景がよく見えた。綺麗だなあと思っていると風が吹いてきて、熱くなった体に当たり気持ち良い。
「寒くないか?大丈夫?」
蓮が私の心配をしてくれる。私は体が熱いので丁度良いですよと返した。もう深夜二時。そろそろ眠くなってきた。明日は土曜なので大学に行かなくても良いが、璃音のお見舞いには行きたいなと思った。
「そろそろ寝る?」
那瑠があくびをした私に訊いてくる。私は頷いて、部屋に戻りベッドで眠る葵の隣に入った。
「では、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
「おやすみー」
次の日の朝、私は那瑠に次いで二番目に目を覚ました。葵を起こさないように慎重にベッドから出て、大きく伸びをする。
「おはよう、コーヒー淹れるけど飲む?」
「ええ、おはようございます、いただきましょうかね」
那瑠はスマホでニュースをチェックしながらコーヒーを淹れてくれた。あったかいマグカップを両手で包むように持ち、少しずつ飲む。那瑠の淹れてくれるコーヒーはなんて美味しいんだろう。
「那瑠、コーヒーを飲み終わったらシャワーを借りても良いですか?」
「ん、良いよ」
那瑠もコーヒーを飲みながら答えてくれる。
「璃音の見舞いか?」
「ええ、ちょっと気になるので行ってきますね」
「報告よろしく」
「分かりました」
コーヒーを飲んでいる間に蓮と逹が一緒に起きてきて、二人は那瑠からコーヒーを貰った。
「二人ともおはよう!」
「おはようございます」
「おはようさん」
逹の声で葵が目を覚まし、ぼやっとした顔でおはようと言う。
「おはようございます」
「めっちゃ良い香り、那瑠、コーヒー私も欲しいです!」
「良いよー」
那瑠は葵の分もコーヒーを淹れて机にコトンと置いた。私はコーヒーを飲み終わり、シャワーを借りて、みんなに挨拶をしてから璃音の家に向かうのだった。春の風が、私を包んだ。
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