ジンジャーエールとショートケーキ

「今日も暑いっすね星川先輩」

「そう、だね」

 俺はスーツの上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を捲った。今日に限って言えば最悪の日だ。苦手な後輩一人を連れて、営業をしなければならない。しかもこの真夏日に。俺は車内の空調をガンガン効かせて溜息を吐いた。

「今日中に五件。あとは回れるだけ回るぞ」

「はい!」

 俺は車を出し聖北地区を抜けて、同じ市内の聖南地区までやってきた。ここにはお得意様がごまんといる。俺は証券会社に入ってもう六年。取引先も多く任されていた。異動がない俺の抱えている顧客数は年々増えていく一方で、先日支店長と課長に担当を分散させてほしいと頼み込んだところである。そうしたところ、担当が後輩に変わるという事で外回りする事になったのだ。

「こんにちは、鷹之宮証券の星川と申します」

 インターフォンを押して凛とした声で名乗る。後輩もいそいそと車から降りて俺の後ろに控えた。

「はい、今開けます」

「よろしくお願いします」


 午前の内に目的の五件をクリアし、あとは電話を掛けまくって手当たり次第そこに向かう。それがなんとも言えず苦痛な時間だった。仕方のない事だけれど。

 午後の仕事も順調に終わり、本社に帰る頃には定時ギリギリだった。

「星川先輩、今日はありがとうございました」

「いえいえ、これも仕事だからね」

 俺はそう言って帰り支度を整える。しばらくするとミーティングが始まり、今日の反省点や今後の方針などを話し合う。俺は特に発言する事も無かったので、欠伸を噛み殺しながらそれを聞いていた。そうだ、こんな日は那瑠の所で飲もう。

 ミーティングが終わり、俺は我先にと会社を出た。誰にも捕まらないように早足で十数分もすれば那瑠の店に着く。

 アンティーク調の扉を開けてカウンター席に着くと、那瑠が意外そうな顔でにこりと笑ってくれた。

「いらっしゃい、珈琲?酒?」

「とりあえずジンジャーエール頂戴」

「はいよ」

 那瑠はグラスにジンジャーエールを注いで俺の前に出してくれる。

「今日は随分お疲れだな」

「そうなんだよ、聞いてよ」

 那瑠はコーヒーを自分用に淹れて、俺の隣に座って話を聞いてくれた。店も忙しそうではなく、丁度良かった。

「はー。ごめんね那瑠、愚痴聞いてもらっちゃって」

「大丈夫さ」

 那瑠は当たり前だという風に言って笑う。俺はジンジャーエールを飲み干して、お代わりをした。この後お酒でも飲もうかなと考えていると、那瑠はお腹空いてないかと訊いてくる。

「お腹空いた」

「何がいい?」

「ペペロンチーノ食べたい」

「了解」

 那瑠はそう言って調理場に立つ。その姿を見て俺はかっこいいなと思った。那瑠はあっという間にパスタを仕上げて持って来てくれる。俺はお礼を言ってそれを食べ始めた。美味い。パスタの専門店でもないのに、どうして那瑠が作る料理は美味いんだろう。

「美味い」

「そりゃ良かった」

 那瑠の笑顔に癒されながら俺はパスタを完食した。俺はそれから酒を貰おうと思ってメニュー表を手にする。

「那瑠、モスコミュール頂戴」

「結局ジンジャーエールか」

「確かに」

 俺と那瑠は顔を見合わせて笑った。俺は苦笑しながらも出してくれたモスコミュールをゆっくり飲む。酔わないように、と言っても酒に弱い俺は直ぐに酔うのだが、チェイサーも飲みながら暫く那瑠と談笑した。

 ふと顔を上げると那瑠の首元で光るリングが目に入った。小さなダイヤが入ったリングである。

「那瑠、そのリングどうしたの」

「蓮に貰った」

「え。結婚しちゃうの?」

「まあ、いずれ」

 那瑠は照れくさそうに頬をかいて目を泳がせた。しかしその顔は少し嬉しそうでもある。俺はちょっと嬉しくなった。蓮が他の女に取られたらどうしよう、とか何だか分からない事を考えていたからである。結婚相手が那瑠で良かった。ちょっとだけ、ほんの少しだけ寂しい感じもするけれど。

「おめでとう」

「ありがとう」

 店ががらんとして、客が居なくなったのを良い事に、那瑠はバイトの子を帰して、クローズの札を掛けた。まだ十時手前だった。

「もう店閉めちゃうの?」

「ああ、今日は逹と話したい気分だったからな」

「それは嬉しい」

 俺はちびちび酒を飲んでいたが、那瑠と二人なら良いか、と思って一気に酒をあおる。那瑠は俺の様子を見て苦笑した。吐くなよ、とだけ言って自分にはアメリカンアイスコーヒーを淹れる。この様子だと、俺はこの後酔っぱらって笑い出して止まらなくなって、那瑠の車で家に帰されるだろうか。何となくそんな感じがした。

「どうした?もう酔ったか?」

「あ、何でもない」

 ぼーっとしていたのか俺の目の前で手をひらひらと振る那瑠。俺は何だかそれがおかしくて笑ってしまった。やばい、酔ってきている。つまらない事でも笑ってしまうこの笑い上戸だけは治らない。

「笑い出したなあ」

「ふふ、まだ大丈夫」

「何が大丈夫なんだ?」

 那瑠はクスリと笑ってチェイサーをもう一杯出してくれた。

「だいたいさあ!あのハゲ課長が優柔不断なのが悪いんだよ!全部尻拭いしてるの俺なんだからね!」

 俺は日頃溜まっていたストレスを発散させて口早でまくしたてる様に那瑠に向かって話す。それを那瑠は優しく笑って適度な相打ちを打ってくれた。

 暫くそうしていただろうか。俺はふと我に返って那瑠の方を見る。那瑠はどうした?と訊いてくれたが、うまく言葉が出てこなかった。

「なんか、俺ばっかり話しててごめん」

「いいんだよ、双子なんだし、気にしなくていいの」

「那瑠は何か愚痴とかないの?」

 那瑠はうーんと唸って、さっぱりした顔で口を開いた。

「さっきのバイトの子の覚えが悪くて困ってる」

 俺はそれを聞いてケラケラ笑う。あまりにもさっぱりしていたからだ。

「俺に何とか出来る問題じゃなかった」

「これは私の教え方が悪いのかな、とか思ったけど違うんだよね。他の子はちゃんと覚えてくれるからさ」

「そうなのかあ」

 俺たちはそうして夜遅くまで語り合った。そろそろ帰るか?と那瑠が訊いてきたのは十二時を過ぎた頃。

「あー帰るのやだなあ」

「葵が心配するぞ」

「そうだけどさ」

 俺はこの何とも言えない寂寥感に浸ってしまった。ふぅと溜息を吐いて、那瑠に向かって口を開く。

「家まで送ってくれないかな」

「いいよ、もとよりそのつもりだった」

 那瑠は快諾して車の鍵を持ってくると言って一度家の方に戻って行った。ぽつねんと一人残された俺は、残っていた酒を残さず飲んで那瑠が来るのを待つ。

 おまたせと言って那瑠は直ぐに戻ってきた。じゃあ行くか、と言って俺たちは外に出る。今夜も暑い。

 那瑠の車に揺られて十数分。あっという間に家まで着いて、俺は那瑠にありがとうと言って那瑠の車が見えなくなるまで手を振った。葵はまだ起きているだろうか。俺は玄関の鍵をゆっくり開けてあまり音を立てないようにして家に入った。リビングの電気が点いている。

「逹、遅かったね」

 ふわぁと欠伸をしながらリビングから葵が出て来た。俺は遅くなってごめんねと言って、那瑠の店にいたことを伝える。

「えー良いな。私も明日那瑠の所に行こっと」

「相変わらず葵は那瑠が好きだね」

「それはお互い様でしょ?」

「確かに」

 俺たちはクスクス笑ってリビングのソファに身を沈めた。どっと疲れが押し寄せてくる。明日が休日で良かった。俺はそう思いながらぼんやり天井を見上げる。

「寝室、行かないの?」

「あー、シャワー浴びたら行く、先に行ってて良いよ」

「分かった」

 俺は葵におやすみと声を掛けてシャワーを浴びる準備をした。さっと体と髪を洗って、洗顔し、風呂場を出て髪を乾かす。あっという間にシャワーを済ませて、またソファに座った。ちょっとだけと自分に言い聞かせて目を閉じる。今日は疲れたなあとぽつりと呟いたのは、誰にも届かず空虚に吸い込まれた。

 

「逹くん!逹くん!おはよう!」

 ゆさゆさと俺の膝に誰かが乗っている。直ぐに娘の有希だと分かった。有希は俺の事を名前で呼ぶ。俺はそれを不満に思った事は無い。ゆっくりと目を開けると、カーテンの隙間から朝陽が差し込んで眩しい。

「おはよう有希、よく眠れた?」

「うん!」

 有希は元気いっぱいに頷いて不思議そうに俺を見た。

「葵ちゃんと喧嘩したの?」

「え、してないよ、どうして?」

「逹くんがここで寝てたから!」

 ああ、ソファで寝落ちしてしまったのか、これは葵に悪いことをした。俺は有希の頭を撫でながら大丈夫だよと答える。俺は膝から有希を下ろして、寝起きのコーヒーを飲むためにお湯を沸かし始めた。キッチンに掛けられた時計を見ると、まだ六時半である。有希は最近早起きだなとぼんやり考えた。

「逹くん、有希ココア・オレ飲みたい」

「いいよ、少し待っててね」

 俺は有希のカップを戸棚から出してココアの袋を開ける。俺ももうすっかり父親なんだなと考えていた所でお湯が沸いた。

 俺と有希はキッチンの椅子に座ってカップを傾ける。有希は何が嬉しいのかさっきからにこにこと俺の方を見ている。

「逹くん」

「どうした?」

「えっとねー」

 有希はうーんと言って頭に手を当てた。そしておずおずと口を開く。

「今日ね、宿題おわったら、那瑠ちゃんのところにつれて行ってほしいの」

「那瑠の所?いいよ、葵も行くって言ってたし、皆で行こうか」

「うん!」

 有希はそうと決まればという勢いで二階から公文の宿題を持ってくると、いそいそと解き始めた。俺が分からない所を教えると、有希は飲み込みが早くすらすらと解いてしまう。誰にその熱心な勉強欲を教えてもらったのか、俺には分からなかった。しかし有希は頭が良い。公文式の勉強と言えば、やればやるだけ先の学年の課題に手を付けられるが、有希はまだ五歳だというのに小学三年生の課題をこなしている。弟たち三つ子も公文に通わせているが、有希には及ばない。

「解けた!」

「早いね、何分?」

「えっとね十五分の所を、十二分!」

「早いじゃーん。よく出来たね」

「うん!」

 有希は算数の様な答えが決まっている分野が得意らしい。本当に、いったい誰に似たのやら。有希は嬉しそうに大きく頷いて宿題をしまう。そして早く皆起きてこないかなあと楽し気に言った。

「那瑠の所に行くの楽しみ?」

「うん!レンお兄ちゃんがいるから!」

「ほほーん」

 心中穏やかではない言葉を聞いてしまった。そうだ、有希は蓮の事が大好きだったのだ。失念していた。確かに蓮はカッコいいし男の俺でもほれぼれする。有希が好きになるのも仕方ない。仕方ないのだがちょっと悔しい気持ちになった。

 そうしてお互いにカップを傾けていると、葵と三つ子が起きてきた。

「おはよう~逹、昨日はソファで寝ちゃったんだね」

「おはよう葵。そう、寝落ちしちゃった、ごめんね」

「大丈夫だよ、疲れてない?」

「うん、大丈夫、ありがとう」

 葵は大丈夫なら良かったと言い、朝食を作り始める。俺と有希、それに三つ子はリビングに行きおもちゃ遊びに興じた。丁度レゴのお城が出来上がった所で、葵がご飯できたよ~と俺たちを呼ぶ。三つ子たちは持っていたレゴを置いて葵の元に走っていく。有希はその置かれたレゴを丁寧にしまってから葵の元へ向かった。こういう所いいなあ、なんて考えながら俺もキッチンに向かう。

「いただきます!」

 皆で声を揃えて食事を始めた。三つ子はガツガツとそれを食して、葵が、零れてる零れてる、ゆっくり食べてねと言う。有希は丁寧にフォークをソーセージにさして口に運んでいる。やっぱり女の子なんだなあと思いながら俺も食事を進めた。

 那瑠の店の開店時間十時に合わせて、俺たち家族は車に乗った。土曜の朝だからか車通りは少なく、比較的早く那瑠の店に着く。

「早く着いちゃったね。河原で少し遊ばせようか」

 俺は後部座席のチャイルドシートに座る四人を見ながら葵にそう言った。葵もそうだね、と言って四人を車から降ろす。

「遠くに行っちゃダメだからねー!」

と言う葵の言葉に反して、子供たちはわいわいと走っていった。俺は急いで車の鍵をかけて追いかける。

「秋良、夏生、確保ー!」

 キャーと叫ぶ二人を小脇に抱えた。遠くから晴樹、有希、確保!と葵の声が響いて聞こえる。そうして鬼ごっこを続けていると河原の高台から誰かが見下ろしているのに気が付いた。


「いやあ、元気だね」

「まったくだ」

「私にはあんなに走る元気ないわ」

「俺にもない」

「どうする?声掛ける?」

「手でも振ってみるか」


「那瑠ー!蓮ー!おはよー!」

 遠くで二人が並んでこちらに手を振っている。俺たちはそれを合図にして河原の高台まで登った。

「おはようさん、朝から元気だな」

 久々に見る蓮の姿に俺はほっと溜息を吐く。

「まあね、子供らが元気だと俺らも元気出るし」

「レンお兄ちゃん!」

 有希が蓮の足元にピタリとくっついて離れない。蓮は苦笑して有希を肩車してくれた。

「有希でかくなったなあ」

「最後に会ったのかなり前だからなあ」

 俺はそう言って那瑠を見る。こちらには夏生と晴樹がくっついていた。抱っこしてー!と夏生がせがむので、那瑠も苦笑しながら夏生を抱っこしてくれる。晴樹が僕も僕も!と那瑠の服の裾を引っ張った。那瑠はよいしょと言って片方の腕に夏生を乗せて、器用に晴樹も抱っこしてくれる。

「さすがに二人は重いな」

 けらけらと笑う那瑠だが、全く重そうには見えない。ぽつんと秋良が葵と手を繋いでいた。秋良も甘えたそうにしているが、引っ込み思案なのか、僕も、とは言えない様子である。

「蓮、秋良も抱っこしてくんね?」

「いいよ、おいで秋良」

「いいの?」

「いいよ、ほら」

 有希の事を肩車したまま、片方ずつしっかりと二人を支えてくれた。秋良も笑顔になったので、俺と葵はほっとする。

「じゃあこのまま店で良いか?」

 那瑠が二人を揺らしながら訊いてきた。俺たちは頷いて店内へと入る。

「今日も真夏日になるらしいから、子供らに水分補給させとけよ」

 蓮がそう忠告してくれたので、俺は車の中に置いてきてしまったタオルや飲み物を取りに行く。店に戻ると那瑠が座敷の一角を広げて子供らが遊ぶスペースを作ってくれているところだった。俺は一呼吸おいてそちらに向かい、四人分の飲み物を出して水分補給させた。そしてすっかり汗をかいてしまった四人の頭や体を拭いてやる。

「もう慣れた手つきだな」

 那瑠の言葉に俺は苦笑して頷いた。

「まあもうすぐ六年だからね」

「すっかりいい父親の顔になったよ」

「そう?ありがとう」

 俺が最後に有希の頭を拭き終えると四人はくたっとしてゴロゴロし始める。俺はカウンター席に着いた葵の横に座ってバニラ・ラテを頼んだ。外は暑いが店内は涼しいので熱いコーヒーを飲みたいと思った。葵もカフェ・ラテを頼んで俺たちはそれを飲んでほっと溜息を吐く。那瑠は苦笑して俺たちにショートケーキを出してくれた。

「子供らに気付かれないように早く食べちゃえ」

「ありがとう」

 俺たちはお礼を言ってショートケーキを口にする。甘酸っぱい苺が美味い。

「子育ても順調そうで安心したよ」

 蓮がそう言うので俺は笑顔になった。葵も笑ってありがとうと言う。

「二人の結婚式はいつなの?」

「家に帰ってこない奴と結婚なんかするか」

 葵の言葉に那瑠は笑ってそう言ったが婚約はしているようだし、俺はのんびりと口を開いた。

「気長に待とうよ」

「そっか、そうだね」

 ふふっと葵が笑ったのに癒されつつショートケーキを完食してお皿を那瑠に返す。蓮はもう少し待ってくれなと言って苦笑した。

 子供らがわいわいと賑やかになり始めた。今日はどんな遊びを思いついたのだろうか。俺はバニラ・ラテを飲み干してそちらに向かうのだった。

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