夏生の夏休み

 俺は星川那瑠の店「ユーモレスク」に入った。この店が出来て初日、結婚の約束を取り付けた場所でもある。もうあれから十数年か経ち、俺達は結婚し此処に帰ってくるようになっていた。

「ただいま」

「おかえり、早かったね」

 那瑠は店の中を忙しそうに移動しながらそう言う。

「今日は残業も無しで早上がり出来た」

「そうか、適当に座っていてくれ」

 那瑠はコーヒーをあちらこちらに配り、やっとカウンターに戻って来た。

「ドッピオでいいかい」

「勿論」

 那瑠は俺の言葉に頷いて、熱いドッピオを淹れる。これが苦くて美味い。那瑠はコーヒーと共に軽く食べられるフレンチトーストを出してくれた。夕食前だが有り難い、丁度お腹も空いていた所だ。

 那瑠は店内の注文も粗方出し終えたようで、今度は夜の為の仕込みを始めた。ここは夜には居酒屋になり、仕事帰りのサラリーマンが押し寄せる。バイトの子がタイムカードを切り、カウンターにやって来た。

「あ、蓮さんこんばんは」

「よう、夏生、頑張ってるな」

「いやいや、まだまだですよ」

 夏生はにっこり笑った。夏生は俺達の親友、星川逹と空野葵の三つ子の息子の内の一人だ。他に姉の有希、三つ子の片割れ晴樹と秋良がいるが、今はどうしているのだろう。

「夏生、有希とかはどうしてる?」

「有希は今院試の真っ最中で僕の部屋に籠りっきりですよ」

「そうか、もう有希も四年生か」

「はい」

「夏生も三年生か、早いな」

「そんな事言ってると早く老けますよ」

 夏生はそう言って笑う。俺もその冗談に笑った。今年で俺も四十五歳、いい歳になった。

「那瑠さん、僕テーブル席、予約用にセットしてきますね」

「頼んだ」

 夏生は予約用の札とクロス等を持ってテーブルをセットしに行く。俺はそれを見送ってドッピオに口を付けた。夏生はもう慣れた手付きでテーブルをセットして戻ってくる。俺は感心して声を掛けた。

「夏生、もういっぱしのカフェ店員だな」

「そうですかね、早く那瑠さんみたいになりたいです」

「そうか」

「はい」

 夏生は照れたように笑い、コーヒーを淹れる。ダブルショット・ラテ。随分慣れた手付きだ。笑顔も昔より増えた気がする。

「夏生、彼女とは上手く行ってるのか」

 俺はのんびりと訊いてみた。確か高校卒業と同時に同級生とヨリを戻したと聞いている。同じ聖北大学に進学して上手く行っていると良いのだが。

「あ、華とは上手く行ってます」

 照れたように笑い、俺の横に淹れたコーヒーを置いた。丁度良く女子大生が入ってきて、俺の隣に座った。

「華、いらっしゃい」

「こんばんは夏生ちゃん」

 これは噂をすれば何とやら。俺は微笑んでその子を眺めた。綺麗な子だ。身長は高く鼻筋は通っている。鷹之宮桜の姿を彷彿とさせた。桜も俺達の高校からの同級生で、今はその財閥の社長をやっている。忙しい人だからなかなか会えない。

「華、こちら那瑠さんの旦那さん、橋本蓮さん」

「あ、こんばんは初めまして」

「こんばんは」

 華と呼ばれたその子は丁寧にお辞儀してコーヒーに手を付けた。

 夏生もそれっきり忙しくなってしまい、カウンターには俺と華だけが取り残された。華は緊張しているようだ。俺は話す事を考えた。こんな親世代の話なんて説教にしか聞こえないだろうが、俺は口を開いた。

「夏生とは上手く行ってる?」

「え、あ、はい、上手く行っています」

 彼女は頬を染めてポツリポツリと話してくれた。高校時代に付き合っていたころの話や、今どんな付き合いをしているか等、意外と話しやすい子だ。

「蓮さんは夏生ちゃんが小さい頃から知っているんですよね」

「まあね、親友でしかも那瑠の双子の弟の子供だからなあ」

「小っちゃい頃の夏生ちゃんってどんな感じだったんですか」

「ぼんやりしてて何考えてるかあんまり分からない子だったよ」

「あ、今でも変わらない」

「そうなんだよね」

 俺と彼女は顔を見合わせて笑った。夏生が仕事をしながら不思議そうにこちらを見ている。

 那瑠も仕込みが終わったようで自分用に淹れたコーヒーを啜って此方を見ていた。

「楽しそうだな」

「ああ、若い子と話すのも良いもんだ」

「そうか」

「那瑠さん、私ニューヨークチーズケーキ貰ってもいいですか」

「ああ、良いよ」

 華の言葉に那瑠は頷いてケーキを用意する。夏生はフライヤーでつまみを作り、テーブル席へと運んでいく。俺はフレンチトーストを食べ切ってしまいコーヒーを啜る。まだ温かい。

「那瑠、俺お腹空いた」

「何食べる」

「ジンライムにサラダになんかご飯物」

「良く食べるね蓮は」

「まあね」

 俺の言葉に夏生が反応してジンライムを作ってくれる。他の客のオーダーもあるだろうに、律儀な子だ。華はそれを見て羨ましそうにしている。

「私もお酒飲みたい」

 夏生はそれを聞いて眉を寄せた。

「華、すぐ酔うじゃん」

「少しだけだから」

「一杯だけね」

「うん」

 夏生は苦笑してカルアミルクを作ると華の前に置いてやる。那瑠がそれを見て口を開いた。

「華は酒に弱いのか」

「キスしまくるんですよこいつ」

「それは大変だな、蓮、気を付けろよ」

「おう」

「そんな事無いですって」

 華が顔を赤くしながら否定する。三対一じゃ分が悪そうだ。俺達は笑って華を見守った。華はカルアミルクを少しずつ飲んで、夏生の言いつけ通りチェイサーを飲んでいる。

 夜も大分遅くなり、金曜日の居酒屋も静かになって来た。華はと言えば案の定酔って、カウンターに突っ伏している。

「あーだから飲むなって言ったのに」

 夏生が苦笑して自分の上着を彼女に掛ける。結局華は三杯程カルアミルクを飲んだだろうか。那瑠が薄めに出していたが、華の前ではその効果も期待できなかったらしい。

「蓮さん、キスされませんでした?」

「大丈夫だよ」

「それなら良かった。ホント、キス魔なんですよ」

「誰彼構わずキスするのか?」

「いや、僕にだけ、と言いたいところですが、女の子に良くやってますね」

 夏生は苦笑して答える。

「宅飲み専門だな」

「そうなんです」

 夏生はバイトをしていることもあって一人暮らしをしている。今は有希が院試の勉強の為に入り浸っているらしいが。

「送って帰るのか?」

 那瑠が夏生にそう訊いた。夏生は洗い物をしながら頷く。

「じゃあ店もそろそろ閉めるし、今日は帰っていいぞ」

「いや、悪いですよ、最後まで閉めてから帰ります、華がご迷惑をお掛けしましてすみません」

「大丈夫さ、それならラストまで頑張ってくれ」

「はい」

 夏生は笑顔で頷いて洗い物を済ませると周り拭きを始める。もうここでバイトを始めて三年半、随分と柔らかい物腰になったし、笑顔も増えて嬉しい限りだ。

 那瑠は俺の食べ終わった皿を片付け始めて厨房の掃除を始めた。俺はそれを眺めて、残っていたジンライムを呷る。

「蓮さんは酔わないんですか」

 ふと横を見ると華と目が合った。頬を赤くしていて、今にも寝そうだ。

「ああ、俺は酒に強いからな」

「羨ましい」

 華はまたカウンターに突っ伏す。まるで逹を見ているようだ。あいつも酒に弱かったなと思い出す。

「夏生そろそろ上がって良いぞ」

 那瑠が夏生に声を掛けた。店も綺麗になって、那瑠も丁度厨房の掃除を終えた所だ。

「はい、ありがとうございます」

 夏生はタイムカードを切ると帰りの準備をして華の横に腰掛けた。賄を食べるようだ。那瑠は手際よく残り物で賄を作ってしまうと、夏生の前に置いた。

「ありがとうございます」

「今日は刺身が残ったから海鮮丼な」

「豪勢ですね」

「まあ、言っても残り物で悪いね」

「いえいえ、ありがとうございます」

 夏生は賄を食べ始める。美味しそうだ。

「そんなに物欲しげに見てると夏生が食べにくいだろう」

「そんなつもりじゃないよ」

 物欲しげに見えただろうか、夏生に謝って俺は出してもらったドッピオを飲む。

「華にも作ってやるか、起こしてみて」

「え、良いんですか」

「良いよ、どうせ明日には悪くなっちゃうしな」

「ありがとうございます」

 夏生は華の方を揺すって起こす。華は眠たそうな目を擦って不思議そうに夏生を見た。

「どうしたの夏生ちゃん」

「那瑠さんが賄作ってくれるって」

「え、良いんですか」

「良いよ、残り物だけどね」

「ありがとうございます」

 華はニコッと笑ってお礼を言う。那瑠も笑って賄を華の前に置いた。

「えー!こんな豪勢なお賄があって良いんですか」

「ね、僕もそう思う」

 華の言葉に夏生も頷く。

「大したもんじゃないよ、ほら、ご飯が冷めないうちに食べな」

 那瑠がそう言うので、二人は暫く無言で賄を食べた。俺達はそれを我が子の様に見守る。俺達には子供が出来なかったので、こうして甥や親友の子供の成長を見るのが好きだった。

 那瑠は自分用のカップにコーヒーを淹れた。俺もドッピオを飲みながら二人が食べ終えるのを待った。二人はさすがの若さで、あっという間に賄を食べ切った。華の酔いも少し醒めたようだ。

 二人は夜一時に仲良く帰って行った。俺達にもあの頃があったなと思い返す。

「那瑠」

 俺達は寝室に入るとベッドに横になった。

「どうした」

「いや、何でもない、寝ようか」

「おう」

 那瑠はもう眠たそうだ。俺は那瑠に腕枕をしてやって眠りに就いた。


「夏生ちゃん」

「んー?」

「バイトお疲れ様」

「ありがとう」

 僕は酔っている華の肩を支えながら歩く。華はこれから飲み直すと言って聞かない。僕は仕方なくコンビニに寄って缶チューハイを数本買い、一人暮らしをしている華の部屋に向かう。

「夏生ちゃん」

「なあに」

「好きよ」

「知ってる」

 華はふふと笑う、その笑顔が愛おしい。

「今夜は飲み明かすぞー!」

「飲み明かす前に潰れるでしょ」

 華はううと恨めし気に僕を見る。そんな表情も可愛らしい。高校時代は僕の不甲斐なさで一回別れてしまったし、二人で歩けるなんて思っても居なかったが、今は蟠りも無くこうしてお泊りも出来る仲まで回復した。僕は華の手を握って歩く。その手が温かい。酔っているせいだ。華は僕の手を握り返してその手を振って歩いていく。

「華、酔いが回るよ」

「平気平気」

 華は缶チューハイを開けて、飲みながら歩いている。少し行儀が悪いが酔っているので何とも言えない。

「ほら、ちゃんと歩いて」

 華の部屋の前まで来た。僕は合鍵を出してそのドアを開ける。綺麗に片付いているその部屋のベッドに横にさせる。

「夏生ちゃんも一緒に寝ようよ」

「……飲み明かすんじゃなかったの」

「飲む!」

 華はのそのそとベッドから這い出てきて、嬉々として僕の隣に座った。僕はジンフレーバーの缶チューハイを手に華を支える。今にも倒れそうだ。僕は溜息を吐いた。

「何の溜息?」

「華が早く寝ないかなっていう溜息」

「なにそれ酷い」

 華はケラケラ笑う。

「寝る?」

「僕はもう少し飲んでから寝るよ」

「そっか、じゃあ私も!」

 華は新しいお酒を開けて、かんぱーいと陽気に言うとグイグイ飲んだ。

「華、一気に飲んじゃダメ」

「はーい」

 僕はグラスに水を持って来て華に渡す。華は危なげにそれを飲むので手を貸してやった。

「華、眠いならベッドで寝な」

「夏生ちゃんが寝るなら寝る」

 僕は溜息を吐いて華を押し倒した。

「あんまり可愛い事言うと押し倒すよ」

「いいよ、夏生ちゃんなら」

「馬鹿言うな」

 僕は華から体を離してお酒を飲んだ。頭を冷やすべきは僕かもしれない。僕は水を少し飲む。

「夏生ちゃん」

「なあに」

「一緒に寝よう」

「分かった分かった」

 僕は残っていたお酒を新しいグラスに移して、他の開いていない缶チューハイと共に冷蔵庫に入れると部屋を暗くした。僕は華を抱えてベッドに横になった。シングルベッドのスプリングが軋む音がした。

 華は僕に抱き着くと直ぐに寝息を立て始めた。僕もそのまま眠る事にした。


 次の日の朝、僕は華より先に起きた。華が寒そうにしているので毛布を口許まで掛けてやると薄らと目を開けた。

「夏生……おはよう」

「おはよう」

「今何時」

「九時だよ」

 華はううと呻くと布団を頭まで被る。僕はグラスに残っていた水を飲み干して、ベッドに腰掛けた。

「夏生ちゃん、二度寝しよう」

「ええ?」

 僕は華に引っ張られてベッドに押し付けられた。そして軽いキスをされる。華は満足したのか、またベッドに体を沈めた。

「満足した?」

「うん」

 僕は溜息を吐いて体を起こした。華は此方を眺めている。

「さあ、お風呂に入っておいで」

「うーん、もうちょっと」

 華はモゾモゾと布団を直している。僕はまあ土曜日だし夏休みだしいいか、という思いでそれを眺めた。

「何考えてるの」

「いや、こうしてまったりするのも幸せだなと思って」

 僕は思ったことを素直に言って笑った。華もつられて微笑む。こんな時間が長く続けばいいなとも思うが、今日は早番で十二時からバイトだ。最近は那瑠さんからフリーポアを教わっている身としては楽しみで仕方ない。

「そっか、今日もバイトだよね」

「うん」

「いいなあ那瑠さん、夏生ちゃんを独り占め」

「ちゃんとお客様も相手してるよ」

「そうなんだけどね」

 しかめっ面の華に僕は笑った。以前よりも笑う回数は増えた気がするし、他人相手にも臆せずに話す事が出来る様になってきた。昔の僕なら有り得ない。これもバイトをしないかと誘ってくれた那瑠さんのお陰だ。

 お風呂を借りて身支度を済ませると、時間は十時を回った所だった。華は相変わらずベッドでゴロゴロしている。僕はスマートフォンで音楽を流しながら朝食を作った。軽い料理なら僕にでも出来る。僕はベーコンエッグとキャベツのスープ、サラダとトーストを作ってしまうとテーブルに並べた。

「華、ご飯だよ」

「わーい、ありがとう」

 華はお礼を言ってそそくさとテーブルに着く。そして二人で声を揃えていただきますをした。華は黙々と朝食を摂るので僕も黙って食べた。

「ご馳走様でした」

「うん、美味しかった?」

「美味しかった、ありがとう」

 僕は満足して頷いた。二人の皿も空になって、華は洗い物を始める。僕はまた音楽を掛けながら鞄から夏休み中に提出のレポートを出してレポートを書く。高校時代は続かなかった集中力でレポートを埋めていると、華も課題をし始めた。

「洗い物ありがとう」

「いえいえ、こちらこそ」

 僕らは顔を見合わせて笑って、また手元に集中する。華が音楽に合わせて鼻歌を歌っている。親の音楽の趣味が合っていたからか、僕達の音楽の趣味も合っていた。だから自然と聴く音楽も被っていた。僕達は学科は違えど同じ軽音サークルに所属していて一緒に居る事も多い。さすがに大学生になってからは冷やかしてくる学生も少なく、僕達は穏便な毎日を過ごしていた。高校時代は結構冷やかしが多かったから、僕達としてはありがたい。

 そうしているうちにあっという間にバイトへ行く時間になってしまった。華に笑顔で送り出されて僕は店に向かう。大学駅前を抜けて閑静な住宅街も通りすぎると、母校聖北高校が見えて来る。店は母校の直ぐ傍、河原を目前にした気持ちの良い場所に建っている。風見鶏が屋根の上でクルクル回っていた。

「おはようございます」

「夏生、おはよう」

 那瑠さんがグラスを拭きながら迎えてくれる。僕は更衣室でさっさと制服に着替えてカフェエプロンを着けるとタイムカードを切った。那瑠さんと軽い朝礼をして僕はカウンターに立つ。今日は学生の姿がちらほら見えた。

「今日は暇そうだ」

「え、そうなんですか」

「ああ、何でも駅前通りで小さな祭りがあるそうだ」

「ははあ、なるほど」

 那瑠さんは拭き終わったグラスを丁寧に元の場所に戻して腕捲りをした。

「だから今日は存分にフリーポアの練習に付き合ってやれる」

「それは嬉しいです」

 僕は手洗いを済ませながら笑顔になった。最近はミルクを木の葉の形にするラテ・アートを練習している。まだまだ練習しないと那瑠さんの様に綺麗なラテ・アートは作れない。

「そう言えば、華はあの後大丈夫だったか」

「はい、帰りにも飲んでたんですけど、二日酔いも無さそうで大丈夫でした」

「それなら良かった」

 那瑠さんは微笑んでミルクを冷蔵庫から取り出して、エスプレッソを抽出し始めた。僕も仕事をしよう。まずは今店内にいるお客様の様子を見て、グラスの水が無くなっていないかを確認する、そしてコーヒーが無くなっているお客様が居たら、無料のアメリカンコーヒーが必要かどうかを確認する。最初は声を掛けるのにも勇気が必要だったが、三年目の今、この位ならすんなり声を掛けられるようになった。

 その後暫くは暇だったのだが雨が降ってきて、店は雨宿りのお客様で混み始めた。夕方四時だった。お客様の話によると河原に屋台がズラリと並んでいるらしい。それは混むだろうなあと那瑠さんがぼやいて、売り上げが上がるのは良いけどラテ・アートの練習の時間が取れないなと溜息を吐く。僕は大丈夫ですよと笑いながらケーキを皿に盛り付けてお客様の元へ向かう。

「お待たせいたしました、ショートケーキです。ごゆっくりどうぞ」

 那瑠さんは自宅からウエイターの格好をさせた蓮さんを連れて来た。愈々忙しくなってきたのだ。那瑠さんはコーヒーにエッティング、ラテ・アートの一種、を施し、サラダやディナーの用意もして蓮さんが運んでいく。蓮さんは気さくにお客様対応をしていてすごいなと思った。僕も見習わなければ。僕はと言えば店内を周って空いた皿やカップを片付け、洗い物をしてサポートに徹した。気が付けばもう僕の上がり時間を過ぎていた。那瑠さんはその時間の前にそろそろ時間だから上がって良いぞと言ってくれたのだが、あまりの忙しさに上がるタイミングを見失ってしまっていた。遅番の子が来たら上がらせてもらおう。遅番の子が二人入ってくる頃には店は満員で飲みのお客様も増えていた。那瑠さんは忙しい合間をぬって僕の賄を作ってくれた。今日は油淋鶏だ。唐揚げにかかったあんが美味しそうだ。

「お先に上がります」

「お疲れさん、来週のシフト、書いていけよー」

「はい」

 僕は事務所でタイムカードを切り、シフト表を眺めた。夏休みだし沢山シフトに入れるだろう。特に休みの希望も無かったので希望無しと記載し、賄を持って休憩室に入る。そこには休憩中の蓮さんがいて、僕はお疲れ様ですと声を掛けた。

「日曜で休みなのに蓮さんも大変ですね」

「まあ、そうだなあ、久しぶりに駆り出されたよ」

 蓮さんは疲れたように笑う。僕は机に座って賄を食べ始めた。

「久しぶりに蓮さんのその恰好見ましたもん」

「そうだな」

「似合いますね」

「襟が付いてりゃ何でも似合うって那瑠にも言われてる」

 僕はその言葉に笑った。確かにスーツも似合っているし、私服もワイシャツが多いような気もする。

「これから華の所に行くのか?」

 蓮さんはコーヒーを片手に窓を開けて煙草を吸いだした。冷たい風が心地よい。

「いや自分の部屋に帰って、有希の為に夕食作りですかね」

「飯作ってやるのか、偉いな」

「もうすぐ院試ですからね、ちゃんとサポートしてあげたいなと」

「そうか」

 僕は温かいうちに油淋鶏を食べる。蓮さんは俺も腹減ったと言い残して店に消えて行った。あの様子だと何か食べ物を持って来るだろう。僕は賄を食べてしまうと休憩室の流しで皿を洗って片付け始めた。蓮さんがお茶漬けと唐揚げを持って休憩室に入ってくる。

「せしめて来た」

 蓮さんは嬉しそうにそう言うとコーヒーを飲み切ってから料理に手を付けた。

「じゃあ僕帰りますね」

「おう、気を付けて帰れよ、有希に無理しない程度に頑張れって伝えてくれ」

「ありがとうございます、伝えておきます」

 僕は失礼しますと言って店を後にした。雨は止んだ様で折り畳み傘の出番は無さそうである。僕は冷蔵庫に何があるか思い出しながら歩く。特別何も残っていないだろうから、買い物をして帰ろうと思いスーパーで買い物をする。今日は油淋鶏を食べさせて貰ったから、有希にも食べさせてあげようと思いその材料を買い込んだ。

 部屋に帰ると、有希がちょうどお湯を沸かしている所だった。

「ただいま」

「おかえりー、夏生、コーヒー淹れてー」

 どっと溜息を吐いた姉を見て、ああ、お疲れだなと苦笑した。僕は快諾してコーヒー豆を挽く。これは那瑠さんの店で買ったものだから、いい香りがする。カップも用意してお湯の温度を計る。丁度いい温度になった所で一気にお湯を注いでから暫く豆を蒸らす。そして豆が蒸れた所で少しずつお湯を足していく。これが那瑠さんの言う美味しいコーヒーの淹れ方。僕は淹れ終わったコーヒーを有希に渡して、夕飯の準備を始める。

「いつもごめんね夏生」

「大丈夫だよ、それより、蓮さんから伝言」

 僕は先程蓮さんから言われた言葉を有希に伝えた。有希は大喜びだ。昔から蓮さんに懐いていたし、今でも憧れているらしいから、それは嬉しいだろうなと思った。僕も那瑠さんからそんな言葉を掛けられたら嬉しい。

「これであと二週間頑張れる~」

 有希はそんな事を言ってまた過去問を解き始めた。僕はそれを微笑んで見守る。油淋鶏はもうすぐ出来そうだ。ご飯ももうすぐ炊けるし、スープも丁度出来上がる所だ。全部の料理が同時に出来上がるように気を付けているので、そうなった時が嬉しい。

「もうすぐ出来上がるよ」

「はーい」

 僕は有希に声を掛ける。有希はパタパタと机の上を片付け始めた。僕は料理を皿に盛り付けてお盆に乗せて運んでいく。綺麗にしてくれた机の上に料理を並べて、二人で手を合わせた。

「美味しい!」

「それなら良かった」

 有希の言葉に僕も嬉しくなる。有希は偶に教授の愚痴なんかを僕に話しながら料理を完食した。僕は皿を片付けてしまってからグラス一杯のアイスコーヒーを淹れ、有希に渡す。有希は嬉しそうにそれを受け取って飲んだ。

「あー生き返った」

「今まで死んでいたの?」

「そりゃもう」

「そっかそっかお疲れ様」

 有希はぐったりして机に突っ伏した。とてもお疲れの様である。僕も自分用に淹れたアイスコーヒーを飲みながら、ふぅと溜息を吐く。今日は忙しかったなと思いながらスマートフォンの画面を付ける。華からメールが来ていた。今度の休みに予定していたデートについてだ。良い場所があったようで、その場所についての内容だった。僕はそこがいいねと返信してソファに身を沈める。僕も疲れている様だ。目を瞑ると、どっと疲れが押し寄せて来る。有希は小さくゆっくり肩を上下させて少し眠っているみたいだ。僕は起こさない様にタオルケットを肩に掛けてやる。どうせだしベッドで寝てくれた方が僕の精神的には良いのだが、また起きたら勉強するのだろう。僕も少し眠ってしまおうと思って目を閉じた。


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