ジンライムと夏の虫

 それは夏だった。じりじりと暑い日が続き、ここ聖北地区では連日猛暑日で熱中症にお気をつけくださいというニュースが毎日のように放送されていた。

 俺は同僚との飲み会が終わって、那瑠の所に帰るところである。那瑠に電話をかけると、呆れた様な声で迎えに行くよと言われ、その迎えを近くのコンビニで待っていた。歩いて迎えに来るだろうか、車で迎えに来るだろうか。いや、どちらでもいい。俺はワクワクしながら酒を買ってコンビニの前で煙草を吸った。

 那瑠は程なくして徒歩で迎えに来てくれた。よう、と手を挙げて俺の隣で煙草を吸い始める。

「飲み会は楽しかったかい」

 那瑠がジッポライターから煙草に火を付けながら訊いてきた。

「ああ、後輩と飲みに行くよりもずっと楽しかったよ」

「そりゃ何よりだ」

 那瑠がケラケラと笑う。時間は十二時半を過ぎたところ。ぷかぷかと温い風に揺らされながら登っていく白煙を眺めた。

「酒、買ったのか」

「ああ、那瑠とも飲みたくてな」

 那瑠は興味津々で俺が持っているビニール袋を覗き込みフフッと笑う。

「ジンならうちにもあったのに」

「うちにあるやつは半分くらいしか残ってなかっただろう?」

「ああ、確かにな」

「飲み切っちゃうと思ってさ、買っちゃったよ」

「そうかそうか」

 那瑠がもう一本と言って新しく煙草を咥えた。俺も同じくそうして、煙草を咥えたが、どうやらジッポライターのオイルが切れたようで、カチカチと寂しい音が鳴るばかりだ。

「ほら」

 見かねて那瑠が自分のジッポライターを貸してくれる。俺はありがたくそれを借りて煙草に火を付けた。

「さんきゅ」

「ああ」

 俺たちは暫し無言でぷかぷかと煙草を吸う。沈黙さえも心地よい。那瑠が煙草を吸い終えたので、俺も吸い殻入れに煙草の火を消してから放り込み、行こうか、と手を差し出した那瑠の手を掴んだ。

 交差点で信号待ちをしているところで那瑠が口を開く。

「こうして歩くのも久々だな」

「そうだったか?」

「そうだよ」

 俺はちょっと嬉しくなって、那瑠の手をぎゅっと握った。那瑠は驚きながらもぎゅ、ぎゅっと握り返してくれる。俺はそれが面白くて、ぎゅぎゅぎゅとリズムよく握ってみた。那瑠も同じリズムで俺の手を握った。

「何にやけてるんだよ」

「いや、嬉しくて」

「はぁ」

 那瑠の小さな手。女性にしたら大きいらしいが、俺から比べれば小さい。俺は柔らかいその手が愛おしくて指を絡ませて手を繋ぎ直した。那瑠はクスクスと笑って俺の手を握る。

「高校時代に戻ったみたいだ」

「そんなに手繋いで歩いた事無かっただろう」

 俺の言葉に那瑠はそう言った。

「そうか?逹と三人で歩いてる時とか隠れて手繋いだりしたじゃん」

「あー、覚えてない覚えてない」

 そう言って半歩先を行こうとする那瑠の耳が赤い。俺はそれが可愛くて仕方なくて、されるがまま那瑠に引っ張られるようにして歩いた。

「那瑠、そんなにつかつか歩いたら早く家に着いちゃうじゃん」

「悪いか?」

 那瑠は振り返って足を止める。俺はちょっと歩きすぎてトンと那瑠にぶつかってしまった。

「おっと、すまん。いや、悪くないけどさ、ちょっとまだ歩きたい気分だ」

「ああ……歩きたいのか、んーじゃあ久し振りに聖南まで歩いてみるか」

「お、いいなそれ」

 聖北高校の近くにいた俺たちは方向転換をして聖南地区、実家近くまで歩くことにした。那瑠はまた俺の手を引くように歩く。

「楽しいか?」

 ふと那瑠が歩きながら俺の顔を見た。もうそろそろ実家近くという所だった。

「ああ、楽しいよ」

「そりゃ何よりだ」

「那瑠は?なんか付き合わせて悪かったな」

「いや良いよ、蓮が楽しければ私はそれで」

「そんなもんか?」

「そんなもんだ」

 那瑠はまた俺の手を引いて歩く。近くに俺たちが小さい頃から遊んでいた公園があるので、そこに向かっているようだ。

「飲もうよ」

「え、ここで?」

 公園に着いて、ベンチに腰掛けた那瑠は笑顔でそう言う。

「たまには良いだろう?」

「まあな、よし、飲むか」

 俺は那瑠の隣に腰掛けて、ビニール袋からジントニックの缶を取り出した。そしてつまみ用にと買っていたビーフジャーキーを開ける。

「乾杯」

「おう」

 俺たちは缶を開けて一口飲んだ。喉を通り過ぎる炭酸を感じる。

「ぷはっ」

 那瑠がぐびぐびと缶を傾けてジントニックを飲んでいるのを見て、俺は微笑んだ。こんな缶一本を開けたくらいで俺も那瑠も酔わないが、ちょっと心配になる。

「一気に飲んで大丈夫か?」

「ああ、平気だよ」

 何か腹に入れろよ、と言ってビーフジャーキーを勧める。那瑠は頷いてジャーキーを齧った。

「外で飲むのもたまにはいいな」

 那瑠がぼんやり空を眺めながら呟く。俺も空を見上げた。田舎だから空で光る星々がはっきりと見えた。

「そうだな」

 そんなところで俺も那瑠も一缶飲み終える。公園の植木から虫たちの鳴き声が聞こえて、俺は風流だなと思った。

「帰るか?」

「いや、もう一本」

 那瑠はビニール袋を漁ってもう一本、今度はレモンサワーを取り出してプシュッと缶を開ける。それなら俺も、と言って俺も同じレモンサワーを取り出した。

「美味いな」

「ああ、店終わりに一人で飲むよりずっと美味しい」

「そうか」

 俺は店のカウンター席で一人で酒を飲む那瑠を想像した。その背中は寂しげだ。

「俺さ」

「うん?」

「今度から早く帰るわ」

「どうしたよいきなり」

 苦笑する那瑠に向かって俺は宣言する。

「定時で上がれたら即帰って店前で手伝いするわ」

「ほんとかよ」

「ああ、少しでも那瑠の負担減らしたい」

「店は負担じゃないよ、やりがいあるし、もともと忙しくしてるの好きだし」

「そうか?」

「そうさ?」

 無垢な瞳とぶつかった。那瑠は酒を飲みながら頷く。

「まあ、でも蓮がいてくれたら嬉しいな」

 へへ、と笑う那瑠が愛おしくて、俺はちょっとかがんでキスをした。酒の味がする。

「なんだよいきなり」

 驚いた顔で那瑠が頬を赤くした。ますます可愛く思えて、俺はもう一度キスしようとする。

「ちょ、どうした、酔ってんのか?」

 口元を隠された。二回目のキスが出来ずに俺は不満気な顔になった。

「酔ってない」

「まあ、だろうな?」

 クスクスと笑われる。那瑠は二本目の缶も開けて、ふぅと溜息を吐いた。そろそろ帰るかぁと那瑠が呟く。

「帰るか」

「帰ろう」

 俺たちは空き缶を公園のゴミ箱に入れて歩き出した。時間は一時半を過ぎている。明日仕事じゃなくて良かったなあとぼんやり思った。

 俺たちは手を繋いでのんびり歩く。久々の地元だったので、懐かしい気持ちになった。こうして見ると、聖北地区はちょっと都会だ。駅前はアーケード街があるし、繁華街もそこそこ大きい。お洒落な聖北大学生が闊歩する街でもある。それに比べたら聖南地区は落ち着いた住宅街だ。商業施設はあるものの数は少なく、聖北地区よりも人口も少ない。ここで生まれ育ったんだなぁと感慨深く思考に耽っていると、那瑠がひょいと振り向いた。

「何考えてるの?」

「いや、聖北は都会だなと思って」

「そんな事か。まあそうだな、聖南地区に比べたら都会だね」

 久々に聖南にある逹の家に行きたい、と言うと、苦笑しながら那瑠がまた今度ねと言う。今日行きたいと言った訳ではないのだが。

「子供らは元気かなぁ」

 俺は逹のところの子供らを思い浮かべた。あそこは姉の有希が一人、その一つ下に三つ子がいる。

「逹んとこの?」

「ああ、もう有希は中学に上がったよな?」

「そうだな」

「俺たちも齢取ったな」

「もう三十五だもん、早いよな」

「あ、有希からメール来てる」

 俺はスマホで時間を確認しようと思ってスリープを解除したところだった。

「何て?」

「明日暇ですかーってさ」

 俺は暇だよと返事をしてスマホをポケットにしまう。するとすぐにスマホが震えた。着信だ。俺は那瑠にスマホの画面を見せて有希からだと言って通話に出た。

「もしもし?」

「あ、蓮さん、お晩です!急にかけちゃってごめんなさい!」

「よう、大丈夫だ。何かあったか?」

 有希はたぶんちょっとにやけているだろう、声で分かる。

「明日那瑠ちゃんのお店に行こうと思っていて、蓮さんは居るかな?って思って」

「ああ、いるよ」

「やったあ!じゃあ朝一で行きます!」

「おう、待ってるよ、気を付けてくるんだぞ。それとあんまり夜更かしするなよ」

 俺が笑ってそう言うと、有希はちょっと声のトーンを暗くして言った。

「最近あんまり眠れないんです」

「そうなんか、まあ、夏休み中だしあんまり気にするな、その内眠れるようになるさ」

「そんなもんですかね」

「そんなもんさ」

 有希はじゃあ、失礼しました!と言って電話を切った。昔から俺は有希に慕われていて、度々ドライブに連れて行ったりあちこち連れまわしたりしていた。那瑠もそれは知っている。

「なんだって?」

「明日朝一で店に来るってさ」

「ほう、じゃあ有希が好きなチョコスコーンでも作るか」

「俺も好きなんだが」

「そうだったな」

 那瑠は笑って頷いた。手を引くスピードが上がる。俺たちは暫く無言で歩く。気が付けば聖北高校前まで来てしまっていた。

「帰りはあっという間だったな」

「大概そうさ」

 那瑠は店の鍵を揺らしながらそう言う。もう那瑠の店に着いてしまう。那瑠の店は河原近くにあるので虫の声や川の流れる音がよく聞こえた。

「私、店の方で飲み直すけど蓮は?」

「お、じゃあ俺も」

 俺たちはアンティーク調の扉を押し開けて店に入る。那瑠は店の灯りを点けてカウンター内に入って行った。俺はカウンター席に腰掛けて、買ってきていたジンの瓶を那瑠に手渡す。那瑠は笑ってジンライムを作り始める。やっぱりジントニックではなくジンライムだよな、と思った。

「蓮もジンライムでいい?」

「ああ、いいよ」

 那瑠が俺の前にグラスを置いてくれる。そして冷蔵庫を開けて何かないかなと呟いた。

「何か作ろうかな」

「俺軟骨の唐揚げ食いたい」

 那瑠は笑って拒否した。フライヤーを温めるものは嫌らしい。チーズがあるからと言ってそれを出してくれた。

「さんきゅ」

 俺は出されたチーズと残っていたビーフジャーキーを交互に口にした。ジンライムが美味い。俺は隣に自分用にジンライムを作って座った那瑠とグラスを合わせる。

「乾杯」

「今日もお疲れさん」

 那瑠の疲れた声。やはり歩かせたのは間違いだったか、と思っていると、大丈夫さと那瑠が言った。俺の心が読めるらしい。

 俺たちは暫く無言だった。特に話がある訳でもなく、何か話したいとも思わず、ゆったりとした沈黙が流れた。それが心地よい。

「さてそろそろ寝るか」

 そう言って那瑠が立ち上がった。時間は三時をまわったころだ。俺の空になったグラスも持って、手早くそれらを洗うと、ほら行くよと言って店の電気を消す。俺は暗い通路を歩いて那瑠の自宅に入る。空調も効いていないのに少し涼しい。

「私風呂入ってから寝室行くから先にベッド入ってていいよ」

「分かった」

 俺は言われるがまま寝室へと向かう。暑苦しいスーツを脱いでラフな格好になった。

「那瑠の匂い」

 俺はぽつりと呟く。寝室は那瑠の香りがするからとても落ち着く。ボスッとベッドに横たわった。窓を開けて川のせせらぎと虫の声に聞き入っていると、俺は気が付けば意識を手放していた。


「おい、起きろ朝だぞ」

 コツンとおでこを弾かれた。大きく欠伸をして時計に目をやると十時を過ぎていた。那瑠はもう店に出る格好になっていて、俺も急いで着替える。

「もう、有希来てるよ」

「早いな」

「相当蓮に会いたかったらしいな」

 那瑠は苦笑した。蓮さんは?って聞かれちゃったよと続けて部屋を出ていく那瑠の背中を追いかける。

 店前に出ると有希以外に人はいなかった。有希はぱぁっと顔を明るくさせた。その目の下には隈が出来ていて、俺は心配になる。

「隈出来てるぞ有希、大丈夫か?」

 俺が声を掛けるより先に那瑠が声を掛けた。有希は、え、と声を発して鞄から鏡を出して顔を見る。

「本当だ。でも大丈夫です!」

 声は元気だ。俺は安心して有希の横に腰掛ける。

「元気なら良かった。あの後眠れたか?」

「はい!お陰様で!」

 俺はそれは何よりだ、と声を掛けて那瑠にドッピオを頼んだ。有希は私にはココア・オレくださいと言って勉強道具を出し始めた。

「私、進路希望聖北高校にしようと思うんです」

「まだ一年なのにもう希望出すのか?」

「いえ、まだですけど、早いうちに勉強しとこうと思っていて」

「偉いな」

「えへへ」

 有希がくすぐったそうに笑う。ココア・オレとドッピオを淹れた那瑠が有希の顔を見た。

「有希、ホットアイマスク作ってやるから、少し目を休めたらどうだ」

「そんなに隈酷いですか?」

「ああ、酷いよ、野球選手が付けてるアイブラックみたいだ。ちょっと待ってな」

「はあい」

 有希と俺はそれぞれカップに口を付けてホッと溜息を吐いた。那瑠が自宅の方から湯気の出るタオルを持って来た。有希はありがとうございますと言ってそれを目に当てる。

「あったかーい、気持ちいい……」

「タオル冷えちゃったら言ってな、また温めてきてあげるよ」

「ありがとうございます~」

 お客が来るまで俺たちはのんびり話をしていた。何回か有希はタオルを温めてもらって目にあてる。

 お客が来たところで有希はタオルを那瑠に返して、勉強をし始める。時たま分からない所があると、俺に質問してくる。俺が丁寧に解説をしてやると有希はすぐに問題を解いてしまう。呑み込みが早い。

「有希、ほら、チョコスコーンだ」

「あ、俺にも」

「え。いいんですか、お金あんまり持って来てなくて」

「ああ、私の奢りだ。遠慮せずに食べな」

「ありがとうございます!」

 有希は嬉しそうにスコーンを頬張った。俺も出されたスコーンを食べる。温かくて美味しい。俺はあっという間に食べ切って珈琲を飲む。

 結局有希は昼食も那瑠のオムライスを食べて、三時になる前に帰って行った。会計はせずに、那瑠が全部払ってくれていた。有希は何度も頭を下げて店を出ていった。

「やっぱり自分の子供みたいに可愛いな」

「ああ、そうだな」

 俺は二杯目のドッピオを飲み干して立ち上がる。

「今日は手伝うぞ」

「期待してるよ」

 俺は貸してもらったカフェエプロンを付けて接客をする。

「蓮が客にフード勧めると皆何かしら食べていくな」

「嬉しい限りだ」

「看板娘ならぬ看板息子だな」

 那瑠は珈琲を淹れながら笑った。俺はその笑顔に嬉しくなって、いつもよりも笑顔で接客するのだった。

「いらっしゃいませー!」

「いらっしゃいませ」

 那瑠と俺の声が店内に響く。こんな時間がいつまでも続けばいい、そんな事を考えていた。

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