ミルクティと少年

「さあ、此処が今日から桜の勉強部屋だよ」

 私は父に連れられて、鷹之宮の会社に来た。母が亡くなって数ヶ月、父は私の事を慮って仕事を家でするようになった。しかしそれにも限界が来たのか、とうとう秘書から連絡が来て、会社の方で仕事をして欲しいと言われたようだ。

 母、椿が亡くなったのは列車の脱線事故で、私の母以外にもたくさんの人が亡くなった。母は物静かな人だった。自宅のテラスでよく読書をしていた。私もそれに倣って、読書の時間は母と一緒にテラスに出た。母が居なくなってもそれは変わらず、私は読書の時間以外もそこに居るようになった。父はそんな様子の私をどんな風に思っていたのか分からないが、仕事を自宅でするようになったという事はそういう事なのだろう。

 私はその部屋に入って開口一番言った。

「貴方誰?」

 私の勉強部屋と言うからどんな部屋かと思っていたが、其処に誰かいるとは思っていなかった。部屋の事などすっかり忘れてしまった。

「僕は東条璃音」

 父の方に、これはどういうことなのかと疑問の目を向ける。父はニコリと笑って私の頭を撫でた。

「彼は新しく桜の友達になる子だ」

「私、もう小学校に上がるのよ。お友達位選べます。それにこういうのはもう要らないと言ったでしょう?」

 私はキッとその少年を睨んだ。彼はたじろぐ様子も見せずに笑って見せる。私には今まで何人もの傍付き兼友達が居た。私はそれが鬱陶しくていたずらをしたり、無視をしたりして、辞めさせてきたのだ。今回だって辞めさせてやろう、そんな気持ちでいた。

「よろしくお願いします、桜様」

 彼は恭しくお辞儀をした。凛とした声である。父は満足気に頷いて家庭教師を呼んだ。

「じゃあ、二人で仲良く勉強するんだぞ、璃音、桜の事をよろしくな」

「はい」

 璃音は父が出ていくのを見てまたお辞儀をした。丁度入れ替わりで家庭教師が入って来たので、私は大人しく彼と隣り合って座り、勉強を始めた。璃音は頭が良かった。私はそれが面白くなかった。

 勉強の時間が終わり、私は直ぐに家に帰ると言って会社を出た。璃音は当たり前の様に私の後を付いてきて、私をイラつかせる。

「貴方運動は出来るの?」

「はい、少しだけなら」

「私の家までどちらが早く着くか勝負よ、勝負に負けたら貴方は友達を辞めるのよ」

「それは出来ません」

「口答えしないで、これは私の命令よ」

「は、はい」

 私はイライラしたまま彼を睨んだ。私は走り出した。彼も少し遅れて走り出す。私はかけっこが得意だったので自信満々で走る。ふと後ろを見た。遥か後ろで立ち止まって息を整えている彼が見えた。

「なんだ、運動出来ないじゃないの」

 私は彼の傍に駆け寄って呆れた声を出す。彼はうるさい、と呟いてぜえぜえと息を吐いた。私は笑って彼の背中を撫でた。

「もう勝負は良いわ。今度改めて勝負よ、分かった?」

「はい、桜様」

 私はさっきのイライラが何処かへ行ってしまったので、二人で並んで家に帰った。

 私は彼の事がもっと知りたくなった。家に着いて、部屋着に着替えてからテラスに出た。春の花が沢山咲いているテラス。私はそれに水をやりながら、彼にどんな事を話そうか考えていた。璃音はテラスに置いてあるベンチに腰掛けて私の様子をじっと見ている。

「ねえ、璃音は何で私の友達になったの?」

「分かりません、突然父から言われただけで、他には何も」

「そうなのね。運動、得意じゃないのね」

「昔から体が弱くて、喘息を持っています」

「そうなの、走らせて悪かったわ」

 私は素直に謝った。璃音は大丈夫ですよと微笑んでくれた。

 それから璃音は毎日私の家に来た。勉強を共にし、勉強が終われば私達は遊びまわった。泥んこ遊びをして二人で泥だらけになって帰って叱られたり、庭の桜の木に登って怒られたりもした。それでも私の遊びに付き合って一緒に叱られても、彼は友達を辞めなかった。寧ろ日々私の家に来るのが楽しいと言って、私の後を追いかけて来た。

 ある日、彼が来ない日があった。家事のお手伝いさんに訊くと、今日は体調が悪く来られないと言う事だった。私は寂しかった。寂しかったので彼の家に行く事にした。幸い家の住所は教えてもらっているし、散歩だと言い張って彼の家まで歩いた事もある。私は勉強の時間が終わると、直ぐに支度をして、お手伝いさんに見つからない様にこっそり家を出た。

 外は快晴で、もうすぐ桜の花が咲く頃だろうか、昔母が桜の木の下でそんな事を言っていたのを思い出す。私は桜並木の道を抜けて走った。何故だか胸が苦しくなった。璃音の家に着いた。私は深呼吸をして、インターフォンを背伸びして押した。待つことなくインターフォンから声がした。

「はい、どちら様でしょうか」

「私、鷹之宮の桜と申します、璃音君のお見舞いに来ました」

「今開けます」

 インターフォンがプツンと切れて、玄関が開く。そこには璃音とよく似た女性が立っていた。

「遠かったでしょう、さあ、お入りくださいな」

「ありがとうございます」

 私は扉をくぐって靴を脱ぎ、丁寧に靴を揃えた。

「あの、璃音君と会いたいのですが」

 リビングに通されて、私はソファに座らされた。璃音のお母様はとても綺麗で、でも少し儚げで私の母と雰囲気がよく似ていた。ココアを出されて、私はお礼を言った。

「璃音の体調を見て来るわね」

「はい、お願いします」

 私はペコリと頭を下げる。そう言えば、私の事は璃音の家族にどう伝わっているのだろう。少し気になった。でも訊かない、怖いから。

 程なくして二階から慌ただしく駆け下りて来る音が聞こえた。猛烈な勢いでリビングに入って来たのは璃音だった。

「さ、桜、どうして此処に」

「あら?友達のお見舞いに来たのよ」

「もし僕が風邪だったらどうするんだ、感染ってしまうかもしれないだろう?」

 彼は苦しそうな咳をしながらそう言う。ああ、喘息の発作が。

「璃音、落ち着いて、咳が」

 璃音はハッとしたように言葉を切って、肩で呼吸をした。私は駆け寄って背中をさする。

「ふふ、璃音の今の口調好い」

「なっ」

「いつも桜って呼んでくれると嬉しい」

「そ、それは」

 たじろぐ彼を見て、私は微笑んだ。璃音のお母様が私達を優しく見守っている。

「友達なんだから、敬語も無しで、良い?」

「わ、分かった」

「ふふ、良い友達が出来て、私も嬉しいわ。璃音、温かいココアを淹れるから、座っていなさいな」

「はい」

 私達は並んでソファに座り、ココアを飲みながら色んな事を話した。ちょっと寂しかった事、勉強はそんなに進んでいない事、話したい事は沢山あった。

「さ、桜、そんなに話して疲れない?」

 一時間ほど話をしていただろうか。璃音が心配そうに訊いてきた。

「ええ、疲れないわ。璃音と話せるのが嬉しいの。それより、体調は大丈夫?」

 私は思い出してそう言う。璃音は今発作が出ているんだった。もっと気を遣うべきだった。

「うん、ココアのお陰で体も温まったし、大丈夫」

「それなら良かった」

 私はほっとした。私のせいで発作が悪くなったらもう会えないかもしれない。少し私は怖くなった。

「大丈夫」

 璃音が俯いた私の頭を撫でる。私の考えている事が分かったのか、璃音は優しく微笑んだ。

「僕はもう桜の友達なんだから」

「ありがとう」

 私は璃音の微笑みがあまりにも優しかったので涙を零してしまう。それをこっそり袖で拭って私は笑った。

 時間は夕方になってしまっていた。そろそろ家に帰らなければ、じいやに怒られるだろう。心配させているかもしれないので私は璃音のお母様に丁寧にお詫びと感謝の言葉を述べて璃音の家を後にした。

 私は元来た道をてくてく歩く。その足取りは軽かった。璃音の為なら何でも出来ると思うほどに、璃音の事が好きになった。私はそれが恋だとは分からずに、胸を温めてくれる物がある事にホッとする。

「お母様、会いたいな」

 ふとそんな言葉が口から出た。璃音の事、この温みの事、話したい事は沢山ある。そのうち私は涙が出て来てわんわん泣きながら歩き、気が付けば家まで着いてしまった。そこではじいやが家の前で待ってくれていた。

「お嬢様、どうなされたのですか」

 じいやは焦ったように私の為にハンカチを出して、私はそれで涙を拭った。

「お母様に会いたい」

「お嬢様……」

 じいやは私と目線を合わせるために屈み、優しく頭を撫でてくれる。

「奥様のお部屋に行きましょうか」

「……」

 私はこくりと頷いてじいやに手を引かれながら母の部屋に入った。母の香りがする。きっと香水の香りだ。

「今日はここでお休みになってくださいませ」

「……」

 私はまた頷いて母が使っていたティーセットで甘いミルクティを淹れて貰う。私はホッと溜息を吐いて、涙が収まるのを待った。ミルクティが私でも飲める温度になる頃にやっと涙は落ち着いた。じいやはソファの片隅に座る私の目を見て、優しい口調で話し始めた。

「お嬢様は奥様の幼い頃にとても似ていらっしゃいます。気高く誇り高く財閥の社長としてその腕を振るっていました。それでいて子供のようにころころと笑い、時には泣いて、まるで今のお嬢様を見ているようです」

「そうなのね……」

 私はゆっくりミルクティを飲んで溜息を吐く。心なしか落ち着いた気がした。じいやはそれから思い出をぽつりぽつりと話してくれる。お手伝いさんが夕飯の時間ですよと言いに来るまで私たちは話し合った。

「落ち着かれましたか?」

「ええ、ありがとうじいや」

「お嬢様の為になったのなら幸いです」

 私はにこりと笑って見せて食卓に着く。大きな長いテーブルにぽつんと一人。私はまた寂しさをぶり返してしまった。

「じいや!お手伝いさんとじいやの食事もここに運んで!皆で食べましょう、その方が美味しいわ」

 じいやはちょっと戸惑いながらもお手伝いさんを呼んできた。

「良いのですか?メイドの私たちがご一緒しても?」

「今日からそうするのよ、私の為でもあるの。ぐずぐずしないで頂戴!せっかくのご飯が冷めちゃうわ」

 そう言ってお手伝いさんたちの食事も運ばれてくるのを私は待つ。

「では、いただきます」

「いただきます」

 私の一声でお手伝いさんの皆とじいやがそう言ってくれた。

「ね、皆でわいわいしながら食べる方が楽しいわ、そうでしょう、じいや?」

「そうですね、お嬢様」

 お手伝いさん達もわいわい話しながらも上品に食事をとる。私はその光景が嬉しくてしょうがなかった。

 夕食後直ぐ、お父様が帰って来た。食卓テーブルに並ぶ私達を見て絶句している。

「これは、一体どういう事だ」

「私が提案したの。皆で食べる方が美味しいの。一人じゃ寂しいから、そうして貰ったの。皆は悪くないわ、私が悪いの」

 私は父にそう言って駆け寄った。皆の不安そうな視線を一身に受ける。正直怒られると思っていた。しかし父は笑顔になって私の事を抱き上げた。

「そうかそうか、寂しくないのが一番だ。ありがとう皆。これからも桜と一緒に食事をとって欲しい」

 私たちはホッと安堵した。皆笑顔になる。私はこれが見たかった。私や父の姿を見て怯えたようにしている姿なんて、もう見たくなかった。ご機嫌取りなんてして欲しくなかったし、その必要も無いと思うから。

 お手伝いさんたちは仕事だ仕事だと言ってルンルンと食器を持っていき、それぞれの持ち場に戻っていく。私と父はそこに取り残されて、私はすとんと下ろされた。

「お父様、今日は私お母様のベッドで眠るの」

「そうか……やっぱり寂しいよな。お父さんもそうしようか」

「一緒に眠っていいの?」

「桜が嫌じゃなければね」

「嫌じゃないわ、嬉しい!」

 私は父に抱き着いて満面の笑みを零す。父はよしよしと頭を撫でてくれた。

 私はお風呂と着替えを済ませ、母の部屋に入った。父はまだ来ていない。私は母の香水の香りを胸いっぱいに吸い込んで深呼吸した。

 母の部屋は父の書斎と違って簡素だ。ちょっと大きめのベッドにソファ、勉強机に背もたれが付いている椅子、それに化粧台。私は化粧台に座ってみた。


「桜の髪は本当にサラサラで綺麗ね」

 大好きな母の声。

「お母様の髪も綺麗よ?」

「ふふ。ありがとう」


 母が亡くなった日の朝の会話、ここで私は化粧台に座って母に髪を結ってもらっていたのだ。今でも鮮明に覚えている。一生忘れられないだろう。父が部屋に入ってくるまで、私はそこでぼんやりと母との会話を思い出していた。


「今日は何の本を読むの?」

「今日は星の王子様よ」

「読み聞かせして!」

「もちろん」


 そうして私と母はテラスで本を読んだのだ。母の声がよみがえってくる。


「……くら……桜?」

「あ……お父様」

 私は気が付けば泣いていた。父が私を抱いて背中をぽんぽんと撫でてくれる。私はしゃくりをあげて泣いた。夕方一人で歩いていたように。

「椿がいてくれたら、何度そう思ったか分からない」

「おかっ、お母様にっ、会いたい」

「お父さんも同じ気持ちだよ」

 悲壮な顔で父もそう言う。父は私が泣き止むまで抱き締めてくれていた。ベッドに入っても私たちは眠らずに、母について話をした。母の好きな所や父と母が出会った頃の話。話題は尽きなかったが私は段々眠くなってきて、目を閉じた。


 次の日の朝、腫れ気味の瞼を擦って起き上がると、もう父は居なかった。少し寂しかったが壁掛け時計を見るともう九時だったので仕事に行ったのだろう。

 私は遅い朝食をとらせてもらって、今日の勉強の支度をして、じいやに会社まで送ってもらった。璃音は今日来てくれるだろうか。

 勉強机に向かって自学をしていると、コンコンとドアがノックされて璃音が入ってきた。

「璃音!」

「桜、う、わ、どどどうしたの」

 私は勢いよく璃音に抱き着いた。来てくれて良かった。会いたかった。そんな言葉しか思いつかない。

「何でもないわ、勉強しましょう」

「ああ、うん」

 璃音は戸惑いながらも私の隣に座ってノートを開いた。家庭教師が来て勉強を始める。すらすらと鉛筆を動かし、問題を解いていった。時間が過ぎるのが早くて、勉強の時間は終わってしまった。そろそろと璃音が口を開く。

「桜、昨日泣いちゃったの?」

「ええ……ちょっと色々あって」

「そっか瞼が腫れているから、どうかしたんだね。大丈夫?」

 璃音の問いに頷いて抱き締めてもらった。璃音の腕の中は落ち着く。そう言うと璃音は照れたように笑った。

「僕の腕の中はいつでも空いてるから、なんなりと使ってね」

「ありがとう」

 私たちは顔を見合わせて笑った。こんな時間が、長く続きますようにと、心の中で祈った。

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